仇夢に生きる

夏鴉

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第四話 決意と害意

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 何故、と。そう、問われ続けた。
 軍学校に入った時から、祓衆へ所属することが夢だった。その為に座学も、実習も、何もかも、努力は惜しまなかった。幸いにも頭脳労働には自信があったから、そちらの方面で苦労することは余りなかった、と思う。でも、実習、実践訓練はそうはいかなかった。力がない。ただそれだけで、酷く苦労をした。一層の努力が不可欠だった。力がないのならば、技術を磨くしかなかったから。
 だから、何故と、そう問われ続けたのもある意味では道理だったのだとは思う。
 折角の頭脳があるのだから、戦いの不要な所へ行けば良い。
 それだけ出来れば、無理に戦いの術を学ぶ必要はないだろう。
 祓衆よりも安全で、良い働き口だって幾らでも選べよう。
 沢山の言葉が掛けられた。沢山の道筋を提示された。争う必要のない、ただ、頭脳労働にだけ徹していられる道だった。安全な道だった。
 その全てに、否を返した。
 故郷は桜鈴より遥か北の寒村。雪深く、冬になれば何処にも行けぬ、厳しい環境だった。それでも、村には知恵があった。土地も、枯れ果ててはいなかったから、幸い飢えることはなかった。誰もが手を取り合って行きていた。温かな場所だった。桜鈴に来てからも、本当にそう思う。
 村ではとても可愛がってもらっていた。家族も、お前は頭が良いからと沢山の本を読ませてくれて、桜鈴へ上り学校へ入る資金すら工面してくれた。優しい人たちだった。
 ただ一つ、禍者という存在だけが、温かな故郷に影を落としていた。寒い土地であったし、祓衆の駐屯地もあったから被害は少なかったように思う。それでも、村の人が害されることはあった。白い雪の上に赤い血の飛び散る惨状を、見たこともある。
 だから、桜鈴に下り、軍学校に入った時から決めていた。絶対に祓衆に入ってみせると。
 どんなに愚かと、無謀と言われようとも、松尾幸慧は守る側の人間になりたかったのだから。




 兎角、冷静であること。重要なのはその一点。
 眼前に聳えると言っても過言ではない、熊の巨体。禍者が模した姿。威圧感は相当。鋭い爪と牙、人間とは比べ物にならない力がもたらすものは考えるべくもない。幸慧一人で倒すのは、それこそ何か奇跡でも起こらない限り不可能だ。
 だが、今求められるのは時間稼ぎ。
 それならば、話は別だ。
 視界に禍者の姿全体を収めるようにしながら、幸慧は円を描くように動き回る。赤い目が不穏に蠢く。決して見落とさない。緩慢に挙げられた手が、次の瞬間には目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。びゅん、と、幸慧のほんの少し隣の空気が削り取られたのが分かった。
 動き回れ。見続けろ。決してぶつかり合うな。
 頭の中で唱えながら、対峙する。
 興味を引いてこの場に留めるのは難しくはない。要するに、生きて動き回っていれば良いのだから。新型でなければ、それで十分。問題は、生き続けることの方だった。
 巨体が立ち上がった、かと思えばぐわりと大口を開けて幸慧の頭を食らわんと覆い被さってくる。冷や汗。止まりかける足を叱咤して動かす。だが相手は腕一本ではなく、巨体そのもの。躱せるか。否。一瞬の判断で、右手の刀を横から添えるように禍者の頭部へ。
「く、ぅ……!」
 逸らすだけ。無理はしない。ほんの少しで良い。覆い被さってくる力の方向を少し、捻じ曲げればそれで。被毛が頬を掠めた。齧られていない。なら問題はない。ほんの少しだけ距離を取り直し、また先程と同じように動く。不満そうに、禍者が吼える。
 綱渡りみたいだ。同じことの繰り返し、にも近いけれど、一つ判断を誤れば、死ぬ。
 意識して呼吸をしながら、禍者と対峙する。神経を使う行為だ。だけど、限りがある。それが唯一の救いだった。大丈夫。此処までやれたのだから。集中力さえ切らさなければ、御し得ない相手ではない。
 生憎と、力には恵まれなかった。
 どんなに努力をしようとも、その差だけは、どうしたって埋まらなかった。それだけで、どれだけ悔しい思いをしたか。今でも、覚えている。
 でも、力はなくとも、幸慧は身体を制御することには、並以上のものがあった。
 だからこそ磨いた。力ある相手をも凌ぎ、圧倒し得る技術を。如何な状況、相手であっても適切な対処の出来るだけの知識を。思いつく限りの方法で、自分の中に取り入れた。
 結局、並以上にはなれただろうと思う。でも、それだけだった。無力から、少し外れただけ。どうしたって戦いには向かない身体であると、思い知らされただけだった。
 それでも。
 それでも、此処に立っている。求められている。
 だから、応えなくてはならない。
 地面を強く踏み締めて、後ろへ跳躍。二つに結んで垂らした髪の束、その先端が、鋭い爪に攫われていくのが見えた。大丈夫。存外に冷静な頭の片隅で思考する。思った通りに動けている。禍者の姿、その動向。目の動き、身体の向き、四肢の筋肉の、その蠢きは。見逃さない。決して、見落とさない。少しの兆候から、次の動きを予測する。それでいて、決して予測を信じ込まない。不慮の事態に構えておく。慣れている。緊張はしている。けれども、力は程よく入り、抜けている筈だ。きっと。呼吸も訓練でのそれから大きく乱れてはいない。
 今も、禍者の太い後ろ脚が一歩前に出され、上体を起こし、左の前脚でこちらの首を刈り取ろうとしている。その様を、しっかりと見て取れている。決して気を逸らせることなく、軌跡を予測して、身を屈める。
 屈めようとした。
 がん、と衝撃。側頭部に痛み。
 何が起きたか、一瞬分からなかった。
 ぐらり、と、体勢が崩れる。右側から禍者の腕。
 立て直すか。否。直感のままに、体勢の崩れるに任せる。膝の地面に擦れる痛み。頭頂の少し上を、腕が掠めていくのが分かった。間一髪。まだだ。膝を着いたこちらをきろりと睨み据え、大口を開いて迫って来る。予測はしていた。右か左か。考える間もない。横に転がり避ける。喘ぎながら立ち上がり、禍者への注意はそのままに周囲の様子を探る。
 足元には拳大の礫。恐らくは、これが当たったのだろう。考えていると、視界の半分が失せた。慌てて拭えば、手の甲には赤い血が付着していた。切れてしまったらしい。怪我自体は大したことはない。でも、礫があるということは、これを投げた何ものかが、いる。
 何ものか?
 禍者がこんな真似をするなんて、聞いたことがない。
 ならば、これは、人間の仕業だ。
 改史会? ならばどうして?
 混乱を頭の片隅に追い遣りながら、幸慧は禍者との戦闘に集中しようとする。だが、自分でも分かる程、精彩を欠いている。理由なんて考えるべくもなかった。
 今、対峙しているのは、眼前の禍者だけではない。
 目に見えぬ脅威。それが一体、次は何をしてくるか。警戒を向けない訳にはいかなかった。
 ただでさえ集中力の必要な戦闘なのに、そんな不確定要素まで入って来ては、駄目だった。
 幾度目かの攻防。染み付いた、円を描くような足取り。その最中、額から流れる血が目に入った。失せる半分の視界。もう慣れた、筈だった。
 ぶつん、と。
 自分の中の何かが切れる音を、聞いた。
 頭の中に、一瞬の空隙。
 気付けば、眼前には、ずらりと並んだ牙と、真っ赤な口が、あった。



  
 すらり、すらりと白手袋に包まれた手が腰の刀を少し抜いては納め、また抜いてを繰り返している。中性的にも見える顔はこの異常事態の最中であっても緩やかな微笑を湛えている。しかし、その、刀を扱う様を見れば心中の細やかな苛立ちは容易に察せられた。
「堪えておくれよ、常葉隊長」
「分かっているよ、お前に言われなくってもね」
 目は周囲の警戒に忙しなく動かしながら、穏やかな声色で常葉隊長は応じた。
「にしては、随分な行儀だねぇ」
「見苦しいのは自覚しているよ。でも、どうにも止められなくってね」
 ふっと、仄かに苦い笑みを閃かせて、常葉隊長は肩を竦める。
「俺の本懐は屠ることだよ。警戒なんかじゃない。禍者を斬り捨てるのが俺の役目さ。なのに今、此処でこうしてのんびりしているんだ。そりゃあ、苛立ちもするよ」
 紡錘型の形良い目が、微かに眇められる。
「斬れって、そう命じられたら楽なんだけれどもね」
「君の役割と合致するから?」
「ああ。それ以上に、俺にはやるべきことはないからね」
 良くも悪くも、常葉隊長は割り切っている。単純であろうとしている。それはこちらからすれば都合の良い所でもある。運用はし易い部類の人間だ、と評価することも出来る。無論、こういう、彼の望む方向でない判断の際には少々厄介ではある。
「それよりも、良いのかい? 土生のことを初鹿に頼まれていただろう」
「彼女に言われてねぇ。自分にかまけている暇がなぞないだろう、と。まぁ、いざという時でない限りは、彼女は存外に一人で色々とやってしまうからねぇ」
「違いない。昔程怖くはなくなったけれど、それでも俺はちょっと苦手だよ。あの人は、色々と恐ろしい所がある」
「君がそう言うなんて、余程だねぇ」
 分からなくはない。あの強かさと、超然とした雰囲気は油断をすれば呑まれてしまうようなものがある。初鹿辺りは寧ろそこに惚れ込んでいる節もあるのだが。常葉隊長の場合はそれに加味して、というのもあるのかもしれなかった。言及をする気はないので、肩を竦めるに止めておく。
「しかし」
 また刀を不満そうに弄りながら、大きく常葉隊長は息を吐き出した。目は喧騒のその奥、祭の為に設えられた舞台を向く。
「余程、祝詞というものは大事なんだね」
 零す言葉には呆れすら混じっていた。
「遍寧祭の肝、だからねぇ。それこそこの場に禍者が乱入するくらいでないと……いや、それでも止めないのかもしれないねぇ」
 幾重にも天幕の張られた舞台内を窺うことは出来ない。しかし、例年から外れ、禍者すら現れたこの状況下にあっても、その奥では恐らく祭祀が続けられている。禍者の出現に騒然としている民衆も、民衆を守らんとする警察も、禍物を屠らんとする祓衆も皆、置いてけぼりにして。
「帝なのだから、すぐに奥に引っ込んでくれた方が俺たちもやりやすいのにね」
「滅多なことは言わない方が良いよ。同意はするけれどねぇ」
 そうだ。それこそ、朝廷は目と鼻の先なのだから、こんな異常事態になればすぐにそちらに逃げてしまったって良いのだ。祭など、後から幾らでもやり直せるのではないのか。それよりも、帝の命の方が大事なのではないのか。
 何故、祭祀を続ける?
「お前も、滅多なことは考えない方が良いんじゃないのかい?」
「分かっているよ、君に言われなくってもねぇ」
 それでも、考えることこそが、自分の役割なのだ。
 
 


 桜鈴西の玄関口、白秋門。
 その名に違わず白く装われた美しい門の前で、刀を緩く構える。愛する得物、鵺は長刀である。一般的な刀とは比べるべくもない程の――部下である片河の扱う物には流石に負けるが――長い刀身を誇り、鞘から鍔、柄に至るまで些かに奇抜な装飾を持つ。祓衆においては自分が腰に佩いておらずとも、一目で誰の刀か判る程、特徴的な外見をしている。
 しかし鵺の真髄はそこにはない。
 長い刀身がもたらす、独特の重みと刀の重心の揺らぎを感じながら息を一つ吐く。眼前には禍者。人型、いわゆる新型。鎧兜を纏うそれは、外見通りの硬さを持っている。精巧に模した故の堅牢な個体だ。
 だが、模倣が過ぎている。硬さを模したように、その隙間の柔さもまた、模してしまっているのだ、この手合は。そこを突けるのならば、そう恐れる種でもない。
 一歩、踏み込む。慎重に、それでいて親しい友人に歩み寄るように。禍者の赤い目が動く。周囲には朱雀隊と青龍隊。取り巻きの討伐をなし、新型を逃さない為の囲い。その程度はしてもらわなくては困る。二歩目、近寄る。表情は知れない。こちらの隙を窺ってでもいるのだろうか。手にした真っ黒な刀が不穏に動く。視界の端に捉えながら、もう一歩。踏み込むと同時に刀を振るう。
 鵺の真髄は、切れ味にある。
 剃刀のような、ぬめるような切れ味。半端な刃物ならば容易く両断し、こちらが斬れると思ったものならば全て斬れてしまう、とんだ問題児でもある。
 そんな切れ味と、長刀故の長めの間合い。そしてそれを理解した遣い手が合わされば、相手の裏をかくことは決して、難しいことではなかった。
 届かない。恐らくは居合わせた誰もがそう思った鵺の切っ先は禍者の首を捉えていた。ず、と深く入り込む感触。もう一歩歩み寄りながら横へ振り抜く。僅か手首を捻れば、禍者の首はあっさりと宙を舞った。黒い禍者の血が吹き上がる。一歩下がるが、避けきれなかった。
「嫌だわ汚れちゃった」
 刀身の血は一度振るえばすぐに取れる。粘性といったものが驚く程にないのだ。液体にしてもおかしな具合だが、禍者の血なぞ不思議で当たり前なのかも知れない。制服に付着したものは、諦めて洗うしかないだろう。
「被害報告」
「朱雀隊、重傷者なし。全員動けます」
「青龍隊重傷者一名」
「あら、いたの重傷者」
 視線を向ければ藍の軍袴ズボンを黒く染め上げている部下がいた。獣の禍者に手酷く噛まれたらしい。
「止血処理をして、そうね、誰か二人ついてやりなさい。意識はどう?」
「大丈夫っす」
「そう」
 もう一度出血量を確認する。深いが、傷口自体は狭い。しかし、此処に置いておくには不安がある。
「なら、肩でも貸してもらって、屯所に戻りなさい。もうじき白虎隊の子が来るだろうから、その子に先行してもらえば禍者と鉢合わせることもないでしょう」
 禍者が出現した当初からすれば、随分と状況は落ち着いている。それで問題はないだろう。白虎隊の定時報告も予想通りなされる筈だ。
「万一来なかったら人数を増やすわ」
「済みません、甘利さん」
「あら、あたしに謝ることはないわよ。そういうのは常葉に取っときなさい。あいつの方が数倍怖いわよ」
 おまけに質も悪い。とは流石に言わなかったが、仮にも青龍隊に所属している人間だ、常葉の恐ろしさは随分と理解しているらしく、些か顔を青くしてはい、と応えてみせた。
「その他に、問題はあるかしら」
「青龍隊、ありません」
「朱雀隊、問題ありません」
「そう。なら少し様子見ね。また出て来られちゃ堪らないわ」
 その場の全員が肩の力を抜くのが分かった。まだまだ未熟だが、この状況では無理もない。大目に見ることにして、改めて周囲を見渡す。
 先程までの激戦が嘘のように、白秋門付近は静かだ。新型を複数抱えた禍者の群は、一見はそこまでの苦戦はするまいという規模であった。しかし、倒せど倒せど数は減らない。何てことはない、禍者は増えていたのだ。建物の隙間、人間の死角から、何処からともなく現れ群に加わり、こちらに牙を剥く。慣れた自分なら兎も角、初めて戦場に出た部下たちには随分と堪えたろう。幸いにして延々と現れるというものではなかったらしく、こうして今は殲滅したが、それにしたって随分と質の悪い手合だった。
 この一件が収束したなら、少しくらいは慰安の何かを常葉と考えても良いかも知れない。あの男にその必要性を説く苦労くらいはしてやろうじゃないの。そんなことを思っていたら、首の後ろにちりりと何かを感じた。
 身体が自然に動いていた。何かを思う前に左手が柄を握り、背後の何もない筈の空間を一閃。手応え。何処だ。向こうか。
「そこ!」
 叫ぶ。指を指す。この意を汲めない愚鈍はいなかったらしい。青龍隊の部下たちが一目散に駆けていく。うわ、と小さな声。後は乱闘の音に紛れてしまった。実戦慣れしていないとは言え、軍学校でさんざ扱かれた連中相手では堪ったものではなかったらしい。乱闘の音もすぐに消え、部下に抱えられてその男は引き出された。
「あんたが、犯人?」
 むっつりと黙り込んで、男は答えない。農民風の男だ。着ている物も草臥れている。往来で擦れ違ったって気にも止めない。そういう男だ。胸元から煙草を取り出し、咥える。
「ちょっと降ろしてやって」
 部下たちが言う通りに動くのを眺めながら、燐寸で火を点ける。ちらりと地面に目を向けると、掌大の礫が転がっていた。子供騙しだろうか。気分が悪くなった。やっていることは餓鬼だが、少し間違えば大惨事にも繋がる。
「ね、もう一度聞くけど、こんな真似をしたの、あんたよね」
 やはり男は口を開かない。
「口の一つも利けないのかしら」
 溜め息。仕方がないと言わんばかりに肩を竦めて、首筋に刀をあてがう。
「生憎とあたし、こういうの大嫌いなのよね。それに話せないのなら、良いわよねえ」
 ひくり、と男の喉が引き攣るのが見えた。少しだけ刃を引く。皮一枚斬れる。汗が額から流れる。首筋から血が。唇が震え、開かれ、声が。
 その程度か。
「……冗談」
 刀を引き、鞘に収める。
「そんな馬鹿な真似をする訳ないじゃないの。全く、早く白虎隊の子来てくれないかしら、警察呼んで来なくっちゃ。ああ、そいつ抑えといて」
 灰の溢れかけていた煙草を指で摘んで、煙を吐き出す。興醒めだ。勝手な話だと思いながらも、侮蔑の眼差しを向けたくなる。こんな男にそうした感情をぶつけること自体、無駄なことではあるのだろうが。
 しかし、と、改めて投げられた礫に視線を向ける。自分であったから、未遂で済んだのだ。戦闘が終わっていたから、何にもならなかったのだ。
 もしも、そうでなかったら。
「……嫌ね、全く」




 迫る禍者の口。ただそれを、見ていることしか出来ない。刀を振るうことも、少しも足掻くことも出来ず、ただ、目を見開いて黒々とした口腔を見ていることしか。
 その口腔が、突然に目の前から消えた。かと思ったら襟首を思いっ切り掴まれて後ろへ引き倒されながら引っ張られる。かひゅ、と喉から変な音がした。息を吸って、吐く。何時の間にか呼吸を止めていた。瞬きを繰り返す。何時の間にか目を開いたままだった。少しだけ、落ち着いた。どうしてか、生きている。幸いに。禍者に警戒はしながら傍らに目を向ける。抜き放たれた二振りの刃、その内の一つを地面から抜きながら、額の赤い鉢巻をたなびかせて市吾が鋭い眼差しをこっちに向けていた。目が合うと、くしゃりと一瞬だけ表情が崩れた。
「ゆき、おい、平気か」
「……市吾」
「平気じゃねえな。……つーか頭、血が出てんじゃねえか!」
「これは、ちょっと」
 どうやって説明すれば良いだろうか。そもそも、此処で説明するべきだろうか。いや、まだ。
「後で説明する。大丈夫、血は出てるけど、深手じゃないから」
「……まあ、お前が言うんなら平気って信じるけどよ、無茶はすんなよ」
「分かってる。それより」
「おう、こいつだな」
 体勢を立て直して、改めて禍者と相対する。どうしてか幸慧から距離を置いた禍者は不満そうに唸っていた。
「どうやって割り込んで来たの、参考程度に聞くけれども」
「刀一本、投げてみた」
 あっけらかんと市吾は言う。
「俺の足じゃ間に合いそうになかったし、いけると思ってよ。まあ、上手くいって良かった」
 賭けだったのか。今更ながら、ちょっとだけぞっとした。本当に、運が良かった。
「ありがとね」
「おう。さって、どうすっかね」
 ふう、と息を吐き出して、市吾はゆるりと立つ。両手の刀をくるりと弄びながら、気負った風でもなく相対する。それでいて、全く隙がない。
「俺も正直、しんどいぜこれはよ。ゆき、支援頼めっかな」
「出来ることなら」
 実際、こうした場では幸慧より市吾の方が圧倒的に役に立つ。技術では劣っていないという気持ちはあるけれど、純粋な戦闘力ではどうしようもない差がある。
「ちょっとの間注意を向けといてくれりゃあ、どうにかする。頼めるか」
「それくらいなら」
 さっきまでやっていたことだ。それに、今度は市吾もいる。
「どうにか速く決めるから、注意の引き方とかは任せる」
「分かった」
「よし」
 その言葉を合図に、正面から禍者の懐に飛び込んだ。苛立ちからか、或いは侮っているのか二足で立ち上がっている禍者に、正面から走り込む。距離にして僅か五歩。不意はつけたか、懐に飛び込めた。やれることは限られる。刀では、近過ぎる間合い。刺すことも、今の刀では少々難しい。でも。最後の一歩に飛び切りの体重を掛けて、切っ先を深々と、食い込ませた。靴の底が削り取られる音。構ってなんかいられない。一瞬だけ。何もかもを思考の端に追いやって、深く、重く。ぐらり、禍者の身体が傾ぐのが感じられた。切っ先はもう食い込まない。量産品の限界。ぎちり、と嫌な音を立てたのが分かった。頭上から不穏な気配。それはそうだ。だって、禍者からすれば、邪魔な虫のような物なのだろうから。その太い腕で、鋭い爪で、一息に殺してしまうのだろう。
 幸慧が一人なら、そうだった。
「気を引けっ、つったけどさあ!」
 咆哮。びしゃり、と、何かが上から降って来た。もう良いだろうか。ぐっ、と一際強く刀を押し込んで、反動で飛び退る。思わず尻餅をついてしまった。そのまま禍者を見上げる。巨躯が二足で立ったまま、腕を振り回している。その頭部に後ろから組み付いて、市吾は刀を眼球に突き刺していた。
「止めてくれよ、そういうのは! 心臓に悪いんだっての!」
「君のそういうのだって、十分無謀なんだけれどね!」
 一瞬、注意を引くのなら、下手な小細工よりも正攻法だ。これまで散々逃げ回っていたのだから、余計に効果はある。だから、勝算はあった。後は、市吾の頑張り次第。刀を構えて万一に備えつつ、市吾と禍者の組み合いを見守る。
 器用に組み付いたまま禍者の爪や腕を避けていた市吾は、右目に突き立てた一振りを捻りながら押し込んだ。悲鳴のような吼え声。体勢を崩すまいと、これ以上の不利にはなるまいと踏み止まるからこそ、市吾にとっては有利なのだ。右目から生えている刀を引き抜き、首と上体に絡めていた足を離し、後頭部を蹴るように体重を掛ける。
 禍者の巨体が、刹那浮いた。かと思えば顔から地面に叩き付けられた。くぐもった咆哮。もう、市吾の独壇場だった。身体を硬直させる禍者の後頭部に二振りの刃を揃え、突き立てる。鍵でも回すように刀を捻り、力一杯横へ引く。幸慧のそれとは比べられない程研ぎ澄まされた刃は、幾らか引っ掛かりながら禍者の頭蓋を切断した。真っ黒な血が吹き上がる。禍者はびくりと身体を跳ねさせ、ぐたりと動かなくなった。
 禍者は生物を模す。
 生物としての致命傷は、禍者にとっても致命傷なのだ。右目から、そして後頭部から頭蓋を突き抜け脳を損傷され、挙句両断されれば、幾ら屈強な熊の姿を模していようと、ひとたまりもなかった。
「……っ、はあ、流石に、きっつい」
「そりゃあ、そうだよ」
 思いっ切り被ってしまった禍者の血液をどうにかしようと奮闘する市吾に近付く。昔から、妙に乱暴で、荒っぽい戦い方をするから不安になるけれど、帯鉄隊長にも随分と扱かれているみたいだから、多分、これが市吾のやり方なのだろう。心配にはなるけど、あんまり口出しをするのもお節介な気がする。
「怪我は」
「かすり傷くらいなもん」
「なら良いけど」
「て言うか、お前の方こそ怪我してんじゃねえか!」
 思い出したように市吾は言って、まじまじとこっちの額、多分傷口を確かめる。
「確かにちょっと打って切ったくれえ? だけどさ、禍者相手でこうはなんねえだろ。何があったよ」
「えっと、誰かが隠れてたみたいで、その人にやられたみたい?」
「人間にやられたあ?」
 そりゃあ、頓狂な声だって出したくもなるだろう。幸慧だって正直、訳が分からないのだ。人に恨まれるようなことは、していない筈だ。そもそも、禍者から守る立場である祓衆を邪魔することがおかしな話である。改史会にしたって、同じことだ。
「……多分、そう。でも私も分からないことが多くって。だから」
「そっか。ま、ゆきに分かんねえなら仕方ねえな。でも、無事で良かった」
 真剣な顔で言って、へたりと地面に市吾は座り込む。
「本当さ、初鹿さんが朱夏門に来てさ、お前のこと言った時はどうしようかと思ったんだよ。だからいても立ってもいられなくって、禍者もいたのにほっぽって来ちまった。……はあぁ、でも命令無視しちまったしなあ、始末書かなあ」
「私も説明するよ。帯鉄隊長なら分かってくれるよ、多分」
「許してくれっかなあ……」
 厳しい人だし、市吾が涙目になるのも分かるけど、帯鉄隊長は甘い人でもあるのだ。お目溢しくらいは、あると思う……きっと。
「とにかく、此処にいたって仕方がないし、私は屯所に戻る。市吾は?」
「俺もついてく。どうせ命令無視したし、こうなったらゆきの護衛ってことで」
「ありがと」
 贔屓目なしにありがたいことだ。
 禍者の血液やら何やらで汚れたりしている制服や刀を簡単に検めて、屯所へ足を向けた。




 桜樹広場の喧騒とは裏腹に、此処は奇妙に静かだ。
 厳かな雰囲気。微かに漏れ聞こえる祝詞。焚かれているのだろう、香の匂い。此処は奇妙に穏やかだ。背後には出入り口と、控える近衛。
「私は行かねばならないのだが」
 腕を組み、これみよがしに溜め息を吐いて睨み付ければ、兄は困ったように微笑した。聞き分けのない子供を目の前にしたような。そんな顔。嫌いな顔だった。
「祓衆は優秀だ。梓一人いなくたって、問題はないだろう」
「私が言うのと、兄上が言うのでは、意味が違う。不愉快だ、その言い方は」
「ああ……ごめんよ、そういうつもりじゃないんだ」
 首を降る。顎の辺りで揃えられた黒髪が揺れる。自分などより穏やかな顔が、苦い表情を浮かべる。
「心配なんだ。ほら、異常事態だろう、今は」
「ああ。だからこそ、行かねばならない」
 兄の言うように、確かに自分一人欠けた所で混乱が生じないようにしてきた。だが、万全の為に自分は行かなくてはならないのだ。状況を知らなくてはならないのだ。
「帰してくれ」
「ね、梓。祓衆を辞めることは出来ないのかな」
 ぽつり、と落とされた言葉に、表情が削ぎ落とされるのが分かった。
「どういう意味で言っている?」
「心配なんだよ、梓のことがね。きっと、これから、もっと大変なことになるだろう。その前に、家に帰って来ないか」
「大変なのはこれまでも、これからも変わらない。貴方の心配には及ばない。だから、その申し出は聞けない」
「そう」
 苦笑。
 家のことも家族のことも、決して嫌いではない。むしろ、好ましく思っている。だが、兄や父の浮かべるこうした顔だけは、嫌いだった。
「そんな話で終わりか。なら、私は」
「一つ、話を聞いてくれないか。お前はきっと内緒にしてくれる。だから、その話を聞いてから」
 遠い喧騒が、不意に恋しくなった。
「貴方の心配が分からない訳ではない。だが、それ以上は止めてくれ」
 この、奇妙に安穏な場は、余りに居心地が悪い。
「私は決めて祓衆にいる。一通りの覚悟もしている。だから、諦めてくれ」
 踵を返す。出入り口はすぐそこなのだ。さっさと出てしまえば良かった。兄の部下であろう近衛たちは、睨み付けると少し怯んだようだった。兄が言わねば、害しては来ないのだ。
「それと、組織人として先程の発言は問題だろう。兄上相手に説教はしたくない。情はそこに挟まないでくれ。私も組織の人間なのだから」
 零れそうになる溜め息を呑み込んで、天幕を捲り、出て行く。
 兄がどんな顔をしていたかは、見ていない。




「やっと、着いたな」
「うん……」
 市吾と二人して肩で息をしながら見慣れた屯所の正門を見上げる。距離としては大したことはない。でも、あの大型の禍者との戦闘や、それ以降にも細々とした小さな禍者を相手した身としては、桜樹広場から此処まで全力疾走した方が余程がマシという気分だ。戦闘のほとんどを請け負った市吾は尚更だろう。
「んじゃゆきはもうさっさと入っちまえよ。部隊の指揮? もあんだろうし、それに、頭の怪我も見てもらっとけよ。一応、頭だしな。怖えもん」
「うん、そうする」
 これ以上外にいたって自分に出来ることなんてたかが知れている。大人しく祓衆の門を潜り、正面の総合棟へ。
 ぞわり。
 背中を叩く不穏な気配。振り返ると、正門前に向けて禍者がのそりのそりと近付いて来ているのが見えた。おまけに人型、新型だ。よりにもよって。思わず舌打ちが出た。
「ほんと、今日はなんなんだよ!」
 涙声になりながら刀を構える市吾。加勢、は余計だ。早く増援を呼んでこなくては。中に、誰か戦力は。背に禍者の不快な気配を感じながら踵を返そうとして、ふと足が止まった。気配が消えていた。おかしい。もう一度、振り返る。果たしてそこには、市吾だけがいた。
「市吾、さっきの禍者は」
「……消えた」
「消えた?」
 目を凝らす。分かってはいるけれど、禍者の禍々しい黒は何処にも見当たらなかった。気配も、ちっともない。
「俺も何がなんだか……いきなり、こう、砂みてえにさ、さあって消えちまったんだよ」
 猫のような瞳に困惑をありありと浮かべて、市吾が言う。禍者が消えた。何を馬鹿な、なんてとても言えなかった。だって、幸慧だって気配が生じて、消えたのを感じているのだから。
 混乱しながら、ふと鐘楼を見上げる。禍者の出現を告げる鐘のある場所。そこには時計も備えられている。二本の針が知らせる時刻。不意に気付いた。
 時計は、本来なら遍寧祭の終わる頃を指し示していた。
 
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