アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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2章 侯爵令嬢

2章11話 言わなければならないこと

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【新帝国歴1129年5月3日 アリーシャあるいは若葉】

「どうして、ヴィルヘルミーナ様には冷たくていらっしゃるのですか」
「…………」
 核心から切り出した私に、リヒャルト様は少しの間、鋭い目で見つめてから、額に手をやって、考え込むような素振りを見せる。

 数時間後のことだった。リヒャルト様と話をするという、その件で私は、時間をもらっていたのだ。
 私たちはリンスブルック侯宮に戻ってきていた。ここはリヒャルト様にあてがわれた居室で、主賓だけあって豪華な部屋だった。スイートルームと呼べばいいのかもしれない、寝室と居間が分かれた形をしていて、私たちがいるのは居間の方だ。屋外はだんだん暗くなり始めていて、室内には明かりがついていたが、現代日本の基準からすると十分な光量ではない。

「……そんな話になるのか」
 低い声でリヒャルト様は呟く。リヒャルト様が予想していたのは、私が彼の叱責に対して謝罪するとか、そういうことだったのかもしれない。あまり愉快でもなさそうだった。
「ええと。私自身のことは、いくら罰していただいてもいいんです。でも、その話は一旦置いていただけますか。論点が濁ります」
「論点が濁る、か。いいだろう」
 相変わらず低い声で、愉快そうでもなかったリヒャルト様だけど、その言葉には乗ってきた。問題を一つ取り上げて、それについて物事を整理して、何かの結論を得ようとするのは、彼の性向に合っているのかもしれない。

 私は息を吸い込む。
 これがリヒャルト様にとって愉快であろうはずもない。だってこれから私は彼の欠点、コミュニケーションの問題を指摘しようとしているのだから。リヒャルト様は、私の覚えを悪くされるかもしれない。だけどそれを恐れて言わなければならないことを言わない、現実を曲げてもお追従に徹する、そんな臣下は君主にとって実際のところ毒にしかならない。
 この場で私にできることと言えば、彼が最後まで冷静に聞けるような言葉を、慎重に選ぶことだけだ。

「リヒャルト様。あなたは確かに、いつも少し厳しくて、実際冷たい部分もあるかもしれない。でもいつもは公正です。ここでは少し違います。ヴィルヘルミーナ様にはとても厳しくていらっしゃる。あるべき状態よりも、少しだけ過度に」
「……私は、私が言うべきことを言っているだけだ。そうだろう」
「本当に、そうでしょうか? ヴィルヘルミーナ様の行動について指図し、逸脱を矯正するような立場にはありません、私たちは。ヴィルヘルミーナ様の何を咎めるのか、それを決めるのはご両親でしょう」
 私は、できる限り穏やかに、その言葉を口にしようと努める。対するリヒャルト様は、どこかしらたじろいだ、奇妙な表情になる。

「私は。…………私は、彼女の……だから。だから、私は……私が」

 改めて私は、彼の顔を見る。リヒャルト様は目を逸らし、俯き加減になって、僅かに顔を赤らめてすらいる。こんなに言い淀んで、言葉を選べないでいるリヒャルト様は、これまで私は見たことがなかった。
 彼が言い淀んだ空白に入る言葉を、私は考える。
 婚約者。未来の夫。だから、自分が範を示さなければならない。それが自分の義務だから。――こんなところかもしれない。つまり、リヒャルト様は約束と義務に縛られていて、だけどきっと心の底からは、それらを認められてはいない。

「……未来の夫かもしれません、でも今は違います。それは、ヴィルヘルミーナ様は成長しきってはおられないし、あなただってそう。だから、婚姻がまだ成立していないのではないですか」
「…………」
 リヒャルト様は、私の言葉にすぐには答えなかった。

 この世界、この時代の政略結婚には色々な形式がある。未来の約束だけして正式な婚姻の契りは先送りにすることもあれば、結婚の誓いを先に済ませてしまい、実際の結婚生活は成長してからということもある。リヒャルト様とヴィルヘルミーナ様については前者の形だった。この二人の相性の悪さを考えればそれは多少救いになるのかもしれないが、それが問題を先送りするだけにしかなっていなかったら意味がない。

「リヒャルト様。あなたがどう思っていてもいいんです」
 私の言葉に、不意にリヒャルト様は顔を上げる。
「…………」
 それは怯えたような、追い詰められた獣のような目。私は私の言葉が、自分の意図とは真逆に捉えられたことに気が付く。
「あの、違います、そういう意味じゃないんです。あなたが何をどう思っているか、それは一番大事なことです、この件では。あなたの意志や感情を無視していいとか、義務のことだけ考えろなんて言ってなくて、逆です」
 そこまで早口で捲し立ててしまった自分を、私は少し反省する。
「どんな感情を持っていてもいいってことです。どんな人だって、自分の心の中だけは自由ですから」
 それから一度息を整えて、私は続ける。
「建設的になるには、時間が必要かもしれない。ヴィルヘルミーナ様にとっても、それから、リヒャルト様にとっても。だけど、一人で全部を抱え込まないでください。君主なんですから。あなたを助けてくれる人は、たくさんいるんですから」
 リヒャルト様は視線を落とし、沈黙する。

 それからリヒャルト様は、ソファに座った。
「……話せないんだ」
 長い沈黙の後だった。ぼそりと、リヒャルト様は呟く。
 私は思わず、リヒャルト様の顔をまじまじと見つめてしまう。そんな私の視線を避けるかのように、リヒャルト様は顔を背けて、続けた。
「何を喋っていいのか分からない。何か喋ろうとすると、喉の奥に言葉が貼り付いたようになって出てこない。頭が回らない」

 それがどういう感じなのか、私は想像を巡らせる。ヴィルヘルミーナ様に相対して、彼が内心でどれだけ当惑していたのかを。
「……ヴィルヘルミーナ様は、普通の女の子です。でもおそらく、賢い方でもあります。それさえ説明されれば、理解してくれるのではないですか」
「本当にそうかな? 普通ではないんだよ、私は。私はこんな風な人間で、そうなってしまった。私には自分の時計の針を巻き戻すことはできない」
 自嘲的に、どこか悲しそうに、リヒャルト様はそんな言葉を呟く。

 そうなってしまったとは、どういうことなんだろうか。私はそんな風に考えてみる。リヒャルト様は年齢に似合わず賢くて、堂々とした態度で振る舞っている。持っている知識の絶対量も、その年齢には似つかわしくない、現代日本的な基準で考えても。
 多分それは、彼が英才教育を受けてきたということなんだろう。その重圧に答えるだけの力量がリヒャルト様にはあって、その通り振る舞えている。そこには一見、破綻がないように見える。だけど、内面の何かを犠牲にしていないことを意味していない。
 だから彼は、理路整然と主張や見解を述べることはできても、それ以外の自己表現ができない。上手く考えを伝えられない場面では、ただ黙ってしまう。それでも何か言おうとすると、それは酷い躊躇いになって、彼は言い淀んでしまう。頭が良い少年にとって、それは屈辱的なことではないだろうか?
 リヒャルト様には多分、感情の行き場がないのだ。その立場に相応するほどには心が成長していない、だけどそれは、彼がきっかけさえあれば、その歳なりに振る舞えることも意味しない。教育とはある意味人間を作り変えることで、一度変わってしまった人間を元に戻すことはできない。



リヒャルト・困惑 / 自筆

 ソファに座ったまま項垂れるリヒャルト様の側に、私は浅く腰掛ける。もちろん臣下が主君に対してこんな行動を取ってはならないし、私がこれからしようとしていることは、もっとやってはならないことかもしれない。
 私はリヒャルト様の額に手を伸ばすと、撫でる。彼がびくっとしたのが、私の掌を通して伝わってきた。
「私は。…………そんな、私は」
 片手で顔を覆って、そんな風にリヒャルト様は呟く。
 そんな風に扱われるほど、私は子供じゃない。そう言いたいのかもしれない。だけど、その言葉を続けられない。
 彼は、口下手なのだ。それも、尋常ではないほど。君主の役割を演じていないリヒャルト様を見たことのある人間なんて、他にいるのかどうかすら分からない。
「そんなに警戒しないでください。取って食ったりしませんから。それに、誰にも言いませんから」
 私は穏やかな、彼を安心させられるような微笑みを作ろうと努める。それからもう少しだけ、彼の頭を撫でる。彼は黙って私の手を受けていた。
「学識と智慧なんて、あなたは仰いますけど。私自身は多分、そんなに強くも賢くもないんです。だってそれは、前世だけのことですから」

 私が強いとか賢いとか、前世でも思ったことはないけど。いや、そうでもなかったか。私の前世、新井若葉は、自分の知性について実際少し自惚れていた。自分が実際よりも強くて賢いと思っていて、その結果失敗した。だから私は、自分が強くも賢くもないことを知っているし、認められる。だから私は、今の私の言葉を紡ぐことができる。

「あなたはいつも、強く、賢くあろうとしている。それは並大抵のことではないです。それだけのことが、何の遠慮も前置きもなしに、徹底的に心を折ってくることだってある。強くも賢くもない私だから、それを知っている。だから」
 それから、私は言葉を選んで、発する。
「たまにはこんな風に、弱い部分も見せてくれる方がいいです。ね?」
 それまでずっと硬かったリヒャルト様の表情が、やっと少し緩んだような気がした。

「ええと。その。済まなかった」
 ややあって、リヒャルト様は口を開く。
「何ですか?」
「さっきは怒鳴ったりして。それから、間抜け、なんて言ったりして。……前の話だ」
 私はちょっと考える。前年の、ヘロンの蒸気機関の一件で、リヒャルト様が私の疑いを晴らしてくれた時の話だった。こんな風に唐突に昔の話を持ち出すのは、いかにも口下手だ。
「そんなの、気にしてないです。だって、助けてくれたんでしょう、そう言って」
「お前は私だ。それだけ似通っているんだ。傍目には分からないかもしれないが」
 ぼそりと呟くリヒャルト様。

 リヒャルト様は私を助けてくれた、そのことをリヒャルト様は否定しない。あの時私を弁護したリヒャルト様の論拠は今思うと、完全ではなかった。私は怪しい存在だった、どう考えても。だけど彼は自分の意志で、私の言葉を信じることに決めた、そういうことなんだろう。
 お前は私だ、その言葉の意味を、私は考える。
 私は、自分の人生の余所者だった。
 前世の記憶があるなんて話、それは正しく、この世界で私だけがアウェーにいるってことだ。だけど、その前からずっと、私は自分の人生の余所者だったと思う。平凡な田舎娘でしかないアリーシャがそれを理解してもらえたことはなくて、むしろ、前世の記憶なんて突拍子もないきっかけで、私はやっと自分の人生に招き入れられたと言っても良かった。
 彼も多分、ずっと自分の人生で、自分だけが異質な存在で、孤独だったんだろう。
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