電車の男 同棲編

月世

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Ⅳ.加賀編

暗雲

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 夏が終わり、秋になる。倉知の夏休みも終わり、平常運転が再開した。
 仕事も順調で、同棲生活も不都合はない。毎日仕事が終わって帰宅するのが楽しみで、出迎えてくれる倉知の笑顔と、愛情のこもった夕食は癒しだった。喧嘩もせず、毎日が過ぎていく。平和そのものだった。
「あ、主任、お昼ここの定食屋にしましょうよ」
 外回りから帰る途中、高橋が社用車のウインドウに張り付いて、外を指さした。
「お前今日、朝からずっとラーメンって言ってなかった?」
「ここ、人気らしいですよ。安くてボリュームあるから学生のお財布に優しいってテレビでやってました」
「どうでもいいけど通り過ぎてから言うなよ」
 Uターンするのが面倒だった。
「また今度な」
「えー、あそこがいいです。あ、大学の近くだし、七世君いたりして」
「いないよ」
「なんでですかー、いますよぅ」
「なんなんだよ、その自信」
「いますいます、絶対いますから、あの店にしましょう」
「あのな、仮にいたとして、一緒に住んでるのにわざわざ昼間に会ってどうするんだよ」
「会いたいでしょ?」
「会いたいけど」
 つい本音が出た。高橋が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「じゃあ行きましょうよ。はい、戻って戻って」
 本当に面倒な奴だ。ここで言うとおりにしないと、さらに面倒なことになりそうだ。仕方なくUターンして、定食屋への道を戻った。
 店に入ると、人気店というだけあって満席だった。高橋は待つのが嫌いだ。いくら美味しくても行列に並ぶことはしない、という信念の持ち主だ。
「よし、出るぞ」
「主任、相席しましょう」
「はあ?」
「絶対いるって言ったでしょ、ほら」
 高橋の視線を追って、目を疑った。店の奥のテーブル席に、見覚えのある背中があった。大学の友人だろうか、眼鏡の男と向かい合って食事中だった。
「マジかよ」
「あのテーブルの人、知り合いなんで相席します」
 高橋が倉知と連れの同意も得ずに、勝手に店員に告げて、ずんずんと進んでいく。
「七世君」
 高橋が倉知の肩を叩いた。
「え」
 倉知が高橋を見て目を見開く。そしてすぐに俺に気づいて、「加賀さん!」と叫んで立ち上がる。
「え、なんで、偶然ですね」
 驚きから喜びに感情がチェンジするのが早かった。そわそわと、抱きついてくるような気配がする。いつでも避けられるように身構えた。
「七世君、偶然じゃなくて、う、ん、め、い」
 高橋が、立てた人差し指を左右に振りながら不器用なウインクする。気持ちが悪い奴だ。
「ごめん、勝手に相席するって店の人に言ったんだけど、友達平気?」
 倉知の向かい側に座る眼鏡の男は、じっと俺を見て、放心している。うんともすんとも言わない。
「いいですよ、座ってください」
 代わりに倉知が答えて、友人の隣に移動する。
「ごめんね、お邪魔します」
 向かいに腰を下ろすと、眼鏡の奥の目と、ばっちり視線がかち合った。困惑した様子で、すぐに目を逸らされた。この挙動は、一体何を意味するのだろう。
 倉知は大学で知り合った友人たちに、同棲相手がいることは話したそうだが、それが男だとは言っていないはずだ。じゃあ、なんなんだ、と落ち着かない。
 高橋は倉知の友人には関心を示さず、速攻でメニューを眺めている。
「何にしよっかなー。七世君何食べてるの?」
「アジフライ定食です」
「それもいいなー。唐揚げ定食、味噌カツ定食……、お友達は?」
 倉知の友人の手元を、首を伸ばして確認して、「生姜焼きかあ」とうなる。
「どれも捨てがたいなあ。主任何にします?」
 今日の夕食のメニューを、作る本人に確認してそれによって決めよう、と思ったが、「今日の晩ご飯何?」と訊くわけにもいかない。
「倉知君と一緒のにする」
「揚げ物あんまり家でしないですもんね」
 人が気を遣って考えながら喋っているのに、倉知がややこしいことを口にする。友人の箸が、ぴたりと一瞬止まった。
「揚げ物しないの? なんで? 健康のため?」
 高橋が突っ込んで訊いた。
「あんまりキッチンを汚したくないんです」
 倉知は綺麗好きで、若干神経質なところがあり、揚げ物をすると匂いが移るとか、油が飛ぶとか、換気扇の汚れが落ちにくいとか、いろんな理由から避けている。俺は食べるものに執着というか、こだわりがないので、それでなんの不満もない。
「わあ、なんか主婦って感じ」
 高橋が感心したように言った。放っておいたらきわどい発言をしそうだ。
「決まった?」
 急かすと、高橋が「はい」と言ってメニューを閉じる。
「かつ丼にします」
「定食屋来て結局単品かよ」
「だってこの写真美味しそうなんだもん」
 まるで子どもだ。店員にオーダーを済ませると、コップに口をつける。倉知と目が合った。ニコニコと嬉しそうだ。
 隣に座る倉知の友人は、無口だった。まだ一言も発していない。俺たちの関係を問うこともなければ、挨拶すらないのだから怒っているのかと不安になったが、そういうわけでもなさそうだ。何か、考えているように見える。
「七世君、大学楽しいですか?」
 高橋が両肘をついて、手のひらで顔を包み込み、女のようなポーズで訊いた。倉知は素直に「はい」と答える。
「いいなあ、僕も大学生に戻りたい」
 社会人三年目なのに、まだそんなことを言うとは。さすが高橋だ。
 それから注文した料理がくるまで、高橋は喋り倒した。いかに仕事が大変か、社会に出るとこんなことがあるんだ、と人生の先輩づらをして二人に説いて聞かせた。要するにただの愚痴だ。
 いまだにゆとりと呼ばれる高橋が語る内容は、当然浅い。おそらく二人の心にはまったく響いていない。倉知は律儀に相槌を打っていたが、友人は「何言ってるんだこいつ」という顔で聞いている。
 俺と高橋の料理が同時に届くと、高橋が得意げな顔で締めくくった。
「とにかく、僕が言いたいのは、上司に恵まれたもん勝ちってことです」
 結論として持ってきたのがそれか。運の話になっている。
「僕、主任がいなかったら三日で辞めてますもん」
「俺はお前の上司じゃないぞ」
「えー、上司みたいなもんじゃないですか」
 こいつが勝手に上司扱いするせいで、やらかしたミスが理不尽に全部俺に降りかかってくる。
「わかります」
 倉知が箸を置いてうなずいた。
「加賀さん、優しいから。俺も加賀さんが上司だったら絶対辞めません」
 うっとりと酔ったような目で俺を見る。咳払いをして目を逸らし、倉知の足をテーブルの下で軽く踏んだ。
「痛い」
 倉知が声を上げる。
「えっ、どこが? 大丈夫?」
 高橋がどんぶりを抱えて大げさに心配する。
「いえ、あの、大丈夫です、なんでもないです。あ、ちょっとトイレ行ってきます」
 席を立ってそそくさと姿を消す。高橋は不思議そうにしながら、かつ丼のカツを口に運ぶ。
「お腹痛いのかな」
「あの」
 倉知の友人が、ここでようやく口を開いた。
「質問しても?」
 高橋が嬉しそうに「どうぞ!」と張り切った声を出す。
「お二人はどちらにお勤めなんですか?」
「え?」
 予想していた質問と違った。てっきり、倉知との関係を訊かれるものと思っていた。そんなことを訊いてどうするのだろう。
「高木印刷ですよ。ほら!」
 高橋が首からかけたストラップを引っ張って、IDカードをひらひらして見せた。大体の社員は、コンビニに行くときでも見えないように配慮している。俺も社内と訪問先の会社以外ではワイシャツのポケットに入れて隠しているのだが、高橋はいつでもオープンに個人情報をぶら下げている。
 倉知の友人は身を乗り出すと、眼鏡のふちを持ちあげて、カードを凝視した。
「ちゃんとした会社の人なんですね」
 意外そうな口ぶりだった。高橋の言動があまりに馬鹿丸出しなせいでまともな企業の人間かどうか、疑われたらしい。
 高橋のIDカードから視線を俺に移すと、目を細めてじろじろと見てきた。
「加賀さん、……っておいくつですか」
 さっきから質問のチョイスがおかしい。ずれた子なのだろうか。
「今年二十九になるけど」
「え、主任もうそんなになるんですか?」
 高橋が声を上げる。
「えー、おかしいなあ、二十五歳くらいだと思ってました」
「お前、自分の年齢把握してるか?」
「僕らの十歳も上になるんですね」
 倉知の友人が静かな口調で呟いた。僕ら、というのが倉知を含めた複数形だとしばらくして気づいた。
 それきりうつむいて、無言になった。よくわからないがなかなか気難しそうな友人を持ったな、というのが正直な感想だ。
 倉知がトイレから戻ると、友人が席を立つ。
「あ、もう出る?」
「午後の授業に間に合わなくなるよ。行こう」
 伝票を取って、さっさとレジに向かう。友人の背中を見送ってから、倉知が俺と高橋に向かって、「お先に失礼します」と頭を下げた。
「またあとで」
 言い置いて、友人の後を追いかける。精算を済ませて、もう一度俺たちに頭を下げてから店を出ていく倉知に二人で手を振って応えた。
「七世君、ちょっと大人っぽくなりましたね」
 高橋が感慨深げに言った。
「そうだな、お前よりは大人だよ」
 出会った頃から高橋よりよほど大人で、しっかりしていた。放っておいても勝手にどんどん大人びていく。俺が手助けをしなくても、いつでも最善の道を選ぶ。慎重だし、失敗しない。
 と思っていた。
 仕事が終わり、帰宅すると、いつもと変わらない笑顔で俺を出迎えた。
「今日はすごい偶然でしたね」
「うん、でもごめんね。友達、怒ってなかった?」
 倉知が一瞬返答に詰まり、「そうですね」と曖昧に言葉を濁す。
「なんかあった?」
「いえ、大したことじゃないです。着替えてきてください。ご飯にしましょう」
 コンロの火を切って、盛り付けを始める倉知は緊張しているように見えた。何か楽しくない出来事があったに違いない。
 着替えてダイニングに戻ると、温かい料理が並べられていた。今日のメイン料理はスペアリブだ。毎日手が込んだものを作るせいで、土日担当の俺は段々肩身が狭くなってくる。
 いただきます、と声を合わせて合掌し、一口食べてすぐに絶賛する。ほめ言葉がいやでも口をついて出てしまう。それほど美味い。
「それで」
 一度箸を置いて、息をつく。
「何があった?」
 みそ汁をすすっていた倉知が、無言でお椀を置いた。
「食べてからにしませんか?」
「なんだよ、大したことじゃないんだろ?」
「ないです、けど、冷めないうちに食べてほしいです」
 料理が冷めるほど話が長くなる、ということか。思ったより深刻かもしれない。
 いつもはお互い話し役と聞き役を無意識に分担していて、話題がなくて沈黙が落ちる、というようなことはなかった。でも今日は、違う。倉知が頭の中を整理しているのが透けて見える。何をどうやって話せばいいか、考えている。
 俺は邪魔をしないように、黙って食事に没頭した。食べ終わって箸を置くと、腕を組んで、倉知を眺めた。
 半分ほど食べたところで、箸が止まっている。
「倉知君」
 倉知が我に返る。
「あれ、もう食べたんですか。早いですね」
「ごちそうさま。めっちゃ美味かった」
「あ、お茶、淹れてきます」
 席を立とうとする倉知を止めて、「いいから、話して」と微笑んだ。倉知は情けない顔で俺を見て、「はい」と観念する。
「あの、昼間の友達、橋場っていうんですけど」
 箸を置いて、背筋を伸ばした倉知が語ったのは、大体が想像通りだった。
 友人の橋場には、同棲している相手がいることは話してあるものの、それが男だとは教えていなかったそうだ。常日頃、散々のろけてきて、付き合っている相手が「加賀さん」だと名前も出してきた。
 橋場の中で「加賀さん」はきっと、年上の魅力的な美女でイメージが固まっていたのだろう。
 だから今日、俺を「加賀さん」と呼んだとき、困惑したが、すぐに理解したのだ。
 同棲相手は男だったのだ、と。
 そして、あのあとすぐに忠告してきたそうだ。
 男同士で付き合うのは、リスクが高い。だから別れたほうがいい。
 そんなことを言われて、はいそうですかと素直に聞くはずもない。
「別に、喧嘩した、とかじゃないんです。男だって言わなかったことを怒ってるとかでもないし」
 暗い目を手元に落として、倉知が言った。
「橋場はすごく真面目で、正義感がやたら強くて、だから良かれと思って、俺のためを思って、言ってるんだと思うんです」
「うん」
 考えながら喋る倉知を、応援する意味で相槌を打つ。
「学校中に言いふらすとか、そんなことは絶対にしないし、誰にも言わないとは言ってました」
「うん」
「いい奴なんです」
 そんな必要はないのに、友人を庇ってみせた。
「男同士が気持ち悪いとか、そういうことじゃなくて、隠し通すにしても、公表するにしても、いいことはないって」
「うん」
「俺の加賀さんへの気持ちを、悪いことしてるみたいに、間違ってるみたいに……、別れたほうがいいなんて、言われたくなかった」
 声がひどく落ち込んでいる。泣く寸前に見えた。唇を噛んで気丈に耐える姿を見ていると、胸が痛んだ。腰を上げ、倉知の体を後ろから抱きしめた。何も言わずに頭を撫でる。
 俺たちの周囲には、味方しかいなかった。二人の関係を認めて、応援して、好意的に受け入れてくれた。友人も、家族も、職場の人間も。でも、世間一般では、橋場のような意見の人間が大多数で、だからこそ、知られないようにひた隠す。
「大丈夫、気にするな」
 きっとこう言って欲しいであろう言葉で慰める。
 なんの確約にもならない、ただの言葉は、無責任でしかない。
 でも倉知の気休めになるなら、いくらでも言ってやれる。
 しがみついてくる倉知の体は、いつもより小さく感じた。
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