電車の男 同棲編

月世

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Ⅳ.加賀編

正義の拳

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 外回りから帰ると、デスクにメモが置いてあった。前畑の字だ。
『ハシバさんご来社、受付で帰られました。お電話くださいとのこと 090-xxxx-xxxx 13:40前畑受』
 メモを片手に、放心する。一瞬、頭が白くなる。ハシバ、というのは倉知の友人の橋場だろう。どうやって会社がわかったのか、と怖くなったが、思い出した。
 高橋だ。高橋が社名を名乗り、IDカードを見せびらかしたからだ。
 前のデスクに座る高橋に目をやると、紙パックのジュースのストローをくわえていた。中身がもうないらしく、やかましい音を鳴らし続けている。
 チッと舌打ちが出た。八つ当たりだ。別に、高橋のせいじゃない。
 数日前、高橋があの定食屋に入ろうと言い出さなければ、橋場に会うこともなかった。そうすれば大学を卒業するまで、倉知は同棲相手の「加賀さん」の正体を、上手く隠し通していたかもしれない。
 高橋のせい、いや、やっぱりこいつは何も悪くない。
 倉知がここ最近ずっと元気がないのも、別に高橋のせいじゃない。
「高橋」
「ふぁい?」
「うるさい」
 空の紙パックを未練がましく吸い続けている高橋を一喝すると、携帯の番号が書かれたメモを持ってフロアを出た。
 廊下の突き当りに移動し、壁に寄りかかり、携帯を操作した。まだ五時半だ。おそらく授業中だろう、と思いながらメモの番号を入力し、通話ボタンを押した。思った通り、すぐに留守電に切り替わる。メッセージを残さずに、電話を切った。
 ため息が出る。なんなんだよ、と憤りが沸いた。わざわざ会社に来て、何がしたい? 俺に話があるなら倉知を通せば済む。そうしないのは、倉知には内緒で俺に接触を図ろうとしているからだろう。
 倉知は、橋場は悪い奴じゃない、と言っていた。あの真面目な倉知が「すごく真面目」と評するくらいだから、相当だろうと想像はできる。真面目だから他人のプライベートに干渉して口を出していいわけもない。
 営業フロアに戻り、自分のデスクに座ってみたが、もやもやして仕事にならない。やがて定時になり、フロアから一人二人と減っていく。
「加賀君、お先に」
 手を振る前畑に手を挙げて応える。前畑がフロアから出ていくのを見届けて、高橋が腰を上げる。
「僕も帰りますね」
「おう。お疲れ」
「主任、僕、気になってたんですけど」
 鞄を胸に抱いて、高橋が言いにくそうに口ごもる。
「何?」
「えっと、この前定食屋で七世君に会ったじゃないですか」
 少し間を置いて、「うん」と相槌を打つ。
「あのとき一緒だった友達って、もしかして何も知らなかったんじゃないかなって」
 高橋が恐る恐る、という感じで俺を見てくる。
「僕、なんかまずいこと言ったかもって、あとになって気づいて」
 倉知が友人全員に、男と付き合っていることを公表していると勝手に思い込んでいたのだろう。高橋は、仕事ができなくても気遣いができないわけじゃない。ある程度空気を読むことはできる。あのとききわどい発言をして倉知の惚気を引き出そうとしていたのは、天然でも悪意でもない。
「ごめんなさい」
 高橋が頭を下げてくる。黙って頭頂部を見つめていると、おかしくなってきた。力なく、笑う。
「いいよ、別に」
 高橋が顔を斜めにして、上目遣いで俺を見る。
「怒ってませんか?」
「怒ってるように見えるか?」
「いいえ、でも、ちょっとなんか、元気ないっていうか、心配で」
「お前のせいじゃないから」
 倉知が常日頃から、「加賀さん」との同棲生活を橋場に語っていたせいでこうなった。丸井や風香に話す感覚で、深く考えていなかったのだろう。あいつはもともと、周囲に隠さなければ、という感覚を抱いていなかった。
「ややこしいよな、実際」
 秘密主義になれとは言えないし、他人に堂々と言えない関係、というのは悲しいものがある。
「主任、僕でよければなんでも話してください」
 高橋が真剣な顔で言った。
「愚痴ってもいいですよ。僕、黙って聞きます」
 成長したな、と思った。仕事面での成長は見られないが、高橋も少しずつ、大人になっていっている。
「うん、また今度な。行かなくていいの? 前畑、待ってるんじゃない?」
 仕事が終わったあとによく二人で飲みに行っている。同じ部署にいて同じ場所に向かうのでも、一緒に行動はしない。ベタベタしないが、上手くいっているようで、一応付き合いは続いているらしい。今日も多分、約束をしている。高橋がしまった、という顔になる。完全に尻に敷かれている。
「お疲れ、また明日」
 手を振ると、高橋が「すいません、失礼します」と慌てて飛び出していった。それを見ながらパソコンをシャットダウンさせ、背もたれに体重をかけて天井を見上げると、隣で声がした。
「大丈夫なの?」
 いつの間にか後藤が隣の椅子に座っていた。
「びっくりした」
「高橋君に愚痴らないとやってられない状態?」
「まさか」
 そう深刻でもない。ゆすられているなら話は別だが、そんなことにはなりそうにもない。
「上手くいってない、わけじゃないよね」
「うん、変わらないよ。お互いの気持ちはね」
 ただ外野が騒がしくなってきただけだ。
「今度、久しぶりに二人で飲みにいこっか」
 後藤が俺の肩を叩いて、立ち上がる。そういえば、長い間二人で飲んでいない。それだけ悩みがなくなったということだが、帰りを待っている相手が、早く顔を見たい相手ができたのもある。
「うん、だな」
「じゃあお先」
「お疲れ」
 後藤の背中を見送って、息を吐いたところで携帯に着信がかかってきた。登録していない番号だが、見覚えがある。さっきかけた、橋場の番号だ。
 営業フロアに残っているのは三名で、それぞれ自分の仕事に没頭している。誰も俺には関心がないだろうが、フロアで私用の電話をかけるのはためらわれた。
 席を立ち、廊下に出ると、通話ボタンを押した。
「はい、加賀です」
『橋場です。先日定食屋でお会いしました。お電話ありがとうございます』
 聞き覚えのある声が言った。
「この間はどうも。お邪魔して悪かったね」
『いえ、こちらこそ突然会社に押しかけて、すみませんでした』
 悪いと思いながら、なかなか大胆な行動に出るな、と感心した。
『一度会ってお話ししたいことがあるんですが、お時間いただけませんか』
「もしかして俺、説教される?」
『説教』
 復唱すると、黙り込んだ。
「別れろって言ったんだよね、あいつに」
『別れたほうがいい、とは言いました』
 些細なニュアンスの違いなんてどうでもいい。
「橋場君は、俺たちみたいなのは許せない? 正しい道に戻したい?」
『僕が言いたいのはそういうことじゃありません』
「でも別れたほうがいい、って言ったんだよね」
『加賀さんは、倉知の将来の夢を知ってますか』
 将来の夢。一瞬、わけもなくギクッとして返事が遅れた。
『知ってますよね。大学を出たあと、どうするのか』
 教師になりたい、と言っていた。中学か高校かで迷っているらしいが、あいつがそうと決めたなら数年後確実に教師になっている。
『倉知が高二のときに、付き合い始めたそうですね』
 徐々に、読めてきた。橋場がどうして他人のプライベートに入り込んで、別れたほうがいいとアドバイスをしてきたのか。
『清く正しいお付き合いではありませんよね。倉知が高校生だとわかっていて、不適切な関係を持った、ということに憤りを覚えるんです。間違ってたら訂正してください』
「間違っては……ないよ」
 廊下の壁に背中を預け、その場に座り込む。
『教師を目指している人間が、高校生のうちから十歳年上の同性と付き合って、体の関係も持っていたなんて、ふしだらだと言われたら反論できますか?』
 ふしだら、と言われて言葉を失った。俺がやったことはまさにその通り。未成年へのわいせつな行為。間違いはない。
『倉知はあなたを美化して、よく、最高にいい人だと言っていました。倫理観の違いかもしれませんが、僕にはとてもそうは思えません』
「俺はいい人なんかじゃないよ」
 倉知が俺を美化しているのはよくわかっている。橋場は「はい」と同意する。
『倉知が教師になったとします。もし、男性と同棲していると噂になったら? それだけでも騒がれるのに、その相手と学生の頃から関係を持っていたと知れたら? 恋人同士なら、同意の上なら関係ない、と思われるかもしれませんが、それは間違いです。追及は免れません。教師としての信用も一気になくなるでしょうね』
 橋場は声のトーンを変えずに理詰めをやめない。
『倉知は周りが見えないほどあなたに惚れ込んでます。でもあなたは大人だ。ちゃんとした社会人ですよね。もう少し冷静になって、倉知の将来を想像してみてください。本当に大事なら、あなたにしかできない方法で倉知を助けてあげて欲しい』
 最初から最後まで、正論しか言っていない。橋場の言うことは充分理解できた。正義の拳に叩きのめされ、ぐうの音も出ない。
『お節介と思われるかもしれませんが、僕は倉知に夢を叶えて教師になって欲しいだけです。あなたの存在は、その足かせになりませんか?』
 論破され、声を失った。何を言っても、言い訳にしかならない。電話の向こうで、橋場がゆっくり息を吸って、吐いたのがわかった。
『別れたほうがいいと言った理由はわかってもらえたと思います。あとはあなた方二人の問題だし、どういう決断をしようと、今後口をはさみません』
 そりゃないだろ、と苦笑が漏れた。正論で人を叩きのめし、勝手に気持ちよくなっておしまいか。
『僕の話は以上です。長々と失礼しました』
「橋場君は……」
『はい、なんでしょう』
「よく喋るね」
 嫌味ではなく、素直にすごい、と思った。相手に喋る隙を与えない。定食屋のおとなしくて無口な学生と同一人物には思えなかった。
「ほんと、すげえわ。参った」
 後ろ頭を壁にぶつけて、そのまま目を閉じる。
 俺と倉知の関係を、主観を入れずにどこまでも客観的に見た結果が凝縮されていたように思う。散々好き勝手言われて、怒りは沸かず、脱力感に襲われた。
 いちいち、その通りだったからだ。
 俺は倉知に、ひどいことをしてきたのかもしれない。
 あいつに向けられる視線に、かけられる言葉に、酔っていた。何も知らない子どもだった高校生に、「教えてやっている」という気になっていた。好意に甘えてきた。
 俺は、ひどい大人だ。
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