電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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おあずけ

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〈前畑編〉

 始業前。
 デスクでコーヒーを飲んでいた加賀君が、思いつめたような顔をしていた。何かあったのかと訊ねると、硬い声色でつぶやいた。
「倉知君がおかしい」
「おかしいって、何が?」
 隣の席に腰かけて、顔を覗き込む。加賀君は私を見ずに、電源の入っていないパソコンのモニターを見つめながら答えた。
「やらせてくれない」
 ぶふっと吹き出したのは、めぐみさんだ。まだ誰も出社していない。フロアには私たちの三人だけ。下ネタもありの貴重なおしゃべりタイム。私は身を乗り出して、「えっ!?」と声を裏返らせた。
「それって、抱かせてくれないってこと? えっ、二人、逆だと思ってた!」
 加賀君がコーヒーのカップに口をつけて、横目で私を見る。意味ありげな視線に少しだけ怯んだあとで、負けるもんかとさらに、身を乗り出す。
「知らなかった、うそっ、抱いてるの!?」
「まあ、たまに。……って、そうじゃなくて、セックスしてくれないんだよ」
「ふぁー」
 めぐみさんが離れた場所で謎の声を上げる。観葉植物の葉を一枚一枚丁寧に拭いていたが、慌ててこっちに合流した。
「何、まさかの倦怠期?」
 右側が私、左側にめぐみさんが腰を下ろし、加賀君を挟み込む形で尋問が始まった。
「違うよ、めっちゃラブラブ」
 加賀君が少し唇を尖らせて言った。拗ねたみたいで可愛い。
「じゃあ何、してくれないって。拒否されるってこと?」
 めぐみさんがニヤニヤしながら面白そうに訊いた。
「拒否」
 つぶやいた加賀君が、「拒否」ともう一度繰り返した。
「俺、拒否されてんの?」
「あ、拒絶?」
 めぐみさんが言い直すと、加賀君が絶望的な表情になった。キュン、と胸がときめいた。加賀君のこういう弱った姿は貴重なのだ。庇護欲を掻き立てられる。内心でハァハァ言いながら、「めぐみさん!」とめぐみさんに指を突きつけた。
「加賀君をいじめないでよねっ」
「いじめてないよ。ちょっと面白がってるだけ」
「ひどい!」
 心の中で親指を立てて、グッジョブとわめく。
「拒絶かな?」
 加賀君が悲しそうに私を見る。抱きしめたいのを我慢して首を左右に激しく振った。
「そんなわけないじゃない、七世君、加賀君のこと大好きだもん」
「うん、大好きなのはわかってるんだけど、なんかこう、いい雰囲気になると逃げるんだよ」
「逃げる?」
 私とめぐみさんが声をはもらせた。
「一緒に風呂入ってるときに」
「一緒に風呂入ってるときに!?」
 鼻息を荒くして大声で反復する私を、加賀君は放置して続けた。
「明らかに勃起してんのに」
「ぼっ」
 ぐらり、と体が揺れた。デスクに倒れ込む私を無視して、加賀君が言葉を繋ぐ。
「触ろうとしたら、慌てて逃げてったり」
「たり? まだあるの?」
 めぐみさんが急かす。
「ソファでくっついてテレビ見てて、なんとなくキスしてたら、やっぱあいつ勃起してて」
「勃起しすぎじゃない?」
 めぐみさんが笑いを噛み殺して口元を抑えた。私はもうニヤニヤを隠そうともせずに、髪を振り乱して「で!?」と先を促した。
「勃ってんのに、触ろうとしたら立ち上がって、寝ましょうかって。で、昨日はなんやかやで、手ぇ繋いで寝ただけ」
「手ぇ繋いで寝るの可愛い!」
 私が言うと、めぐみさんが「うん」と同意して、椅子の背もたれに背中を預け、ギシギシと音を鳴らしながら腕を組み、難しい顔で首をひねった。
「それが何日も続いてるのね?」
「いや、昨日だけ。前の日は普通にヤッてるけど」
「ヤッてんのかい!」
 二人同時に綺麗にツッコミを入れた。信じられない。たった一日しなかっただけで、この世の終わりみたいに凹んでいる。
 加賀君はハア、と陰気なため息をついて、カップをデスクに置くと、両手で顔を覆って、くぐもった声を漏らした。
「なんでヤらないの? って訊く勇気がなかった」
「加賀君……」
 めぐみさんと顔を見合わせた。深刻そうに見えて、違う。めぐみさんの口の端が、ぴくぴくと動いているのが見えた。完全に面白がっている。
 そういう私も、のろけを聞けてものすごく滾っていた。
 加賀君には悪いけど、楽しい。
 弱っている加賀君が、可愛い。愛しい。堪らない。ハァハァする。
「俺の身体に飽きたとか……。おっさんだから……」
 顔を覆ったままで、加賀君が言った。めぐみさんが眉を下げ、下唇を噛みしめて、笑うのを堪えている。笑いが伝染しないように気をつけながら、励ますつもりで言ってみた。
「ぜっ、前日にいたしてるなら、それはないんじゃない?」
「でも、勃起してんのに、セックスしない理由って何?」
 私は頭を抱え、考えているふりをする。
 男が女にする質問だろうか。自分だって勃起する生き物なのに、なぜ私たちに訊くのか。それだけ追い詰められているのだろうか。
 可愛い。
「いろいろあると思うよ」
 何も考えずにそう言うと、加賀君が指の隙間から私を見た。
「いろいろって?」
「たとえば、えっと、加賀君の体を労わってるとか」
「尻を?」
「しっ、……う、うん」
 今日の加賀君はおかしい。普段、自分の性生活のことはほとんど話さない。たとえ酔ったとしても、あくまでも、微笑ましい感じでのろけてくる。今日はいつもとは違う次元ののろけだ。節度を失ってしまうほどに、加賀君にとっては死活問題なのだ。
「違うよ。痛かったら痛いって言うし、それに別に挿入しなくてもいろいろできるだろ。勃ったままにしとく理由がないんだよ」
 デスクの上のカップを両手で持って、再び大きなため息を吐いた。
「そっ、そうだよねええええ」
「ていうか、いつもなら普通にヤッてる流れだし」
「そうっ、そうなのねっ」
「あ」
 加賀君が弾かれたように顔を上げた。
「やべ、なんで俺、二人にこんな話してんだろ」
 チッ、気づいたか。もっと聞いていたかったのに。
 加賀君が唐突に腰を上げた。コーヒーを飲み干してゴミ箱にカップを投げ入れると、気まずそうに私たちを見下ろした。
「あー、……ごめん、忘れて」
 はにかんで、頭を掻く。
 こんな表情は滅多に見られない。
 すごい。
 加賀君が、照れている。
「可愛い……」
 思わずつぶやいた私の科白に、加賀君が苦笑する。
「ちょっとトイレ」
 いたたまれない様子でそそくさとフロアを出て行こうとするのを、めぐみさんが呼び止めた。
「加賀君」
「ん」
 加賀君が脚を止め、肩越しにちら、と私たちを振り返る。
「気になるんだったら、訊いてみなよ」
 めぐみさんが言った。
「二人の間にわだかまりがあると、私も嫌だからさ」
 加賀君が頭を掻いて、「了解」と肩をすくめた。携帯を操作しながらフロアを出て行く加賀君を見送って、めぐみさんを確認した。
「めぐみさん、顔にやけてる」
「あんたもね」
 指摘され、自分の頬をつねりながら訊いた。
「七世君、どうしちゃったんだと思う?」
「こればっかりは第三者が介入するわけにいかないでしょ」
「でも、もっと聞きたかったなあ。の、ろ、け」
 デスクに両肘をつき、さっきの加賀君を反復する。
 抱いてるの? という私の問いに、たまに、と答えていた。
「リバってたんだあ……」
「リバってた? 何?」
 めぐみさんがいぶかしげに訊き返す。
「リバっていうのはね」
 説明しようと目を見開く私に、めぐみさんが疾風の速さで手のひらを向けた。
「いい、言わなくていい」
 逃げるように腰を上げるめぐみさんの背中を見ながら考えた。
 大好きな相手が目の前にいて、勃起しているのに、セックスをしない理由。
 何があるの?
 答えが出たのは昼休み。
 晴れやかな表情の加賀君を問い詰めると、白状した。
「セックスは週一でいい、めんどくさい、疲れるって、大学の女子が話してんの聞いたんだって。俺はめんどくさくないし疲れないし毎日でもしたいって言っといた」
 私は狂喜乱舞し、手を合わせてひれ伏した。
 ありがとうございます、ごちそうさまでした。
 末永くお幸せに。

〈おわり〉
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