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第十三回高木印刷大運動会
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〈加賀編〉
「最近、気になることがあるんです」
昼休憩で外に出ているときだった。カツカレーのカツを頬張りながら、高橋が深刻な表情で切り出した。
「主任、ストーカーされてませんか?」
「え? 何、されてないよ」
「でもなんか、よく見るんですよ、あの顔」
「あの顔?」
「えっと、一番奥の席の人です。あの人、うちの企画課の新人らしいんですけど」
さり気なくそっちを見ると、スマホに目を落とした男が座っていた。チャラついた雰囲気のする若い男だ。
「前畑さんも言ってました。この前、営業のフロア覗きにきてたって。主任と一緒にいるときやたら出くわすし、こっち気にしてるみたいだし、もしかしたら……」
「なんだよ」
「前畑さんいわく、狙われてるんじゃないかって」
「命を」
「違いますよぅ。えっと、身体をです」
「さらっと怖いことを言うな。命狙われたほうがマシだわ」
「前畑さんが言ってたんですよ。あの人はガチでゲイだって」
高橋の隣に座っていた作業着の男が、ぶほっと吹いた。
「だから気をつけてください」
「気をつけるったって」
「たとえばトイレとかで、一人のときに襲われないように気をつけてください。前畑さんが、個室に連れ込まれて手籠めにされたらどうしようって」
想像力がたくましすぎる。苦笑が漏れた。
「前畑のそういうのって全部妄想だし、気にするだけ無駄っていうか」
あいつにかかれば男全員ホモになる。
「確かにそうかもしれませんけど、今回は正しい気がします。だってほら、またこっち見てる」
言われて奥の席を見ると、男と目が合った。見つめ合ったまま、数秒が過ぎた。全然逸らさない。挑むようにぎらついた目は、とても前畑の言う種類の人間のものとは思えなかった。
好意を持った視線じゃないのは確かだ。身体を狙っているより、命を狙っていると言われたほうがしっくりくる。
「なんか嫌われてるみたい」
先に目を逸らしてカレーを口に放り込んだ。
「えー、そうですか?」
「嫌われるようなことしたっけ」
面識もないのに一方的に嫌われるのは少し切ない。企画の人間なら今後、営業として関わらなければならない場面も出てくる。仕事がやりづらくなるのは勘弁してほしい。
とは思ったものの、直接仕事で関わる機会もなく、それほど気にせず時が流れ、忘れた頃に男が接触してきた。
まさに、高橋が言ったシチュエーションそのままだった。
偶然じゃない。一人になるのを見計らったのだと思う。トイレで手を洗っていると、誰かがドアを開けて入ってきた。その人物は、俺の真後ろに黙って立った。目を上げて鏡越しに確認すると、例の男だったのだ。用を足すのが目的じゃなく、俺に用がある。
「あー、えっと」
「企画課の千葉と言います」
「千葉君」
「俺、今度の運動会で活躍する予定です」
「……え? はあ、そうなんだ? 頑張ってね」
一体何を言い出すのか。俺になんの関係が、と首をかしげると、千葉が不敵な笑みをたたえて胸を張る。
「あなたには負けません」
運動会に個人競技はない。負けません、と言われても違和感がある。
「営業部には負けませんってこと?」
「あなたにです」
なんだか要領を得ないというか絡みづらい。千葉がずい、と距離を詰めてくる。後ろがなく、逃げ場を失って、のけぞった。
「俺のほうが」
両肩に手がのった。よくわからないが、怒っているように見えた。
「俺のほうがカッコイイ! モテキングは俺だ!」
歯ぎしりをして言い捨てると、乱暴にドアを開けて出て行った。
「てことがあって」
その日の帰宅後、笑い話として倉知に話したのだが、ピクリとも笑わずに、眉をひそめた。
「怖いですね」
「怖い? かなあ。おかしくない? モテキングだよ?」
奴の中で何か世界が出来上がっていて、キングに君臨しているのだろうが、意味不明を通り越して面白いと思った。あのあと一人で笑っていたのだが、倉知は心配そうだ。
「それって」
倉知が食後のお茶を俺の前に置いて、席に着く。
「多分、加賀さんが社内ですごくモテるから、運動会で目立って地位を奪いたいってことじゃないんですか?」
「地位なあ……。別に、勝手にしてっていうかむしろホント、頑張ってほしい。モテたくないもん、俺」
「でも加賀さん、負けず嫌いだし、手ぇ抜かないですよね」
「ていうか運動会で目立ったからってモテる? 学生じゃなくて大人だよ」
「加賀さんだからモテるんだと思います」
「はあー、モテたくない」
「一般的にモテたい人のほうが多い気がしますけど」
「倉知君も? 女の子にモテたい?」
「俺は加賀さん以外の人からの好意はいりません」
きっぱりと言い切ってマグカップを傾ける倉知を、ニヤニヤしながら見つめた。
「なんですか、その顔」
居心地が悪そうにマグカップで顔を隠す。
「いや、相思相愛だなと思って。俺もお前以外にモテたくない」
マグカップの向こう側から片方の目だけ覗かせて、こっちを見ている。テーブルの下で、倉知の脚をつま先でつついてちょっかいを出す。
「イチャイチャしたくなった。する?」
「う、します」
素直で可愛い。
二人でソファに移動して、抱き合って、キスをする。
「加賀さん」
「うん」
「運動会、見に行っていいですか?」
「えー……」
去年も見たがっていたのだが、バスケ部の試合と重なって結局来なかった。
正直、見に来てほしいとは思わなかったから、ホッとしたのが事実だ。倉知は身内のようなもので、身内が会社の行事に来るとなるとどんな顔をしていいかわからない。
「俺が行ったら、やっぱり迷惑ですか?」
「いや、そういうんじゃないよ」
しゅん、と落ち込んだ倉知が俺の手を握って沈黙する。
「面白くないよ? いい歳した大人が大玉ころがしとか綱引きとかやってるだけだよ」
「それ面白いですよね」
大の大人がやることじゃないからこそ面白いというのは確かにある。若者と違って、体が思うように動かない中年連中が多い。こける回数を数えているだけでも面白いといえば面白い。
「あー、やっぱ駄目だ。倉知君が来たら、困る」
「会社の人にどういう関係か訊かれたら、答えられないから?」
寂しげに微笑んでつぶやくと、俺の肩に顔をうずめて大きくため息をついた。家族席に来ている人間の素性を、いちいち根掘り葉掘り訊くような奴はほとんどいない。そういう心配はしていない。
「違う、張り切るから困るんだよ」
頭を撫でてすぐに否定した。
「張り切る?」
不思議そうに聞き返す。
「いいとこ見せようとして張り切るから。俺がね」
倉知が顔を覗き込んでくる。
「張り切りすぎて怪我したらどうすんの」
「張り切る加賀さん、見たいです」
懇願する目で「お願いします」と頭を下げた。
「うん」
顔を上げて、倉知が上目遣いで俺を確認する。
「いいんですか?」
「ただし、条件がある」
「えっ、はい」
緊張した様子で、背筋を伸ばして俺に向き直る。
「お弁当作ってね」
「え」
弁当は基本、会社側が事前に業者に発注しているが、個人で用意して家族と一緒に食べるパターンもある。後藤の家族はいつも手作り弁当を広げていて、なんとなく微笑ましくていいなとは思っていた。
「作ります。すごい作ります」
倉知が嬉しそうに破顔する。
「おう、すごい作って」
毎年、面白くも楽しくもない運動会が、今年は待ち遠しい。
〈倉知編〉
企業の運動会を見るのは初めてだった。
学校行事と違って、張り詰めた感じが一切ない。みんな気楽そうに笑っている。
少しくらい列が乱れようと、私語をしていようと、注意する教師がいるわけじゃない。
自由だった。
俺は社員の身内や知人が観覧する家族席に座っていた。奥さんと子ども、旦那さんと子ども、という感じで家族連れが多い。俺は若干浮いた存在だが、誰も気にしてはいない。誰かの息子くらいに思われているかもしれない。
とにかくお互いに、あなたはどこの誰とどんな関係ですか、なんていちいち訊かない。この会社の社員の関係者というひとくくりで、妙な仲間意識もある。お菓子を配って和気あいあいとした雰囲気だった。
名も知れぬ少年からもらったポッキーを片手に、運動場に目をやった。
加賀さんを見つけるのは簡単だった。なぜなら、人一倍輝きを放っているから。俺の目にはそう見える。まぶしい。ピカピカ、キラキラ、光り輝いている。
普段家にいるときの加賀さんとはなんとなく表情が違って、見ているのが楽しい。周囲の人と話している様子や、頼られている感じを見ているだけで、胸がときめいた。適当にやり過ごすタイプに見えて、手を抜かない負けず嫌いなところも堪らない。
借り物競争で男女問わず何度も引きずられていく姿も、されるがままという感じで可愛い。
周りに誰もいなかったら、俺はのたうち回っていたと思う。
こんなときにしか見られない、特別な加賀さんだ。
今日は本当に、来てよかった。身震いが起きそうなほど、加賀さんが可愛くてカッコイイ。これが俗にいう、キュンキュンする、というやつだろうか。いよいよ心臓が持たない、というときにちょうど昼休憩になった。
「おーい、こっちこっち」
隣にいた髭を生やした男性が手を上げて大声で誰かを呼ぶ。それに応えて小走りで駆けてきたのはめぐみさんだった。俺に目を向けにこやかに手を振る。
「七世君、おはよう」
「おはようございます、って、あの、こちらの方はもしや」
「うちの旦那。それと息子の大地」
ポッキーをくれた少年の頭を、めぐみさんがガシガシと撫でまわす。
「この子、知り合いの七世君」
「そうだったの? ご挨拶が遅れてごめんよ。旦那です」
めぐみさんが俺を紹介すると、旦那さんが手を差し出してきた。髭も立派だが、半袖のポロシャツから伸びた腕も毛むくじゃらだった。
「こちらこそ、改めてよろしくお願いします」
握手を交わしたあとで、頭を下げ合った。
「並んで座ってるの見えたからちょっと笑っちゃった」
「この兄ちゃん、母ちゃんの友達?」
大地君がめぐみさんに訊く。
「そうだよ。加賀君の友達の七世君」
「加賀君ここ来る?」
「来る来る」
少年がやったー、と両手を上げて喜んだ。小学生に「加賀君」と呼ばれて慕われている様子なのがまたツボにはまる。心臓を抑えてキュンキュンを回避しようと必死になる俺の首に、突然、冷たいものが触れた。
声を上げて飛び跳ねて、振り返る。加賀さんがペットボトルをぶら下げて笑っていた。
「加賀さん、お疲れ様です」
「おう」
「加賀君だ!」
大地君が立ち上がって加賀さんに飛びついた。
「おー、大地、でかくなったな」
「一年ぶりだもんね」
息子を可愛がる加賀さんを、めぐみさんは嬉しそうに目を細めて見ている。
加賀さんの後ろには前畑さんと高橋さんもいて、それぞれお弁当を抱えていたが、手作りではなさそうだ。
「やーもー、疲れたー、お腹空いたー」
ジャージ姿の前畑さんが靴を脱ぎ散らかしてブルーシートに倒れ込んだ。高橋さんが甲斐甲斐しく前畑さんの靴を揃えて、俺を見ると「七世君、こんにちは」と頭を下げた。
「あれ、もしかして七世君、お弁当作ってきたの?」
重箱の包みを解いていると、めぐみさんが驚いたように声を上げた。眉を下げて胸に手を当て、感動したふうだ。
「はい、母にいろいろ教わりながらですけど」
お弁当というものを作ったことがなかったから、ここはプロのアドバイスをもらおうと数日前から密かに特訓していた。冷めても美味しい唐揚げの作り方や具材の詰め方、いろどりのバランスなど、母は喜々として教えてくれた。
「やだ、偉い! 可愛い!」
「僕も前畑さんが作ったお弁当がよかったです」
「なんで私があんたに作らなきゃいけないのよ。あんたが作ってきなさいよ」
「えー、じゃあ来年はお母さんに作ってもらいます」
「マザコン! キモイ!」
「お前ら邪魔なんだけど。ちょっと詰めて」
掛け合いをしている二人を押しのけて、加賀さんが俺の隣に腰かけた。
「さて、では御開帳」
重箱の蓋が、開かれる。その場にいた全員が、覗き込む。うおー、と感嘆の声が渦巻いた。
「二段目いきます」
加賀さんが宣言する。二段目の中身が姿を現すと、もう一段階大きい歓声が上がった。
「何これ、めっちゃ美味しそう!」
前畑さんが高橋さんの首を絞めながら言った。
「やばい、完全に負けたわ」
後藤さんが頭を抱える。
「すげえ早起きして頑張ってたもんな。サンキュ」
加賀さんが俺を労って頭を撫でてくれた。報われた瞬間だ。
「母ちゃんのより美味そう」
大地君が指を咥えてそう言うと、めぐみさんがガクッと肩を落とす。
「おにぎりとサンドイッチもあるんで、よかったら皆さんもどうぞ」
やったーと喜んだのは大地君だけじゃなかった。前畑さんと高橋さんが嬉しそうに手を叩いている。
「よし、じゃあ食うか」
加賀さんが手を合わせる。全員がそれに倣って、「いただきます」と声を合わせた。
「超美味そう!」
母親のお弁当そっちのけで、こっちの重箱に手を出そうとする息子を、めぐみさんが慌てて止めた。
「こら、図々しい! あんたが真っ先に食べてどうすんの。ごめんね、加賀君」
「いいよ。大地、どれ食いたい?」
「卵焼き! それと唐揚げ!」
加賀さんが取り分けた皿を渡すと、大地君が颯爽と口に運ぶ。めぐみさんがまたしてもそれを止めた。
「なんだよ母ちゃん」
「いいから待ちなさい。加賀君、お願い、先に一口だけでも食べて」
多分、気を遣っている。最初に手をつけるのが加賀さんであるべきだと思っているのだろう。
「じゃあいただきます」
加賀さんが卵焼きを口に入れた。みんなが動きを止めて加賀さんの感想を待っている。
「うん、美味い」
「俺も食べていい?」
大地君が卵焼きを箸で刺して、体を揺すりながら訊いた。よし、とめぐみさんが許可を出すと、丸ごと口に放り込んで、「んー!」と目を見開いた。
「うんめえ、七世君、グッジョブ!」
親指を立ててから、俺に手のひらを向けた。叩き合わせると、もう一度親指を立てて片目をつむる。元気で人懐っこくて楽しい子だな、とすぐに好きになった。
大地君も旦那さんも、大きいお友達が弁当を作って運動会に応援に来るという状況をすんなり受け入れている。友達という説明で納得したのか追及されることはなかった。
めぐみさん本人も言っていたが、口が堅いのだろう。さすが、加賀さんが信用している人だ。同僚のプライベートを許可なく話したりはしないのだ。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
家族席は賑やかで、あちこちで楽しそうな声が聞こえていたが、中に異質な団体がいた。その中の一人がこっちを見ている。
若い女性が数人集まって、一人の男性を取り囲んでいた。一人だけジャージだから、彼が社員なのだとわかった。
小さな子どもも大勢いるのに、女性の肩を抱き寄せたり、食べさせてもらったり、見ていて少し気持ちが悪い。
その男性がこっちを見ている。意味ありげな目は、加賀さんを捉えている。何度も何度もこっちを見る。女の人に囲まれながら、加賀さんを気にするなんてよくわからない。
「あ」
思わず漏れた声に、加賀さんが反応した。
「何?」
「いえ、あの、この前言ってたモテキングの人って」
多分、いや、絶対にあの人だ。加賀さんが俺の視線を追って、「ああ、うん」と肯定した。
「モテキングって何」
めぐみさんが耳ざとく食いついた。
「ムシキング!」
大地君も食いついた。
「モテキングな。なんだっけ、千葉君だ」
「千葉って、企画課の? ガチゲイの?」
前畑さんが首を伸ばして俺たちの視線の先を見た。
「ゲイなのに女の子に囲まれてる。どういうこと?」
「それは前畑の妄想。あいつゲイじゃないよ」
「やっぱり主任のこと意識してません? 必死でモテアピールしてますけど、痛々しいなぁ」
「あー、忘れてたけどそういやなんか運動会で活躍するって言ってたな」
「女はべらせてモテてるつもり? 下品だし場違い。キャバクラじゃないんだから。大地、あっち見ちゃダメ」
散々な言われようだ。距離があるから聞こえてはいないだろうが、気の毒になってきた。
そわそわと気にしていると、モテキングの人が腰を上げた。女の人を一人連れて、手を繋ぎながらこっちに来た。
「こんにちは」
会話の中心にいた人物の突然の出現に、一瞬場が静まり返った。
「加賀さん、俺の活躍、見てもらえましたか」
「え? あー、うん、見た見た。なんかすごかったね?」
いい加減な返事なのに、千葉さんは満足そうだ。
「俺全種目出てるでしょ。おかげで技術部、今のところ一位ですよ」
ふふん、と鼻を鳴らして自慢げに語るのを、前畑さんとめぐみさんが揃って半笑いで見ている。
「リレー、営業部は加賀さんがアンカーだって聞きました」
「はあ、そうらしいね」
「俺、アンカーにしてもらったんですよ。直接対決ですね」
対抗心を剥き出しにする千葉さんに、加賀さんは困った顔で顎を掻く。
「勝つのは俺です。俺が、モテキングですから」
それじゃあ、と言い置いて背を向ける。
「何あれ」
めぐみさんが腕をさすりながら顔を歪めた。
「黙ってたらイケメンなのに。もったいない」
「あの兄ちゃん、ムシキングなの?」
「ムシキングから離れなさい」
「なんかわかんないけどムカつく! あんな奴に絶対負けないでよ!」
前畑さんが言うと、高橋さんも同調する。
「主任が負けるはずないですよ」
「いや、リレーだから。最後ぶち抜かれるかもしれないし」
加賀さんが苦笑してサンドイッチにかぶりつき、俺を見る。
「倉知君が助っ人にいたら負ける気しないけど」
「あ、それいい。七世君、営業部のために走って!」
前畑さんが目を輝かせて言った。
「助っ人って?」
「営業部、毎年人数足りなくて一人で何回も走らされたりするんだよ」
「それ結構なハンデじゃないですか」
「去年、旦那と大地も助っ人で走ったんだよ。逆に抜かれたりして戦力になってなかったけど。ね」
めぐみさんが旦那さんに同意を求める。旦那さんは寡黙な人なのか、ずっと黙々と食べ続けていた。話を振られると、照れ笑いをして体を小さくした。
「僕は足が遅いから、今年は遠慮しとこうかなあ」
「俺、リベンジする!」
大地君が頼もしく胸を張る。
親子で楽しめるように、飛び入り参加が認められている競技がいくつかあるらしい。午前中のプログラムの中にもそういうものがあって、大地君と旦那さんは何度か参加していた。
加賀さんは俺に、出たかったら出てもいいよ、と簡単に言ったが、当然、おとなしくしていた。目立たないようにというのもあったが、自分が参加するより加賀さんを見ていたかったからだ。
「七世君も俺と一緒に走ろうよ」
大地君に誘われて、「うーん」と言葉を濁し、加賀さんを見る。
「いいんですか?」
「いいんじゃない?」
ということで、助っ人でリレーに参加することになった。
本当は、加賀さんが走る姿をじっくり見ていたかった。でも、こんな機会は滅多にない。来年、また来られるかもわからない。
全力で、助っ人を務めよう、と気合を入れた。
〈加賀編〉
運動会の締めの競技は毎回、全員参加のリレーだ。入社時からアンカーを押しつけられているが、そろそろ若手に譲りたいのに営業部に有望な若手社員が入ってこない。
だから、千葉のように自己主張の激しい積極的な奴が他部署にいるのは羨ましかった。ここまで自分が大好きで、目立ちたがり屋な人間も珍しいと思う。
「千葉君は芸能人になればよかったのに。絶対向いてるよね」
女性の部のリレーが終わり、グラウンドでは男性社員が走っている。全社員だからとにかく人数が多い。順番を待っている間、千葉は俺の隣にぴったりとくっついて離れなかった。無言でいるのも気づまりだったから、こっちから話しかけてみたのだが、俺の科白に千葉は驚いた様子を見せた。
「それは、暗に俺が男前だって言ってますか?」
「え? いや、そういうことじゃなくて」
「やっぱり自分が勝ってるって思ってますね?」
「突っかかるなあ」
めんどくさい。はあ、とため息が出た。
「確かに加賀さんは美形だと思います。それは認めます」
別に認めてもらえなくてもいいんだけど、と心の中でつぶやいた。
「でも全体的に、俺のほうがイケてます」
「うん、そうだね」
「俺のほうが背も高いし」
「うん」
「俺のほうが筋肉質だし」
「うん」
「俺のほうが若いし」
「うん」
「俺のほうがモテないと、おかしいんです」
「うん、そう思う」
わっ、と場内が盛り上がる。転んだ社員につまずいて、二人、三人と転がった。これは恒例の光景だ。必ずと言っていいほど、毎年転倒者が続出する。
「言い返さないんですか?」
「うん、だってその通りだし」
「今日の活躍で、女子社員の目も覚めたと思うんです。仕上げにリレーで俺が加賀さんに勝てば、確実に立場は逆転します」
千葉はグラウンドではなく俺を見ている。
「あなたのモテ人生もここまでです」
「モテ人生、ねえ」
「俺が、モテキングです」
俺にはわからない。千葉がどうしてここまで必死でモテたがるのか。
「千葉君って、好きな子いる?」
「え」
意表を突かれた顔で、俺を見る。
一人から好かれればそれでいいと思える経験が、多分ない。見境なく誰からも好かれたいなんて、惚れた女がいれば考えない気がした。
「俺は可愛い子ならみんな好きです」
「あ、これ駄目だ」
頭を抱える俺の後ろで、野太い笑い声が上がる。振り向くと、あぐらをかいて扇子を扇ぐ社長がこっちを見ていた。千葉が飛び上がって直立する。
「あっ、しゃ、社長! え、社長も走られるんですか?」
「走られますよ。毎年加賀君に抜かれちゃうんだけど」
「えっ」
千葉は俺を、信じられないと言う目で見た。正確には「毎年」ではない。何周も差が開いて、追い抜けないときもあったし、社長にバトンが渡る前にゴールするパターンもあった。
「加賀君が入社するまでは、みんな遠慮して私を抜かなかったんですよ」
それはそうだ、と千葉がうんうんうなずいている。
「でも加賀君は、全力で私を追い抜いていった。気持ちがよかったなあ。あんなに嬉しかったことはありません」
「う、嬉しい? 追い抜かれたのに?」
「加賀君がどうしてモテるのか、それがわからないようじゃあモテキングにはなれませんよ」
顎の肉を揺らしながら、社長が笑う。千葉はたじろいで、絶望的な顔をした。自分に社長を抜けるだろうか、と自問しているようだった。
「加賀さんって」
社長が製造部長と話しているのを横目で見つつ、千葉が俺に顔を近づけて言った。
「空気読めない人なんですか? 普通、社長に花持たせますよね」
「そうかもね」
新入社員でアンカーを任され、周りからは社長を抜け、と散々言われていたからその通りにした。社長が、自分が一位じゃないと気が済まない独裁者のような性格なら、俺も空気を読んで遠慮した。社長の人柄を考慮した上で、勝たせてもらった。結果的に本人も周りも喜んでいたので、よかったと思う。
「出世できませんよ」
「お、優しいね。心配してくれるんだ」
「してませんけど」
拗ねたように口をとがらせる千葉の横顔を見た。悪い奴には思えない。できるなら仲良くやっていきたい。
俺がわざと負けて、千葉を勝たせてやれば丸く収まる気がする。
でも、たとえお遊び的な運動会だとしても、手は抜きたくないし、わざと負けるという選択肢は俺の辞書にはない。
いや、そもそも「わざと負ける」なんて小細工をするまでもなく、正々堂々と負けるかもしれない。脚に自信があるからこそ、挑んできているのだ。
「アンカーのみなさん、そろそろ準備お願いします」
係りに促され、グラウンドに目をやった。大地が走っている。小学生の全力疾走に、観客が沸いている。場内アナウンスが「少年頑張れ!」と励ますものの、一人、二人と抜かれていく。取り残されていく大地に、頑張れ頑張れと同情の応援が集まっている。
「営業部、最下位じゃないですか」
千葉が隣で言った。今年は周差がなく、なかなかの接戦だ。
「まあ、逆転不可能ではないよね」
「え、この差で勝てるとでも?」
「勝つんじゃない?」
「随分強気なんですね」
闘争心でギラギラと燃えた目で、千葉が俺を見る。
「あいつも絶対手ぇ抜かないし、俺も本気で走るわ」
「あいつ?」
リードなしで大地のバトンを受け取った倉知が、走る。アンカーの一個手前の走者は走力のある若い社員で固められていたが、高校までずっとバスケで鍛えてきた運動馬鹿に敵うはずがない。
みるみる差が縮まって、総務部と製造部を抜いていく。運動場がざわついて、今日一番の盛り上がりを見せる。
残るは生産技術部一人のみ。社長を抜くとか抜かないとか、もう関係ない。営業部と生産技術部の一騎打ちだ。
アンカー全員が位置につかされ、バトンを受け取る準備をする。倉知が生産技術部に追いつこうとしている。
「はは、容赦ねえ。さすが」
「あの人、加賀さんの知り合いですか?」
「あー、うん、俺の」
「俺の? なんですか?」
千葉がきょとんとする。
「俺のだよ」
それだけ言って千葉の背中を叩く。
「来たぞ」
倉知と生産技術部の男が、なだれ込んでくる。俺と千葉も、ほぼ同時にスタートした。バトンパスの練習はしていない。でも俺たちは恐ろしいほど息が合う。日本代表か、というくらいスムーズなバトンパスだった。
受け取って、走り出す。真横に、千葉がいる。さすがに勝つと言い切っていただけのことはある。突き放せそうにはない。
ちら、と隣を確認すると、目が合った。真剣そのものだが、焦っているように見えた。
きっと、予想外だったのだろう。あっさり勝てると思っていたに違いない。
そんなに簡単に、負けてやるかよ。
コーナーを曲がり、あとは直線勝負。隣で小さく、「クソッ」と千葉が毒づいたのが聞こえた。それでも失速はせず、真横につけたまま。
目の前に、白いテープ。それを切ったのはどっちだったのか。
走っている間は一切聞こえなかった周囲の歓声が、堰を切ったように耳に届く。息をついて、呼吸を整え、あれ、と気づいた。
隣を走っていた千葉の姿がない。振り向くと、グラウンドに転がっていた。仰向けになって、ぜえぜえ言っている。
「大丈夫?」
頭の上に歩み寄り、屈んで顔を覗き込んだ。
「負けた……」
どうやら俺が勝ったらしい。
「……言い訳、していいですか」
「どうぞ」
「全種目出たんで、体力が……、違う、脚が、脚がつりそうになったんです」
「なるほど」
同じ条件だったらどうなっていたかはわからない。
「でもまあ、若いんだし。ハンデってことで」
「加賀さん」
倉知が俺を呼んで、駆け寄ってくる。
「モテ……、じゃなくて、千葉さん、大丈夫ですか?」
起き上がれないでいる千葉を気遣う倉知が、手を差し伸べた。
「ここにいたら危ないですよ」
社長と部長たちが三位争いをしている。まだリレーは終わっていない。ゴール付近で寝転んでいたら確かに邪魔だ。
千葉はうめきながら、倉知の手を取った。トラックの内側に移動すると、千葉は膝を抱えて丸くなった。
「負けた……、すごい、かっこ悪い……」
落ち込む千葉を見下ろして、倉知と顔を見合わせた。
「いえ、あの、かっこよかったですよ」
「……え?」
泣き顔の千葉が顔を上げた。
「横一線で、すごい速かったし、全力だったし、かっこよかったです」
慰めようとして適当に言っているわけじゃなさそうだ。倉知の穏やかな笑顔に、千葉は戸惑っている。
「かっこ、よかった?」
「はい、大丈夫です。応援もすごかったですよ。今日からモテキングですね」
まんざらでもない顔で「そう?」と髪を掻き上げる千葉を見て、ムラッと嫉妬心が沸いた。
「俺は?」
「え?」
「なんで千葉君を褒めてんだよ、お前は」
「あ、いえ、あの、加賀さんがカッコイイのは言うまでもないし」
照れてはにかむ倉知が、咳払いをしてから言った。
「ほんとに、すごいかっこよかったです」
「惚れ直した?」
「えっ、と」
チラチラと、倉知が視線を落とす。千葉を気にしている。千葉は口を開けて放心状態だ。
「俺は惚れ直したよ」
倉知の顔が赤く染まるのと同時に、運動場に歓声と拍手がこだました。部長がゴールしたらしい。そのあとで、社長も続く。
「加賀さん、もしかしてその人と」
千葉が魂の抜けたような生気のない表情で、倉知を指さした。
「うん、言っただろ。俺のって」
「俺のって、そういう意味? ですか?」
「加賀さん」
倉知が慌てて俺の肩をつかむ。
「俺はこいつ一人からモテればいいから」
「どうして」
千葉が眉間にしわを寄せる。
「どうして俺に、こんなこと打ち明けたんですか。言いふらすとか、思わないんですか?」
「あー、言いふらせば確実にモテキングだもんね」
千葉が下唇を噛んで、俺を睨み上げた。社内にばらされるかも、という心配はあまりしていない。千葉はそういうタイプに思えなかったからだ。俺はお前の敵じゃない、ということが伝わればそれでいい。
「めんどくさい奴だけど性格が悪いわけじゃなさそうだし」
「めんどくさいって」
複雑そうに千葉が肩をすくめる。
「はは、ごめんね。でも嫌いじゃないよ。仲良くやっていきたい」
一瞬だけ照れた表情を見せたが、すぐに真顔になって目を逸らされた。
「安心してください。言いませんよ、誰にも」
「うん、そっか」
「加賀さんの評判を落として俺が浮上したって、勝ったことにならないですから」
なかなか律儀というか、芯が通った奴らしい。
「なんか、わかりました」
「なんかわかった?」
「加賀さんがどうしてモテるのか」
「ふうん?」
リレーの順位を告げるアナウンスが流れ、ひときわ大きな歓声が上がる。拍手をしたり、万歳したり、出し切った感で溢れている。家族席からも労う声が飛んでいる。営業部の女子社員一同がタオルを振り回して歓喜している。
「来年は、勝ちます」
千葉が立ち上がって、手のひらを差し出した。
「来年、俺三十路だから。お手柔らかに」
手を握り合わせると、千葉が声を上げて笑う。
「面白い冗談ですね」
「え、何が冗談?」
「二十五歳でしょ? あれ? 違いました?」
どうして二十五歳だと思ったのか、知りたい。
『これで、すべての競技が終了しました。みなさん、整列してください』
アナウンスが流れると、朝の整列の形に並ぼうと大勢の社員が移動を始めた。体力を使い果たした大人たちのノロノロした動きは、まるでゾンビの群れのように見える。
「倉知君、これ」
「なんかゾンビみたいですね」
同じことを考えていたらしい。おかしくて、声を上げて笑う。千葉は怪訝そうにしながら「俺、あっちなんで」と技術部の列を指さした。
「うん、お疲れ」
千葉の肩を軽く叩く。
「ありがとうございました」
なぜか礼を言って、俺と倉知に頭を下げ、小走りに自分の部の列に合流する。
「加賀さん」
倉知がジャージの裾を控えめにつかんだ。
「倉知君もお疲れ。おかげで一位になれたよ」
「いえ、あの」
「うん」
「ほんとに、すごいかっこ……あ、いいです。帰ったら、言います」
周囲の目を気にしてか、小声でそう言うと、家族席に戻っていった。後藤と前畑がすれ違いざまに倉知とハイタッチを交わし、こっちに来る。
「加賀君、すごかった!」
前畑が小さくジャンプして言った。
「いやいや、すごいのは倉知君じゃない?」
「だよね。大地の尻拭いしてくれたって感じ」
後藤が家族席を振り返って肩をすくめた。
「大地、今年も足手まといになったって凹んでて」
シートの上で猫のように丸くなって拗ねているのが見えた。倉知が背中を撫でて慰めている。
「中学に上がれば戦力になるよ」
俺が言うと、前畑が自分の体を抱きしめて悲鳴を上げた。
「やだっ、それって私たち何歳になってる?」
「考えたくない」
前畑と後藤が身震いをする。歳を重ねるのが恐怖になりつつある。わかる。
毎年同じ行事をこなしていて、そこに若い風が吹き込むと、新鮮ではあるが、思い知る。
「もう歳だな」
帰宅後、バスルームに直行した。二人で汗と砂埃を洗い流し、お湯を張ったバスタブに向かい合って浸かる。
「ちょっと筋肉痛かも」
「若い証拠じゃないですか? 年寄りは数日後にくるって言うじゃないですか」
「優しいフォローが身に染みるわ」
「いえ、フォローっていうか。加賀さんはまだ若いですよ」
「いや、もうダメ。あかん」
あかん、と倉知がおかしそうに反復する。
「千葉君みたいな血気盛んな若者に挑まれても、こう、なんていうか、好きにしてって一歩引いちゃうんだよな」
「俺には引いてるように見えませんでしたよ」
「えー、そう?」
「かっこよかったです」
白い湯気の中で、倉知が笑う。大人びた笑顔に、妙にドキッとした。
「カッコイイのはお前だよ」
お湯の中で、倉知の胸を足の指で撫でた。薄く開いた唇から、かすかに吐息が漏れたのがわかった。つま先を下へと移動させ、足の裏で股間をまさぐる。
「加賀さん」
「ん」
「気持ちいいです」
「うん」
足首をつかまれて、引き寄せられる。お湯の波に揺られながら、抱き合って、キスをする。
もし、と考えた。
もし千葉が、俺の見込み違いに嫌な奴だったら。
悪意を持って言いふらし、男と付き合っていると社内で噂になったら。
どうなっていたか、想像するのはあまり楽しい作業じゃない。
でもあのとき、衝動的に「俺の」と宣言したくなった。どうしても、誰かに言いたくなった。この最高にカッコイイ男は、俺のなんだと自慢したかった。
余裕がない。倉知が大人になればなるほど、俺の余裕は失われていく気がする。
そのうち俺は、倉知を取り巻くすべてのものに嫉妬して、独占しないと気が済まなくなるんじゃないか。
情けない。
でもまあ、いいか。
情けなくてもいい。束縛して、独占してやる。
「お前は俺の、だからな」
抱きしめて、囁いた。
〈おわり〉
「最近、気になることがあるんです」
昼休憩で外に出ているときだった。カツカレーのカツを頬張りながら、高橋が深刻な表情で切り出した。
「主任、ストーカーされてませんか?」
「え? 何、されてないよ」
「でもなんか、よく見るんですよ、あの顔」
「あの顔?」
「えっと、一番奥の席の人です。あの人、うちの企画課の新人らしいんですけど」
さり気なくそっちを見ると、スマホに目を落とした男が座っていた。チャラついた雰囲気のする若い男だ。
「前畑さんも言ってました。この前、営業のフロア覗きにきてたって。主任と一緒にいるときやたら出くわすし、こっち気にしてるみたいだし、もしかしたら……」
「なんだよ」
「前畑さんいわく、狙われてるんじゃないかって」
「命を」
「違いますよぅ。えっと、身体をです」
「さらっと怖いことを言うな。命狙われたほうがマシだわ」
「前畑さんが言ってたんですよ。あの人はガチでゲイだって」
高橋の隣に座っていた作業着の男が、ぶほっと吹いた。
「だから気をつけてください」
「気をつけるったって」
「たとえばトイレとかで、一人のときに襲われないように気をつけてください。前畑さんが、個室に連れ込まれて手籠めにされたらどうしようって」
想像力がたくましすぎる。苦笑が漏れた。
「前畑のそういうのって全部妄想だし、気にするだけ無駄っていうか」
あいつにかかれば男全員ホモになる。
「確かにそうかもしれませんけど、今回は正しい気がします。だってほら、またこっち見てる」
言われて奥の席を見ると、男と目が合った。見つめ合ったまま、数秒が過ぎた。全然逸らさない。挑むようにぎらついた目は、とても前畑の言う種類の人間のものとは思えなかった。
好意を持った視線じゃないのは確かだ。身体を狙っているより、命を狙っていると言われたほうがしっくりくる。
「なんか嫌われてるみたい」
先に目を逸らしてカレーを口に放り込んだ。
「えー、そうですか?」
「嫌われるようなことしたっけ」
面識もないのに一方的に嫌われるのは少し切ない。企画の人間なら今後、営業として関わらなければならない場面も出てくる。仕事がやりづらくなるのは勘弁してほしい。
とは思ったものの、直接仕事で関わる機会もなく、それほど気にせず時が流れ、忘れた頃に男が接触してきた。
まさに、高橋が言ったシチュエーションそのままだった。
偶然じゃない。一人になるのを見計らったのだと思う。トイレで手を洗っていると、誰かがドアを開けて入ってきた。その人物は、俺の真後ろに黙って立った。目を上げて鏡越しに確認すると、例の男だったのだ。用を足すのが目的じゃなく、俺に用がある。
「あー、えっと」
「企画課の千葉と言います」
「千葉君」
「俺、今度の運動会で活躍する予定です」
「……え? はあ、そうなんだ? 頑張ってね」
一体何を言い出すのか。俺になんの関係が、と首をかしげると、千葉が不敵な笑みをたたえて胸を張る。
「あなたには負けません」
運動会に個人競技はない。負けません、と言われても違和感がある。
「営業部には負けませんってこと?」
「あなたにです」
なんだか要領を得ないというか絡みづらい。千葉がずい、と距離を詰めてくる。後ろがなく、逃げ場を失って、のけぞった。
「俺のほうが」
両肩に手がのった。よくわからないが、怒っているように見えた。
「俺のほうがカッコイイ! モテキングは俺だ!」
歯ぎしりをして言い捨てると、乱暴にドアを開けて出て行った。
「てことがあって」
その日の帰宅後、笑い話として倉知に話したのだが、ピクリとも笑わずに、眉をひそめた。
「怖いですね」
「怖い? かなあ。おかしくない? モテキングだよ?」
奴の中で何か世界が出来上がっていて、キングに君臨しているのだろうが、意味不明を通り越して面白いと思った。あのあと一人で笑っていたのだが、倉知は心配そうだ。
「それって」
倉知が食後のお茶を俺の前に置いて、席に着く。
「多分、加賀さんが社内ですごくモテるから、運動会で目立って地位を奪いたいってことじゃないんですか?」
「地位なあ……。別に、勝手にしてっていうかむしろホント、頑張ってほしい。モテたくないもん、俺」
「でも加賀さん、負けず嫌いだし、手ぇ抜かないですよね」
「ていうか運動会で目立ったからってモテる? 学生じゃなくて大人だよ」
「加賀さんだからモテるんだと思います」
「はあー、モテたくない」
「一般的にモテたい人のほうが多い気がしますけど」
「倉知君も? 女の子にモテたい?」
「俺は加賀さん以外の人からの好意はいりません」
きっぱりと言い切ってマグカップを傾ける倉知を、ニヤニヤしながら見つめた。
「なんですか、その顔」
居心地が悪そうにマグカップで顔を隠す。
「いや、相思相愛だなと思って。俺もお前以外にモテたくない」
マグカップの向こう側から片方の目だけ覗かせて、こっちを見ている。テーブルの下で、倉知の脚をつま先でつついてちょっかいを出す。
「イチャイチャしたくなった。する?」
「う、します」
素直で可愛い。
二人でソファに移動して、抱き合って、キスをする。
「加賀さん」
「うん」
「運動会、見に行っていいですか?」
「えー……」
去年も見たがっていたのだが、バスケ部の試合と重なって結局来なかった。
正直、見に来てほしいとは思わなかったから、ホッとしたのが事実だ。倉知は身内のようなもので、身内が会社の行事に来るとなるとどんな顔をしていいかわからない。
「俺が行ったら、やっぱり迷惑ですか?」
「いや、そういうんじゃないよ」
しゅん、と落ち込んだ倉知が俺の手を握って沈黙する。
「面白くないよ? いい歳した大人が大玉ころがしとか綱引きとかやってるだけだよ」
「それ面白いですよね」
大の大人がやることじゃないからこそ面白いというのは確かにある。若者と違って、体が思うように動かない中年連中が多い。こける回数を数えているだけでも面白いといえば面白い。
「あー、やっぱ駄目だ。倉知君が来たら、困る」
「会社の人にどういう関係か訊かれたら、答えられないから?」
寂しげに微笑んでつぶやくと、俺の肩に顔をうずめて大きくため息をついた。家族席に来ている人間の素性を、いちいち根掘り葉掘り訊くような奴はほとんどいない。そういう心配はしていない。
「違う、張り切るから困るんだよ」
頭を撫でてすぐに否定した。
「張り切る?」
不思議そうに聞き返す。
「いいとこ見せようとして張り切るから。俺がね」
倉知が顔を覗き込んでくる。
「張り切りすぎて怪我したらどうすんの」
「張り切る加賀さん、見たいです」
懇願する目で「お願いします」と頭を下げた。
「うん」
顔を上げて、倉知が上目遣いで俺を確認する。
「いいんですか?」
「ただし、条件がある」
「えっ、はい」
緊張した様子で、背筋を伸ばして俺に向き直る。
「お弁当作ってね」
「え」
弁当は基本、会社側が事前に業者に発注しているが、個人で用意して家族と一緒に食べるパターンもある。後藤の家族はいつも手作り弁当を広げていて、なんとなく微笑ましくていいなとは思っていた。
「作ります。すごい作ります」
倉知が嬉しそうに破顔する。
「おう、すごい作って」
毎年、面白くも楽しくもない運動会が、今年は待ち遠しい。
〈倉知編〉
企業の運動会を見るのは初めてだった。
学校行事と違って、張り詰めた感じが一切ない。みんな気楽そうに笑っている。
少しくらい列が乱れようと、私語をしていようと、注意する教師がいるわけじゃない。
自由だった。
俺は社員の身内や知人が観覧する家族席に座っていた。奥さんと子ども、旦那さんと子ども、という感じで家族連れが多い。俺は若干浮いた存在だが、誰も気にしてはいない。誰かの息子くらいに思われているかもしれない。
とにかくお互いに、あなたはどこの誰とどんな関係ですか、なんていちいち訊かない。この会社の社員の関係者というひとくくりで、妙な仲間意識もある。お菓子を配って和気あいあいとした雰囲気だった。
名も知れぬ少年からもらったポッキーを片手に、運動場に目をやった。
加賀さんを見つけるのは簡単だった。なぜなら、人一倍輝きを放っているから。俺の目にはそう見える。まぶしい。ピカピカ、キラキラ、光り輝いている。
普段家にいるときの加賀さんとはなんとなく表情が違って、見ているのが楽しい。周囲の人と話している様子や、頼られている感じを見ているだけで、胸がときめいた。適当にやり過ごすタイプに見えて、手を抜かない負けず嫌いなところも堪らない。
借り物競争で男女問わず何度も引きずられていく姿も、されるがままという感じで可愛い。
周りに誰もいなかったら、俺はのたうち回っていたと思う。
こんなときにしか見られない、特別な加賀さんだ。
今日は本当に、来てよかった。身震いが起きそうなほど、加賀さんが可愛くてカッコイイ。これが俗にいう、キュンキュンする、というやつだろうか。いよいよ心臓が持たない、というときにちょうど昼休憩になった。
「おーい、こっちこっち」
隣にいた髭を生やした男性が手を上げて大声で誰かを呼ぶ。それに応えて小走りで駆けてきたのはめぐみさんだった。俺に目を向けにこやかに手を振る。
「七世君、おはよう」
「おはようございます、って、あの、こちらの方はもしや」
「うちの旦那。それと息子の大地」
ポッキーをくれた少年の頭を、めぐみさんがガシガシと撫でまわす。
「この子、知り合いの七世君」
「そうだったの? ご挨拶が遅れてごめんよ。旦那です」
めぐみさんが俺を紹介すると、旦那さんが手を差し出してきた。髭も立派だが、半袖のポロシャツから伸びた腕も毛むくじゃらだった。
「こちらこそ、改めてよろしくお願いします」
握手を交わしたあとで、頭を下げ合った。
「並んで座ってるの見えたからちょっと笑っちゃった」
「この兄ちゃん、母ちゃんの友達?」
大地君がめぐみさんに訊く。
「そうだよ。加賀君の友達の七世君」
「加賀君ここ来る?」
「来る来る」
少年がやったー、と両手を上げて喜んだ。小学生に「加賀君」と呼ばれて慕われている様子なのがまたツボにはまる。心臓を抑えてキュンキュンを回避しようと必死になる俺の首に、突然、冷たいものが触れた。
声を上げて飛び跳ねて、振り返る。加賀さんがペットボトルをぶら下げて笑っていた。
「加賀さん、お疲れ様です」
「おう」
「加賀君だ!」
大地君が立ち上がって加賀さんに飛びついた。
「おー、大地、でかくなったな」
「一年ぶりだもんね」
息子を可愛がる加賀さんを、めぐみさんは嬉しそうに目を細めて見ている。
加賀さんの後ろには前畑さんと高橋さんもいて、それぞれお弁当を抱えていたが、手作りではなさそうだ。
「やーもー、疲れたー、お腹空いたー」
ジャージ姿の前畑さんが靴を脱ぎ散らかしてブルーシートに倒れ込んだ。高橋さんが甲斐甲斐しく前畑さんの靴を揃えて、俺を見ると「七世君、こんにちは」と頭を下げた。
「あれ、もしかして七世君、お弁当作ってきたの?」
重箱の包みを解いていると、めぐみさんが驚いたように声を上げた。眉を下げて胸に手を当て、感動したふうだ。
「はい、母にいろいろ教わりながらですけど」
お弁当というものを作ったことがなかったから、ここはプロのアドバイスをもらおうと数日前から密かに特訓していた。冷めても美味しい唐揚げの作り方や具材の詰め方、いろどりのバランスなど、母は喜々として教えてくれた。
「やだ、偉い! 可愛い!」
「僕も前畑さんが作ったお弁当がよかったです」
「なんで私があんたに作らなきゃいけないのよ。あんたが作ってきなさいよ」
「えー、じゃあ来年はお母さんに作ってもらいます」
「マザコン! キモイ!」
「お前ら邪魔なんだけど。ちょっと詰めて」
掛け合いをしている二人を押しのけて、加賀さんが俺の隣に腰かけた。
「さて、では御開帳」
重箱の蓋が、開かれる。その場にいた全員が、覗き込む。うおー、と感嘆の声が渦巻いた。
「二段目いきます」
加賀さんが宣言する。二段目の中身が姿を現すと、もう一段階大きい歓声が上がった。
「何これ、めっちゃ美味しそう!」
前畑さんが高橋さんの首を絞めながら言った。
「やばい、完全に負けたわ」
後藤さんが頭を抱える。
「すげえ早起きして頑張ってたもんな。サンキュ」
加賀さんが俺を労って頭を撫でてくれた。報われた瞬間だ。
「母ちゃんのより美味そう」
大地君が指を咥えてそう言うと、めぐみさんがガクッと肩を落とす。
「おにぎりとサンドイッチもあるんで、よかったら皆さんもどうぞ」
やったーと喜んだのは大地君だけじゃなかった。前畑さんと高橋さんが嬉しそうに手を叩いている。
「よし、じゃあ食うか」
加賀さんが手を合わせる。全員がそれに倣って、「いただきます」と声を合わせた。
「超美味そう!」
母親のお弁当そっちのけで、こっちの重箱に手を出そうとする息子を、めぐみさんが慌てて止めた。
「こら、図々しい! あんたが真っ先に食べてどうすんの。ごめんね、加賀君」
「いいよ。大地、どれ食いたい?」
「卵焼き! それと唐揚げ!」
加賀さんが取り分けた皿を渡すと、大地君が颯爽と口に運ぶ。めぐみさんがまたしてもそれを止めた。
「なんだよ母ちゃん」
「いいから待ちなさい。加賀君、お願い、先に一口だけでも食べて」
多分、気を遣っている。最初に手をつけるのが加賀さんであるべきだと思っているのだろう。
「じゃあいただきます」
加賀さんが卵焼きを口に入れた。みんなが動きを止めて加賀さんの感想を待っている。
「うん、美味い」
「俺も食べていい?」
大地君が卵焼きを箸で刺して、体を揺すりながら訊いた。よし、とめぐみさんが許可を出すと、丸ごと口に放り込んで、「んー!」と目を見開いた。
「うんめえ、七世君、グッジョブ!」
親指を立ててから、俺に手のひらを向けた。叩き合わせると、もう一度親指を立てて片目をつむる。元気で人懐っこくて楽しい子だな、とすぐに好きになった。
大地君も旦那さんも、大きいお友達が弁当を作って運動会に応援に来るという状況をすんなり受け入れている。友達という説明で納得したのか追及されることはなかった。
めぐみさん本人も言っていたが、口が堅いのだろう。さすが、加賀さんが信用している人だ。同僚のプライベートを許可なく話したりはしないのだ。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
家族席は賑やかで、あちこちで楽しそうな声が聞こえていたが、中に異質な団体がいた。その中の一人がこっちを見ている。
若い女性が数人集まって、一人の男性を取り囲んでいた。一人だけジャージだから、彼が社員なのだとわかった。
小さな子どもも大勢いるのに、女性の肩を抱き寄せたり、食べさせてもらったり、見ていて少し気持ちが悪い。
その男性がこっちを見ている。意味ありげな目は、加賀さんを捉えている。何度も何度もこっちを見る。女の人に囲まれながら、加賀さんを気にするなんてよくわからない。
「あ」
思わず漏れた声に、加賀さんが反応した。
「何?」
「いえ、あの、この前言ってたモテキングの人って」
多分、いや、絶対にあの人だ。加賀さんが俺の視線を追って、「ああ、うん」と肯定した。
「モテキングって何」
めぐみさんが耳ざとく食いついた。
「ムシキング!」
大地君も食いついた。
「モテキングな。なんだっけ、千葉君だ」
「千葉って、企画課の? ガチゲイの?」
前畑さんが首を伸ばして俺たちの視線の先を見た。
「ゲイなのに女の子に囲まれてる。どういうこと?」
「それは前畑の妄想。あいつゲイじゃないよ」
「やっぱり主任のこと意識してません? 必死でモテアピールしてますけど、痛々しいなぁ」
「あー、忘れてたけどそういやなんか運動会で活躍するって言ってたな」
「女はべらせてモテてるつもり? 下品だし場違い。キャバクラじゃないんだから。大地、あっち見ちゃダメ」
散々な言われようだ。距離があるから聞こえてはいないだろうが、気の毒になってきた。
そわそわと気にしていると、モテキングの人が腰を上げた。女の人を一人連れて、手を繋ぎながらこっちに来た。
「こんにちは」
会話の中心にいた人物の突然の出現に、一瞬場が静まり返った。
「加賀さん、俺の活躍、見てもらえましたか」
「え? あー、うん、見た見た。なんかすごかったね?」
いい加減な返事なのに、千葉さんは満足そうだ。
「俺全種目出てるでしょ。おかげで技術部、今のところ一位ですよ」
ふふん、と鼻を鳴らして自慢げに語るのを、前畑さんとめぐみさんが揃って半笑いで見ている。
「リレー、営業部は加賀さんがアンカーだって聞きました」
「はあ、そうらしいね」
「俺、アンカーにしてもらったんですよ。直接対決ですね」
対抗心を剥き出しにする千葉さんに、加賀さんは困った顔で顎を掻く。
「勝つのは俺です。俺が、モテキングですから」
それじゃあ、と言い置いて背を向ける。
「何あれ」
めぐみさんが腕をさすりながら顔を歪めた。
「黙ってたらイケメンなのに。もったいない」
「あの兄ちゃん、ムシキングなの?」
「ムシキングから離れなさい」
「なんかわかんないけどムカつく! あんな奴に絶対負けないでよ!」
前畑さんが言うと、高橋さんも同調する。
「主任が負けるはずないですよ」
「いや、リレーだから。最後ぶち抜かれるかもしれないし」
加賀さんが苦笑してサンドイッチにかぶりつき、俺を見る。
「倉知君が助っ人にいたら負ける気しないけど」
「あ、それいい。七世君、営業部のために走って!」
前畑さんが目を輝かせて言った。
「助っ人って?」
「営業部、毎年人数足りなくて一人で何回も走らされたりするんだよ」
「それ結構なハンデじゃないですか」
「去年、旦那と大地も助っ人で走ったんだよ。逆に抜かれたりして戦力になってなかったけど。ね」
めぐみさんが旦那さんに同意を求める。旦那さんは寡黙な人なのか、ずっと黙々と食べ続けていた。話を振られると、照れ笑いをして体を小さくした。
「僕は足が遅いから、今年は遠慮しとこうかなあ」
「俺、リベンジする!」
大地君が頼もしく胸を張る。
親子で楽しめるように、飛び入り参加が認められている競技がいくつかあるらしい。午前中のプログラムの中にもそういうものがあって、大地君と旦那さんは何度か参加していた。
加賀さんは俺に、出たかったら出てもいいよ、と簡単に言ったが、当然、おとなしくしていた。目立たないようにというのもあったが、自分が参加するより加賀さんを見ていたかったからだ。
「七世君も俺と一緒に走ろうよ」
大地君に誘われて、「うーん」と言葉を濁し、加賀さんを見る。
「いいんですか?」
「いいんじゃない?」
ということで、助っ人でリレーに参加することになった。
本当は、加賀さんが走る姿をじっくり見ていたかった。でも、こんな機会は滅多にない。来年、また来られるかもわからない。
全力で、助っ人を務めよう、と気合を入れた。
〈加賀編〉
運動会の締めの競技は毎回、全員参加のリレーだ。入社時からアンカーを押しつけられているが、そろそろ若手に譲りたいのに営業部に有望な若手社員が入ってこない。
だから、千葉のように自己主張の激しい積極的な奴が他部署にいるのは羨ましかった。ここまで自分が大好きで、目立ちたがり屋な人間も珍しいと思う。
「千葉君は芸能人になればよかったのに。絶対向いてるよね」
女性の部のリレーが終わり、グラウンドでは男性社員が走っている。全社員だからとにかく人数が多い。順番を待っている間、千葉は俺の隣にぴったりとくっついて離れなかった。無言でいるのも気づまりだったから、こっちから話しかけてみたのだが、俺の科白に千葉は驚いた様子を見せた。
「それは、暗に俺が男前だって言ってますか?」
「え? いや、そういうことじゃなくて」
「やっぱり自分が勝ってるって思ってますね?」
「突っかかるなあ」
めんどくさい。はあ、とため息が出た。
「確かに加賀さんは美形だと思います。それは認めます」
別に認めてもらえなくてもいいんだけど、と心の中でつぶやいた。
「でも全体的に、俺のほうがイケてます」
「うん、そうだね」
「俺のほうが背も高いし」
「うん」
「俺のほうが筋肉質だし」
「うん」
「俺のほうが若いし」
「うん」
「俺のほうがモテないと、おかしいんです」
「うん、そう思う」
わっ、と場内が盛り上がる。転んだ社員につまずいて、二人、三人と転がった。これは恒例の光景だ。必ずと言っていいほど、毎年転倒者が続出する。
「言い返さないんですか?」
「うん、だってその通りだし」
「今日の活躍で、女子社員の目も覚めたと思うんです。仕上げにリレーで俺が加賀さんに勝てば、確実に立場は逆転します」
千葉はグラウンドではなく俺を見ている。
「あなたのモテ人生もここまでです」
「モテ人生、ねえ」
「俺が、モテキングです」
俺にはわからない。千葉がどうしてここまで必死でモテたがるのか。
「千葉君って、好きな子いる?」
「え」
意表を突かれた顔で、俺を見る。
一人から好かれればそれでいいと思える経験が、多分ない。見境なく誰からも好かれたいなんて、惚れた女がいれば考えない気がした。
「俺は可愛い子ならみんな好きです」
「あ、これ駄目だ」
頭を抱える俺の後ろで、野太い笑い声が上がる。振り向くと、あぐらをかいて扇子を扇ぐ社長がこっちを見ていた。千葉が飛び上がって直立する。
「あっ、しゃ、社長! え、社長も走られるんですか?」
「走られますよ。毎年加賀君に抜かれちゃうんだけど」
「えっ」
千葉は俺を、信じられないと言う目で見た。正確には「毎年」ではない。何周も差が開いて、追い抜けないときもあったし、社長にバトンが渡る前にゴールするパターンもあった。
「加賀君が入社するまでは、みんな遠慮して私を抜かなかったんですよ」
それはそうだ、と千葉がうんうんうなずいている。
「でも加賀君は、全力で私を追い抜いていった。気持ちがよかったなあ。あんなに嬉しかったことはありません」
「う、嬉しい? 追い抜かれたのに?」
「加賀君がどうしてモテるのか、それがわからないようじゃあモテキングにはなれませんよ」
顎の肉を揺らしながら、社長が笑う。千葉はたじろいで、絶望的な顔をした。自分に社長を抜けるだろうか、と自問しているようだった。
「加賀さんって」
社長が製造部長と話しているのを横目で見つつ、千葉が俺に顔を近づけて言った。
「空気読めない人なんですか? 普通、社長に花持たせますよね」
「そうかもね」
新入社員でアンカーを任され、周りからは社長を抜け、と散々言われていたからその通りにした。社長が、自分が一位じゃないと気が済まない独裁者のような性格なら、俺も空気を読んで遠慮した。社長の人柄を考慮した上で、勝たせてもらった。結果的に本人も周りも喜んでいたので、よかったと思う。
「出世できませんよ」
「お、優しいね。心配してくれるんだ」
「してませんけど」
拗ねたように口をとがらせる千葉の横顔を見た。悪い奴には思えない。できるなら仲良くやっていきたい。
俺がわざと負けて、千葉を勝たせてやれば丸く収まる気がする。
でも、たとえお遊び的な運動会だとしても、手は抜きたくないし、わざと負けるという選択肢は俺の辞書にはない。
いや、そもそも「わざと負ける」なんて小細工をするまでもなく、正々堂々と負けるかもしれない。脚に自信があるからこそ、挑んできているのだ。
「アンカーのみなさん、そろそろ準備お願いします」
係りに促され、グラウンドに目をやった。大地が走っている。小学生の全力疾走に、観客が沸いている。場内アナウンスが「少年頑張れ!」と励ますものの、一人、二人と抜かれていく。取り残されていく大地に、頑張れ頑張れと同情の応援が集まっている。
「営業部、最下位じゃないですか」
千葉が隣で言った。今年は周差がなく、なかなかの接戦だ。
「まあ、逆転不可能ではないよね」
「え、この差で勝てるとでも?」
「勝つんじゃない?」
「随分強気なんですね」
闘争心でギラギラと燃えた目で、千葉が俺を見る。
「あいつも絶対手ぇ抜かないし、俺も本気で走るわ」
「あいつ?」
リードなしで大地のバトンを受け取った倉知が、走る。アンカーの一個手前の走者は走力のある若い社員で固められていたが、高校までずっとバスケで鍛えてきた運動馬鹿に敵うはずがない。
みるみる差が縮まって、総務部と製造部を抜いていく。運動場がざわついて、今日一番の盛り上がりを見せる。
残るは生産技術部一人のみ。社長を抜くとか抜かないとか、もう関係ない。営業部と生産技術部の一騎打ちだ。
アンカー全員が位置につかされ、バトンを受け取る準備をする。倉知が生産技術部に追いつこうとしている。
「はは、容赦ねえ。さすが」
「あの人、加賀さんの知り合いですか?」
「あー、うん、俺の」
「俺の? なんですか?」
千葉がきょとんとする。
「俺のだよ」
それだけ言って千葉の背中を叩く。
「来たぞ」
倉知と生産技術部の男が、なだれ込んでくる。俺と千葉も、ほぼ同時にスタートした。バトンパスの練習はしていない。でも俺たちは恐ろしいほど息が合う。日本代表か、というくらいスムーズなバトンパスだった。
受け取って、走り出す。真横に、千葉がいる。さすがに勝つと言い切っていただけのことはある。突き放せそうにはない。
ちら、と隣を確認すると、目が合った。真剣そのものだが、焦っているように見えた。
きっと、予想外だったのだろう。あっさり勝てると思っていたに違いない。
そんなに簡単に、負けてやるかよ。
コーナーを曲がり、あとは直線勝負。隣で小さく、「クソッ」と千葉が毒づいたのが聞こえた。それでも失速はせず、真横につけたまま。
目の前に、白いテープ。それを切ったのはどっちだったのか。
走っている間は一切聞こえなかった周囲の歓声が、堰を切ったように耳に届く。息をついて、呼吸を整え、あれ、と気づいた。
隣を走っていた千葉の姿がない。振り向くと、グラウンドに転がっていた。仰向けになって、ぜえぜえ言っている。
「大丈夫?」
頭の上に歩み寄り、屈んで顔を覗き込んだ。
「負けた……」
どうやら俺が勝ったらしい。
「……言い訳、していいですか」
「どうぞ」
「全種目出たんで、体力が……、違う、脚が、脚がつりそうになったんです」
「なるほど」
同じ条件だったらどうなっていたかはわからない。
「でもまあ、若いんだし。ハンデってことで」
「加賀さん」
倉知が俺を呼んで、駆け寄ってくる。
「モテ……、じゃなくて、千葉さん、大丈夫ですか?」
起き上がれないでいる千葉を気遣う倉知が、手を差し伸べた。
「ここにいたら危ないですよ」
社長と部長たちが三位争いをしている。まだリレーは終わっていない。ゴール付近で寝転んでいたら確かに邪魔だ。
千葉はうめきながら、倉知の手を取った。トラックの内側に移動すると、千葉は膝を抱えて丸くなった。
「負けた……、すごい、かっこ悪い……」
落ち込む千葉を見下ろして、倉知と顔を見合わせた。
「いえ、あの、かっこよかったですよ」
「……え?」
泣き顔の千葉が顔を上げた。
「横一線で、すごい速かったし、全力だったし、かっこよかったです」
慰めようとして適当に言っているわけじゃなさそうだ。倉知の穏やかな笑顔に、千葉は戸惑っている。
「かっこ、よかった?」
「はい、大丈夫です。応援もすごかったですよ。今日からモテキングですね」
まんざらでもない顔で「そう?」と髪を掻き上げる千葉を見て、ムラッと嫉妬心が沸いた。
「俺は?」
「え?」
「なんで千葉君を褒めてんだよ、お前は」
「あ、いえ、あの、加賀さんがカッコイイのは言うまでもないし」
照れてはにかむ倉知が、咳払いをしてから言った。
「ほんとに、すごいかっこよかったです」
「惚れ直した?」
「えっ、と」
チラチラと、倉知が視線を落とす。千葉を気にしている。千葉は口を開けて放心状態だ。
「俺は惚れ直したよ」
倉知の顔が赤く染まるのと同時に、運動場に歓声と拍手がこだました。部長がゴールしたらしい。そのあとで、社長も続く。
「加賀さん、もしかしてその人と」
千葉が魂の抜けたような生気のない表情で、倉知を指さした。
「うん、言っただろ。俺のって」
「俺のって、そういう意味? ですか?」
「加賀さん」
倉知が慌てて俺の肩をつかむ。
「俺はこいつ一人からモテればいいから」
「どうして」
千葉が眉間にしわを寄せる。
「どうして俺に、こんなこと打ち明けたんですか。言いふらすとか、思わないんですか?」
「あー、言いふらせば確実にモテキングだもんね」
千葉が下唇を噛んで、俺を睨み上げた。社内にばらされるかも、という心配はあまりしていない。千葉はそういうタイプに思えなかったからだ。俺はお前の敵じゃない、ということが伝わればそれでいい。
「めんどくさい奴だけど性格が悪いわけじゃなさそうだし」
「めんどくさいって」
複雑そうに千葉が肩をすくめる。
「はは、ごめんね。でも嫌いじゃないよ。仲良くやっていきたい」
一瞬だけ照れた表情を見せたが、すぐに真顔になって目を逸らされた。
「安心してください。言いませんよ、誰にも」
「うん、そっか」
「加賀さんの評判を落として俺が浮上したって、勝ったことにならないですから」
なかなか律儀というか、芯が通った奴らしい。
「なんか、わかりました」
「なんかわかった?」
「加賀さんがどうしてモテるのか」
「ふうん?」
リレーの順位を告げるアナウンスが流れ、ひときわ大きな歓声が上がる。拍手をしたり、万歳したり、出し切った感で溢れている。家族席からも労う声が飛んでいる。営業部の女子社員一同がタオルを振り回して歓喜している。
「来年は、勝ちます」
千葉が立ち上がって、手のひらを差し出した。
「来年、俺三十路だから。お手柔らかに」
手を握り合わせると、千葉が声を上げて笑う。
「面白い冗談ですね」
「え、何が冗談?」
「二十五歳でしょ? あれ? 違いました?」
どうして二十五歳だと思ったのか、知りたい。
『これで、すべての競技が終了しました。みなさん、整列してください』
アナウンスが流れると、朝の整列の形に並ぼうと大勢の社員が移動を始めた。体力を使い果たした大人たちのノロノロした動きは、まるでゾンビの群れのように見える。
「倉知君、これ」
「なんかゾンビみたいですね」
同じことを考えていたらしい。おかしくて、声を上げて笑う。千葉は怪訝そうにしながら「俺、あっちなんで」と技術部の列を指さした。
「うん、お疲れ」
千葉の肩を軽く叩く。
「ありがとうございました」
なぜか礼を言って、俺と倉知に頭を下げ、小走りに自分の部の列に合流する。
「加賀さん」
倉知がジャージの裾を控えめにつかんだ。
「倉知君もお疲れ。おかげで一位になれたよ」
「いえ、あの」
「うん」
「ほんとに、すごいかっこ……あ、いいです。帰ったら、言います」
周囲の目を気にしてか、小声でそう言うと、家族席に戻っていった。後藤と前畑がすれ違いざまに倉知とハイタッチを交わし、こっちに来る。
「加賀君、すごかった!」
前畑が小さくジャンプして言った。
「いやいや、すごいのは倉知君じゃない?」
「だよね。大地の尻拭いしてくれたって感じ」
後藤が家族席を振り返って肩をすくめた。
「大地、今年も足手まといになったって凹んでて」
シートの上で猫のように丸くなって拗ねているのが見えた。倉知が背中を撫でて慰めている。
「中学に上がれば戦力になるよ」
俺が言うと、前畑が自分の体を抱きしめて悲鳴を上げた。
「やだっ、それって私たち何歳になってる?」
「考えたくない」
前畑と後藤が身震いをする。歳を重ねるのが恐怖になりつつある。わかる。
毎年同じ行事をこなしていて、そこに若い風が吹き込むと、新鮮ではあるが、思い知る。
「もう歳だな」
帰宅後、バスルームに直行した。二人で汗と砂埃を洗い流し、お湯を張ったバスタブに向かい合って浸かる。
「ちょっと筋肉痛かも」
「若い証拠じゃないですか? 年寄りは数日後にくるって言うじゃないですか」
「優しいフォローが身に染みるわ」
「いえ、フォローっていうか。加賀さんはまだ若いですよ」
「いや、もうダメ。あかん」
あかん、と倉知がおかしそうに反復する。
「千葉君みたいな血気盛んな若者に挑まれても、こう、なんていうか、好きにしてって一歩引いちゃうんだよな」
「俺には引いてるように見えませんでしたよ」
「えー、そう?」
「かっこよかったです」
白い湯気の中で、倉知が笑う。大人びた笑顔に、妙にドキッとした。
「カッコイイのはお前だよ」
お湯の中で、倉知の胸を足の指で撫でた。薄く開いた唇から、かすかに吐息が漏れたのがわかった。つま先を下へと移動させ、足の裏で股間をまさぐる。
「加賀さん」
「ん」
「気持ちいいです」
「うん」
足首をつかまれて、引き寄せられる。お湯の波に揺られながら、抱き合って、キスをする。
もし、と考えた。
もし千葉が、俺の見込み違いに嫌な奴だったら。
悪意を持って言いふらし、男と付き合っていると社内で噂になったら。
どうなっていたか、想像するのはあまり楽しい作業じゃない。
でもあのとき、衝動的に「俺の」と宣言したくなった。どうしても、誰かに言いたくなった。この最高にカッコイイ男は、俺のなんだと自慢したかった。
余裕がない。倉知が大人になればなるほど、俺の余裕は失われていく気がする。
そのうち俺は、倉知を取り巻くすべてのものに嫉妬して、独占しないと気が済まなくなるんじゃないか。
情けない。
でもまあ、いいか。
情けなくてもいい。束縛して、独占してやる。
「お前は俺の、だからな」
抱きしめて、囁いた。
〈おわり〉
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