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変化の朝
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〈花岡編〉
総務部は他部署との関わりが特に多い部署だ。
円滑に仕事を進めるために、なるべく多くの社員と積極的に関わっていこうとしているのだが、どうも私は嫌われているらしい。
お局と呼ばれ、煙たがられ、バツイチと陰口を叩かれる。私がバツイチなことで、あなたたちに何か迷惑をかけたか? と問いたかった。
女性社員には特に嫌われている。彼女たちの身だしなみや言葉遣いや勤務態度、その他の様々な落ち度を注意するせいだと思う。
よかれと思ってやっているのだ。彼女たちのためにも、会社のためにも。でもそれは、誰にも理解されない。上司ですら、私に恐れをなしている。
「花岡さん、そんなに怒ってばかりいて疲れない? みんな怖がってるよ」
アドバイスも控えめだった。言っている本人が怖がっていることもわかっている。
私は別に、怒っているつもりはない。言い方がきついのと、顔が怖いせいだ。自覚はある。でもどうにもならない。
だから、毎朝、自宅の鏡の前で無理やり笑顔を作る。
私はあなたが好き。
にっこり笑ってそう言うのが、日課だ。誰にも言われない「好き」という言葉を、私は自分に投げかける。誰にも愛されないのなら、自分が愛してあげなければならない。そうしないと生きていけない。
みんな私を強い人間だと思っている。
でも、本当は、強くないのだ。
だからたまに、へこたれる。
一人で平気だと強がっても、誰からも笑いかけられない今の自分はやはり惨めだった。
早朝。会社の駐車場に車を停めたが、なかなか降りられない。エンジンを切った車内で、唐突に空しくなった。
私はどうして働いているのか。嫌われて、恐れられて、それでも歯車の一つを演じるのは、なんのためだろう。
老後のため? 独りの、老後のため?
離婚したことに後悔はない。彼は私を「飯炊きババア」と罵った。
でも、子どもは少し、欲しかった。
そうしたら、誰かのために働いている充足感を得られただろうか。
彼は、子どもはいらないと言った。私は欲しかったのに。彼の望みを聞いたばかりに、今、私は一人だ。
コンコン、と音がした。
ハッとして外を見ると、美しい顔がそこにあった。ウインドウを叩いた加賀君が、「大丈夫ですか?」と窓の向こう側で声を上げた。
慌てて運転席を降りると、何食わぬ顔で「おはよう」と言った。
「おはようございます。もしかして寝てました?」
眩しい。笑顔が眩しい。朝日のせいか、彼はキラキラと輝きを放っている。
「違うわよ、ちょっと考えごとを」
声が詰まる。喉の奥にせり上がってくる圧迫感。飲み込んで、口を開く。
「今日は早いのね」
まだ七時台だ。加賀君は普段もう少し遅く出社する。出勤時と退勤時に、彼の駐車スペースの黒いフェアレディZを無意識に確認する癖がついている。
別に、彼を好きとかじゃない。私は彼より九つほど年上だ。そういう対象にはなりえない。
ただ彼は、社内でただ一人、私を恐れない。
だから気になるだけだ。
「一週間休んでたんで、整理したくて」
二人で並んで駐車場を歩く。それだけなのに、優越感というか、誇らしい気持ちが脳を満たす。
「どこか旅行でも行ってたの?」
彼の有給届の事由の欄には「私用のため」としか書かれていなかった。
「あちこち行きましたよ。軽井沢とか金沢とか。温泉も二か所行ったし」
「贅沢ね。誰と行ったの? 彼女?」
そうに決まっている。加賀君に彼女がいることは有名で、引っ越したのも、車通勤に切り替えたのも、結婚準備じゃないかとうわさされている。こんな人と結婚したら、さぞかし幸せだろう。加賀君は、優しい。自ら私に話しかけるのだから、無限大の優しさを持っている。
羨ましい。加賀君の彼女が羨ましい。
この人は結婚相手を「飯炊きババア」などと、蔑んだりはしない。絶対にしない。
「あー、でも途中から総勢八名の大所帯で」
加賀君が言葉を切って、私を振り返る。
「花岡さん」
私は泣いていた。どうして泣いてしまったのか、わからない。ただ今日は、いろいろ限界にきていて、そこに加賀君が現れたのがいけなかった。
「ごめん、本当に、なんでもないのよ」
泣き顔を見られたくない。急いで指で涙をぬぐう。止まらない。溢れてくる涙を、隠し切れない。うずくまり、膝を抱え、嗚咽する。
急に脈絡なく泣き始めた女。薄気味が悪いだろう。でも加賀君はいつもと変わらない口調で言った。
「何かありました?」
泣く私の前に、加賀君はすとんと腰を落とした。そして目の前に何かを差し出してくる。ハンカチだ。
震える手で受け取って、涙を拭う。
あなたはどうしてそんなに優しいの?
「どうしたら、あなたみたいになれるの?」
「え? 俺みたいって、具体的にどういう?」
「誰にでも優しくて、いつも笑っていられるのは、どうしてなの? 私もそんなふうになりたい」
「あー……」
加賀君が困っている。当然だ。いつもガミガミとがなり立て、他人を叱りつけてばかりの私がこんな質問をするのはさぞかし滑稽だろう。
「変わりたい?」
加賀君が訊いた。
「変わりたい。私だって、みんなから嫌われるのがつらくなるときもあるの」
「変わるのはなかなか難しいと思います」
容赦がない。加賀君が立ち上がる。駐車場の車の陰で突如始まった人生相談は、ものの一分で終了かと思われた。
「おはようございます」
「おっ、加賀、お前な、一週間も休みやがって。ふてぶてしい野郎め」
社員の誰かと話している。私は膝を抱えたまま、立ち上がれずにいた。
「仕事溜まってるから覚悟しろよ」
「はは、頑張ります」
加賀君が休んだ一週間のうち、有給はたったの二日間で、あとはお盆休みだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。加賀君の代わりに言い返してやりたかったが、堪えた。
足音が遠ざかっていくと、加賀君がふっと息をついた。鞄を脇に挟むとポケットに両手を突っ込んだ。
「花岡さんはいつでも正しいですよね」
「……え」
「筋が通ってるし、言ってることは間違ってない。みんな、痛いとこ突かれるのが怖いんです」
間違ってない。
加賀君が私をそう評価してくれたことが嬉しかった。また、泣いてしまいそうだった。
地面を見つめて、歯を食いしばる。
「でも俺は嫌いじゃないですよ」
「え……、え? 何が?」
「花岡さんのこと、嫌いじゃないです」
嫌いじゃない。それは、つまり、好きってこと? と訊くのが怖い。
「あ、すみません、今の上からっぽかったですね」
加賀君が困った顔で頭を掻く。
「違う、謝らないで」
嬉しいから、とは言えずに口をつぐむ。こんなことで、心が洗われ、ぎっしりと、幸福で満たされた。
ハンカチを握りしめ、立ち上がる。私が濡れた頬を拭く間、加賀君は視線を逸らしてくれた。
加賀君はすごい。改めてすごい人だとわかった。見た目も中身も、美しい人。
「偉そうついでに一つだけ言わせてください」
「何、なんでも言って」
「許すことも、大事です」
加賀君が、ほほえんだ。
「俺、すげえ恨んでた人がいて」
「うそ、加賀君が?」
はは、と自嘲気味に笑って、肩をすくめる。
「長年恨んでたその人のこと、許した途端にもうなんかどうでもよくて、一気に軽くなりましたね」
恨んでいる人を、許す。
私にそれができるだろうか。
七年間続いた結婚生活。働くことを辞めさせられ、家事を押しつけられ、子どもを作ることを拒否された。恨んでいる。あの男を、許す。
「どうやったら許せるの?」
「うーん、どうやるんですかね?」
「加賀君はどうやったの?」
「あんま参考にならないと」
「聞かせて」
強い口調で言うと、加賀君は「はい」と観念した。
「あるとき、天使が囁いたんです。嫌いでもいいよって。憎んでることを肯定されて、馬鹿らしくなったっていうか」
さりげなく腕時計を確認して、加賀君が言った。しまった、私は今加賀君の時間を奪っている、と気づいたが、そんなことよりも、とんでもないものを発見し、息をつめて凝視する。
「加賀君」
「はい?」
「結婚したの?」
「え」
加賀君が動きを止めてから、「ああ」と苦笑した。左手の指を広げて、薬指の指輪をかざして見せた。
「すいません、取れなくなっちゃって」
「結婚したの?」
しつこく問いただす私に、加賀君は少しの間を置いてから静かに首を横に振る。安堵のため息が出てしまった。
「まあでも、もうしてるようなもんだし」
かざした左手の指輪を眺める加賀君の目が、優しい。この優しいまなざしを、彼女にも向けているのだ。
羨ましい。どうやったらこんな人に、愛されることができるのだろう。
きっと、素直で、可愛らしくて、いつも笑顔でいられるような人だ。
常に眉間にしわを寄せ、いつでも他人を攻撃している私のような人間は愛されない。誰からも、愛されない。
もういい。贅沢は言わない。加賀君じゃなくてもいい。誰でもいいから私を愛して。
「ごめんなさいね、せっかく早く出社したのに、足止めしちゃって」
ネガティブな思考に支配されながら、精一杯明るい声を出した。
「いえ」
何か言いたげな顔で、加賀君が短く答える。並んで歩いて社屋に向かう。隣にいるだけで、男の人だと思えないくらい、いい香りがする。横目で見る。綺麗だな、と胸が締めつけられる。美術品を愛でるような感覚に近い。もうずっと、見ていたい。お金を払ってもいい。この人のそばにいられたら。
私は何か、変われるかもしれない。
総務部は一階で、営業部は上の階だ。加賀君とはロビーで別れなければならない。後ろ髪を引かれる思いで、「じゃあね」と言い置いて、踵を返す。
「花岡さん」
加賀君が呼び止めた。振り向くと、なぜかニコニコしている。満面の笑みだ。すごく、可愛い。ただ笑っているだけなのに、ひたすらに可愛い。可愛くて、こっちまでつられて笑ってしまった。
「何よ?」
「あ、笑った」
そう言って、目を細めて、また笑う。
「笑ってたら、相手も笑いますよね」
ハッとした。
加賀君が子どものような仕草で手を振ってから、会釈をして言った。
「じゃあ、また。失礼します」
振り返らずに、早足で去っていく。
後姿が見えなくなると、余韻を引きずったまま、総務部のドアを開ける。
「おはよう」
先に出社していた新入りの女性社員が、私を見てすっと背筋を伸ばし、緊張した様子で大きく頭を下げ、「おはようございます」と返してきた。
顔を上げたとき、目が合った。その顔が、驚きの形に変化する。
「何?」
「えっ、あっ、い、いえっ、あの……、おはようございます!」
二度目の挨拶をした社員が、ペコペコと頭を下げてから、なぜかヘラヘラと笑いだす。何がおかしいのか、と思ったが、にわかに気づいた。
もしかして、私は笑っていたのだろうか。だから、この子も笑ったのだ。
「今日も暑いですね」
笑顔で彼女が言った。
「そうね、ちゃんと水分摂りなさいよ。室内でも熱中症になるんだから」
私が言うと、嬉しそうに「はいっ」と返事をする。
ただの日常の会話だ。でも普段ならこうはいかない。
どうして今日は、怯えさせることもなく、スムーズにできたのか。
加賀君のおかげに他ならない。
ありがとう。
心の中で礼を言い、私は、笑った。
〈おわり〉
総務部は他部署との関わりが特に多い部署だ。
円滑に仕事を進めるために、なるべく多くの社員と積極的に関わっていこうとしているのだが、どうも私は嫌われているらしい。
お局と呼ばれ、煙たがられ、バツイチと陰口を叩かれる。私がバツイチなことで、あなたたちに何か迷惑をかけたか? と問いたかった。
女性社員には特に嫌われている。彼女たちの身だしなみや言葉遣いや勤務態度、その他の様々な落ち度を注意するせいだと思う。
よかれと思ってやっているのだ。彼女たちのためにも、会社のためにも。でもそれは、誰にも理解されない。上司ですら、私に恐れをなしている。
「花岡さん、そんなに怒ってばかりいて疲れない? みんな怖がってるよ」
アドバイスも控えめだった。言っている本人が怖がっていることもわかっている。
私は別に、怒っているつもりはない。言い方がきついのと、顔が怖いせいだ。自覚はある。でもどうにもならない。
だから、毎朝、自宅の鏡の前で無理やり笑顔を作る。
私はあなたが好き。
にっこり笑ってそう言うのが、日課だ。誰にも言われない「好き」という言葉を、私は自分に投げかける。誰にも愛されないのなら、自分が愛してあげなければならない。そうしないと生きていけない。
みんな私を強い人間だと思っている。
でも、本当は、強くないのだ。
だからたまに、へこたれる。
一人で平気だと強がっても、誰からも笑いかけられない今の自分はやはり惨めだった。
早朝。会社の駐車場に車を停めたが、なかなか降りられない。エンジンを切った車内で、唐突に空しくなった。
私はどうして働いているのか。嫌われて、恐れられて、それでも歯車の一つを演じるのは、なんのためだろう。
老後のため? 独りの、老後のため?
離婚したことに後悔はない。彼は私を「飯炊きババア」と罵った。
でも、子どもは少し、欲しかった。
そうしたら、誰かのために働いている充足感を得られただろうか。
彼は、子どもはいらないと言った。私は欲しかったのに。彼の望みを聞いたばかりに、今、私は一人だ。
コンコン、と音がした。
ハッとして外を見ると、美しい顔がそこにあった。ウインドウを叩いた加賀君が、「大丈夫ですか?」と窓の向こう側で声を上げた。
慌てて運転席を降りると、何食わぬ顔で「おはよう」と言った。
「おはようございます。もしかして寝てました?」
眩しい。笑顔が眩しい。朝日のせいか、彼はキラキラと輝きを放っている。
「違うわよ、ちょっと考えごとを」
声が詰まる。喉の奥にせり上がってくる圧迫感。飲み込んで、口を開く。
「今日は早いのね」
まだ七時台だ。加賀君は普段もう少し遅く出社する。出勤時と退勤時に、彼の駐車スペースの黒いフェアレディZを無意識に確認する癖がついている。
別に、彼を好きとかじゃない。私は彼より九つほど年上だ。そういう対象にはなりえない。
ただ彼は、社内でただ一人、私を恐れない。
だから気になるだけだ。
「一週間休んでたんで、整理したくて」
二人で並んで駐車場を歩く。それだけなのに、優越感というか、誇らしい気持ちが脳を満たす。
「どこか旅行でも行ってたの?」
彼の有給届の事由の欄には「私用のため」としか書かれていなかった。
「あちこち行きましたよ。軽井沢とか金沢とか。温泉も二か所行ったし」
「贅沢ね。誰と行ったの? 彼女?」
そうに決まっている。加賀君に彼女がいることは有名で、引っ越したのも、車通勤に切り替えたのも、結婚準備じゃないかとうわさされている。こんな人と結婚したら、さぞかし幸せだろう。加賀君は、優しい。自ら私に話しかけるのだから、無限大の優しさを持っている。
羨ましい。加賀君の彼女が羨ましい。
この人は結婚相手を「飯炊きババア」などと、蔑んだりはしない。絶対にしない。
「あー、でも途中から総勢八名の大所帯で」
加賀君が言葉を切って、私を振り返る。
「花岡さん」
私は泣いていた。どうして泣いてしまったのか、わからない。ただ今日は、いろいろ限界にきていて、そこに加賀君が現れたのがいけなかった。
「ごめん、本当に、なんでもないのよ」
泣き顔を見られたくない。急いで指で涙をぬぐう。止まらない。溢れてくる涙を、隠し切れない。うずくまり、膝を抱え、嗚咽する。
急に脈絡なく泣き始めた女。薄気味が悪いだろう。でも加賀君はいつもと変わらない口調で言った。
「何かありました?」
泣く私の前に、加賀君はすとんと腰を落とした。そして目の前に何かを差し出してくる。ハンカチだ。
震える手で受け取って、涙を拭う。
あなたはどうしてそんなに優しいの?
「どうしたら、あなたみたいになれるの?」
「え? 俺みたいって、具体的にどういう?」
「誰にでも優しくて、いつも笑っていられるのは、どうしてなの? 私もそんなふうになりたい」
「あー……」
加賀君が困っている。当然だ。いつもガミガミとがなり立て、他人を叱りつけてばかりの私がこんな質問をするのはさぞかし滑稽だろう。
「変わりたい?」
加賀君が訊いた。
「変わりたい。私だって、みんなから嫌われるのがつらくなるときもあるの」
「変わるのはなかなか難しいと思います」
容赦がない。加賀君が立ち上がる。駐車場の車の陰で突如始まった人生相談は、ものの一分で終了かと思われた。
「おはようございます」
「おっ、加賀、お前な、一週間も休みやがって。ふてぶてしい野郎め」
社員の誰かと話している。私は膝を抱えたまま、立ち上がれずにいた。
「仕事溜まってるから覚悟しろよ」
「はは、頑張ります」
加賀君が休んだ一週間のうち、有給はたったの二日間で、あとはお盆休みだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。加賀君の代わりに言い返してやりたかったが、堪えた。
足音が遠ざかっていくと、加賀君がふっと息をついた。鞄を脇に挟むとポケットに両手を突っ込んだ。
「花岡さんはいつでも正しいですよね」
「……え」
「筋が通ってるし、言ってることは間違ってない。みんな、痛いとこ突かれるのが怖いんです」
間違ってない。
加賀君が私をそう評価してくれたことが嬉しかった。また、泣いてしまいそうだった。
地面を見つめて、歯を食いしばる。
「でも俺は嫌いじゃないですよ」
「え……、え? 何が?」
「花岡さんのこと、嫌いじゃないです」
嫌いじゃない。それは、つまり、好きってこと? と訊くのが怖い。
「あ、すみません、今の上からっぽかったですね」
加賀君が困った顔で頭を掻く。
「違う、謝らないで」
嬉しいから、とは言えずに口をつぐむ。こんなことで、心が洗われ、ぎっしりと、幸福で満たされた。
ハンカチを握りしめ、立ち上がる。私が濡れた頬を拭く間、加賀君は視線を逸らしてくれた。
加賀君はすごい。改めてすごい人だとわかった。見た目も中身も、美しい人。
「偉そうついでに一つだけ言わせてください」
「何、なんでも言って」
「許すことも、大事です」
加賀君が、ほほえんだ。
「俺、すげえ恨んでた人がいて」
「うそ、加賀君が?」
はは、と自嘲気味に笑って、肩をすくめる。
「長年恨んでたその人のこと、許した途端にもうなんかどうでもよくて、一気に軽くなりましたね」
恨んでいる人を、許す。
私にそれができるだろうか。
七年間続いた結婚生活。働くことを辞めさせられ、家事を押しつけられ、子どもを作ることを拒否された。恨んでいる。あの男を、許す。
「どうやったら許せるの?」
「うーん、どうやるんですかね?」
「加賀君はどうやったの?」
「あんま参考にならないと」
「聞かせて」
強い口調で言うと、加賀君は「はい」と観念した。
「あるとき、天使が囁いたんです。嫌いでもいいよって。憎んでることを肯定されて、馬鹿らしくなったっていうか」
さりげなく腕時計を確認して、加賀君が言った。しまった、私は今加賀君の時間を奪っている、と気づいたが、そんなことよりも、とんでもないものを発見し、息をつめて凝視する。
「加賀君」
「はい?」
「結婚したの?」
「え」
加賀君が動きを止めてから、「ああ」と苦笑した。左手の指を広げて、薬指の指輪をかざして見せた。
「すいません、取れなくなっちゃって」
「結婚したの?」
しつこく問いただす私に、加賀君は少しの間を置いてから静かに首を横に振る。安堵のため息が出てしまった。
「まあでも、もうしてるようなもんだし」
かざした左手の指輪を眺める加賀君の目が、優しい。この優しいまなざしを、彼女にも向けているのだ。
羨ましい。どうやったらこんな人に、愛されることができるのだろう。
きっと、素直で、可愛らしくて、いつも笑顔でいられるような人だ。
常に眉間にしわを寄せ、いつでも他人を攻撃している私のような人間は愛されない。誰からも、愛されない。
もういい。贅沢は言わない。加賀君じゃなくてもいい。誰でもいいから私を愛して。
「ごめんなさいね、せっかく早く出社したのに、足止めしちゃって」
ネガティブな思考に支配されながら、精一杯明るい声を出した。
「いえ」
何か言いたげな顔で、加賀君が短く答える。並んで歩いて社屋に向かう。隣にいるだけで、男の人だと思えないくらい、いい香りがする。横目で見る。綺麗だな、と胸が締めつけられる。美術品を愛でるような感覚に近い。もうずっと、見ていたい。お金を払ってもいい。この人のそばにいられたら。
私は何か、変われるかもしれない。
総務部は一階で、営業部は上の階だ。加賀君とはロビーで別れなければならない。後ろ髪を引かれる思いで、「じゃあね」と言い置いて、踵を返す。
「花岡さん」
加賀君が呼び止めた。振り向くと、なぜかニコニコしている。満面の笑みだ。すごく、可愛い。ただ笑っているだけなのに、ひたすらに可愛い。可愛くて、こっちまでつられて笑ってしまった。
「何よ?」
「あ、笑った」
そう言って、目を細めて、また笑う。
「笑ってたら、相手も笑いますよね」
ハッとした。
加賀君が子どものような仕草で手を振ってから、会釈をして言った。
「じゃあ、また。失礼します」
振り返らずに、早足で去っていく。
後姿が見えなくなると、余韻を引きずったまま、総務部のドアを開ける。
「おはよう」
先に出社していた新入りの女性社員が、私を見てすっと背筋を伸ばし、緊張した様子で大きく頭を下げ、「おはようございます」と返してきた。
顔を上げたとき、目が合った。その顔が、驚きの形に変化する。
「何?」
「えっ、あっ、い、いえっ、あの……、おはようございます!」
二度目の挨拶をした社員が、ペコペコと頭を下げてから、なぜかヘラヘラと笑いだす。何がおかしいのか、と思ったが、にわかに気づいた。
もしかして、私は笑っていたのだろうか。だから、この子も笑ったのだ。
「今日も暑いですね」
笑顔で彼女が言った。
「そうね、ちゃんと水分摂りなさいよ。室内でも熱中症になるんだから」
私が言うと、嬉しそうに「はいっ」と返事をする。
ただの日常の会話だ。でも普段ならこうはいかない。
どうして今日は、怯えさせることもなく、スムーズにできたのか。
加賀君のおかげに他ならない。
ありがとう。
心の中で礼を言い、私は、笑った。
〈おわり〉
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2022.04.28
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2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
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2022.05.10
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2022.05.15
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