電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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※後半リバです。


〈加賀編〉

 父は忙しい人だった。
 自宅にいてもぼんやりテレビを眺めることはしないし、座っているのは食事中くらいだった。暇を持て余すことがないのだ。
 昔から、一分一秒を大切にする人だった。その貴重な時間を捻出して、幼い頃からいろんな場所に連れて行ってくれた。海外にも何度も行った。
 とはいえ、人生でこれほど長い旅行を経験したことはない。なんせ、八泊もする。メインは長野だ。去年の夏、行けなかったリベンジを果たすことになる。
 軽井沢で三泊、そのあと松本市方面に移動して一泊、次は上高地で一泊、白骨温泉で一泊し、石川県に移動して、金沢で一泊、最終日は加賀温泉郷で締めくくる。
 倉知は旅行が決まってから上機嫌で、父から情報を得たり、ガイドブックを買い漁ったりして余念がない。宿泊先をすべて抑えると、ここに行こう、あれを見よう、と旅行プランは膨れ上がるばかりだった。
 出発当日になっても移動の新幹線の中でガイドブックを眺めている。
「お前それ、全部は無理だからな?」
「はい、わかってます」
 ガイドブックには付箋がわさわさと貼られまくり、もはや本来の役割を果たしていない。ガイドブックを座席の背面のネットに押し込んでから、倉知が嬉しそうな笑顔を俺に向けた。
「ずっと加賀さんと一緒なんですね」
「うん、飽きたらごめんね」
「飽きるわけない」
 肘掛けに置いた俺の手に、そっと手を重ね合わせて、少し泣きそうな顔をした。
「幸せです」
「あー、倉知君、ちょっと近い。あともうちょい小さい声でな」
 眼前に迫る倉知の顔を手のひらで軽く押しのけた。感極まって暴走しないか不安で仕方がない。周囲の座席はすべて埋まっているし、小声で喋っているとはいえ、誰かが聞いていないとも限らない。
「あ、写真、写真撮らなきゃ」
 倉知がスマホを取り出して俺に向けてくる。
「題して、新幹線の車窓と加賀さん」
「どんな顔すりゃいいんだよ」
「あ、その困った顔、いいです、可愛い」
 運動会で我が子を撮る親のごとく、シャッター音が止まらない。
「ちょっと落ち着け、な?」
「俺、なんかテンションおかしいですよね」
 自覚があるらしい。
「楽しくて仕方ないです」
 撮った写真を確認しながら、ニヤニヤしている倉知の横顔を見る。これだけ喜んでもらえるなら、多少無理をして休みを取った甲斐があるというものだ。
 盆休みと絡めた有給休暇は、大型連休を作るうえで競争率の激しい二日間だった。ここを休むと前と後ろの土日を含めて、誰もが羨む九連休になる。営業部内でも狙っている社員は多かったのだが、協力者のおかげで無事に休むことができた。後藤、前畑、高橋の三人は、その見返りに土産話を要求した。人に語れる旅行になるのかは自信がない。
 初っ端が、軽井沢で三泊だ。コテージタイプで他の宿泊客を気にする必要もない、閉ざされた、二人だけの空間。中は天井が高い造りで、床は大理石だ。真っ白な壁に外から差し込んだ太陽光が反射して、眩しいほど明るい。窓の外は緑一色の森が見える。静かだ。リゾート地、という雰囲気が現実を忘れさせてくれる。
「なんかいいな。日本じゃないみたい」
「いいですね。オシャレです」
 荷物を置き、中を見て歩いただけで倉知のスイッチは簡単にオンになる。
「加賀さん」
 真っ白なシーツのダブルベッドを目にした途端、倉知が後ろから抱き着いてきた。ですよね、としか言いようがない。
「ちょいちょい、待て待て、一旦離して」
「なんでですか。二人きりですよ? もう、思う存分、なんでもできる」
 首の後ろに小刻みなキスを繰り返しながら倉知が興奮した口調で言った。鼻息が荒い。
「うん、イチャイチャしよう。でもまず、トイレ行かせて」
 倉知は素直に俺を離したが、ついてくる。トイレのドアを開けてもまだついてくる。
「何、一緒にする?」
 笑いながら訊くと、真顔で「はい」とうなずいた。訊いておいてなんだが、固まってしまった。倉知の股間に、視線が落ちた。まさかと思うが勃起している。
「お前な、ラブホじゃあるまいし、なんでいきなりそんなになるの?」
「三日間、ここでずっと、ひたすら加賀さんと愛し合えると思ったら、こうなりました」
「お、おう」
 愛し合うのは家でもできる、とは言わずにおいた。好きにさせよう、と思った。この旅行は誕生日プレゼントでもある。軽井沢を出れば、あちこち観光をする。二人だけの空間でイチャつく時間は正味、多くない。それに旅行の後半は家族が合流して二人きりの時間は終わる。お互いを独占できるのはここにいる三日間だけ。日程を組んだ時点で決めた。全部、倉知に委ねる。俺の時間と体を、自由に使えばいい。
 と思ったのだが、恐ろしいほど離してくれない。二日目に突入しても、トイレと風呂と食事以外はベッドの上で過ごしている。当然、全裸だ。
 ただ、ベッドの上と言っても、セックス三昧、というわけじゃない。
 俺の指を一本一本爪の先までじっくり観察してみたり、よくわからないが延々と肘に噛みついてきたり、耳の後ろの匂いを嗅ぎ続けたり、奇行が目立つ。
「なんかわかんねえけど、それ面白い?」
「楽しんでます」
「お前がそれでいいならいいんだけど、一個提案してもいい?」
「なんですか?」
 うつ伏せで寝転ぶ俺の髪をうっとりと撫でていた倉知が手を止めて訊いた。
「ちょっと外出てその辺歩かない?」
「え」
「真夏の避暑地だぞ。近くにテニスコートあったし、テニスするとか」
「テニス……」
「なんだよ、乗り気じゃないな」
 ふう、と息をついた倉知が、俺の上にまたがった。
「加賀さんを味わいたいんです」
 触れるだけのキスをしてから目を覗き込んでくる。
「それに、外に出たら、絶対誰かに邪魔される」
「そうかな」
「そうです。女の人が寄ってくるに決まってる」
「大丈夫だよ。来ない来ない」
 適当臭い俺の科白に、倉知は難しい顔をやめない。
「もし寄ってきてもほら、虫よけがあるだろ」
 左手を目の前に突きつけて、ひらつかせた。家を出たときからずっとペアリングをはめている。お揃いの指輪をはめた男二人組に、しつこく迫ってくる女はいないだろう。
 倉知が「そうですね」とようやく納得した。
「じゃあ、テニスしましょう」
 そこからは行動が早かった。元来体を動かすことが好きな体育会系だからだろうか。俺に一つだけ爽やかなキスを落とすと、ベッドから身軽に飛び降りてさっさと服を着る。Tシャツにジャージ下、というラフな格好だ。
「加賀さん、いつまで寝てるんですか。早く服着て」
 叱られてしまった。苦笑して起き上がる。
「そういやお前、テニスしたことある?」
「あります。ゲームですけど」
「ゲームかよ」
「加賀さんは?」
「中学んときテニス部だった」
「え、陸上じゃないんですか?」
「陸上は高校から」
 高校に上がって部活を変える人間はそう珍しくもない。倉知は小学生の頃からバスケ一筋らしいが、俺が小学生の頃はテニスも陸上も無関係に、それこそスポーツ以外にもなんでもやった。
「うわー、やばい、怖いことに気づいた」
 ベッドの上で全裸のまま膝を抱えて身を縮める俺に、倉知が着替えを手渡してくる。
「怖いことって?」
「俺が中学のとき、お前四歳とか五歳とかそんなんだぞ」
 十歳差だから当たり前だが、そう考えると歳の差があることを改めて実感する。
「絵面がやばい。中学生と幼稚園児」
「俺、保育園でした」
 倉知がどうでもいい訂正をする。真顔で「うん」とうなずいた。頭を掻いて、息をつく。もしその頃に出会っていたら、どうなっていただろう。やっぱり可愛くて、手を出していたのだろうか。ありえない。犯罪者だ。元々スレスレなのに、いよいよ言い逃れできなくなる。
 若干落ち込む俺の頭を、倉知がそっと撫でた。
「加賀さん、俺、大人です。数日後にはもう二十歳ですから」
「うん、大人だった」
「じゃあ、テニスしましょう。こう? こうかな?」
 ラケットを振る仕草をしながら首を傾げている。外で体を動かしたくてうずうずしている様子の倉知が可愛い、と思った。
「初心者なんだからラケットに当たれば上出来だよ」
 ベッドの上で座ったままズボンに脚を通す俺を見ながら、倉知がストレッチを始めた。
「手加減しないでくださいね」
「何、試合でもする気?」
「しましょうよ。本気出した加賀さん見たい。絶対カッコイイ。テニスする加賀さん、カッコイイ」
 そう言って空想の世界に旅立ってしまった。カッコイイ姿を披露できる自信はない。テニスをしていたのは中学の頃だけだし、ブランクは十五年。とんでもない年月だ。
 妄想中の倉知が突然ハッとなり、俺を見て、ふわ、と微笑んだ。
「加賀さん」
「ん」
「テニスの王子様だ」
「やめれ」
 当時散々からかわれたフレーズだ。倉知が口にすると嫌悪感は皆無だが、あの頃の苦い思い出が蘇ってソワソワしてしまう。
「試合形式じゃなくてもよくない?」
 まともな試合になるとは思えないが、倉知はやる気満々だ。足首を回転させてから、軽くジャンプを始めた。普通の家なら天井に頭をぶつけているだろう高さだ。
「ルールはわかるんで、できると思います」
 ゲームでルールを覚えるのはいいことだが、実際にラケットを握った経験がない奴が、まともに球を打てるとは思えない。ラリーも続かないだろうと高をくくっていた。
 倉知の運動神経の良さを甘く見ていた。
 グリップの握り方や基本的な動作を教えて、じゃあ軽く打ってみるか、と言いつつ、意地悪くきわどいコースにサーブを打ち込んだ。強めのサーブだったが、機敏に反応し、ラケットに当てた。おっ、と思わず声が出たが、ボールは俺の頭上の遥か上を飛んだ。どんな馬鹿力だよ。
「ホームラン」
 ボールを見上げて笑うと、倉知がラケットを握り直して「力の加減が難しい」と呟いた。
「もう一回お願いします」
 そう言って腰を落とし、サーブを要求する倉知の顔は、真剣だった。
 ああくそ、この目は反則だ。心臓に、突き刺さる。
 お遊び程度で健全な汗を流せばいい、と軽く考えてテニスでもするか、と言った。でもいざやってみると、ノスタルジックな感情と倉知のアグレッシブなまなざしに、挟み撃ちにされた。完全にはまってしまったのだ。途中から、本気になっていた。
 ボールを追い、コートを走り、ラケットを振る。懐かしい。悪くない。そうだ、俺はテニスを嫌いで辞めたわけじゃない。
「倉知君」
 向こう側のコートの倉知が「はい」と元気に声を張り上げる。
「すげえ楽しいな」
 倉知はシャツの襟ぐりを引っ張って汗を拭うと、顔をほころばせて、笑った。


〈倉知編〉

 楽しい時間というのは、どうしてこうも過ぎるのが早いのだろうか。八泊もするのだから、ゆっくりまったり堪能できると思っていたのに、時計の針が普段の三倍速で動いているように錯覚するほどだった。全部が旅の思い出で、全力で加賀さんを堪能したかった。まばたきも惜しい。少しのロスも許されない。時間は無限ではないのだ。
 四日目の朝。
 コテージで三泊した軽井沢をあとにし、松本市に移動した。旅行の日程を知った五月には、「軽井沢で三日も何をすんの? 馬鹿なの? クソつまんねえ」と畳みかけるように文句を言われたが、誰にも邪魔されない二人きりの時間を、八月だとは思えない快適な環境で過ごすことができた。人に笑われようが、三泊にして後悔はない。
「おかしい」
 軽井沢から松本市への移動中、新幹線の座席に後ろ頭をつけて、ぼんやりと天井を見ながら加賀さんが呟いた。
「本当に三泊したっけ?」
「え?」
「やっぱり充実してる時間ほどあっという間だよな」
 加賀さんも同じ意見だとわかって、嬉しくなる。にやけそうになる口元を引き締めて、何度も無言でうなずいた。
「もうちょいいてもよかったよな」
「はい、全部軽井沢でもよかったです」
「それはどうかな?」
 加賀さんがおかしそうに笑って、肘掛けに片方の肘をつき、俺をじっと見てくる。優しい視線を向けられて、なぜか泣きそうになる。
「加賀さん」
 身を乗り出して加賀さんの耳に口を寄せた。
「好きです」
 囁いてから、至近距離で目を覗き込む。
「うん、俺も」
 目を細めて笑う加賀さんが眩しい。つられて笑顔になる。
 微笑みをたたえて見つめ合っていると、視線を感じた。前の座席の上から、子どもが顔を出してこっちを見ていた。こらっ、と母親らしき声が叱りつけ、子どもの頭が引っ込んでいく。
「やべえ、なんか、素でイチャついてた」
 加賀さんが口を押えてくぐもった声で言った。いつもは俺を制御する加賀さんが、同じノリなのは珍しいかもしれない。
「自重しよう」
「自重します」
 二人きりの空間に慣れすぎてしまった。公共の場での距離感を早く思い出さなければ。注目されるのは避けたい。
「結構つらいですね」
 いっそ観光しないで閉じこもっていたい、と不健康な邪念が脳裏をかすめたが、加賀さんが俺の頬を軽くつねって明るい声で言った。
「残りも多分、すげえ楽しいよ」
 残り。残りはあと五日しかない。その事実に愕然とする。
「何その顔」
「だって、九日間もあるのに、あっという間に終わっちゃうって」
「うん、でもほら、帰るところは一緒だし、結局同じベッドで寝るんだぞ。日常に戻るのも悪くないだろ?」
 加賀さんとの、めくるめく至福の日常。回想して、親指を立てた。
「悪くないどころか最高です」
「はは、うん」
「帰るのが楽しみになりました」
「おいおい」
「冗談ですよ。旅を満喫します」
 終わったことや帰ることを考えて暗くなる意味がない。前向きに今を楽しもう。
 気持ちを切り替えての観光第一弾は、松本城だった。石垣の上にそびえたつ黒い城を二人で見上げ、こっちの角度がいいとか、赤い橋を入れて撮りたいとか、周囲をぐるぐる回りながら一通り撮影大会を終えると、城の中に入ることにした。
 中は暑かった。そしてなかなか前に進まない。スムーズに進むときもあるが、急に、止まる。人の体温が、城内の気温と湿度を上げているのだろう。熱気がすごい。
「あっつ」
 加賀さんが髪を掻き上げ、服をパタパタさせる。汗が浮かぶ肌の質感が、なぜだか妙に艶めかしく感じ、落ち着かなくなる。
 俺たちの前は年配の女性二人組だった。ハンカチで扇ぎながら、ずっと関西弁で韓国のドラマについて語り合っていた。こっちにまったく興味がないのはありがたい。と安心してもいられない。真後ろにいるのが若い女性の二人組だったからだ。どうか気づきませんように、と念を送っていたが、ヒソヒソ声が聞こえてしまった。
「カッコイイ」
「モデル?」
 ため息が出そうだ。加賀さんを隠したい。今すぐ服の中に突っ込んで、せめて顔だけでも隠したい。
「綺麗だね」
「髪も綺麗」
「細い」
「羨ましい」
 加賀さんを見る。聞こえていないのか、城の中をきょろきょろ見回している。
 駄目だ。我慢できない。自分のシャツを引っ張って頭からかぶせる準備をしていると、加賀さんが気づいた。
「何してんの? 暑いからって脱ぐなよ?」
「違います、加賀さんをここの中に入れようかと」
「はあ? 殺す気か」
 苦笑する加賀さんが、めくり上げた服をそっと元に戻す。そして俺の肩に腕を回し、顔を引き寄せると「俺の筋肉なんだから勝手に披露すんな」と耳打ちした。
「……はい、すいません」
 照れ笑いをしていると、いつの間にか列が進んでいて前が空いていた。加賀さんが俺を置いてさっさと行ってしまう。追いかけようとする俺の耳に、抑えきれない興奮がこめられた甲高い女性の声が届く。
「見た?」
「見た……!」
 しまった、ばれた、と思った瞬間、「筋肉すごい」と聞こえた。
 どうやら俺の腹筋を見た感想らしい。
 今の場面をたとえば六花が見ていたとしたら、きっと別の視点でみている。当たり前だが、女性にも種類があるのだ。
「おーい、倉知君、おいで」
 加賀さんが前のほうで手招いている。追いついて、すいません、と謝った。
「なかなか進まない原因ってやっぱこれだよな」
 加賀さんが指さすほうに、階段がある。やたら急だ。階段にいる人たちが、亀の歩みで上に進んでいる。前にいた女性たちが、それを見上げながらお互いにハンカチをぶつけ合い、「あんたが先に」と譲り合っている。
「落ちたらどないしよ」
「あんたごっつい肉布団やん、落ちても平気やろ」
「誰が肉布団や。煎餅布団みたいな体してからに」
 漫才のようなやり取りをしながら、まごまごしていてなかなか登ろうとしない。
「大丈夫ですよ」
 加賀さんが二人に声をかけた。振り向いた大阪のおばちゃんたちが加賀さんを見て表情を変える。すっと背筋が伸び、二人揃って目を見開いて「あらあ」と口元に手をやった。
「安心してください、落ちたら受け止めますから。おもにこいつが」
 俺の背中をポンと叩いて言った。
「お、俺ですか」
 一人は結構横幅があり、落ちてきたところを支えられるか自信がなかった。あいまいにうなずくと、大きめのほうの人が頬の肉を揺らして大笑いをして、俺の腹をどついてきた。
「わざと落ちたろか?」
「え、や、いえ、あの、がんばります」
「お兄ちゃん、可愛いなあ」
 花が咲いたようにキャッキャウフフと笑い、こっちを意識しながら手すりをつかんで上がっていく。いたずらっ子の笑みを浮かべる加賀さんを、物言いたげな目で見てから、上を見上げた。スカートを抑えながら登っている女の子が見えた。ちら、と加賀さんを見る。スカートじゃない。当たり前だ。パンツを覗かれる心配はない。でも何か、下から見られるのが嫌だ。下の人たちに見せたくない。
 加賀さんの下半身をガードするようにしてくっついて階段を登る。
「何?」
「お尻を守ってます」
 こそっと囁くと、加賀さんが首を傾げた。俺の独占欲は重度のもので、きっと加賀さんの想像をはるかに超えている。
 階段を登りきり、少し歩いたところでまた動きが止まる。やはり階段のせいで渋滞が起きるのだ。
「お兄ちゃんら、芸能人?」
 渋滞の最後尾で待ち構えていた女性が、目を輝かせて訊いた。
「いえ、一般人ですよ」
 加賀さんが笑って答える。
「またまた、テレビ出てはるやろ」
「いやいや、出てません」
 加賀さんが吹き出してから顔の前で手を振った。
「だってあんたのドラマ、昨日見たで?」
「私もそれ見たわ」
「え、俺ドラマ出てました? なんの役でした?」
 おかしそうに聞き返す加賀さんに、「医者」「刑事」と二人が別々の職業を答えた。あんたなんのドラマ見たん、あんたこそ、と揉め始めた。
 独特のノリに圧されて俺はたじろいでしまったが、加賀さんは愉快そうだった。
「そんでこっちのお兄ちゃんはあれや。なんとかっていうアイドルの、ダンス上手い子やんな」
 誰のことかわからないが、確実に人違いだ。違います、と否定するべきなのか、そうなんです、と乗っかるべきなのか、わからない。
「ダンス見せてくれへん?」
「えっ」
「さわりだけでええねん」
「えっと、ここではちょっと」
 返答に困る俺を、加賀さんは助けてくれない。肩が震えている。顔を背け、笑いを堪えていた。
 俺たちを気に入ったらしいおばちゃん二人は、何かと絡んできた。そして最後まで、加賀さんを俳優、俺をアイドルグループのメンバーとして認識したままだった。
 天守閣にたどり着くと、進まない行列が嘘のように人がまばらになっていた。天守閣に登る、という目的を達成すると満足する人が多いのか、ろくに中を見ずに降りていく人が大勢いる。
「お兄ちゃん」
 天守閣から外を眺める俺たちの隣に立って、おばちゃんたちがニコニコと見上げてきた。そして、懐に潜り込むようにして距離を詰め、小声で言った。
「あんたら付き合うてんやろ?」
「え」
 驚いて絶句する俺の横で、加賀さんがあっけらかんとして答えた。
「わかります?」
「ごめんやけど、丸わかりやわ」
「応援してるわ。頑張りや」
 俺と加賀さんの背中を平手打ちしてから、別れ際にカバンから飴を取り出して、「飴ちゃんあげるわ」と手のひらに押し込んで去っていった。
「はは、なんか励まされたな」
「なんでわかったのかな」
「んー、これ?」
 加賀さんが左手をかざしてひらひらと振った。
「それに、多分ダダ洩れだよな」
「何がですか?」
「好き好きオーラ」
 天守閣に吹き込む風が、加賀さんの髪を揺らす。手すりに寄りかかって身を乗り出し、爽やかに笑っている。
「見ろ、人がゴミのようだ」
 笑いながら外を見下ろす加賀さんが、横目で俺を見た。
「俺ばっか見てんなよ」
 声を潜めて少し恥ずかしそうに笑うと、指先で顎を押され、顔を無理やり外に向けられた。
「確かに、好きが溢れて隠しきれません」
 ここから大声で、大好きです、と叫びたい衝動。苦労して、抑えた。腕を触れ合わせ、誰にも聞こえないように、そっと呟く。
「好きです」


〈加賀編〉

 上高地で自然を満喫したあと、白骨温泉でしっかりと休養し、金沢に移動した。
 北陸には来たことがない。なんとなく勝手なイメージで涼しいのだと決めつけていたが、そんなことはなく、しっかりと夏だった。太陽が照りつけ、蝉がやかましく鳴いている。
 兼六園の入り口付近にある茶屋からは、金沢城が一望できる。椅子に腰かけ、それぞれかき氷とソフトクリームを片手に、ぼんやりと城を眺めながら待っていた。大きな赤い和傘が日陰を作ってくれて、居心地は悪くない。
「もうそろそろ着く?」
 かき氷の氷を崩しながら倉知に訊いた。今日、倉知家御一行様と、加賀家御一行様が合流する。兼六園が集合場所だ。
「もうその辺まで来てるみたいです」
 倉知がスマホを見て言った。
「金箔ソフト、食べてみます?」
 ポケットにスマホを差し込むと、ソフトクリームの先を俺の口元に近づけた。
 金箔がふりかけられたソフトクリームがどうやら名物的に人気があるらしい。とりあえず人気のあるものに無難に手を出すのが倉知だが、金箔は食べても消化されないし、味がしないことは想像できる。話のタネに食べてみるのもよかったが、こうやって倉知が俺に分け与えることは想定済みだ。
「あーん」
 倉知は嬉しそうだ。目の前を、観光客が行き交っている。日傘を差した上品そうな浴衣の女性が、こっちを見て笑っていた。通り過ぎても何度も振り返っている。
「加賀さん、溶けちゃいます」
 倉知が急かす、諦めてソフトにかぶりつくと、倉知がすぐに「どうですか?」と感想を聞いた。
「うん、想像通り」
「金箔ってなんの味もしませんね」
「そりゃそうだろ。金属なんだから。別に普通だけどかき氷食う?」
 容器ごと差し出すと、倉知がパカッと口を開けた。食べさせろ、という意味だ。かき氷をすくうと、無言で倉知の口に突っ込んだ。
「普通ですね」
「うん」
 とはいえ、こんなものは滅多に食べない。旅行先で食べることに意義があるのだ。
「ごちそうさまあああああ」
 突然絶叫が聞こえた、と思ったら、六花が俺たちにスマホを向けてハアハアしながら走ってきた。
「違った、おはよう」
「お、おう、おはよう」
 六花のはるか後方にみんなが歩いているのが見えた。軽く手を振ると、全員が振り返してくる。
「ねえ二人、もしかしてずっとそんな、ところ構わずイチャついてるの?」
 興奮した口調で六花が言った。
「え、別にイチャついてないけど」
 倉知が「ねえ」と俺に振る。お互いにあーんで食べさせ合う行為は一般的にイチャついているという部類に分類されるかもしれない。自覚はなくても認めなくてはいけない。俺たちは終始イチャついている。
「無礼講ってことで」
 頭を掻いて苦笑すると、六花が「いい!」と地団太を踏む。
「その調子でお願いします」
「できたら止めて欲しいんだけど」
「止めません。もっとやれ」
 六花が絶好調だ。先が思いやられる。
「加賀さーん、会いたかったよお!」
 五月が腕を振り回して駆け寄ってきた。
「うん、俺も」
 笑顔で返すと、だらしなく顔を弛緩させてモジモジしたあと、ギラリと倉知に険悪な視線を向けた。
「あんた、加賀さんにあーんとか、何させてんの」
「え、でも、いつもしてるし」
「いつも!」
「五月も食べる?」
 倉知がソフトを向けてから「あ、駄目だ」と撤回した。
「加賀さんと間接キスになる」
「た、食べるっ、よこせ!」
 倉知に襲いかかる五月を笑って眺めていると、親たちがやっと到着した。
「お前らめちゃくちゃ目立つよな」
 倉知の父が皮肉っぽく笑ってから、おはよう、とついでのように言った。
「あー、でかいし目印になりますよね」
「じゃなくて」
 あちい、とぼやきながら俺の隣に座ると、その隣に倉知の母が座り、夫のひたいに光る汗をハンカチで丁寧に拭った。
「ハートが飛んでんだよ。それに妙にキラキラしてるっていうか」
「加賀さん、光り輝いてるよね」
 倉知の母がニコニコして言った。輝いているのは倉知だろう、と思った。
「わかるわかる、オーラ放ってるよね」
 父と腕を組んで現れたハルさんが、「くすみがない」とつぶやいて、肩から掛けたカメラを構えた。シャッター音が聞こえる。デジタルではなく、今時珍しいフィルムカメラだ。
 ハルさんは一応プロの写真家だ。昔から放浪癖があり、若い頃にイタリアでフラフラしていたときに旅行で訪れた父と出会った。数日行動を共にし、父が帰国するのと同時に彼女もついてきた。当時俺は高校生だったが、よくもまあ、こんな気難しい男と打ち解けられたな、と感心した記憶がある。ハルさんは当時、二十歳そこそこだったのだ。
 底抜けに明るくて、おちゃらけた、警戒心のない人だった。誰とでもすぐに打ち解けられて、人懐っこいハルさんを俺も気に入った。すぐにでも結婚すればいい、と思ったが、籍を入れて同居を始めたのは俺が大学に進学して家を出たあとのことだった。
 俺に気を遣った、というよりも、けじめをつけたかったのだろう。
「ハルさんがカメラ持ってるの久々に見た」
 レンズ越しに俺を見て、ハルさんが「でしょ」と自嘲気味に笑う。
「めちゃくちゃ撮るから覚悟してて。なーなせ君、おっはよう」
 ハルさんに呼ばれて倉知が背筋を伸ばしてから、慌てて立ち上がった。
「はい、おはようございます」
 直立で返事をする倉知を、ハルさんが愉快そうに笑い声を上げながら連写している。
「光太郎さん、おはようございます」
 倉知が軍人ばりに堅苦しいお辞儀をすると、父が柔らかく笑い、「おはよう」と返した。その目が笑ったまま、すぐに俺に注がれる。
「おはようございます」
 座ったまま深々と頭を下げる。父は厳格な人ではあるが、なっとらん、やり直せ、とは言われない。
「おはよう。朝からそんな冷たいものを食べて」
 眉根を寄せて、心配そうに俺たちを見ている。親みたいだ、と思ったが、親なのだ。
「あたしもソフト食べたい、金箔ソフトだって」
 五月が茶屋のメニューを指さした。
「よくテレビで見るやつだな。よし、みんなで食うか」
 倉知の父が言うと、母が一、二、三、と人数を数え始めた。
「六個だね。五月と六花、ついてきて」
 はーい、と素直に応じる二人の姉の後姿を見送って、笑いを堪えた。どうやら父もカウントされているらしい。父がそんなものを食べているところを、生まれてこの方見たことがない。倉知の家族が手渡せば、いらないとは言えない。食べるしかないのだ。
「やべえ、笑う。どうしよ」
 両手で顔を覆って、足をばたつかせた。
「何がですか?」
 倉知が不思議そうな声で言った。
「どうやったら笑わないで済む? 倉知君、俺を殴って。殴り続けて。この辺り、キドニーブローをお願いします」
「えっ、そんなことできません」
「じゃあつねって。ほっぺたでいいから」
「それも無理です。どうしたんですか?」
 父親がソフトクリームを食べる場面を、なんの感情も抱かずに冷静に見ることができない。この複雑な心境は、倉知にはきっとわからない。
 まごついているうちに、倉知の母と姉たちが両手にソフトクリームを持って戻ってきた。
「おまたせー。はい、光太郎さん」
 倉知の父と並んで座っていた父が、自然な流れでソフトクリームを受け取り、少し間を置いてから礼を言った。父がソフトクリームを持っている。それだけで吹き出しそうになる。
 どうすんだよ。食うしかないぞ。
 いや待て、食べ方わかるのか?
 笑いを堪えソワソワしていると、向かい側に座った五月と六花が食べる姿を見て、そうか、こうやって食べるのか、と学習したようだ。
 ソフトクリームを可愛く舐める父の姿に悶絶するしかない。見てはいけないものを見てしまった。
「はっ、腹痛い、……助けて、倉知君」
 倉知にしがみついて、息も絶え絶えにそう言うと、倉知が俺を抱きかかえ、「トイレですね!」とお姫様抱っこでダッシュする。背後で二種類のシャッター音が追いかけてくる。ハルさんと六花だろう。
「違う、ちょ、おろして」
「でもお腹痛いって」
「笑いすぎて痛いんだよ」
「何かおかしいことありました?」
「だよな、わかんないよな」
 父がソフトクリームを食べるというただそれだけのことが、腹がよじれるほどおかしいなんて、理解されるとは思っていない。内緒、と短く言うと倉知から飛び降りた。
「あ、ついでだからなんかお土産見てこうよ」
 店先でソフトクリームやその他もろもろの甘味を売っている茶屋の中は、どうやら土産物屋のようだ。
「家族に買う必要ないし、会社の連中かな」
 休みを取るのに協力してくれた奴らには買っていってやらねば。無難に箱菓子かな、と吟味していると、倉知が俺を呼んだ。
「加賀さん、加賀さん」
 倉知が酒のコーナーで手招いている。
「お前、ちょっと気が早くないか」
「飲みたいんじゃなくて、見てください」
 棚に並んでいる日本酒を見上げて、何が、と思ったが、倉知が嬉しそうに声を弾ませて指を差した。
「加賀さんばっかり」
「え?」
「ここにも加賀さん、ここにも」
 次々と指を差すほうに目を向ける。加賀鳶、加賀鶴、加賀梅酒。確かに加賀で溢れている。石川県は加賀地方と能登地方に分かれていて、金沢は加賀地方という分類になる。だからか、特に「加賀」という単語を目にする機会が多い。酒に限らずだが、いろんなものの商品名に加賀が使われているようだ。
「ね」
「何が、ね、だよ。可愛いなお前」
 膝から崩れ落ちてしまいそうなほど、可愛い。公共の場で抱きつくわけにもいかず、腕を伸ばしてひたすら髪をわしわしする、という程度に留めておいた。
「でもこれ、今買っても邪魔ですよね」
「こういうのはまとめて自宅に送ればいいんだよ」
 宅配を取り扱っている土産物店は多い。店員を探してできるか、と訊ねようと振り向くと、真後ろにいた若い女の店員が、満面の笑みで「お送りできますよ」と言った。話を聞かれていたらしい。
「お決まりになりましたらどうぞ」
 それだけ言って小走りで走り去った。店の隅で別の店員と何かキャアキャアと盛り上がっている。腐女子的なキャアキャアなのかはわからないが、楽しそうで何よりだ。
「あ、でも俺まだ未成年だからお酒買えませんね」
「いいよ。俺が買うから」
 一応、今日までは未成年だ。
「ありがとうございます。じゃあ自分用に加賀さん味のお酒、お土産にしよう」
「加賀さん味ではないぞ」
「どの加賀さんにしようかな」
 暑さのせいだろうか。倉知が少しおかしい。加賀、と名前のついた酒を両手に持って、見比べている。その姿を見て、何か、胸に来るものがあった。
 こいつも酒が飲める歳になるのだ。
 出会った頃は、十七歳の高校生。明日、二十歳を迎える。
 その瞬間に立ち会えることが、誇らしい。
 

〈倉知編〉

 金沢での滞在は今日で終わりだ。有名なところは抑えておこう作戦で、兼六園と近江町、最後にひがし茶屋街に行った。
 兼六園は、庭だった。広大な、庭だ。それ以上の感想が沸くほど、俺は情緒というものをわかっていない。庭だなあ、と思った。
 五月なんかは、口に出して「ただの庭じゃん」と素直な感想を述べていた。両親は堪能している様子だったし、ハルさんも写真を撮りまくり、光太郎さんは長い間、苔に魅入っていた。
 そして六花は国の特別名勝そっちのけで、俺と加賀さんに張りついてずっとにやけていた。
 兼六園を出たあとは、近江町で海鮮丼を食べた。それから茶屋街の古い街並みを眺め、カフェでお茶をしてからホテルに移動した。
 大人数で、どうなることかと思ったが、みんなそれぞれがそれなりに楽しんでいた。加賀さんと二人きりがいい、と身もふたもないことを思ったのを撤回したい。俺も楽しかった。
 明日の朝、石川県内の加賀温泉郷に移動する。だから、駅から近いホテルを選んだ。部屋割りは、俺と加賀さん、五月と六花、父と母、光太郎さんとハルさんのツインが四部屋だ。
 夕食はみんな一緒で、前半の旅の思い出を根掘り葉掘り訊かれた。
「軽井沢どうだった? 涼しかった?」
 母が訊く。
「うん、夜とか肌寒いくらい」
「三日間もつまんなかったでしょ」
 五月が、つまらなかったと言えと目で訴えてくる。ほら見たことか、と言いたいのだ。
「ものすごく有意義だったよ」
 胸を張って答えると、チッと舌打ちをされた。六花が眉を下げて、うんうん、と嬉しそうにうなずいている。
「ゆっくりできて最高だったし、テニスもしたし」
「テニス……、え、加賀さんテニスできるの?」
 五月が目を丸くする。
「まあ一応」
「中学以来だな」
 光太郎さんがどこか懐かしそうに、目を細めて加賀さんを見ている。
「加賀さん、すごいカッコよかった」
「羨ましいいい! あたしも見たい、加賀さんがテニス……、あっ、テニスの王子様だ!」
「それはもういい」
 加賀さんが苦笑して、ビールジョッキを傾けた。
「軽井沢ってコテージ?」
 父が訊いた。うん、と答えると、父が光太郎さんに目を向けた。
「軽井沢に別荘持ってそうって思ったんだけど」
「あっ、持ってそうね。素敵だわ」
 母が決めつけてうっとりする。光太郎さんはワインを口に運んでから、「軽井沢には持ってないよ」と言った。
「軽井沢に別荘を持ってもメリットはないからね」
「軽井沢にはってことは、どこに持ってんの?」
 父が図々しく問い詰める。失礼じゃないか、と思ったが、光太郎さんは顔色を変えずに短く答えた。
「ハワイ」
「ハワイ」
 父が間の抜けた顔で復唱する。
「ハワイ」
 母が呟き、
「ハワイ!」
 五月が吠え、
「ハワイ」
 六花が目を輝かせる。
「不動産価値が高いんだ。投資の一種だよ」
 ワインを片手に簡単にそんなことを言う光太郎さんは、別世界に住む人のようだった。みんな、夢の中にいるようなぼんやりとした表情で光太郎さんを見ている。
「ちょっと、引いてる引いてる」
 ハルさんが光太郎さんを肘で突いた。
「引いてる?」
 光太郎さんは不思議そうだ。父が「いやいや」と慌てて弁解する。
「引いてないって。いいなあって思っただけ。な」
 家族に同意を求め、各々首を上下に振った。
「ハワイは好きかな?」
 光太郎さんが訊いた。
「好きも何も、行ったことないって。そもそも俺らみんな、海外旅行したことないし」
「パスポート作ったことないもんね」
 六花が肩をすくめてステーキを口に放り込んだ。
「でもほら、小さいとき飛行機で北海道行ったよね。北海道だって海外みたいなものだよ」
 母がよくわからない言い訳をする。北海道は日本だ。
「海外行きたい、連れてってよ」
 五月が期待した目で父を見る。社会人のくせに、まだ親に頼って旅行をねだるとは。さすが五月だ。
「ハワイ行こう、ハワイ!」
「馬鹿お前、そういうのはあれだ、新婚旅行で行けばいいだろ」
「えーっ、一生結婚しなかったらどうすんの?」
「あれ? 大月君と結婚するんじゃなかった?」
 六花が五月の顔を覗き込んで嫌味っぽく訊いた。五月が「りっちゃん!」と六花の耳を引っ張った。どうやら姉二人で少し先の未来の話をしていたらしいが、五月が結婚するなんて、ちょっと想像できない。大月五月、という名前になったら面白い、と他人ごとのように笑っていたのが現実になるとは思わなかった。
「しないから、しないからね?」
 なぜか加賀さんの反応を気にしている。加賀さんは持っていたジョッキを顔の前に掲げて、「おめでとう」と笑った。
「違うから!」
「式には呼んでよ」
「しないもん、加賀さんの意地悪!」
「こんなに早く、お嫁にいっちゃうんだ……」
 母が呟いて、目元を拭う。
「結婚なんてしないってば!」
 騒々しい一同を、微笑みを浮かべながら見守っていた光太郎さんが、「いつか」と低い声で切り出した。
「皆さんをハワイの別荘に招待したら、来てくれるだろうか」
 光太郎さんが言うと、みんなが顔を見合わせる。そして声を揃え、こぶしを振り上げた。
「いいともー!」
 具体的にいつ行く、という話をしたわけじゃないのに、ハワイで何をするか、どんな水着を着ようかと盛り上がっている。
 隣を見た。加賀さんと目が合う。
「バリとかタヒチとかもいいかなと思ってたけど、ハワイもありだな」
 俺のほうに身を寄せて、小さな声で言った。
「え?」
「海外挙式」
「それって、あの、俺たちの」
「そうそう。やりたいんだろ?」
 胸が苦しくなり、涙がせり上がってくる。こんなところで泣くわけにはいかない。
 涙を堪える俺の背中を、加賀さんがポンポンと優しく叩いてくる。
「やめてください、我慢してるのに、泣く……」
 口に手をやってうめく俺を、加賀さんは面白そうに見ている。さいわい、俺の異変に気づいたのは、六花だけだった。糸のように細くした目でこっちを見て、小刻みに震えるようにうなずき続けていた。
 ハワイの話で大盛り上がりのまま賑やかな夕食を終えると、各自部屋に戻って休むことになった。明日も早い。
 おやすみと声を掛け合い別れたが、六花がドアノブを握ったままこっちを見ていた。親たちの部屋は別の階だが、五月と六花の部屋は、隣だ。
「何、おやすみ?」
 疑問形で話しかけると、六花がわざとらしく咳払いをした。
「五月、観たいテレビがあるって言ってたんだけど」
「え?」
「壁薄くないとは思うけど、万が一音漏れしたら教えてね。小さくするから」
「はあ、うん、わかった」
「ふふっ、……うふふ」
 意味ありげな笑い声を漏らしてドアの向こうに消えていった。
「なんだろう」
「あー……」
 加賀さんが鍵を開け、背中でドアを押し開ける。その隙に中に入った。
「あれだろ、声漏れるの期待してんじゃない?」
「声?」
「今日やる? 昨日やったし、やらないよな」
 直接的な言い方に、ハッとした。理解して、赤面する。そういうことか。
「倉知君、先シャワーする? それとも一緒にする?」
「一緒にします」
「エロいのなしな」
「わかりました」
 力強く返事をしたのに、狭いバスタブで体を寄せ合いシャワーを浴びていると、股間が元気になった。艶めかしい後姿がいけない。堪らずに抱きついた。
「おーい、硬いのが当たってんだけど」
 立ったまま髪を洗っている加賀さんが、呆れたように言った。
「勝手にこうなるんです。すいません」
「しょうがねえな。抜いてやる」
 シャンプーの泡を洗い流すと、加賀さんが体の向きを変える。俺を見上げ、濡れた髪を撫でつけてから、勃起したペニスを握った。
「あの」
「ん」
「できたら、その」
「口がいい?」
「そうじゃなくて、えっと……、抱きたい、です」
「ダメ、無理」
 拒絶され、ぐらりと体が揺れた。
「無理、ですか」
「声抑えるのが無理なんだって。絶対うるさいもん、俺」
 自分の体内で、キュン、と胸が鳴る音と、ぶち、と理性が切れる音が、立て続けに聞こえた。
 加賀さんの体を掻き抱いて、唇を塞ぐ。腰を抱き寄せ、下半身を密着させ、揺する。加賀さんが俺の胸を押し返し、逃れようと、もがく。
「そんなに嫌ですか? 加賀さんは、したくない?」
 加賀さんを腕の中から解放すると、バスタブの淵に腰を掛け、うなだれて息をつく。
「拗ねんなよ」
「拗ねます」
「したいよ、俺だって」
 小さく囁く声。慌てて顔を上げると、加賀さんが俺の体にまたがってきた。
「正直言うと、すげえしたい」
 俺の首に左手を回すと、右手で俺の手を引いて、自分の股間に導いた。
「な?」
「大きい」
「うん、しよっか。ベッド連れてって」
 加賀さんを抱き上げて、濡れたままの体でバスルームを出た。セミダブルのベッドが二つ。シーツが濡れても、もう片方で二人一緒に眠ればいい。
 しがみついてくる加賀さんを抱えたまま、バッグの中を漁る。コンドームの箱が指に当たった。つかんで、ベッドに直行する。
 加賀さんを組み敷いて、体のあちこちにキスをしながら後ろに指を二本、差し込んだ。前後にこすり、押し広げる。その合間にコンドームを開封し、片手で装着する。
「手慣れすぎてて怖い」
「鍛えられましたから」
 加賀さんが自分のペニスをしごきながら、俺の動向を見つめている。
「なんでそんな、急いでんの?」
「気が変わらないようにです」
「変わらないよ。ん……っ、も、挿れて」
 ガチガチに反り返ったペニスを、急いでねじ込んだ。加賀さんが両手で口を塞いだ。
「……っ、ふっ、……う、んん」
 俺が動くたびに鼻にかかった喘ぎが漏れる。必死で声を殺すさまが、可愛くて仕方がない。こんなふうに、声を出すのを我慢する機会はほとんどない。もっと聞きたい。股を大きく割り開き、激しく腰を打ちつけた。
「んーっ! んぅ、あっ、はっ……、待って、そこばっか、やめ……」
 加賀さんの気持ちいいところは心得ている。えぐるように腰を穿ち、一心不乱にリズムを刻む。加賀さんが上に逃げようとする。腰を引き寄せて阻止した。
「だめ、ほんと、声出る……っ」
「大丈夫です、聞こえません」
 隣からテレビの音は聞こえない。それならこっちの音も聞こえるはずがない。
 口を覆ったまま、首を左右に振る加賀さんが、体を痙攣させる。精液が飛んだ。中が収縮し、締めつけられ、目の前が一瞬、白くなる。射精感が全身を襲ったが、頭の中で円周率を唱え、やり過ごす。
「加賀さん、早い」
「うるせ……」
 息を荒げて、気だるげに俺を見上げている。目が潤んでいて、可愛い。目尻にたまった涙を舌で舐めとった。刹那、見つめ合う。それからすぐに、腰を振る動作を再開する。
 油断していた加賀さんの口から、掠れた喘ぎが漏れた。慌てて口を覆い、俺から顔を背けた。
 加賀さんが声を抑えているおかげで、ベッドが軋む音がやけに響いて聞こえた。その音に煽られるように、腰の動きが強く、激しくなる。加賀さんが俺の下で身をよじらせ、首を仰け反らせた。ペニスが揺れ、吐き出される精液。それを見ながら、俺も、果てた。
 息をついてから、加賀さんの上に倒れ込み、濡れた体を抱きしめた。
「……ラブホじゃねえんだぞ」
 加賀さんが言った。
「えっ、ラブがつかないホテルはセックスしたらダメなんですか?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「じゃあ」
「お前は激しいんだよ。もっとこう、ひっそりとだな、布団かぶってバレないように、最小限の動きでやるもんだろ」
 加賀さんが俺の背中に爪を立てて、十本の指で引っ掻いてくる。痛い痛い、と訴えると、引っ掻いたところを上書きするように、撫でてくれた。
「隣、聞こえたと思いますか?」
「んー、どうだろうね。安いホテルじゃないけど、意外と漏れたりするから」
「どうしよう」
「今更?」
 はは、と小さく笑って背中から頭に移動した手が、優しく髪を撫でてくれる。
「明日、六花ちゃんに確認したらわかるよ」
 怖いことを言う。
「とりあえず、シャワーし直しだな」
 そうすることにした。

〈加賀編〉
※リバってますので苦手な方は気をつけてください。このあと最後に〈倉知編〉もあります。リバシーンを読み飛ばす方はご注意ください。

 八月十八日。日付が変わった瞬間に、おめでとうと言うはずだったのに、激しいセックスで消耗したからか、二人揃って寝落ちしてしまった。
 目覚めるととっくに朝で、カーテンの向こう側が明るかった。時計を見る。六時を少し過ぎていた。
「倉知君」
 俺の腹にひたいをくっつけて眠る倉知を揺さぶった。
「ん、……はい」
「おめでとう」
「え……?」
「二十歳だな」
「……あっ、あ、そっか、そうですね」
 一気に覚醒した様子で、倉知が慌てて起き上がる。ベッドの上で正座すると、三つ指をついて「ありがとうございます」と頭を下げた。
「あー、くそ。二十歳の誕生日が六時間も終わった」
 時計を確認して嘆く俺に、倉知が抱きついてきた。
「変な感じですね」
「何が?」
「加賀さんがそういう、なんていうか記念的なことにこだわるのって」
 そうかもしれない。記念日もろくに覚えないし、イベント関連もわりとどうでもいいくせに、今日という日はなぜかとても尊く感じた。多分、倉知が俺に侵食しているのだろう。明確に、白と黒だった価値観が、混ざり合ってグレーになってきている。
「なんか俺のが移ったみたい」
 倉知が言った。同じふうに感じたらしい。
「うん、自分が倉知君ぽい」
 倉知は嬉しそうだった。
「今何時ですか?」
 俺を胸の中に抱いて、倉知が訊いた。
「六時ちょいすぎ」
「朝ご飯、七時って言ってましたね」
「何? する?」
「しませんよ」
 笑って俺を離すと、キスをくれた。ゆっくりと離れていく唇が、もう一度、名残惜しそうに戻ってくる。三回それを繰り返すと、鼻先をくっつけて、薄く目を開く。倉知の目が、俺を見ていた。
「時間までずっとこうしてよっか」
「顔洗って着替えて全部済ませてからにしましょう」
「さすが、二十歳になったから理性的だな」
「はい、大人なのでわきまえてます」
 俺の皮肉を誉め言葉だと思ったのか、倉知が誇らしそうに胸を張る。二十歳になったからと言っていきなり大人になるわけじゃないし、こいつは相変わらず可愛い。
 洗面台で並んで歯磨きをしながら、倉知の尻を揉む。負けずにやり返してくる。鏡越しに笑い合う。こういう他愛もないやり取りがすごく好きだった。
 二人の時間は名残惜しかったが、時間厳守の父に睨まれるのが怖かったので、イチャつくのもほどほどに朝食場所に向かった。
「誕生日おめでとう」
 俺たちが登場すると、みんなが声を揃えて倉知を祝福する。
「ありがとう」
 照れながら、嬉しそうに頭を下げる息子の背中を、倉知の父が叩いた。
「本格的なお祝いは夜にとっといて、とりあえず早く食って出るぞ」
 この人も父と似たタイプで、時間のロスを嫌う。とっとと食べることにした。
 朝食はビュッフェで、洋食と和食それぞれ用意されていた。相談したわけでもなく、倉知も俺も、ご飯に味噌汁と和食を選択した。
「二人ともご飯? このパン、すごい美味しいのに」
 おかわりをしにきていた六花が俺たちのトレイを見て言った。この反応を見る限り、昨日の情事は聞かれなかったらしい。胸をなでおろした瞬間、倉知が身をかがめて六花の耳元に顔を寄せた。
「あの、六花」
「ん、何? パン食べる?」
「いらない。えっと、昨日、その、うるさくなかった?」
 馬鹿、と止めようとしたが時すでに遅し。確かに六花に訊けばわかるとは言った。そのまま実行するなんて、どんな正直者だ。そんな質問を投げれば、やりました、と教えたのも同然だ。
 六花の顔が面白いほど変形する。トングでパンをつかみ、二個三個と次々皿に盛りながら、「うんっ」と声を弾ませた。
「なっ、なんっにも……、ふはっ、聞こえなかった、ほんとほんとぉ、ホッホッホ」
 笑いを堪え切れていない。ホッホッホ、なんて笑い方はリアルで初めて聞いた。
「ほんとに? 何も聞こえなかった?」
 重ねて問う倉知に、六花が静かに発狂する。目を見開いて口を真一文字に食いしばり、鼻から息を吸って吐いて懸命に何かを堪えている。
「こらこら、もういいから」
 倉知の腕を引いて、六花から引き離す。墓穴堀りの名人だ。
 終始、六花の潤んだ瞳に見つめられながらの朝食を済ませると、チェックアウトして、加賀温泉郷へ移動した。今日も観光地を巡る旅になる。
 今夜宿泊する温泉旅館に荷物を預け、身軽になった一行が向かった先は、鶴仙渓だ。一キロちょっとの川沿いにある遊歩道を、雑談しつつ、ぞろぞろと歩く。途中、川床でスイーツを食べながら休憩ができたり、滝があったりで、それなりに飽きない造りにはなっていた。上高地とはまた違った自然の赴きで、これはこれで良さがある。
 昨日に引き続き、純粋な観光を楽しんだ。一日歩き続け、食べ続け、笑って、語って、みんな笑顔でいい思い出になった。
 そしてこの旅のメインでもある最後の締めくくりは、倉知の誕生日パーティだ。食事場所は部屋食ではなかったが、広めの個室で周囲の音は気にならない。
 浴衣に着替えた一同が集結している。みんな、風呂上がりですっきりしていたが、俺と倉知は温泉には入らず、ただ着替えただけだ。父親二人と温泉で鉢合わせになるのが気まずいらしく、夜遅くか朝早くにしましょう、と倉知が提案した。俺は父に自分の裸を見せることに抵抗がないし、倉知の父に見られても平気だ。そう言うと、そうじゃなくて、ともどかしそうに地団太を踏んだ。
「お父さんに見せたくないんです」
「お父さんが俺を性的な目で見るとでも?」
「思いませんけど、とにかく誰にも見せたくない」
 こうもはっきり意志表示をされれば、首を縦に振るしかない。別に、どうしても父親と入りたいわけでもないし、温泉は後回しにすることにした。
「すごいご馳走ですね」
 倉知が言った。
 仲居が忙しそうに料理を運び、テーブルが華やかに彩られていく。豪華な懐石料理に加え、鯛が口をパクパクさせた船盛や、能登牛のしゃぶしゃぶが並んでいる。追加料理はすべて父の計らいだったが、果たして食べきれるのか、不安だ。
「何飲む? やっぱ記念すべき一口目はビールか?」
 倉知の父がメニューを見て言った。今日で二十歳。飲酒解禁ということで、何を飲むかで倉知家が盛り上がっていた。
「地酒は? 金箔入りだって」
 倉知の母が、横からメニューを覗き込んで言うと、六花がツッコミを入れる。
「金箔はもういいよ。ツタンカーメンじゃないんだから」
「あたし、焼酎! ボトルでね」
 五月がさっさと自分の飲み物を決めた。倉知の母が「あっ」と顔を輝かせ、メニューを指さした。
「五郎丸金時の焼酎だって。これいいんじゃない?」
「五郎丸」
 俺が呟くと、父が少し吹き出した。うつむいて口を隠し、笑わないように一生懸命耐えている。ハルさんが「あはは」と無遠慮に笑い、ちら、と父を横目で見た。
「笑えば?」
「失礼だろう。人の言い間違いを笑うものじゃない」
 と言いつつ肩が震えている。その様子がおかしくて、こっちの笑いが止まらなくなった。一連の流れを静観していた倉知が、恥ずかしそうに母の間違いを訂正する。
「お母さん、五郎丸じゃなくて五郎島金時だよ」
「えっ、五郎丸だよ、ちゃんと五郎丸って書いて……」
 メニューを見返して気づいた顔になった。言い間違えたわけじゃなさそうだ。見間違えたらしい。
「ほんとだ、似てるね。ねっ、似てるよね」
「似てるけど」
 倉知の父が、頬の筋肉をピクリともさせずにうなずいた。妻の天然になれきっている夫はこの程度では揺るがないらしい。
「よし、五郎丸金時をボトルでください」
 倉知の父が真顔で言った。部屋の脇で待機していた仲居が笑いながらオーダーをメモしている。
「やだっ、寒いから」
 五月が震え上がっている。父は撃沈していた。周囲にこんなふうにコントのようなことをやらかす人間がいないせいで、免疫がないのだ。
「俺、ビールがいい」
 倉知が堪らず宣言した。その一言でようやく場が収まって、父の笑いも引いていった。何事もなかったように、背筋を伸ばしている。
 無事注文を済ませ、全員にアルコールが行き届くと、倉知の父がグラスを持って立ち上がった。
「七世」
「はい」
「二十歳の誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
 少し恥ずかしそうに笑顔を見せ、軽く頭を下げる。
「乾杯!」
 倉知の父の合図で、みんながグラスを掲げた。誰からともなく拍手が起きる。おめでとう、おめでとうと祝福され、倉知は照れ臭そうに頭を掻いている。俺を見て、無言で小さくグラスをくっつけてきた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「飲んでみろよ、ビール」
 勧めると、緊張した顔で手元のグラスを見下ろして、恐る恐る口に運んだ。全員が、倉知の反応に注目している。喉が、ごくりと鳴った。
 その瞬間、倉知の眉間にしわが寄る。
「あれ、まずい?」
「よくわかりません。苦いです」
 答えてから、小さく身震いをした。微笑ましそうな笑いに包まれる。初々しい感想に、みんなの顔がほころんでいる。
「七世がビール飲んでる」
 感極まった声で言ったのは倉知の母だった。涙ぐんでいる。
「俺に似たら強いんだけどな。お前はどっちかな」
 倉知の父が言った。あっという間に空になったグラスに、倉知の母がビールを注ぎ足している。
「あたし、その点はお父さん似だよね」
「お前は弱い。だから焼酎なんて飲むんじゃない」
 父親に諭された五月が不満そうに唇をとがらせ、「飲むもんね」とこれ見よがしにグラスに口をつけている。
「倉知君、大丈夫?」
 まずそうにしていたくせに、グラスを傾けビールをがぶ飲みしている。
「なんとなく、美味しい気がしてきました」
「はは、なんとなく?」
「俺、加賀さんとお酒飲むの楽しみにしてたんです。ちょっとだけ追いつけたみたいで嬉しいです」
「そうか」
 可愛いことを可愛い顔で言われて、デレデレしてしまった。
「七世、お父さんが凹んでる」
 六花がヒソヒソ声を張り上げた。倉知の父がしょんぼりしていた。
「あっ、お父さんと飲むのも楽しみだったよ」
 倉知が慌てて弁解すると、五月が意地悪く鼻を鳴らす。
「嘘っぽい」
「ほんとに、家族みんなでお酒飲めるの、嬉しいよ」
 あたふたと言い募り、言葉を切ってグラスに目を落とす。すぐに顔を上げて、家族の一人ひとりを見て、「みんな、ありがとう」としんみりとした口調で言った。
「一緒に旅行できてよかった。光太郎さんとハルさんも、ありがとう。誕生日に大好きな人に囲まれて、俺は幸せです」
 深々と頭を下げる倉知を、両親は誇らしげに見つめていた。六花が浴衣の端で目元を拭っている。五月ですら何か感じるものがあったのか、茶々を入れずに黙っていた。
「いい子だね」
「いい子だ」
 父とハルさんがうなずき合っている。
「あ、あの、料理、美味しいね」
 注目を浴びているのが照れ臭くなったのか、注意を逸らすように倉知が声を上げる。美味い、うん、美味しい、とみんな料理に没頭し、忙しく箸を動かし始めた。お世辞ではなく、本当に美味しかった。日本海の海の幸は、確かに一味違うようだ。
 大いに飲んで食べて喋って、楽しい時間は刻々と過ぎていく。気がつくと隣の倉知が静かになっていた。にこにこ笑ってはいるが、どこか様子がおかしい。
「倉知君」
「はい」
 ほんのり頬が赤い。
「もしかして酔ってない?」
「酔ったことないんで今酔ってるか判断できません」
 ごもっともだ。喋りは淀みがないし、やけにニコニコしているが、他は正常そうだ。ビールをグラスに二杯飲んだだけだし、酔うほどでもないか、と思った瞬間、倉知が俺ににじり寄り、手を握ってきた。
「何、どした?」
「加賀さん、好きです」
 唐突にそう言うと、唇を塞がれた。キャアアア、と何人分かの悲鳴が重なった。
「お前、やっぱり酔ってんな?」
 胸を押して抵抗すると、倉知がほう、と息を吐いた。
「気持ちいいです。なんだろ、これ」
 うふふ、と笑って俺の肩を抱くと、再びキスをしようとする。手のひらで口を塞ぎ、全力で押し返す。
「ちょ、待て、ほら、みんな見てるぞ」
 倉知の父は半笑いで、母は顔を真っ赤に染め、五月は歯を食いしばって両手にこぶしを握り締め、六花はスマホをこっちに向けて、いけ、やれ、そこだ、押し倒せ、と無茶苦茶を言っている。父は興味深そうに真顔で見ているし、ハルさんはシャッターを切りまくっている。
「うん、みんな見てて」
「見てて、じゃねえよ」
 ハルさんのカメラにピースサインを向ける倉知のひたいをぴしゃりと打つと、目に涙が盛り上がった。
「加賀さん、カッコイイ。好き」
「お、おう。さっき聞いた」
「好きです、好き、大好き」
 俺を抱きしめて、頬にチュッチュとキスの連打が始まった。口じゃないから放置することにした。倉知に抱きしめられながら黙々と箸を進める。
「七世はどうやら酔うとキス魔になるらしいな」
 倉知の父が冷静に分析している。
「困ったね、加賀さん以外にキスしたら大変」
 倉知の母が不安そうに眉を下げる。
「加賀さん以外にキス? ありえない。俺、人生で加賀さんだけだもん。俺がキスしたいのは加賀さんだけ。安心してください」
「うん、安心した。わかったからそろそろ離してくれない?」
「可愛い、美しい。加賀さんは完璧ですね。大好き」
 キスが止まらない。倉知に抱え込まれた俺を愉快そうに見るだけで、誰も助けてくれない。喋りながら唇を押しつけられるのを、防ぎようもなく受け入れるしかなかった。
 その後、父から倉知へプレゼントの贈呈式が行われたが、その間も俺を膝の上に乗せたままだった。酔っ払っている証拠だ。
 父のプレゼントは、開封する前からわかりきっていたが、腕時計だった。倉知は酔っていたが、何度も父にお礼を言った。おおはしゃぎで装着し、腕を振りかざして自慢げに見せびらかし、「素早さが百アップした!」とわけのわからないことを叫んでいた。
 父を見る。父も俺を見ていた。
「ルクルトのクロノグラフ?」
「懐かしいか?」
「着けてるよ、たまに」
 ジャガールクルトのクロノグラフは、俺が二十歳のときに父からプレゼントされた腕時計だった。二十歳になってから毎年腕時計を贈られて多少辟易していたのだが、この時計だけは特別だった。なぜなら自分でこれがいいと選んだ、唯一の時計だからだ。
 俺の二十歳のプレゼントもこれだった、と倉知に教えてやりたい。きっと感動もひとしおだろう。でも今は言わない。なんせ、酔っている。
「加賀さん、似合う?」
「うん、似合う。カッコイイよ」
 倉知が嬉しそうに目を細めて、菩薩のような柔和な顔をした。
「カッコイイのは加賀さんです。どの角度から見ても、カッコイイ。ここからも、ここからも、ここからだって」
 俺の顔をいろんな角度から覗き込んでくる。倉知じゃなかったらどついているかもしれない。
「はあ、カッコイイ」
 人目もはばからず抱擁して、好き、好き、とこめかみにキスをする。父の前だというのにまったく遠慮がない。普段の倉知なら、手を繋いでいるところを見られただけでもテンパっているだろう。酒は怖い。
 料理もアルコールもなくなって、お開きにしようとなるまで倉知は俺を解放しなかった。最初は冷やかしたり恥ずかしがったりしていた家族たちも、終盤になると、六花以外は誰も関心を示さなくなり、穏やかに、和やかに、時間が過ぎていった。
 食事を終えるといい具合に酔っ払った大人たちが各自、おやすみ、と言い置いて自分たちの部屋に引き上げていった。六花が飽きもせずに俺と倉知にスマホを向け続けていたが、五月とハルさんに引きずられて撤収の運びとなった。
 今日は、二人の父、倉知家の女性陣にハルさんが加わり、男女で分かれた部屋割りだった。男四人で同じ部屋にしようかと提案したが、誕生日なんだからと気を遣われた。
 倉知は、最後まで二人きりの夜を過ごせる、とご満悦だったが、俺は自分の体が心配だった。旅行中、セックスをしなかったのは上高地を歩き回った日のみで、あとはまさにやりまくりの日々だった。倉知は、枕が変わると興奮する性質らしい。
 今日は誕生日だし、やらないわけがないよな、と日が高いうちから気を揉んでいたが、倉知が酩酊したおかげで何もせずに終わりそうだった。
「倉知君、歩ける?」
 足元がふらついてはいたが、一応まっすぐ立っている。
「歩けるし、走れます。競争します?」
「しない。ほら、手ぇ繋いでやるから」
 倉知の手を取って、引っ張った。
「へへへ」
 嬉しそうにほわほわと笑いながら手を振り回す。
「楽しいですね」
「それはよかった」
「加賀さん、加賀さん」
「はいはい」
「大好き」
「うん、俺も大好きだよ」
「やったー、両思いだー」
 すれ違った宿泊客が面白そうに見ていたが、おそらくただの酔っ払いだと思われた。人前で臆せずのろけられるのはこういうときくらいだろう。
 部屋に戻ると、布団が二組、敷いてあった。倉知を布団に転がすと、俺も隣に寝転んだ。
「気持ち悪くなったら言えよ?」
「大丈夫です、俺全然、酔ってませんよ。だって気持ちいい。加賀さんも気持ちいい?」
「うん。気持ちいいよ。あー、寝そう。歯磨きしないと」
 寝転んで目を閉じるともう眠い。うとうとしていると、腹の上に圧力を感じた。眠気が吹っ飛んだ。目を開けると、オレンジ色の薄明かりの下で、倉知が俺にまたがって見下ろしていた。
「寝ないの?」
「もっと気持ちよくなりませんか?」
「あー……、えっと」
「今日俺、誕生日です」
「うん、だよね。おめでとう」
「したい」
 倉知が俺の浴衣の中に、手を差し入れてきた。乳首を爪でいじくりながら、もう一度切なげにつぶやいた。
「したいです」
「わかった。いいよ」
 安心したように笑うと、俺をまたいだ状態で両膝をつき、自分の浴衣の前をくつろげて、半分起きかけたペニスを放り出した。
「挿れたい」
「うん」
 俺を見下ろしたまま、自分のペニスをしごきながら、手のひらに唾液を落とす。それを塗り込んで、指を入れて押し広げるように出し入れしているのは、倉知自身の秘部だった。
 声を漏らし、腰を揺らして両手を忙しく動かす倉知を見上げて「嘘だろ」と呟いた。
 どうやら挿れたいのは、自分に、らしい。
 俺にまたがったまま、エロい声を出してエロいことをしている倉知から目が離せない。
「いいの? これじゃ俺の誕生日だよ?」
 浴衣からさらけ出された倉知の太ももを撫でて訊いた。
「いいんです」
 倉知が声を上ずらせた。
「なんかここ、熱くて、すごい疼いてて、加賀さんのが欲しくて堪らないんです」
 涙声で倉知が訴えた。俺の股間は瞬時にみなぎり、浴衣を押し上げて見事に勃起した。
「俺、変ですか?」
「変なもんか。いい。可愛い。エロい。最高」
 誉めておだてると、倉知がはにかんだ。俺の股間を手探りで鷲づかみにし、「勃ってますね」と嬉しそうに言った。
「倉知君がエロいからだよ」
「二十歳になったから、大人の色気が出たんです」
「何それ、可愛いな」
 まだまだ可愛い。あどけない。果たして倉知が大人の色気を放出するにはあと何年かかるだろうか。何年かかってもいい。堪能するのが楽しみだ。
「加賀さん、挿れてもいい?」
 答える暇もなく、俺のペニスの先端が、倉知の中に埋まっていた。
「ゴムは?」
「もう、残ってません」
 言いながら腰を落としてくる。
「痛くない?」
「んっ……、うん、入る、は……いり、ます」
 浴衣をたくし上げ、俺をすべて中に収めようとしている。少しずつ腰を上下させ、咥え込んでいく。中は狭い。イキそうになり、思わず目を閉じて、視界を遮断した。
「好き」
 倉知の声が降ってきた。目を開ける。とろけそうにエロい顔で、俺を見下ろしている。
「大好き」
「うん、俺も、大好き」
「好き、ほんとに、死ぬほど好き」
 好き、好き、と繰り返しながら、腰を振る。乗られてはいるが、体重はかかっていない。体幹を鍛えているからこそできる技だ。
 まさか、倉知に騎乗位で襲われる日が来るとは思わなかった。想像したことはある。潰されるかも、という恐怖で妄想を終了したが、思ったより、いい。かなりいい。いや、めちゃくちゃいい。最高だ。
 倉知が自分から俺を咥え、腰を動かし、快感を貪る様は、今すぐにでもイケるほどの絶景だった。赤く染まった頬が可愛い。腰を振る姿が健気に映り、胸が詰まる。体を弾ませるたびに、勃起したペニスが縦横無尽に暴れ回るのも、最上級に、エロい。
 今目の前で繰り広げられている痴態は、この旅行で観たどの景色よりも素晴らしい。
「好きっ、好き、加賀さん、すき」
「う……っ、やべえ、出そう、止まって」
 上体を起こし、倉知の腹を押して、止めようとした。倉知は首を横に振って「やだ、気持ちいい」と叫んだ。
「加賀さんのっ、チンチン、気持ちい……っ!」
 淫語を叫び、止めるどころか余計激しくされて、制御不能になった。小さく声を上げ、中に精を放つ。倉知はそれでも止まらない。後ろ手をついて、仰け反るような格好で腰を上下させている。
「どうなってんだよ、お前……、本気でやばい、ちょっと、待って」
 自分の出した精液のおかげで、中が潤い、圧倒的に滑りがよくなった。つまり、俺も倉知も気持ちよさが増大した。出したばかりなのに、凶悪な快感に羽交い絞めにされ、絶叫する。
 倉知が意識を失うまで、俺は精液を搾り取られ続けた。
 酔うとキス魔になる?
 甘い。そんな可愛らしいものじゃない。
 明日の朝、倉知にかける第一声が決まった。
「おはよう、セックスマシーン」


〈倉知編〉

 酔うと記憶を失くす。よく聞く話だ。
 加賀さんも泥酔するとそうなるし、万が一自分が酔った場合に、何かをしでかしたとして、それを覚えていない状態になるのだろう、と思っていた。
 恐ろしいことに、すべて覚えていた。
「おはよう、セックスマシーン」
 起き抜けに加賀さんが言った言葉が、俺の顔に火を点けた。昨夜の失態を一から十まですべて覚えている。
「違うんです」
「何が?」
「その、あんなこと、俺、酔ってて、だから、その」
 まとまらない言い訳をしてから、耐え切れずに枕に顔を突っ伏した。
「覚えてんの?」
「……残念ながら、全部覚えてます」
「昨日の、夢じゃないよな? 記憶の答え合わせしていい?」
「ダメです、恥ずかしいです」
「加賀さんのチンチン気持ちいいって」
「わー、やめて! 忘れてください!」
 耳を塞いでのたうち回ったが、すぐに動きを止めた。
 下半身が、重い。腰に鈍い痛みがあるし、おもにあそこが、加賀さんを受け入れていた部分が、ジンジンと熱を持っているようだった。
「お尻痛い?」
 加賀さんが言いながら俺の尻を撫でてくる。
「痛いから触らないで」
「なあ、お前、俺がいないとこで酒飲むの禁止だからな」
「え」
「酔って淫乱になって誰彼構わず咥え込まれると困る」
「しません、そんなこと」
「絶対?」
「絶対」
「俺だけ?」
「加賀さんだけです」
「うん、じゃあいいや」
 浴衣姿であぐらを掻いて座っていた加賀さんが、満足げに微笑んだ。その表情が、不意に陰る。
「ところで、悲しいお知らせがあるんだ」
「え、なんですか」
 ギクリとして聞き返した。加賀さんが立ち上がり、浴衣の帯を解きながら言った。
「温泉入ってる時間がない」
 深夜か早朝に、と目論んでいたのに、俺が酔ったせいで入り損ねてしまった。
「今から入りますか?」
「無理、タイムオーバー」
「そんな」
 温泉旅館に来ておいて、温泉に入らないなんて。ものすごく、もったいない。
「まあいいよ。また来ような」
 スルスルと浴衣を脱いで、あっという間に全裸になった加賀さんが、「お前も早く服着ろよ」と言った。加賀さんは浴衣で、俺は素っ裸。意識のない人間に浴衣を着せる苦労は想像できる。何度も中に出されたが、体は綺麗にしてくれているようだし、それだけでも感謝しなければならない。
 全裸なのは仕方がないが、隠しようがなくて困る。
 加賀さんが下着に足を通しながら、俺の股間を凝視している。そして、はあ、と大きなため息をついた。
「単なる朝勃ち? それとも欲情してんの?」
「後者です」
「お前な」
「だって」
「自重しろよ、セックスマシーン」
「その通り名やめてください」
 顔を見合わせて、笑う。
「楽しいですね」
「うん、そうだな。でももう今日でおしまい」
 俺の服を投げて寄越し、加賀さんが言った。長かったようで短い旅行だった。そう、今日で終わる。大学のこともバイトのことも、他のことは何も考えずに加賀さんだけを見て、感じて、再確認した旅だった。
 俺は加賀さんが大好きだ。
 ただ会話しているだけで楽しくて仕方がなくて、好きと感じない瞬間がない。呼吸をするたびに、好きだと思う。自分の中が、好き、という感情で溢れている。
 今日はホテルで朝食を食べてすぐに出発し、新幹線で帰るだけだ。昼前には地元に着く。
 明日から加賀さんは仕事で、俺は夏休み中でバイト三昧だが、月曜は定休日だ。洗濯と掃除に明け暮れることになるだろう。
「この部屋もう戻らないし、忘れ物ないようにな」
 加賀さんが服を着ながら言った。
「なんか寂しいですね。まだ帰りたくない」
 ずっと一緒にいたのに、別々に行動することになる。それが変な感じだった。往生際が悪く、座ったままゆっくりとジーンズを履く俺を、加賀さんは腕を組んで仁王立ちで見下ろしていた。
「俺は早く帰りたい」
「え……、疲れました?」
「おっさんだからね」
 と加賀さんが笑う。
「禁断症状が出てんだよ」
「禁断症状?」
「倉知君の手料理が食べたい」
 予想外の科白に言葉が出なくなる。
「今日帰ったらなんか作れとか言ってるわけじゃなくてな」
「嬉しいです」
 急いでジーンズを履いて、加賀さんに飛びつき、頬ずりをする。
「加賀さん、可愛い。何が食べたいですか?」
「今日はカップラーメンにしよう」
「ダメです、作ります。あ、じゃあカレーにします」
「よっしゃー」
 旅行バッグを担ぎ、部屋を出て並んで歩く。意図せず手が触れ合い、歩きながら、顔を見合わせた。加賀さんが笑って俺の手を握ってくる。
「いいんですか?」
「いいよ」
 早朝の静寂に包まれた旅館の廊下を、二人分のスリッパの音がヒタヒタと冷たく響く。窓の外は木が生い茂っている。この、人の手を加えずに、自分の力で生きている自然の逞しさは、田舎ならではのものだ。
 数時間後にはコンクリートジャングルに帰っているのか、と思ったのが数時間前。
 俺たちはマンションに戻ってきていた。ドアを開けた瞬間に肩の力が抜け、ホッとした。九日間閉め切っていた部屋は空気がこもり、とても快適とは言いがたかったが、懐かしい匂いがする。
「うおー、ただいまー」
 加賀さんが荷物を放り投げて、ソファにダイブした。
「帰ってきちゃいましたね」
「九日間なんてあっという間だったな」
 加賀さんがソファの上で体を起こし、座れというようにポンポンとシートを叩いた。
「楽しかったですね」
 隣に腰をかけ、息をつく。加賀さんが俺の膝に頭を乗せて寝転んだ。
「うん、みんな一緒でよかったよな」
「またどこか行けたらいいですね」
「来年はハワイ?」
「ハワイは結婚式まで我慢しましょう」
 加賀さんが下から俺を見上げ、眩しそうに目を細めた。腕を伸ばして俺の首を引き寄せると、キスをねだるようにそのまま目を閉じる。柔らかい髪を撫でながら、口づける。
 本当に安心できるのは二人きりのこの空間なのだ。人に見られるとか聞かれるとか、びくつく必要はない。絶対に誰にも邪魔されない俺たちだけの時間は、ここにしかない。
 この瞬間の大切さに気づかされるのも、旅のいいところだと思う。
 日常は、愛しくて、尊い。
 翌日は、週の始まりの月曜日。休んでいる間に溜まった仕事の整理をするために、いつもより早く出社する、と加賀さんが言った。それ以外は普段通りで、朝食を作り、一緒に食べて、スーツに着替えた加賀さんを、玄関まで見送りに出る。
「いってきます」
 いつもの流れで、自然に顔を寄せ合い、キスをする。
「いってらっしゃい」
「今日遅いかも。先食べてて」
「わかりました」
 答えると、一瞬間が空いて、しんとなった。ずっと一緒にいたせいで離れ離れになるのがつらい。というのは俺が抱いた感想で、加賀さんがどう感じたのかはわからない。
「じゃあ、行くわ」
 加賀さんが咳払いしてドアノブを握った。
「はい、あ、待って」
「何?」
 加賀さんの背に向かって慌てて呼び止めた。
「ゆ」
 言葉を切る。左手の薬指にペアリングを着けたままだ。旅行中、一度も外さなかったせいで、いやに馴染んでしまった。本人は、着けていることに気づいていない様子だ。
 言葉を切ったのは、このまま出社したらどうなるのだろう、と悪い考えがよぎったからだ。この人は俺のものだと、改めて知らしめることができる。
「ああ、指輪してた」
 加賀さんが俺の視線の先を見て、気づいてしまった。がっかりしたことを悟られないように、明るく笑う。
「はい、外さないと」
 通勤鞄を脇に挟んで指輪を外そうとする加賀さんに、手のひらを差し出した。加賀さんは俺の手のひらを見つめながら「あれ」と首を傾げた。
「やべえ、抜けない」
「え、ど、どうしよう。あ、石鹸で滑りよくしたら抜けるって何かで聞いたことが」
「滑りがいいとか抜けるとか、朝からエロいこと言うなよ」
「違います、エロい意味じゃなくて」
「はは、冗談だよ」
 真顔で答えると、加賀さんが笑って肩をすくめ、「外れるよ」と言って簡単に指輪を外した。
「よかったです」
「本当に?」
 加賀さんが意地悪く俺の顔を下から覗き込む。なんでもお見通しで怖い。
「着けてってみるかな」
「え」
「今日だけな」
 指輪をはめ直し、俺を上目遣いで見ながら、自分の薬指にチュ、と音を立ててキスをした。
「抜けなくなりましたって言ってみるかな」
「でも」
「心配すんなって、すぐ外すよ」
 腕時計に目をやってから、人差し指を唇に当てて「ん、やり直し」とキスを要求してきた。身をかがめ、触れるだけのキスを交わす。
「今度こそいってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
 玄関のドアが開く。加賀さんの背中を、目で追った。ドアが閉まる。瞬間、寂しさが押し寄せる。
 行かないで。
 言えるはずもない科白を舌の上で転がした。
 深呼吸をする。顔面を両手で弾く。食器を片付けて、洗濯をして、掃除をして、それから勉学にでも励むとしよう。
 日常が、始まる。

〈おわり〉
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