猫の夢

鈴木あみこ

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「大牧さん!」
 つい、嬉しくて声が大きくなってしまって、はっとして口を両手でふさいだ。消灯前の静かな空間。かなり声が響いてしまって申し訳なくなる。
「検査入院だって? 具合が悪い訳じゃないのね?」
「鈍い頭痛は相変わらずだけど、他はそんなに悪いところはないんです。ちょっと数値が悪かったみたいで…。だから、すぐ退院しちゃいますよ」
「そっかぁ。良かった。でも会えてうれしいわ。て、言うのも不謹慎かな?」
「あはは。怒る人もいると思いますけど、私は全然。会えて嬉しい」
 大牧さんはゆっくりと近づいて来て、隣に腰掛けた。
「ありがとう。ちょっと連休もらってて…。これから夜勤なのよ。ゆっくり話せなくて残念なんだけど、又、宜しくね」
「連休? どうりでいないと思った。移動したのかと思っちゃった。彼氏さんと旅行に行ってました?」
「そうなの。沖縄にね行ってたの。お土産あるのよ。後で持ってくるから楽しみにしててね」
「嬉しい。待ってる」
 沖縄の話も聞きたいけれど、今はもっと気になる事があった。昼間見た光景だった。
「ね…もう少し話しても、大丈夫ですか?」
 大牧さんは目をしばたたかせて、時計をちらりと見た。
「あと、10分ならいいよ。どしたの?」
「えっと…今の、担当の西脇さんなんですけど…。初めはちょっと怖いなぁて、思ってたの。なんかね、愛想ないっていうか…。でも、今日、手話で話している所を見て。イメージが変わったったていうか…」
「ああ、西脇さんね。怖い感じだった?」
「怖いっていうか…苦手。話しかけずらくて…」
「……彼女ね、すごく真面目なのよ。ミスしたらいけないからって仕事中はいつもあんな感じなの。仕事が終わると年相応の明るい楽しい子なんだけどね。でも…患者さんに不安を与えたらダメね。私からそれとなく言っておくわ」
「あ、いえ、いいです。そんなつもりじゃないんです。だだ、手話で話している時の雰囲気が随分違って…びっくりしたって言うか、なんていうか…」
「手話…ね。私も少しはできるわよ。ごく簡単なものだけど…。休憩時間とかにね西脇さんに教えてもらうの」
 大牧さんは得意そうに笑い、それから何かを思い出すように話を続けた。
「彼女がまだ学生だった時に実習で入った病院に、高齢のろう者が入院してきたんだって。担当の看護師は筆談で会話してたんだけど、なかなか言いたい事が掴めなくて…看護師達は大変だったらしいわ。西脇さんは、ろう者の隣の患者さんを担当してたらしいんだけどね、ある時…カーテン越しにうめき声が聞こえて、びっくりして声を掛けたんだけど返事がなくて…そっとカーテンを開けたら、苦しそうにお腹を押さえてたんだって。ナースコールを押して、どこが痛いのか聞いても手を動かすばかりで何を言っているのか分からなくて…看護師が来るまでの数分、いえ、数秒だったかもしれないんだけど、ひどく怖い思いをしたらしいわ。それから、ずっと看護の勉強と、手話の勉強を両立してやってきたって本人から聞いたの。だから…本当に…真面目で頑張りやなのよね」
 大牧さんはにっこり微笑んで続けた。
「手話ができる看護師がいるって、ろう者の中では有名らしくって来院されるろう者も増えたのよ。私達も同じだけど、言葉が通じるってだけでもすごく安心できるでしょう? 私は、簡単な手話は分かるけど、彼女のようにろう者と世間話ができるほどになるには本当に難しいのよ。西脇さんを外来にって言う声もあるみたいなんだけど、夜勤が出来る看護師は病棟が手放せないのよね」
 話している大牧さんの顔は誇らしそうに見えた。西脇さんを大牧さんが心から尊敬してるって思える表情だ。今回の担当さんはハズレかな? って思ってしまってた自分が恥ずかしく思えた。
「直ちゃんには向いているかもね。やってみたら?」
「えっ?」
「障害を持つ人に関わるには気持ちを理解する事が大切なのよ? 直ちゃんにはピッタリだと思うけど」
「え? なにを?」
「手話通訳っていうお仕事もあるの、知らなかった? 時々ね、通訳を連れてくる人もいるのよ。考えてみたら?」
 返事は出来ずに俯いてしまった。知らない世界に飛び込むのって、そんなに簡単にはできない。

 それからすぐに「消灯時間ですよ」と別の看護師さんに声をかけられて、大牧さんと別れて部屋に戻った。
 部屋の中はすでに薄暗くなっていて、カーテンで小さな4つの個室が作られていた。みんな眠る支度をしてるのだろうか、布が擦れる音だけが静かに室内に響き渡る。

 手話かぁ…できるかなぁ?

 サイドランプを点けてベッドに上る。
 常備しているペットボトルの水を飲み干して、布団に潜ってランプを消した。
 その日の夜は、西脇さんの姿が目に焼きついて離れなかった。
 テレビで見た時はまったく興味は持てなかったのに…実際の手話は全然違った。
「直ちゃんには向いているかもね。やってみたら?」この言葉がずっと頭に残っていて、なかなか寝付けなかった。

 ***

 鼻に何かが触れた。
 つんつんと頬をつつかれた。
 うっすらと目を開けると、暗闇の中、十色の綺麗な顔が私を覗き込んでいた。
「ナオ。ここなんか臭い。変な匂いする」
「あ、十色…久しぶり」
 最近は猫十色とばかり会っていたような気がする。
 十色は顔をしかめて鼻の前で手をぱたぱたさせながら「くさい」と連呼する。
「薬の匂いかな? 私は慣れてるから…なんとも思わないけど、十色は…きついかもね」
 目をこすりながら答える。今日は眠い…。
「ナオ、いつ帰るの? ナオの部屋に行こうよ」
「…もう少しここにいるよ。私が家に帰ったら、又…おいで…」
 寝ぼけながら答える。ホント眠い。寝かせて。
「十色…私ね、やってみたい事できたかも知れない」
 頭の中は半分寝てた。だからこんな確実でない言葉が出たんだと思う。
「へぇ。なに?」
「…へへ、今はないしょ。…もう少ししたら…教えてあげる…」
 瞼は、ほぼ閉じていたと思う。無意識に喋っていた。
「ナオ、いい顔してる。可愛いよ」
 十色の顔が迫ってきて頬をぺろりと舐められた。

 だから!! 人間でそれ止めてってばっ! 完全に目が覚めた! 寝てたかったのに!


 ***



 翌日、思い切って西脇さんに話しかけてみた。
「あの…昨日、会計前で見ました」
 西脇さんは一瞬きょとんとして、いつものきつそうな表情を崩して眉間にしわを寄せ、斜め上を見上げた。なんの話か分からないようだ。
「あ、手話でお話されていたので…すごいなぁと思って」
「ああ、あの時…」
 西脇さんはくりっとした目を更に見開いて首を傾げた。
「あ、すみません、つい…見ちゃいました。ごめんなさい。気分いいものではないですよね」
 失敗した…。私だってじろじろ見られる事は嫌なのに。失礼な事をした。恥ずかしくて顔が赤くなる。
「いいわよ、あの人は私の通っているサークルの人なの。ろう者で…手話を教えている先生なの。知人のお見舞いに来てたんだけどね、偶然会ったの。手話を使ってるとね、周りから見られる事ってよくある事よ。でも、それで興味をもつ人が増えたらいいなって思ってるから、気にしないで。もしも目が合ったら、手話で(ごめんなさい)ってすれば、手話に興味があるのかな? 勉強中かな? て、分かるから大丈夫よ」
 西脇さんはいつもの能面のような顔ではなく、にっこり微笑んで話してくれた。
 怒られるかと思った。嫌がられるかと思った…。西脇さんの笑顔に心底ほっとした。
「興味ある?」
 にっこりと、聞かれる。
「少し…。私にも出来ますか?」
「できるかどうかは私にはわからないけど。ただ、興味があったらサークルの連絡先を教えるわよ」
 はい…もっともなご返事。
 少し、考えて「昨日の西脇さんのように話してみたいとは思っています」と、答えた。
 西脇さんは嬉しそうに笑って「後で持ってくるわね」と言って仕事に戻った。

 知ってもらう為に見られる事を気にしない…。私にはない発想だった…。
 知らない扉を開けたような…。

 私に、できるかな?

 ぼんやりとした目標が、見えたような気がした。



◆◆◆◆◆◆


 聴覚障害者は「ろう者」「難聴者」「中途失聴者」があり、それぞれが違います。
「ろう者」とは、生まれつき耳が聞こえないか、ごく幼少期に聞こえなくなった人のことを言います。
「筆談で会話はできるでしょう?」と、思う人も多いかと思いますが、高齢のろう者はそれが難しい人もいます。
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