飯屋のせがれ、魔術師になる。

藍染 迅

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第5章 ルネッサンス攻防編

SS 手癖が悪いナ。返すぜ。

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 アインスベール公国。とある男爵の館が森に囲まれた丘の上にあった。
 その3階にある主寝室は裏に面しており、敷地の外はすぐに切り立った崖になっている。

 崖を見下ろす位置にあるからこそ、館の裏手に主寝室を置いたとも言える。

「(わが身は風に乗る羽毛の如くかろし。軽身の術)」

 無声の呪文を唱えた細身の影が、夜の帳の下で館の外壁に取りついた。指の力で体を引き上げ、わずかな凹凸を手掛かりに、音もなく壁を登っていく。
 人影は顔面を覆面で隠していたが、ほっそりとして伸びやかな肢体が性別が女性であることを暗示していた。

 土魔術の効果により体重は本来の3分の1に圧縮されていた。3階の窓に直接跳び上がるほどの術効を持たないは、慎重に手足を動かした。

 軽身の術が効いている以上落ちたところで怪我などしないが、物音は隠せない。彼女が身につけているのは所詮は暗殺術だ。館所属の騎士に出張って来られたら、とてもではないが対抗できないだろう。

 見つかったら最後、脱兎のごとく逃げ出すしかない。懐の油壺を投げつけて館に火をつけてやれば、追手の数は少なくなるはずだ。

 生き残るためなら何でもする。
 それが暗殺者エバの強みだった。

 ◆◆◆
 
 スノーデン王国でジュリアーノ王子暗殺に失敗し、ネルソン一味に狙われていると知った瞬間、エバはすべてを捨てて逃亡した。追手から逃れることに全精力を傾けた。

 髪をざっくりと切り落とし、灰汁あくをもみ込んで薄汚れた色に脱色した。浮浪者から奪った服に着替え、装身具の類をすべて捨てた。肌や爪には草をつぶした汁をすり込み、ボロボロに荒れさせる。
 連日汗をかき埃にまみれ、垢だらけの姿となった。

 ギルモア家が誇る「鴉」たちでさえ、手配書きとあまりにも異なるその変装を見破ることができなかった。
 似姿は「美しい女」を表していた。人は「美しい女」が汗と糞尿の匂いをさせているとは思わない。
 
 エバは浮浪者そのものの生活をしながら、国境を目指した。

 町や村で食物を盗み、夜になってから街道を移動した。金品を狙わず、人も襲わない。
 とにかく目立たぬように、闇に溶け込むようにエバは動いた。

 目指したのはアインスベール公国。スノーデン王国以外であればどこでも良かったのだが、この国はわずかとはいえコネがあった。ジュリアーノ王子暗殺計画に関わった連中をあぶり出せば、恐喝で財産を築けるかもしれない。
 転んでもただでは起きない。エバはそれを心の支えにして逃げ延びた。

「アインスベール公国。とうとうたどりついた。あたしの勝ちだ!」

 エバは国境を越えた森の中で、茶色に汚れた涙を流した。
 追手から逃れさえすれば、どうにでもなる。暗殺の仕事はどこにでも転がっているのだから――。

 ◆◆◆
 
 外壁を3階まで登り切り、エバは主寝室の窓に張りついた。室内に灯りはない。
 既に深夜だ。男爵は深い眠りについていた。

 夜目の術を施してある両眼を凝らして部屋の内部をうかがったが、予想通り男爵の他に人はいない。
 男爵程度の地位で不寝番の護衛を置く余裕はないのだ。

 安心したエバは土魔術で窓を解錠し、そっと内側に開ける。夜気が部屋に流れ込むが、男爵の寝息に乱れはなかった。
 窓を開け放ったままエバは窓辺から寝台に近づく。

 足を包む布製の靴は床に当たっても足音を立てなかった。後一歩で寝台にたどりつくという所で、エバは足を止めた。
 腰に差したナイフを抜き、懐から小さな壺を取り出した。壺の蓋は紙と蝋で厳重に封じてある。

 エバはナイフの先端でその封印を切ろうとした。

「――そこまでだ」

 声は部屋の天井から降りてきた。

 ビクンと一瞬けいれんしたエバは、固まりながら眼球だけを動かして天井を見上げた。
 黒々とした闇に溶け込んで、人影が天井からぶら下がっていた。どうやらさかさまになって、足で天井に立っているらしい。

 その事実だけで相手が自分よりはるかに優れた術を身につけていることがわかる。

(待ち伏せか)

 エバは一瞬で行動の優先順位を置き換えた。
 暗殺は最下位だ。身を守り、逃げ切ること。それが最優先の行動目標となった。

 ひょいと壺を寝台に投げ出すと同時に、エバは窓に向かって走った。走りながら、空いた片手で懐から煙玉を取り出す。こいつを床にたたきつけながら窓から飛び出すのだ。

 もう一歩で窓に届くというタイミングでエバは煙玉を投げつけた。そのまま力いっぱい床を蹴って、窓を破って3階の空中に踊り出た。

 「(わが身は風に乗る羽毛の如くかろし。軽身の術)」

 今日2度めの軽身の術を使って、ゆっくりと落ちていく。2階の高さまで降りたら、術を取り消して地面まで一気に落ちるつもりだった。
 落下中は頭上が無防備になるが、煙玉で時間稼ぎができているはずだ。

 軽身の術を取り消す直前、エバは3階の窓を見上げた。

「な――!」
「手癖が悪いナ。返すぜ」

 3階の窓の下に、壁に足をつけて人が。全身黒づくめの人影は両手の拳を下に向けて開いた。

 ポロリポロリと小さなものが2つ落ちてくる。
 それは先程エバが投げつけた壺と煙玉だった。

(馬鹿な! あの一瞬で油壺と煙玉を拾い上げただって!)

 途中まで重力を殺していたエバは地面までゆっくりと落ちていく。それを追う2つの物体は自然な加速度でエバを追いかける。
 エバにとっては無限とも思える時間の鬼ごっこだった。

 しかし、所詮は一瞬――。

 着地したエバの目の前を、油壺と煙玉が通り過ぎていく。

 油壺には特殊な油が入っている。高温で燃え上がり、水をかけても火勢が衰えない。
 今から飛びのいても地面にたたきつけられた壺から油が飛び散り、煙玉の火花と一緒にエバに降りかかってくるだろう。

(助かるためには受け止めるしかない!)

 両眼を皿のように見開きながら、エバは両手を伸ばした。命がけで油壺と煙玉を掴み取る。

(届いた!)

 地面すれすれでエバの両手は油壺と煙玉を受け止めることができた。勢い余った体をくるりとひねって、エバは背中から受け身を取った。

(助かった――)

 星空を見上げたエバの視界をふさいで、黒い影が目の前に広がった。

 ごん!

「残念だったな。そいつは俺の落とし物だ」

 横に立った男の声は、既にエバには届いていない。ビクンビクンとけいれんしたのを最後に、エバは動かなくなった。

「いくらもらったか知らねェが、王族に手を出したのは馬鹿だったな。おめェを放っておいたら組織がつぶされるんだとよ。やれやれ、これでようやく後始末ができた」

 男はエバの顔面にめり込んで転がった拳大の鉄球を拾い上げた。

「なあに。どこの誰だかわからねェ死体が1つ増えただけさ。俺たちにゃ似合いの最後ってもんだぜ」

 どこかの暗殺組織に雇われた男は、そう言い残して闇に消えていった。
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