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Ⅳ.加賀編
「出国まであと一日」
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政宗から二人目が生まれたと連絡があったのは、ハワイ出発の前日だった。
見に来てよと言われれば断れない。昼休憩の時間を使って産院を訪れると、新生児室のガラスに張りついている政宗の後姿を見つけた。
「めっちゃ寝耳に水」
横に立って、政宗の腕を肘で突く。二人目の懐妊を知らされていなかったのだ。
「兄ちゃん」
ニヤニヤと新生児を眺めていた政宗が、俺を振り仰いだ。
「おめでとう」
「ありがとう。仕事中にごめん」
「いいよ、仕事納めでやることないし。今日教えてくれてよかった。ナイトフライトだけど明日日本発つから」
「え、どこ行くの?」
「ハワイ」
政宗がポカンとする。
「お前の子はどれ?」
タオルに包まった新生児が七人、並んで寝ている。政宗がガラスをツンツンして、「これ」と指差した。赤ん坊の頭の上に「辻ベビー、GIRL」と書かれたプレートが見えた。
「このひときわ赤いやつ」
「ほんとだ、赤い」
「赤いよな」
謎に赤さを押してくるが、赤子というだけあって、確かに赤い顔をしている。光が新生児の頃と、まったく同じ顔をしているなと思ったら、政宗が言った。
「生まれたばっかの光と同じ顔でさ、面白いからこれ、写真並べた比較画像作ったんだけど、見て」
政宗がスマホの画面を見せてくる。赤ん坊の写真が二つ並んでいて、確かに見分けがつかなくて、笑った。
「名前決めたの?」
「うん、フラワーの花」
「花ちゃん、可愛いじゃん」
「今回は敦子さんが決めたんだけどね。あ、敦子さんに会ってく?」
政宗は簡単に言って、立てた親指の先を背後に向けた。
「いや、お前、それは駄目だろ。出産直後にお見舞いはタブーだって。産んだばっかで他人に会うのしんどいってよく聞かない?」
「え? 他人じゃないじゃん、兄ちゃんだよ?」
政宗にとっては兄でも、敦子にとってはほぼ他人だ。
「お疲れさま、おめでとうって伝えておいて」
言いながら、腕時計に目を落とす。
「会社戻るわ」
「もう?」
「そっちはみんな元気?」
廊下を歩きながら訊くと、政宗が後ろから返事をした。
「うん、昼食べてからこっち来るって。そろそろ来るよ」
だからもう少しいたらいいと、引き留める空気を感じたが、いくら暇でも職場に戻らなければならない。
「みなさんによろしく」
「会っていかないの?」
「また年明けに顔出すよ、倉知君と」
倉知の名前を出すと、政宗が思い出したように言った。
「あ、ハワイ」
「うん、ハワイ」
「二人で行くの?」
「加賀家と倉知家の家族旅行」
「前もなんか行ってなかった? すげー、ほんっと仲良しだね」
「それと、合間に式挙げてくるわ」
「式って、結婚式? へっ? 誰の?」
階段を下りながら、「俺たちの」と答えた。
「式するからハワイ行くんじゃなくて、ハワイ行くから式するかって流れだけど」
「何? どっちでもいいよ」
政宗が階段を駆け下りて、前に回り込んできた。目が輝いている。
「おめでとう。ていうか、水臭くない? なんだよ、言ってよ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
政宗が頭を掻く。
「なんか、ちょっと照れくさくてさ。言うタイミングがわかんないっていうか」
「うん、俺もそう。あ、別に、意地悪で黙ってたんじゃないよ。誘ったところで来ないだろ?」
政宗は、え? と不思議そうに小首をかしげ、自分を指差してから、顔の前で手を振った。
「ないない、家族旅行だろ? ないわー。そもそも海外行く金ないもん」
「そこは考えなくていいと思うけど」
「お父さん? あー、あの人なら全額出すか」
父の経済力はえげつない。俺は慣れているが、免疫のない倉知家は、たびたび狼狽している。飛行機代を払おうとする倉知家に対し、招待すると言っておいて金を取るのは詐欺だと、父は笑って受け取らなかった。
ごねたところで無駄な労力なのはわかっている。俺たちも挙式の代金以外は甘えることにしたが、結婚祝いに二人はファーストクラスでどうだと訊かれたときには、みんながビジネスならビジネスでと念を押した。
父の金銭感覚は、一般的じゃない。ちょっといい店でディナーを奢った程度の感覚なのだ。
「あ、二人目生まれたこと、まだお父さんに言ってないんだよね」
「親父、今ハワイだよ」
ハルさんと二人で一足先に出国している。バーベキューの道具を揃えたり、いろいろと準備がある。
「一応メールしとくけど、兄ちゃんから言っておいて。俺もハワイとか式のこと、こっちの人たちに伝えとくわ」
どこかホッとした顔で政宗が言った。
もはや加賀家と辻家は、それぞれ単独で、成立している。
以前の、特に学生時代の政宗は、俺に「家族」を求めて執着していた。俺の視界に入ろうと、必死だった。つながりが消えることに、怯えていた。
でも自分の家庭を持った今、それを守るのに忙しい。
政宗は、大人になった。父親の顔をしているのが、妙に嬉しかった。
「そうだ、聞いてよ。小春、大学でやっと彼氏できてさ、今めっちゃルンルン」
階段を降りながら、政宗が振り返って言った。
「大富豪の彼氏?」
「いや、普通の家の普通の男。同じサークルの奴に告られたんだって」
「普通が一番だよ」
「まあね」
顔がいい金持ちの彼氏が欲しいと長く言い続けていたが、大事なのは中身だとようやく気づいたらしい。
「落ち着いたら花ちゃん抱っこしに来てよ。小春も光も会いたがってるし」
産院を出ると、政宗が寒そうに身を小さくして、ポケットに手を突っ込んで付け足した。
「母ちゃんもね」
「うん、元気?」
「元気元気。なんかジム? フィットネス? 通いだしてさ、めっちゃ楽しそう」
「それは何より」
「兄ちゃん」
政宗が大きく両手を広げた。少しの間を空けてから思い至り、笑ってハグをする。
「気をつけて。無事に帰ってきてね」
「おう」
それぞれみんな、変化がありつつ順調で、幸せらしいと思うと安堵した。
職場に戻り、例年通りの仕事納めを終え、おなじみの「よいお年を」の合言葉を交わし、家路に向かう。今年は「よいお年を」に「いってらっしゃい」が追加された以外は特に変化はないが、家に帰れば倉知がいる。それだけで他に何もいらないほど、幸せだ。
「加賀さん」
駐車場を歩いていると、靴音が追いかけてきた。千葉が横に並んで「お疲れ様です」と頭を下げる。
「おう、お疲れ」
「明日ですね、出発」
「うん、千葉君もくればよかったのに」
五月の夫である大月は、嬉々としてついてくる。千葉は親族ではないが、二人の結婚式にも出席して、家族席に座っていた男だ。父が気を利かせ、彼も来るのかと訊いたが、六花と千葉の反応は同じだった。
「家族のイベントに家族じゃない俺が行くのは変ですよ」
「千葉君のそういう、実は真面目なとこ好き」
「ありがとうございます、光栄です」
千葉が誇らしげに胸を押さえた。
「加賀さん、少しだけ、話を聞いて貰えませんか?」
「うん、何?」
千葉は用件を言わず、ずっとついてきて、フェアレディの脇で足を止めるとようやく口を開いた。
「付き合ってもう丸二年だし、俺も、結婚したいんです。まだ早いですか?」
「うーん、どうかな。二人のことだしな」
早いとも遅いとも、明言しにくい。小さくため息をついた千葉は、切なげな視線を足元に落とす。
「彼女に結婚願望がないのはわかるから、プロポーズしたら引かれそうで」
「確かに」
とっさに同調してしまった。結婚には興味がない、というような発言は、何度か聞いた覚えがある。ただそれは、千葉と付き合う前の話だ。あの頃とは、六花の価値観も変わっているかもしれない。
「それが原因でギクシャクするなら、永遠にプロポーズしないほうがいいのかなって」
何回プロポーズに失敗しても別れていない高橋の例もあるが、だからといって無責任にやってみろとは言えない。ただなんとなく、時期がくれば六花が自分から言い出しそうだなとは思った。
「千葉君が結婚したがってるの、六花ちゃんは知ってると思うよ」
千葉が自分の体を抱きしめて「えっ」と声を上げた。
「なぜ?」
「なぜって。だって、え?」
「え?」
「千葉君、五月ちゃんの結婚式でブーケ取りにいってただろ」
「あ、ああ、そうだ……、だから」
だからというわけでもないが、千葉が六花と一生添い遂げたいと思っていることは、火を見るよりも明らかだ。
「結婚願望ないって、それ、本人が言ってたの?」
「いいえ、でも、したいとも言わないし」
「したくないとも言わない?」
「それは、はい、結婚自体を否定するようなことは、なかったかもしれません」
千葉が勢いよく顔を上げた。謎が解けた名探偵のような鋭い眼光で俺を見る。
「そうか、よし……、挑んでみます」
「おう、頑張れ」
千葉が口を引き結んで、こくこくと首を縦に振る。俺も同じように首を縦に振る。暗闇の駐車場でしばしの間、頷き合い、「さて」と切り上げる。
「じゃあ、行ってくるわ、ハワイ。よいお年を」
「はい、いってらっしゃい。よいお年を」
千葉と別れ、フェアレディを走らせながら、あいつも変わったなあと感心した。
出会った当初、女にモテることだけを生きがいにしている節だったのに。目移りすることもなく一途を貫いている。
人は、変わるものだ。
みんな、成長している。
俺も日々、成長している。
おもに、倉知への愛情が、増幅して止まらない。
「おかえりなさい。俺も今帰りました」
ネクタイを解きながら寝室からひょこっと顔を出す倉知が可愛い。素早く歩み寄り、キスをする。
「可愛い」
「えっ、なんで、なんですか、もう……、突然すぎますよ」
はにかんで、頬を染めるこの反応。いまだにこういう、童貞みたいな反応を返す二十三歳の高校教師。天使以外に表現方法が思いつかない。
俺の天使。
抱きしめたい。
「今日は明日に備えて早く休むか」
煩悩を押し殺して提案すると、倉知がベルトを外しながら爽やかに、「はい」と一旦は同意した。
「でも、あの、セッ……、はい、ですよね」
脱いだスーツの上着をハンガーにかけ、クローゼットに片付けながら、奥歯を噛んで、必死に笑いを堪えた。今、セックス、と言いかけた。
多分、やっておかないと、数日間できないと心配している。
「大丈夫だよ」
右手でネクタイをほどき、左手で倉知の尻を叩く。
「別荘、部屋数多くてプールもあるし、めちゃくちゃ広いよ。ゲストルーム一個一個にトイレも風呂もついてるし、ちょっといいホテルみたいな感じ。だから大丈夫」
倉知は俺に背を向けたまま、脱いだスラックスのセンタープレスを合わせ、丁寧に両足を揃えてハンガーに吊るしてから、振り返って口を開く。
「雑魚寝じゃないんですか?」
「そういうの想像してたの?」
「軽井沢の山荘っていうか、コテージみたいなのイメージしてました」
「可愛い」
「え?」
何が? という顔だ。今のは自分でもよくわからないが、可愛いと思ったのだから仕方がない。
「まあ、とにかく、プライベートは確保できるから、大丈夫」
何が大丈夫とは言わずに大丈夫を繰り返す。倉知はまだ何か言いたそうだ。
わかる。
プライベートが確保されたとして。親兄弟と同じ屋根の下で、静かに合体するのはかなり難易度が高い。じゃあ別に、危険を冒してまでやらなくてもいいという結論に至ればいいのだが、倉知の性欲は神出鬼没なのだ。
「とりあえず」
「はい」
「セックスするか」
「ご飯食べましょうか」
同じ科白が重なると思いきや、盛大にすれ違ってしまった。
部屋着のズボンに片足を通した格好で、倉知が動きを止めた。
「あ、あれ?」
「はは、意見の相違」
「そういう流れでした? だって、今しなくても大丈夫……なんですよね?」
しつこく繰り返した「大丈夫」の意味が、正しく伝わっていたらしい。
「うん、そう。それはそれとして、する?」
ズボンのファスナーを半分下ろして、訊いた。倉知が俺の手元を、というか股間を凝視して、喉を鳴らす。倉知の手が伸びて、俺の手首をつかむ。ファスナーを下ろすのを手伝ってくれた。下着の中に指を差し入れて、手のひらに、俺を包み込む。
ただ触れられただけなのに、気持ちよくて、満たされる。
倉知を見上げた。目が合うと、下着の中の手が、動き出す。俺を見て、静かに息を吸って、吐く。手を上下させ、見つめてくる。みぞおちと腰に、ぞく、と快感が広がった。
顎に、鼻先をすり寄せる。好き、好き、と繰り返す。顔面を両手でわしづかみにして、上唇に何度も唇を押し当ててから、今度は下唇を軽く吸った。
ん、とか、はあ、とか、悩ましげな吐息を漏らす倉知が、俺にしがみついてきた。
倉知の首筋に舌先を這わせた。柔く、丁寧になぞっていると、倉知の体がビク、ビク、と小さく跳ねた。
「加賀さん、気持ちいい」
はあはあ言って、泣き顔でこすりつけてくるのが可愛くて、キスが止まらなくなった。
倉知の手が尻に移動して、撫でてきた。両手で揉まれながら、ひたすらにキスをする。舌を絡ませ、口中を深くねぶり、最後は唇を軽く触れ合わせ、至近距離で、見つめ合う。
好きだ。わけがわからないほど、好きだ。
飛びついて、力いっぱい抱きしめる。抱きしめ返す倉知の力も、強かった。
ベッドに転がって、お互いの服をむしり取り、全裸の肌を密着させると、またキスをする。二人とも勃起していたし、挿入すればいいのになぜかしない。ふれあいとキスだけ達してしまいそうなくらいに気持ちがいい。
それは倉知も同じらしかった。
上ずった声で「イキそうです」と訴える。俺も、と小さく同意して、倉知の内腿を撫でると、腹に生暖かい感触があった。
倉知が、イッている。イクときの顔と声が、最高に、そそる。それを見ながら俺も即座に精を放ち、お互いの、濡れた先端をこすりつけ、笑い合う。
「めっちゃよかった」
「はい」
「風呂入って飯食って、とっとと寝るか」
「はい。とっとと」
「なんでそこリピート?」
全裸のまま、手を繋いで寝室を出る。
風呂に入り、食事を済ませ、片づけをし、軽く掃除をすればあとはもう眠るだけ。ベッドに直行、かと思いきや、倉知がソファに腰を下ろした。
「寝ないの?」
「日程のおさらいをします」
「また?」
倉知お手製の旅程表は、何度も読み返してよれよれになっている。心配というよりよほど楽しみなのだ。すごく、ニコニコしている。
明日は昼過ぎに家を出て、駅で倉知家の人々と合流し、羽田に向かう。早起きをする必要はない。とはいえ、早く寝たほうがいい。
「十二時になったら時間切れだからな、シンデレラ」
「大丈夫です、すぐ寝ます」
倉知がソファをポンポンと叩く。肩をすくめ、腰を下ろす。
「こうやって見ると、短いですよね」
ホッチキス止めのA4用紙をめくる倉知の肩にもたれて、手元を覗き込む。
現地時間の二十九日は、別荘で過ごす。次の日は、挙式だ。打ち合わせや準備もあるし、撮影や簡単なパーティもするとなれば、一日費やすことになる。三十一日は観光、元日の一日にホノルルを発つ。日本に到着すると、日付は一月二日だ。
移動に時間がかかるとはいえ、時差もあるし、あっけなく感じる。
「まあ、あっという間だろうな」
「ですね。もっと休めたらいいのに」
帰国をあと一日遅らせることも可能だったが、全員、仕事始めが四日だ。時差ぼけがないとも限らないし、日本でゆっくり体を休めるのに一日は必須だ。
「ほらここ、三十一日の自由行動あるじゃん。別荘で二人っきりになれるよ」
「そうですけど、ロコモコ食べに行かなきゃ」
「ロコモコvs.二人の時間、ファイッ」
「ロコモコ食べたらすぐ戻りましょう」
「はは」
倉知が俺を見て、にこ、と笑ってキスをし、旅程表を一枚めくる。
「結婚式、嬉しいです」
「うん」
ちら、ちら、と何度も視線を寄越しながら、めくったページを元に戻し、左上の曲がった跡を伸ばすと、リビングのテーブルにそっと置き、うずうずした感じで抱きすくめられた。
「早く寝たら、早く明日が来ますよね」
「寝る?」
「寝ます」
倉知はここ最近、ずっとソワソワしている。倉知家の面々は、海外旅行が初体験なのだ。それに加えて挙式をするとなると、倉知のてんぱり具合は納得できる。
「まだまだだと思ってたのに、もう明日かあ」
寝室の隅に並んでいる二つのスーツケースを眺めて、倉知が言った。二週間前からそこにある。完璧に用意を済ませたのに何度も点検する用心深さが面白くて笑って見ていたが、出発までにあと一回は確認していそうだ。
「緊張して眠れない……」
明かりを消した寝室で、倉知がうめく。
「円周率唱えたら?」
「それは萎えさせるときのやつです。今は別に……勃ってないです」
「ん? ほんと?」
どれ、と手探りで倉知の股間をまさぐる。
「あれ? なんかでかくなってない?」
「元々このサイズですって」
倉知が笑って身をよじり、俺を抱きしめてくる。
「はあ、嬉しくて眠れそうにない」
「素数は?」
「やってみます」
俺を抱きしめながら、数字をつぶやき始めた。倉知のいい声が淡々と数字を羅列していくのを聞いていると、眠らないわけがない。もう、「23」で早々に入眠した。
おかげで俺は快眠を得られたが、本人もよく眠れたらしい。
朝目覚めると、爽快そのものの倉知の顔が、目の前にあった。いつも俺より早く起きて、寝顔を観察するのが趣味だと知っている。
「おはようございます」
カーテンの隙間から差し込む朝日。
最高の笑顔と、頭を撫でる優しい手が、一日の始まりを告げる。
見に来てよと言われれば断れない。昼休憩の時間を使って産院を訪れると、新生児室のガラスに張りついている政宗の後姿を見つけた。
「めっちゃ寝耳に水」
横に立って、政宗の腕を肘で突く。二人目の懐妊を知らされていなかったのだ。
「兄ちゃん」
ニヤニヤと新生児を眺めていた政宗が、俺を振り仰いだ。
「おめでとう」
「ありがとう。仕事中にごめん」
「いいよ、仕事納めでやることないし。今日教えてくれてよかった。ナイトフライトだけど明日日本発つから」
「え、どこ行くの?」
「ハワイ」
政宗がポカンとする。
「お前の子はどれ?」
タオルに包まった新生児が七人、並んで寝ている。政宗がガラスをツンツンして、「これ」と指差した。赤ん坊の頭の上に「辻ベビー、GIRL」と書かれたプレートが見えた。
「このひときわ赤いやつ」
「ほんとだ、赤い」
「赤いよな」
謎に赤さを押してくるが、赤子というだけあって、確かに赤い顔をしている。光が新生児の頃と、まったく同じ顔をしているなと思ったら、政宗が言った。
「生まれたばっかの光と同じ顔でさ、面白いからこれ、写真並べた比較画像作ったんだけど、見て」
政宗がスマホの画面を見せてくる。赤ん坊の写真が二つ並んでいて、確かに見分けがつかなくて、笑った。
「名前決めたの?」
「うん、フラワーの花」
「花ちゃん、可愛いじゃん」
「今回は敦子さんが決めたんだけどね。あ、敦子さんに会ってく?」
政宗は簡単に言って、立てた親指の先を背後に向けた。
「いや、お前、それは駄目だろ。出産直後にお見舞いはタブーだって。産んだばっかで他人に会うのしんどいってよく聞かない?」
「え? 他人じゃないじゃん、兄ちゃんだよ?」
政宗にとっては兄でも、敦子にとってはほぼ他人だ。
「お疲れさま、おめでとうって伝えておいて」
言いながら、腕時計に目を落とす。
「会社戻るわ」
「もう?」
「そっちはみんな元気?」
廊下を歩きながら訊くと、政宗が後ろから返事をした。
「うん、昼食べてからこっち来るって。そろそろ来るよ」
だからもう少しいたらいいと、引き留める空気を感じたが、いくら暇でも職場に戻らなければならない。
「みなさんによろしく」
「会っていかないの?」
「また年明けに顔出すよ、倉知君と」
倉知の名前を出すと、政宗が思い出したように言った。
「あ、ハワイ」
「うん、ハワイ」
「二人で行くの?」
「加賀家と倉知家の家族旅行」
「前もなんか行ってなかった? すげー、ほんっと仲良しだね」
「それと、合間に式挙げてくるわ」
「式って、結婚式? へっ? 誰の?」
階段を下りながら、「俺たちの」と答えた。
「式するからハワイ行くんじゃなくて、ハワイ行くから式するかって流れだけど」
「何? どっちでもいいよ」
政宗が階段を駆け下りて、前に回り込んできた。目が輝いている。
「おめでとう。ていうか、水臭くない? なんだよ、言ってよ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
政宗が頭を掻く。
「なんか、ちょっと照れくさくてさ。言うタイミングがわかんないっていうか」
「うん、俺もそう。あ、別に、意地悪で黙ってたんじゃないよ。誘ったところで来ないだろ?」
政宗は、え? と不思議そうに小首をかしげ、自分を指差してから、顔の前で手を振った。
「ないない、家族旅行だろ? ないわー。そもそも海外行く金ないもん」
「そこは考えなくていいと思うけど」
「お父さん? あー、あの人なら全額出すか」
父の経済力はえげつない。俺は慣れているが、免疫のない倉知家は、たびたび狼狽している。飛行機代を払おうとする倉知家に対し、招待すると言っておいて金を取るのは詐欺だと、父は笑って受け取らなかった。
ごねたところで無駄な労力なのはわかっている。俺たちも挙式の代金以外は甘えることにしたが、結婚祝いに二人はファーストクラスでどうだと訊かれたときには、みんながビジネスならビジネスでと念を押した。
父の金銭感覚は、一般的じゃない。ちょっといい店でディナーを奢った程度の感覚なのだ。
「あ、二人目生まれたこと、まだお父さんに言ってないんだよね」
「親父、今ハワイだよ」
ハルさんと二人で一足先に出国している。バーベキューの道具を揃えたり、いろいろと準備がある。
「一応メールしとくけど、兄ちゃんから言っておいて。俺もハワイとか式のこと、こっちの人たちに伝えとくわ」
どこかホッとした顔で政宗が言った。
もはや加賀家と辻家は、それぞれ単独で、成立している。
以前の、特に学生時代の政宗は、俺に「家族」を求めて執着していた。俺の視界に入ろうと、必死だった。つながりが消えることに、怯えていた。
でも自分の家庭を持った今、それを守るのに忙しい。
政宗は、大人になった。父親の顔をしているのが、妙に嬉しかった。
「そうだ、聞いてよ。小春、大学でやっと彼氏できてさ、今めっちゃルンルン」
階段を降りながら、政宗が振り返って言った。
「大富豪の彼氏?」
「いや、普通の家の普通の男。同じサークルの奴に告られたんだって」
「普通が一番だよ」
「まあね」
顔がいい金持ちの彼氏が欲しいと長く言い続けていたが、大事なのは中身だとようやく気づいたらしい。
「落ち着いたら花ちゃん抱っこしに来てよ。小春も光も会いたがってるし」
産院を出ると、政宗が寒そうに身を小さくして、ポケットに手を突っ込んで付け足した。
「母ちゃんもね」
「うん、元気?」
「元気元気。なんかジム? フィットネス? 通いだしてさ、めっちゃ楽しそう」
「それは何より」
「兄ちゃん」
政宗が大きく両手を広げた。少しの間を空けてから思い至り、笑ってハグをする。
「気をつけて。無事に帰ってきてね」
「おう」
それぞれみんな、変化がありつつ順調で、幸せらしいと思うと安堵した。
職場に戻り、例年通りの仕事納めを終え、おなじみの「よいお年を」の合言葉を交わし、家路に向かう。今年は「よいお年を」に「いってらっしゃい」が追加された以外は特に変化はないが、家に帰れば倉知がいる。それだけで他に何もいらないほど、幸せだ。
「加賀さん」
駐車場を歩いていると、靴音が追いかけてきた。千葉が横に並んで「お疲れ様です」と頭を下げる。
「おう、お疲れ」
「明日ですね、出発」
「うん、千葉君もくればよかったのに」
五月の夫である大月は、嬉々としてついてくる。千葉は親族ではないが、二人の結婚式にも出席して、家族席に座っていた男だ。父が気を利かせ、彼も来るのかと訊いたが、六花と千葉の反応は同じだった。
「家族のイベントに家族じゃない俺が行くのは変ですよ」
「千葉君のそういう、実は真面目なとこ好き」
「ありがとうございます、光栄です」
千葉が誇らしげに胸を押さえた。
「加賀さん、少しだけ、話を聞いて貰えませんか?」
「うん、何?」
千葉は用件を言わず、ずっとついてきて、フェアレディの脇で足を止めるとようやく口を開いた。
「付き合ってもう丸二年だし、俺も、結婚したいんです。まだ早いですか?」
「うーん、どうかな。二人のことだしな」
早いとも遅いとも、明言しにくい。小さくため息をついた千葉は、切なげな視線を足元に落とす。
「彼女に結婚願望がないのはわかるから、プロポーズしたら引かれそうで」
「確かに」
とっさに同調してしまった。結婚には興味がない、というような発言は、何度か聞いた覚えがある。ただそれは、千葉と付き合う前の話だ。あの頃とは、六花の価値観も変わっているかもしれない。
「それが原因でギクシャクするなら、永遠にプロポーズしないほうがいいのかなって」
何回プロポーズに失敗しても別れていない高橋の例もあるが、だからといって無責任にやってみろとは言えない。ただなんとなく、時期がくれば六花が自分から言い出しそうだなとは思った。
「千葉君が結婚したがってるの、六花ちゃんは知ってると思うよ」
千葉が自分の体を抱きしめて「えっ」と声を上げた。
「なぜ?」
「なぜって。だって、え?」
「え?」
「千葉君、五月ちゃんの結婚式でブーケ取りにいってただろ」
「あ、ああ、そうだ……、だから」
だからというわけでもないが、千葉が六花と一生添い遂げたいと思っていることは、火を見るよりも明らかだ。
「結婚願望ないって、それ、本人が言ってたの?」
「いいえ、でも、したいとも言わないし」
「したくないとも言わない?」
「それは、はい、結婚自体を否定するようなことは、なかったかもしれません」
千葉が勢いよく顔を上げた。謎が解けた名探偵のような鋭い眼光で俺を見る。
「そうか、よし……、挑んでみます」
「おう、頑張れ」
千葉が口を引き結んで、こくこくと首を縦に振る。俺も同じように首を縦に振る。暗闇の駐車場でしばしの間、頷き合い、「さて」と切り上げる。
「じゃあ、行ってくるわ、ハワイ。よいお年を」
「はい、いってらっしゃい。よいお年を」
千葉と別れ、フェアレディを走らせながら、あいつも変わったなあと感心した。
出会った当初、女にモテることだけを生きがいにしている節だったのに。目移りすることもなく一途を貫いている。
人は、変わるものだ。
みんな、成長している。
俺も日々、成長している。
おもに、倉知への愛情が、増幅して止まらない。
「おかえりなさい。俺も今帰りました」
ネクタイを解きながら寝室からひょこっと顔を出す倉知が可愛い。素早く歩み寄り、キスをする。
「可愛い」
「えっ、なんで、なんですか、もう……、突然すぎますよ」
はにかんで、頬を染めるこの反応。いまだにこういう、童貞みたいな反応を返す二十三歳の高校教師。天使以外に表現方法が思いつかない。
俺の天使。
抱きしめたい。
「今日は明日に備えて早く休むか」
煩悩を押し殺して提案すると、倉知がベルトを外しながら爽やかに、「はい」と一旦は同意した。
「でも、あの、セッ……、はい、ですよね」
脱いだスーツの上着をハンガーにかけ、クローゼットに片付けながら、奥歯を噛んで、必死に笑いを堪えた。今、セックス、と言いかけた。
多分、やっておかないと、数日間できないと心配している。
「大丈夫だよ」
右手でネクタイをほどき、左手で倉知の尻を叩く。
「別荘、部屋数多くてプールもあるし、めちゃくちゃ広いよ。ゲストルーム一個一個にトイレも風呂もついてるし、ちょっといいホテルみたいな感じ。だから大丈夫」
倉知は俺に背を向けたまま、脱いだスラックスのセンタープレスを合わせ、丁寧に両足を揃えてハンガーに吊るしてから、振り返って口を開く。
「雑魚寝じゃないんですか?」
「そういうの想像してたの?」
「軽井沢の山荘っていうか、コテージみたいなのイメージしてました」
「可愛い」
「え?」
何が? という顔だ。今のは自分でもよくわからないが、可愛いと思ったのだから仕方がない。
「まあ、とにかく、プライベートは確保できるから、大丈夫」
何が大丈夫とは言わずに大丈夫を繰り返す。倉知はまだ何か言いたそうだ。
わかる。
プライベートが確保されたとして。親兄弟と同じ屋根の下で、静かに合体するのはかなり難易度が高い。じゃあ別に、危険を冒してまでやらなくてもいいという結論に至ればいいのだが、倉知の性欲は神出鬼没なのだ。
「とりあえず」
「はい」
「セックスするか」
「ご飯食べましょうか」
同じ科白が重なると思いきや、盛大にすれ違ってしまった。
部屋着のズボンに片足を通した格好で、倉知が動きを止めた。
「あ、あれ?」
「はは、意見の相違」
「そういう流れでした? だって、今しなくても大丈夫……なんですよね?」
しつこく繰り返した「大丈夫」の意味が、正しく伝わっていたらしい。
「うん、そう。それはそれとして、する?」
ズボンのファスナーを半分下ろして、訊いた。倉知が俺の手元を、というか股間を凝視して、喉を鳴らす。倉知の手が伸びて、俺の手首をつかむ。ファスナーを下ろすのを手伝ってくれた。下着の中に指を差し入れて、手のひらに、俺を包み込む。
ただ触れられただけなのに、気持ちよくて、満たされる。
倉知を見上げた。目が合うと、下着の中の手が、動き出す。俺を見て、静かに息を吸って、吐く。手を上下させ、見つめてくる。みぞおちと腰に、ぞく、と快感が広がった。
顎に、鼻先をすり寄せる。好き、好き、と繰り返す。顔面を両手でわしづかみにして、上唇に何度も唇を押し当ててから、今度は下唇を軽く吸った。
ん、とか、はあ、とか、悩ましげな吐息を漏らす倉知が、俺にしがみついてきた。
倉知の首筋に舌先を這わせた。柔く、丁寧になぞっていると、倉知の体がビク、ビク、と小さく跳ねた。
「加賀さん、気持ちいい」
はあはあ言って、泣き顔でこすりつけてくるのが可愛くて、キスが止まらなくなった。
倉知の手が尻に移動して、撫でてきた。両手で揉まれながら、ひたすらにキスをする。舌を絡ませ、口中を深くねぶり、最後は唇を軽く触れ合わせ、至近距離で、見つめ合う。
好きだ。わけがわからないほど、好きだ。
飛びついて、力いっぱい抱きしめる。抱きしめ返す倉知の力も、強かった。
ベッドに転がって、お互いの服をむしり取り、全裸の肌を密着させると、またキスをする。二人とも勃起していたし、挿入すればいいのになぜかしない。ふれあいとキスだけ達してしまいそうなくらいに気持ちがいい。
それは倉知も同じらしかった。
上ずった声で「イキそうです」と訴える。俺も、と小さく同意して、倉知の内腿を撫でると、腹に生暖かい感触があった。
倉知が、イッている。イクときの顔と声が、最高に、そそる。それを見ながら俺も即座に精を放ち、お互いの、濡れた先端をこすりつけ、笑い合う。
「めっちゃよかった」
「はい」
「風呂入って飯食って、とっとと寝るか」
「はい。とっとと」
「なんでそこリピート?」
全裸のまま、手を繋いで寝室を出る。
風呂に入り、食事を済ませ、片づけをし、軽く掃除をすればあとはもう眠るだけ。ベッドに直行、かと思いきや、倉知がソファに腰を下ろした。
「寝ないの?」
「日程のおさらいをします」
「また?」
倉知お手製の旅程表は、何度も読み返してよれよれになっている。心配というよりよほど楽しみなのだ。すごく、ニコニコしている。
明日は昼過ぎに家を出て、駅で倉知家の人々と合流し、羽田に向かう。早起きをする必要はない。とはいえ、早く寝たほうがいい。
「十二時になったら時間切れだからな、シンデレラ」
「大丈夫です、すぐ寝ます」
倉知がソファをポンポンと叩く。肩をすくめ、腰を下ろす。
「こうやって見ると、短いですよね」
ホッチキス止めのA4用紙をめくる倉知の肩にもたれて、手元を覗き込む。
現地時間の二十九日は、別荘で過ごす。次の日は、挙式だ。打ち合わせや準備もあるし、撮影や簡単なパーティもするとなれば、一日費やすことになる。三十一日は観光、元日の一日にホノルルを発つ。日本に到着すると、日付は一月二日だ。
移動に時間がかかるとはいえ、時差もあるし、あっけなく感じる。
「まあ、あっという間だろうな」
「ですね。もっと休めたらいいのに」
帰国をあと一日遅らせることも可能だったが、全員、仕事始めが四日だ。時差ぼけがないとも限らないし、日本でゆっくり体を休めるのに一日は必須だ。
「ほらここ、三十一日の自由行動あるじゃん。別荘で二人っきりになれるよ」
「そうですけど、ロコモコ食べに行かなきゃ」
「ロコモコvs.二人の時間、ファイッ」
「ロコモコ食べたらすぐ戻りましょう」
「はは」
倉知が俺を見て、にこ、と笑ってキスをし、旅程表を一枚めくる。
「結婚式、嬉しいです」
「うん」
ちら、ちら、と何度も視線を寄越しながら、めくったページを元に戻し、左上の曲がった跡を伸ばすと、リビングのテーブルにそっと置き、うずうずした感じで抱きすくめられた。
「早く寝たら、早く明日が来ますよね」
「寝る?」
「寝ます」
倉知はここ最近、ずっとソワソワしている。倉知家の面々は、海外旅行が初体験なのだ。それに加えて挙式をするとなると、倉知のてんぱり具合は納得できる。
「まだまだだと思ってたのに、もう明日かあ」
寝室の隅に並んでいる二つのスーツケースを眺めて、倉知が言った。二週間前からそこにある。完璧に用意を済ませたのに何度も点検する用心深さが面白くて笑って見ていたが、出発までにあと一回は確認していそうだ。
「緊張して眠れない……」
明かりを消した寝室で、倉知がうめく。
「円周率唱えたら?」
「それは萎えさせるときのやつです。今は別に……勃ってないです」
「ん? ほんと?」
どれ、と手探りで倉知の股間をまさぐる。
「あれ? なんかでかくなってない?」
「元々このサイズですって」
倉知が笑って身をよじり、俺を抱きしめてくる。
「はあ、嬉しくて眠れそうにない」
「素数は?」
「やってみます」
俺を抱きしめながら、数字をつぶやき始めた。倉知のいい声が淡々と数字を羅列していくのを聞いていると、眠らないわけがない。もう、「23」で早々に入眠した。
おかげで俺は快眠を得られたが、本人もよく眠れたらしい。
朝目覚めると、爽快そのものの倉知の顔が、目の前にあった。いつも俺より早く起きて、寝顔を観察するのが趣味だと知っている。
「おはようございます」
カーテンの隙間から差し込む朝日。
最高の笑顔と、頭を撫でる優しい手が、一日の始まりを告げる。
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