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1章 少年君主
1章1話 転生ミニバン *
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【西暦2017年2月1日 若葉】
そもそもの始まりは、私、つまり新井若葉の死だ。
私の人生で私が身をもって学んだことは、人生は甘くないということだった。むしろ、それだけしか学ばなかったのかもしれない、私はそう考えていた。
私は歴史が好きだった。子供の頃からそれなりに勉強はできたけど、それ以外の部分はパッとしない、性格も明るくはない、地味な優等生をイメージしてもらえば事足りるだろう。
親の勧めに従って、大学では理系の学問を学んでいた私だったが、歴史の勉強をしたい気持ちは諦められなかった。それで、大学院で科学史を専攻することにした。
そこで私は苦汁を舐めることになった。なんというか、私は歴史が「ただ好きなだけ」だった。この感覚は、ちょっと人には説明しづらいし、今の私にすら、説明するのが苦痛な感覚でもある。結局その道を諦めたのは3年目の中途半端な時期だ。
それで就職したのだが、会社の選択が本当に間違いだった。
企業のシステムエンジニアとして就職したものの、その仕事にも適性があったとは言い難い。またこの会社は、ブラック企業ランキングに毎年上がっているような会社だったのだ。私はそういうのに目端が利かない人間だったわけだ。ブラックな会社がそのブラックさでアイデンティティを獲得すると、人を使い潰すことをむしろ誇るようになる。
それで、日々希望もなく、人生の別の側面に目を向ける余裕すらなく、29歳にして余生を過ごすように生きていたのがその頃の私だった。
だからこれは、私の死によって始まる物語だ。
深夜2時を超えていて、私は帰宅の途にあった。今日が私の誕生日だったけれど、もう昨日になっていた。これで正式に私は29歳だ、そんな年齢になってしまった。
29歳ってすごく嫌じゃない? あと1年で30歳だ。30になったら、ありとあらゆる思想において若い人のカテゴリーから追い出されてしまう、そんな強迫観念にその時の私は駆られていた。
しかしということは、29歳も恐らく、もう若くはないのだろう。女性の年齢をクリスマスケーキに例える人々からすれば、私は冷蔵庫でパサパサになったスポンジにカチカチになったクリームが乗っかって、イチゴは先に消費されてその跡だけが残っているような存在なのかもしれない。ドイツの伝統菓子シュトーレンなら、新年を越しても食べられるかもしれないが。
(とまあ、許してほしい。私は自分の思考に、常にこういう自虐めいた脱線を挟むタイプだった。なので私の物語にも、常にこんな感じの脱線が挟まれている)
とにかく、ケーキだ、問題は。だって私の誕生日なのだから。せめて、コンビニで何か買って一人寂しく祝おうと思ったけど、実際にはそれは、もう過ぎてしまっていた。それに、こんな時間にはとっくにめぼしいスイーツは売り切れている。自動車のヘッドライトが照らしては過ぎていく、そんな薄暗い路地を私はふらふらと歩いていた。
(あー。こんなことだったら、真面目に将来を目指すんじゃなくて、もっとチャラく面白おかしく生きればよかったなー)
しばし立ち止まり、ガードレールに体重を預けて、そんなことを私は考えていた。
(生まれ変わったら今度は、男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性に転生するとか、いいかもな……)
いわゆる異世界転生の話だ。
私は言ってみれば高尚めいた、でも生半可な雑学知識を振りかざすタイプの半可通オタクで、異世界転生みたいなジャンルの物語にはどちらかというと縁遠かった。
だけど、自分の人生に光も希望もなくて、このまま何事もなく過ぎ去っていく、どこかで妥協し、それから無限に妥協を繰り返して、そうやって人生が終わっていく未来が見えたら。そうなったときに、荒唐無稽でご都合主義なぐらいにハッピーなおとぎ話に、心を預けたい気持ちにならないだろうか?
私は、本当は美女になりたかった。華やかで凄絶で、美しさと知性を兼ね備えた、余人が敬って、あるいは恐れてやまない、そんな女性に。たとえその人生が悲劇であっても、人の心に強烈な印象を残して消えていくなら、それがいい。
だったらせめて、地味女脱却を目指すことぐらいはできたんじゃないの? そのはずなのだが、何かが私を押し留めていた。地味な優等生としての自己定義のせいなのか、才能なのか、怠惰さゆえなのか、それも私には分からない。
その時の私の格好と言えば、髪型は何の工夫もない一つ結びに、ダークグレーのパンツスーツで、上にはっきりしない色のトレンチコートを羽織っていた。美女にはなれなくても、せめてかっこいい女性になりたかった。でも149センチの体格に地味顔で、ともすると中学生にすら勘違いされる、さりとて美少女に見えるわけでもない私では、こんな衣装にすら着られている感覚が否めない。
まあでも、それは所詮妄想と愚痴だ。私にとって意味のないことなのだ。
だって、次の日も、また次の日も、同じ人生が続いていくのだから。
そろそろそんな思考にも飽きた私はガードレールに体重を預けるのをやめ、自宅に向かって一歩を踏み出す。
次の瞬間。
私の視界は強い白で埋めつくされる。
それから赤くなって、それから色が引いていく。
覚えているのは、自分が道路に転がっていたこと。
(……あー、やっべー)
どことなく現実離れした軽薄さでもって、私は自分の状況を分析していた。
生暖かい液体が頭や肩の後ろを流れている気がしたけど、それは私の血だったのか、それともガソリンか何かなのか、手にしていたコンビニのカフェラテをぶちまけただけだったのか。脳漿だったらどうしよう。
私は私を轢き逃げしていった車のことを思い出す。転生トラックじゃなかった、明らかに。トラックだったら今頃ミンチになっているだろう。まだ意識があるのが幸いなのか、そうでもないのか。確か、白のミニバン。ナンバープレートは思い出せる? 思い出せるわけがなかった。だって見てないんだもの。どうやら、私は私を殺した人間を警察に突き出すことには貢献できそうもない。そこまで思ってからやっと、私は自分の考えに慌てふためく、心の中だけで。
(うそうそうそうそ今のなし、死んでない死にたくない、生まれ変われたらなんてただの妄想、そんなのありえない、そんなの望んでない、死んじゃったら何にもならない)
そんな風に私は念じていたと思う。
(神様仏様、誰でもいいから私の運命を変えられる誰か。ダサい今の私のままでいいから、もう一回私のままで生きることを認めて、許して、お願いします、誰か、どうか)
ずっと勉強したかった歴史への未練とか、親への感謝の言葉とか、そういうんじゃなくて、本当にどうしようもない生への執着が、私の脳に最期に浮かんだ思考だった。
と、そんな私――新井若葉の記憶が、『私』――アリーシャ・ヴェーバーの脳裏に不意に蘇ったのは、その馬が立ち上がった大きなシルエットが、太陽光を背後にして黒々と見えた瞬間だった。
あわやの惨事 / 自筆
そもそもの始まりは、私、つまり新井若葉の死だ。
私の人生で私が身をもって学んだことは、人生は甘くないということだった。むしろ、それだけしか学ばなかったのかもしれない、私はそう考えていた。
私は歴史が好きだった。子供の頃からそれなりに勉強はできたけど、それ以外の部分はパッとしない、性格も明るくはない、地味な優等生をイメージしてもらえば事足りるだろう。
親の勧めに従って、大学では理系の学問を学んでいた私だったが、歴史の勉強をしたい気持ちは諦められなかった。それで、大学院で科学史を専攻することにした。
そこで私は苦汁を舐めることになった。なんというか、私は歴史が「ただ好きなだけ」だった。この感覚は、ちょっと人には説明しづらいし、今の私にすら、説明するのが苦痛な感覚でもある。結局その道を諦めたのは3年目の中途半端な時期だ。
それで就職したのだが、会社の選択が本当に間違いだった。
企業のシステムエンジニアとして就職したものの、その仕事にも適性があったとは言い難い。またこの会社は、ブラック企業ランキングに毎年上がっているような会社だったのだ。私はそういうのに目端が利かない人間だったわけだ。ブラックな会社がそのブラックさでアイデンティティを獲得すると、人を使い潰すことをむしろ誇るようになる。
それで、日々希望もなく、人生の別の側面に目を向ける余裕すらなく、29歳にして余生を過ごすように生きていたのがその頃の私だった。
だからこれは、私の死によって始まる物語だ。
深夜2時を超えていて、私は帰宅の途にあった。今日が私の誕生日だったけれど、もう昨日になっていた。これで正式に私は29歳だ、そんな年齢になってしまった。
29歳ってすごく嫌じゃない? あと1年で30歳だ。30になったら、ありとあらゆる思想において若い人のカテゴリーから追い出されてしまう、そんな強迫観念にその時の私は駆られていた。
しかしということは、29歳も恐らく、もう若くはないのだろう。女性の年齢をクリスマスケーキに例える人々からすれば、私は冷蔵庫でパサパサになったスポンジにカチカチになったクリームが乗っかって、イチゴは先に消費されてその跡だけが残っているような存在なのかもしれない。ドイツの伝統菓子シュトーレンなら、新年を越しても食べられるかもしれないが。
(とまあ、許してほしい。私は自分の思考に、常にこういう自虐めいた脱線を挟むタイプだった。なので私の物語にも、常にこんな感じの脱線が挟まれている)
とにかく、ケーキだ、問題は。だって私の誕生日なのだから。せめて、コンビニで何か買って一人寂しく祝おうと思ったけど、実際にはそれは、もう過ぎてしまっていた。それに、こんな時間にはとっくにめぼしいスイーツは売り切れている。自動車のヘッドライトが照らしては過ぎていく、そんな薄暗い路地を私はふらふらと歩いていた。
(あー。こんなことだったら、真面目に将来を目指すんじゃなくて、もっとチャラく面白おかしく生きればよかったなー)
しばし立ち止まり、ガードレールに体重を預けて、そんなことを私は考えていた。
(生まれ変わったら今度は、男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性に転生するとか、いいかもな……)
いわゆる異世界転生の話だ。
私は言ってみれば高尚めいた、でも生半可な雑学知識を振りかざすタイプの半可通オタクで、異世界転生みたいなジャンルの物語にはどちらかというと縁遠かった。
だけど、自分の人生に光も希望もなくて、このまま何事もなく過ぎ去っていく、どこかで妥協し、それから無限に妥協を繰り返して、そうやって人生が終わっていく未来が見えたら。そうなったときに、荒唐無稽でご都合主義なぐらいにハッピーなおとぎ話に、心を預けたい気持ちにならないだろうか?
私は、本当は美女になりたかった。華やかで凄絶で、美しさと知性を兼ね備えた、余人が敬って、あるいは恐れてやまない、そんな女性に。たとえその人生が悲劇であっても、人の心に強烈な印象を残して消えていくなら、それがいい。
だったらせめて、地味女脱却を目指すことぐらいはできたんじゃないの? そのはずなのだが、何かが私を押し留めていた。地味な優等生としての自己定義のせいなのか、才能なのか、怠惰さゆえなのか、それも私には分からない。
その時の私の格好と言えば、髪型は何の工夫もない一つ結びに、ダークグレーのパンツスーツで、上にはっきりしない色のトレンチコートを羽織っていた。美女にはなれなくても、せめてかっこいい女性になりたかった。でも149センチの体格に地味顔で、ともすると中学生にすら勘違いされる、さりとて美少女に見えるわけでもない私では、こんな衣装にすら着られている感覚が否めない。
まあでも、それは所詮妄想と愚痴だ。私にとって意味のないことなのだ。
だって、次の日も、また次の日も、同じ人生が続いていくのだから。
そろそろそんな思考にも飽きた私はガードレールに体重を預けるのをやめ、自宅に向かって一歩を踏み出す。
次の瞬間。
私の視界は強い白で埋めつくされる。
それから赤くなって、それから色が引いていく。
覚えているのは、自分が道路に転がっていたこと。
(……あー、やっべー)
どことなく現実離れした軽薄さでもって、私は自分の状況を分析していた。
生暖かい液体が頭や肩の後ろを流れている気がしたけど、それは私の血だったのか、それともガソリンか何かなのか、手にしていたコンビニのカフェラテをぶちまけただけだったのか。脳漿だったらどうしよう。
私は私を轢き逃げしていった車のことを思い出す。転生トラックじゃなかった、明らかに。トラックだったら今頃ミンチになっているだろう。まだ意識があるのが幸いなのか、そうでもないのか。確か、白のミニバン。ナンバープレートは思い出せる? 思い出せるわけがなかった。だって見てないんだもの。どうやら、私は私を殺した人間を警察に突き出すことには貢献できそうもない。そこまで思ってからやっと、私は自分の考えに慌てふためく、心の中だけで。
(うそうそうそうそ今のなし、死んでない死にたくない、生まれ変われたらなんてただの妄想、そんなのありえない、そんなの望んでない、死んじゃったら何にもならない)
そんな風に私は念じていたと思う。
(神様仏様、誰でもいいから私の運命を変えられる誰か。ダサい今の私のままでいいから、もう一回私のままで生きることを認めて、許して、お願いします、誰か、どうか)
ずっと勉強したかった歴史への未練とか、親への感謝の言葉とか、そういうんじゃなくて、本当にどうしようもない生への執着が、私の脳に最期に浮かんだ思考だった。
と、そんな私――新井若葉の記憶が、『私』――アリーシャ・ヴェーバーの脳裏に不意に蘇ったのは、その馬が立ち上がった大きなシルエットが、太陽光を背後にして黒々と見えた瞬間だった。
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