電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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入れ替わる

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※この話はパラレルです。ありえない「もしも」のお話です。彼らの現実ではないです。パラレルに興味がない方はスルーでお願いします。
直の描写はありませんが、一応それっぽいシーンがあるので苦手な方はご注意を。あと、入れ替わりなので判断が難しいですが、リバに当てはまるかもしれません。ご注意を。



〈倉知編〉

 いつもの時間に目が覚めた。
 ベッドを降りて、寝室を出る。洗面所で顔を洗ったところで、違和感があった。指輪がない。
 濡れた手のひらを見下ろした。薬指の指輪が、ない。血の気が引いたが、よく見るとおかしい。
 これは、俺の手じゃない。
「え?」
 思わず声が漏れた。その声にギクリとして、慌てて鏡を見た。
「加賀さん」
 つぶやいて、自分の顔を撫でる。
 鏡に映っていたのは、自分の顔じゃなく、加賀さんの美しい顔。
 ぼんやりと顔を撫でた。手のひらに伝わるすべすべの肌の感触は、加賀さんのそれだ。服をめくる。間違いなく、加賀さんの体だ。
「すごい」
 ご褒美みたいな夢だ。
 ズボンと下着を引っ張って、中を覗く。
「すごい」
 加賀さんだ。俺は今、加賀さんだ。
 手を突っ込んで、触ってみる。やっぱり、これは紛れもなく加賀さんの体だ。
「あれ……、なんか、気持ちいい……?」
 リアルな夢だ。こすればこするほど快感と硬度が増していく。手を動かしながら、股間を凝視する。先端からにじみ出てくる透明の液体。
「う……」
 呼吸が荒くなる。気持ちがよかった。加賀さんの体なのに、俺の意志で動かして、快感を貪ることができる。なんだか申し訳ないような、ラッキーなような。とにかく、せっかくの楽しい夢だ。堪能しないともったいない。
 調子に乗ってこすっていると、後ろ頭を叩かれた。
「何やってんだよ」
 俺の声だ。振り返ると俺がいた。
「あ、俺だ」
「うん、なんか、入れ替わってるみたいだな」
 くあ、と大きな口を開けて、俺があくびをした。加賀さんだ。喋り方と動作で、加賀さんだとすぐに気づく。
 外見は俺で、中身が加賀さん。外見は加賀さんで、中身は俺。
「そうか、入れ替わった夢ですね」
 我ながら理解が早い。
「いや、夢じゃないよ」
「え?」
 俺が顔を洗っている。夢じゃない? どう考えても夢だ。
 タオルで顔を拭い、俺が振り返った。そしておもむろに頬を叩かれた。
「いたっ」
 体が吹き飛んで、たたらを踏む。
「何するんですか」
「ごめん、すげえ強かった。力の加減わかんねえ」
 俺が、いや、加賀さんが、右手を閉じたり開いたりしながら謝った。
「軽くパチンってやって、痛いから夢じゃないだろってやりたかったんだけど」
 俺の頬を撫でながら、堪え切れない様子で突然吹き出した。
「お前の体、ゴリラみたい」
「ゴリラって」
「まあいいや、早く朝ご飯食べて、準備しないと」
「えっ」
「何、えって」
「まさか、仕事行くんですか? その、俺の姿で?」
 入れ替わったなんて言っても、誰も信じてくれない。「加賀です」と胸を張って出勤するつもりだろうか。完全におかしな人じゃないか、と青ざめていると、加賀さんが「違う」と呆れた顔で言った。
「お前が行くんだよ」
「俺が?」
「だってお前、鏡見ろよ」
 言われて素直に鏡を見る。加賀さんと目が合った。
「お前が俺だろ」
「そう、ですけど、待って、俺、加賀さんの仕事なんてわかりませんよ?」
「俺の仕事なんて大したことないよ」
 そう言い置いて、スタスタとキッチンに向かう。オロオロする俺を放置して、加賀さんが俺の体で朝食作りを開始している。
「加賀さん、なんでそんなに落ち着いてるんですか?」
 ありえない、漫画みたいな展開なのに、受け入れるのが早すぎる。
「騒いでも仕方ないだろ」
「そうですけど……」
 鍋に火をかけて、俺がこっちをちら、と見た。そして、おかしそうに笑った。
「よくあるじゃん、入れ替わり」
「え? よくあるんですか? そんなにみんな、入れ替わってるんですか?」
 外見俺の中身加賀さんが、顔を背けて肩を震わせた。笑っている。声を出さずにものすごく笑っている。少し経ってから、大きく息をついて、ニヤニヤしながら言った。
「映画とか漫画とか、虚構の世界ではよくあるって話な」
「確かに、男女が入れ替わるアニメ、ありましたけど」
 そうそう、と相槌を打ってまな板を出すと、ネギを切り始めた。
「もし女になったら、俺ならとりあえず鏡の前で全裸かな」
「……加賀さん、俺の体で変なこと言わないでください」
 心配になってきた。そしてにわかにハッとする。
「加賀さんは? もしかして大学、行くつもり?」
「行くよ」
 平然と答えてフライパンをコンロに置いた。
「倉知君、皿。目玉焼き担当な」
 操られるように皿を出し、目玉焼きを作り始めた。朝食を共同作業で用意すると、ダイニングに腰を下ろす。いただきます、と声を揃えて黙々と箸を動かした。
 変だった。すごく、変だ。目の前に自分がいる。自分が食べている光景を、見ている。
 落ち着かない。ずっと心臓はドキドキしているし、手も震えている。
 俺たちはもっと取り乱してもいいはずだ。会社とか、大学とか、そんな悠長なことを言っている場合じゃない。
 病院に行くとか、何か他にすべきことがあるはずだ。
「とりあえず、会社着いたらめぐみさんに相談して。俺の仕事内容把握してるから」
 朝食を終えると、加賀さんが俺の服を脱がし、スーツを着せながら言った。
「あの……、信じると思います?」
「信じるよ」
 どうして言い切れるのだろう。
「加賀さん、俺たち、病院に行ったほうが」
「馬鹿、そんなもん、取り合ってくれるはずないだろ」
 のろのろとワイシャツのボタンをはめる俺に目線を合わせ、顔を覗き込んでくる。
「楽しくない?」
「……え?」
「俺、すげえ楽しいんだけど」
 明るく笑う自分の笑顔は眩しかった。中身が加賀さんというだけで、自分なのに危うくキュンとしかけてしまった。
「本当に前向きですね」
「うん、お前はやっぱり後ろ向きだな。ネクタイ締めてやるよ」
 俺にネクタイを締められている。自分を見上げた。いつもこんなふうに見上げてるんだな、と不思議な感覚だった。
「運転、大丈夫だよな」
 車のキーを投げてくる。受け取って、うなずいた。
「いってらっしゃい」
 俺が、手を振っている。手を振り返して、思いつく。
「あの、キスは?」
「自分にされたい?」
 苦笑して、俺が首をかしげた。中身は加賀さんだ。俺の姿をしていても、加賀さんなのだ。
 返答に詰まると、加賀さんが肩をすくめてから顔を近づけてきた。唇が、軽く触れ合う。
「いってらっしゃい」
 俺の声で俺の顔。でも加賀さんだ。いってきます、と答えて部屋を出た。
 フェアレディに乗り込むと、バックミラーを確認する。ステアリングを握り、ため息を吐き出した。
 俺は今、加賀さんだ。
 やれる自信がない。カッコよくて、堂々としていて、陽気で楽しくて、誰からも好かれる気さくな加賀さんを、俺が演じられるとは思えない。
 どうしようどうしようと半泣きになりながら、高木印刷へと車を走らせた。


〈加賀編〉

 鼻歌が出た。
 とにかく楽しくて仕方がない。
 階段から落ちたわけでも、怪しげなクッキーを食べたわけでもないが、俺たちは入れ替わってしまった。
 原因はわからない。でもまあ、なんでもいい。
 多分そのうち元に戻るだろう、と楽観的に構えていた。
 倉知の体で、倉知として、生活を送ることができる。こんなに面白いことが他にあるか。
 仕事も気がかりではあるが、なんとでもなる。倉知は優秀だ。きっとそれなりにやってくれるだろう。
 そんなことよりも、見ろ、この肉体美を。
 鏡の前で上半身裸になり、筋肉を盛り上げて、いろんな角度から眺めて遊んでいた。
「はは、すげえ」
 筋肉ポーズで写真を撮る。連写に連写を重ね、スマホのギャラリーを本人の裸体まみれにしてやった。ひとしきり遊び倒し、気が済んだ。
 そろそろ学校に行く準備をしよう。
 倉知の作った時間割を確認すると、必修科目は二限と三限のみで、他は出なくてもよさそうだ。とりあえず二コマだけは出て、あとは帰ることにした。授業ばかりは本人が出ないと意味はないのだが、ノートだけは真面目にとってやらなければ。
 使命感を胸に抱いて、マンションを出た。
 俺の身長は百七十四センチ。倉知は百八十七センチ。十三センチの差というのはでかいらしい。いつもと見る景色が違う。すれ違う人が、小人に見える。妙な優越感に浮かれながら、電車に乗り込もうと一歩踏み出したところで、ゴンと重い音がして、目の中に火花が散る。激痛に頭を抱え、うずくまる。
「い……ってー」
 電車の入り口に頭をぶつけたらしい、とすぐに思い至る。
「大丈夫ですか?」
 心配する乗客の声が、笑いを含んでいた。
「大丈夫ではないですけど大丈夫です」
 答えて頭を撫でさする。
 倉知君、ごめん、と心の中で謝った。背が高いとこんな弊害もあるらしい。せいぜい気をつけよう。大事な倉知の体をこれ以上痛めつけるわけにはいかない。
 大学に到着し、教室に移動する。大げさに頭を傾けて、慎重にドアをくぐり、空いている席に適当に座った。当然というか、若者ばかりだ。キャッキャウフフと、独特の華やかさがある。
 男子も女子も、倉知を見ると「おはよう」と気軽に挨拶をしてくる。当然だが、誰もが俺を倉知だと信じて疑わない。
「倉知」
 隣の椅子に座った人物が、倉知を呼ぶ。橋場だった。
「お、橋場君。久しぶり」
「は? 久しぶりって、昨日も会ったじゃないか。それに、なんで君付け?」
 気味が悪そうに顔を歪め、聞き返してきた。
「間違えた。おはよう、橋場」
「おはよう。今日、なんでこんなに後ろの席なんだ?」
「え?」
「いつも前のほうなのに」
「そうなの? こんなでかい図体なのに?」
 橋場が黙り込んで、じろじろと観察を始めた。まずい、もっと倉知っぽく振る舞うべきだった。まあ別に、中身が俺だとバレたところで、問題はないのだが。
 むしろ、バラしたい。頭の固い橋場が、入れ替わりなんて非現実的なことを受け入れるだろうか。
 試してみよう。
「なあなあ、橋場君」
「また……、それやめろ。気持ち悪いな」
「俺、実は倉知君じゃないんだよ」
 ヒソヒソ声でそう言うと、橋場がポカンとなった。
「さて、誰でしょう」
「言っている意味がわからない」
「だから、中にいるのが倉知君じゃないんだよ」
「中?」
「中」
 頭を指さして、ニヤリと笑ってみせた。橋場は顔全体をしかめて、馬鹿にしたような冷めた目で俺を見る。やれやれという感じで首を左右に振って、それきりこっちを見なくなった。
 すごい。すごいノリの悪さだ。橋場は思った通りの奴らしい。
 授業が始まると、頬杖をついて黒板を眺めた。授業は教育学概論で、俺には縁のないジャンルだが、かなり面白い。教育の現場に限った話ではなく、社会全般に通用する話だった。
 大人になって社会に出てからこういう話を聞くのもいいものだ。指導する立場の人間が聞くと得るものが多いだろう。ノートを取りながら、真面目に授業を聞いていると、視線を感じた。橋場が怪訝そうに、俺の顔と手元を交互に見ている。
「何?」
 小声で訊いた。橋場がノートを凝視して「字が」と言った。
「字が違う。倉知の字じゃない」
 ノートに目を落とす。倉知の字は特徴的だ。あいつの本質を映し出したような、丸っこくて女子高生みたいな可愛らしい字を書く。
 俺の字はおっさんだ。一応、丁寧に書いてはいるが、おっさんの字だと思う。
「筆跡がまるで違う。急にこんな、上手くなるはずない」
 橋場がノートに顔面をくっつけてうなっている。やがて顔を上げて、小さく飛びのいた。
「お前は……、誰だ?」
 芝居がかった科白に、吹き出してしまった。大笑いしていると、教壇に立っていた講師が「そこ、静かに」と睨んできた。二人で頭を下げて謝って、目を見合わせた。眼鏡の奥の橋場の目が、糸のように細い。その目が急激に大きく見開かれた。そして、消え去りそうな声でうめく。
「加賀さん?」
 にこりと微笑んで、目でうなずいた。
「正解」
 さすがというべきか、聡い。
「なんでわかったの?」
 授業が終わると、教室を一緒に移動しながら訊いた。橋場は静かに興奮していた。
「本人じゃないとすると双子説が最有力ですが、倉知は姉が二人の三人兄弟のはずなので、すぐに却下しました」
「はは、双子って」
 橋場は意外と愉快な思考回路をしているらしい。
「僕を橋場君、と呼んだことと、久しぶり、という言葉から、知り合いなのは明白です。加えて、倉知を倉知君と呼ぶ人物。導き出される答えは一つ」
「よっ、名探偵」
 煽てると、橋場はまんざらでもない顔になった。
「それにしてもすごい特殊メイクですね」
「はい?」
「声も倉知だし、身長も体形も、どうやって変えてるんですか?」
 橋場は真顔だ。
 俺が「加賀さん」だと正体を見破ったのは褒めてやりたいが、入れ替わっているという発想には辿り着けなかったらしい。
「惜しい」
「惜しい?」
「入れ替わってるんだよ、中身が」
「中身?」
「人格? 魂? 脳みそ? 精神?」
「よくわかりません」
「ほら、あるだろ、アニメとか映画とかで。俺たち入れ替わっちゃった、みたいなの」
「僕はアニメも映画も観ません」
「マジか」
 橋場らしいといえば、らしい。キョトンとする橋場の肩を叩いて、「とにかく」と咳払いをする。
「今俺の体に倉知君が入ってんの」
「倉知が入ってる?」
「エロい意味じゃないよ」
「エロい意味?」
 なんというまどろっこしさだ。
「俺の代わりに、俺の体で、俺の仕事してんだよ」
 橋場は不可解丸出しの顔をしていた。仕方がない。こんなことをあっさりと信じられる人間は、ほぼいない。
 今頃倉知はどうしているだろう。会社の連中は、果たしてこの荒唐無稽な真実を、信じることができるだろうか。


〈倉知編〉

 女性から注がれる視線の多さとその熱に、今さら驚きはしない。やはり、そうなのか、という感想。
 まさに、集中砲火だ。
 おはようございます、と上目遣いでハートを飛ばしてくる。多分加賀さんは、毎朝この人たちに、最高に素晴らしい爽やかな笑顔を向けて、挨拶を返しているのだろう。女性たちの期待した目でわかる。
 一応の笑顔を浮かべ、返事をして、足早にフロアに向かう。社内の大まかな見取り図を教えられていたおかげで、迷子にはならなかった。
 無事に営業部のフロアに辿り着くと、俺を見つけた前畑さんが「加賀君、おはよう!」と声を上げた。
「お、おはよう、ございます」
 緊張して声が震えた。前畑さんが異変に気づくのは早かった。
「どうしたの? 具合悪い?」
「い、いえ、あの、実は」
 広いフロアの中に、見知った顔は前畑さんと後藤さんだけ。少し離れた席に、数人の社員が座っていたが、こっちの会話は気にしていない。
「俺、加賀さんじゃないんです」
 観葉植物に水をやっていた後藤さんが、手を止めてこっちを見た。
「その、朝起きたら、なんでか入れ替わってて、俺、倉知です。倉知七世です」
 いきなり核心をついてしまった。恐る恐る二人の顔を順番に確認した。前畑さんは口を開けて放心していて、めぐみさんはキャビネットの上に突っ伏している。
「加賀君、どうしちゃったの? もしかして寝ぼけてる?」
 前畑さんが席を立ち、駆け寄ってくる。
「違うんです、寝ぼけてないです。俺も夢だと思ったけど、とっくに目覚めてるんです」
 ブッ、と吹き出したのはめぐみさんだった。ひーっひっひっひ、と甲高い笑い声を上げて、腹を抱えてキャビネットを乱打している。
「こんなこと、信じられなくて当然だと思います。でも、俺は加賀さんじゃなくて」
「加賀君、しっかりして!」
 前畑さんが揺さぶってきた。めぐみさんは相変わらず笑い転げている。
 加賀さんは、自信満々にめぐみさんなら信じると言い切った。全然じゃないか。
「あの、本当なんです」
 泣きたくなってきた。手から通勤鞄がすっぽ抜け、フロアに重い音が響く。めぐみさんの笑い声が止んだ。体を起こし、呼吸を整え、乱れた髪を撫でつけて俺のかたわらに立った。
「七世君」
「はい」
「加賀君ね、毎日七世君のこと可愛い可愛いってのろけまくってるよ」
「え」
「いい子、大好き、ってもうほんと、毎日うるさいんだよね」
「そうなんですか?」
 顔が熱くなってきた。照れまくる俺を、めぐみさんがじっと見ている。
「加賀君のこんな顔、初めて見た」
「う、うん、か、可愛い……」
 めぐみさんと前畑さんが、うなずき合っている。
「本当に七世君?」
 前畑さんが訊いた。
「そうです」
「なんで?」
 めぐみさんが難しい顔で腕組みをして首をひねる。
「わかりません」
「あっ、じゃあ、加賀君が今、七世君ってことだよね?」
 前畑さんが手のひらを打ち合わせて言うと、めぐみさんが口元をにやけさせて吹き出しながら訊いた。
「学校行ってるの?」
「そうです」
「うっそぉ、想像すると面白すぎる」
 二人が体をくっつけて、クスクス笑っている。確かに面白いのだが、このままだといろいろと支障が出る。加賀さんが教師になって、俺が高木印刷で働く。人生を交換したことになる。でも別に、それでもいいのかな、とも思う。
 だって俺は、加賀さんと一緒にいられればそれでいい。
「加賀君、なんて? 仕事して来いって?」
 めぐみさんが笑いを堪えた顔で訊いた。
「はい、めぐみさんに相談しろって。めぐみさんなら信じるって、言ってました」
「あいつも適当だなあ」
 そういうめぐみさんは、嬉しそうに見える。
「じゃあ、とりあえず今日の仕事、がんばってやり遂げようか」
「よろしくお願いします。お世話になります」
 深々と頭を下げると、めぐみさんと前畑さんが爆笑する。
「腰の低い加賀君、萌えるっ」
「このまま戻らなくてもいいよね」
 可愛い、可愛い、となぜか好評だ。
 今日の仕事は、顧客との打ち合わせが二件、納品が三件に、見積もりの作成等々、やることがたくさんある。俺には知識も経験もない。教えられてもこなせる自信はなかったが、高橋さんが一日ついてくれることになった。若干不安だったが、彼は胸を叩いて力強く宣言した。
「僕にお任せを」
 始業時間ギリギリに出社した高橋さんをこっそりと部屋の片隅に呼び出して、入れ替わった、と説明した。高橋さんは、恐ろしいほどにあっさりと状況を把握し、瞬時にして受け入れた。嘘だとか、冗談だとか、疑う言葉がないのが逆に怖い。
「今日、なんか加賀さん、大人しいね」
 行く先々でツッコミを入れられた。俺は何も喋らずに、ニコニコしているだけだった。下手なことを言って、加賀さんの評判を落とすわけにはいかない。
「ついに、僕が一人前になるときが来たんです」
 高橋さんが誇らしげに言った。
「高橋君、何年目だっけ?」
「四年目です」
 小太りの製菓会社の社長は、並べられた二枚のチラシの見本を見比べながら、「長かったね」と苦笑した。
「加賀さんから見てどうなの? 高橋君は一人前になったと思う?」
 意見を求められ、高橋さんの横顔を見た。前畑さんや後藤さんは高橋さんをいまだにこき下ろしているが、加賀さんは違う。高橋さんを悪く言ったことは一度もない。あいつは頑張ってる、と褒めてさえいた。
「はい、安心して任せられます」
 高橋さんが驚いて俺を見る。
「もう一人前です」
「加賀さんがそう言うなら、信用しようかな」
 そんなふうに言わしめる加賀さんも、すごい人だと感心した。
「七世君、気を遣わせちゃってごめんね」
 帰りの車の中で、高橋さんが申し訳なさそうに言った。
「主任、怒らないかなあ。俺はお前を認めてねえ、とか言われちゃったりして」
「さっきのは、加賀さん自身の言葉です」
 赤信号で停車して、助手席の高橋さんを見た。半開きになった口から「へ?」と気の抜けた声が漏れる。
「あいつは俺がついてなくても大丈夫だって、安心して任せられるって、加賀さんが言ってました」
「本当に?」
「本当です」
 俺は代弁しただけだ。加賀さんの口で、無責任に太鼓判を押すような発言を、するわけがない。高橋さんが、唐突に飛びついてくる。
「しゅにーん!」
「あの、俺、主任じゃないです」
「そうだった」
 シートに座り直し、はあ、と高橋さんが大げさなため息をついた。
「早く主任に会いたいなあ。元に戻るよね?」
「わかりません」
「雷に打たれてみたら?」
 急に怖い提案をされた。
「出会い頭に衝突するとか、あっ、キスしたら入れ替わるっていうのもあったっけ」
「それ、漫画か何かの話ですか?」
 どうやら高橋さんがすぐに入れ替わりを信じたのは、漫画やアニメの影響らしい。現実に起こりうる現象だと思っていそうだ。
「キスしてみたらどう?」
「キス……は、してみましたけど、ダメでした」
 高橋さんが意味ありげにウフフと笑う。
「そうだ、じゃあ、エッチしてみたらどうかな?」
「エッチ」
「セックス」
「セッ……」
 言葉を切る俺に、高橋さんが親指を立てて見せた。
「今日帰ったら、やってみて。絶対戻るから」
 どうしてこんなにも自信満々なのかはわからないが、やってみよう、という気持ちになった。


〈加賀編〉

 夕飯の準備をして、俺が帰るのを待つ。
 なんだこれ、と笑いがこみ上げてくる。一体いつまでこんな茶番を続けなければならないのか。
 倉知の体は居心地がいい。竹馬にでも乗っているように視界は開けているし、エネルギーに満ちている。あいつが暇さえあれば筋トレをしている理由がわかった気がする。
 体力があり余っているのだ。とにかく疲れない。
 素晴らしい。倉知の肉体は素晴らしい。それはよくわかった。
 入れ物としては最高なのだが、この体はやはり倉知のものだ。
 自分に戻りたいし、この体を返したい。
 抱き合うことも、キスをすることも、できないわけじゃないが、複雑でぎこちなくなってしまう。セックスだって、できるかどうか。
 ものすごく馬鹿げているとは思うが、インターネットで「入れ替わり 元に戻る方法」と検索をかけたほどだった。
 答えは当然、出てこない。
「ただいま」
 ドアが開く音のあとで、疲れ果てた自分の声が聞こえた。
「おかえり」
 出迎えると、俺の姿をした倉知が、「うわっ」と声を上げた。
「お、俺だ」
「うん、お前だ」
「そっか……、そうですよね」
「お疲れ。大丈夫だった?」
 倉知は答えずに、足元をふらつかせてソファに倒れ込んだ。
「加賀さん」
「ん?」
「お仕事、大変ですね。いつも本当にお疲れ様です」
「お、おう」
 悟りを開いた様子だ。目を閉じて、ぶつぶつ言い始める。
「社会に出るって本当に大変だ……、みんなすごい、世の中の働いてるすべての人に言いたい、お疲れ様ですと」
 気疲れというか、精神的に疲れたのだろう。慣れないことをすれば当たり前だ。
「本当に大丈夫?」
「……はい」
 間を置いて答えると、目を開けた。そして、俺を見る。
「加賀さん、セックスしましょう」
「……ん?」
「高橋さんが言ってたんです。セックスすれば元に戻るって」
「あいつら信じた?」
「はい、即です」
 なんとなく想像がつく。後藤と前畑の爆笑する姿、高橋の寂しそうな顔が浮かぶ。
「加賀さん」
 俺の声が俺を呼ぶ。スーツを着た俺が、ネクタイを解き、ジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツを脱ぐ。ベルトを外し、ズボン下ろしてパンツ一丁になった。
「セックスしましょう」
「あー……、ちょっと待て、どっちがどっち?」
 倉知が黙る。口を閉ざしたまま、下着を脱ぎ捨て全裸になった。
「どうでもいいです。早く、セックスしたい」
 驚くほどそそられない。なんせ自分だ。真っ裸の自分に迫られても全然嬉しくない。倉知もおそらく、同じような感覚だろう。勃起もしてないし、うわ言のようにセックスセックスと繰り返すわりに、まったくその気はなさそうだ。
「つらいです」
 俺が泣き顔になった。
「加賀さんを抱きしめたいのに、できない。加賀さんにキスしたいのに、加賀さんの笑った顔が見たいのに、なんで、なんで」
 俺が号泣している。中身が倉知だと思うと、愛しくて堪らないのだが、俺だ。全裸の俺が、声を上げて泣いている。みっともないし恥ずかしい。
「わかったから、泣くな。俺の体だぞ」
「……すいません」
 床に這いつくばった俺の体を抱え上げた。軽い。まるで女を抱いているようだ。少し肉をつけたほうがいいかもしれない。
 寝室に運んで、ベッドに寝かせた。明かりは点けないでおいた。自分の姿だときっとできない。
「どうする? 俺が挿れる?」
「どっちでもいいです」
 暗い部屋の中、手探りでお互いの体に触れた。俺の腕、俺の腹、俺の胸、俺の太もも。自分だと思うともう駄目だ。
 これは倉知だ。俺の大切な、宝物。
 暗闇の中で、ぐすぐす泣きべそをかく倉知と、どうにかこうにか体を繋げた。
 自分の喘ぎ声。でも、喘ぎ方は、倉知のそれだ。
 どうすれば気持ちがいいのか、どこを触って欲しいのか、どこをどの程度時間をかけて欲しいか。自分の体が何を求めているか、全部知り尽くしている。
 倉知は終始、悲鳴を上げ続けていた。身をよじって逃げようとするのを捕まえて、抱き倒す。これは倉知、これは倉知、と呪文のように口中で唱えて腰を振る。
 終わってみると、かなり楽しかった。気持ちよかったし、余韻がすごい。体は汗だくで、シーツはどこを触っても濡れていて、いろんな液体でべたべただったが高揚感が全身を包み込んでいる。
「シャワー、するか」
 俺の声は、掠れていた。
「あれ?」
 今、俺が喋って、俺の声だった。
「ちょ、待って、もしかして」
 急いで体を起こす。ベッドから飛び降りて、明かりを点けた。眩しさに顔をしかめながら、ベッドを見る。体を丸めた倉知がいた。
 心から、安堵した。元に戻っている。
「倉知君」
 髪を撫でて、名前を呼ぶ。
「寝た?」
 ん、とかすかに反応があった。
「眠い?」
 顔を覗き込む。目を閉じている。寝息も聞こえる。
 眠るといい。もう何も、心配いらない。
 目が覚めたら、笑って、抱き合おう。

〈おわり〉
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