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2章 侯爵令嬢
2章10話 ゲームセット *
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【新帝国歴1129年5月3日 エックハルト】
結局、自分にできることは大してなかったのだ。
そんな思いを抱えながら、エックハルトはその場に立ち尽くしている。
工房での戦闘後、廃墟の外でのことだった。アリーシャはその場を辞去し、リヒャルトは現場に留まって、リンスブルック侯国の士官と、今回の戦闘について言葉を交わしている。
「……あなたは」
低い声でエックハルトは、リヒャルトに言葉を掛ける。
「…………」
そんなエックハルトに、リヒャルトは無言で視線を返すだけだ。その目からは、強大な敵に怯えずあくまで殺し切らんとする獣性の痕跡が消えていない。死の危険のある戦闘に際して意図的な亢進状態を作り出すと、少なくとも数時間、場合によっては数日は言動や行動が過剰になりがちだ。
エックハルトは怒鳴りつけてやろうかと一瞬考える。援護を待たずに単独で飛び出したこともだし、その後のあの、苛烈に過ぎる叱責だ。アリーシャは臣下であり人前で叱責されてもまあ問題はないが、ヴィルヘルミーナは別だ。リヒャルトの言い草は、仮にも他国を代表する一人であるヴィルヘルミーナに対する非礼と言えた。
だが、自分もまだ彼と同様の状態にあることは否定できない。ここでリヒャルトと言い合いになって、リンスブルックの臣民の前で醜態を晒してしまったら本末転倒だ。
アリーシャは、彼に話があると言っていた。ここはアリーシャに任せておくべきかもしれない。なんだかんだ言ったところで彼女も聡明な女だし、リヒャルトよりはヴィルヘルミーナに理解がありそうだ。
(しかし、だ)
そう、しかし、だった、エックハルトにとっては。リヒャルトのアリーシャへの執心は頭の痛い問題だ。そして、そのことに本人が気がついていないのがさらに問題だった。
なぜって、ヴィルヘルミーナだけがその場に残されていて、一人蚊帳の外に置かれていることでは、何も変わりはなかったからだ。護衛が側についていたものの、この場で彼女に配慮する人間がいないという事実の救いにはなっていない。
エックハルトは内心で毒づく。
(また、馬鹿君主の尻拭いか)
エックハルトの見立てでは、リヒャルトとヴィルヘルミーナとの折り合いの悪さは結局、周囲が仕向けるようには、リヒャルトが彼女に恋心を抱けないことの問題だ。あの少年の心は一面では野獣のようで、鎖に繋がれて引っ張られるほど、逆の方向に向けて駆け出し、どうにかして戒めを解こうとする。
それが幼く、また愚かだとエックハルトは考える。恋心など、女への愛など、自分が自分のために利用するものだと。リヒャルトもいずれは理解する、この女とその女の違いなど、実は大きな問題になどならないことに。
ヴィルヘルミーナの方については、まだ幼い少女の内面のあわいや揺らぎにまで立ち入ろうとは、エックハルトは思わない。だがリヒャルトが内面の獣の手綱を制御し切ることができれば、そのうちには二人とも現実の要求に屈服するだろう。そうなれば諸々の物事は収まっていくはずだと、今までのエックハルトは考えていた。それが別の女の登場で、思った通りには行かなくなったのだが。
そんな風にエックハルトは自身の打算と悪徳に塗れた人間だったが、大人の事情で子供を無用に傷つけることは毛嫌いしていた。そんな矛盾を自分でも意識しつつも、それが自分にとって問題になるなどとは、エックハルトは考えたことがなかった。
エックハルトはヴィルヘルミーナに歩み寄り、恭しく頭を下げる。それから、側に立っていた護衛の者に声を掛ける。
「ヴィルヘルミーナ様を天幕の中へ」
ようやく立ち上がった天幕へと、周囲の者を促してエックハルトはヴィルヘルミーナを導く。雨がパラパラと落ちてきて、これから天候が崩れてきそうだった。これから夕方になって気温が下がってくれば本降りになるかもしれなかった。
「ヴィルヘルミーナ様」
「…………」
改めて近くで顔を見ると、ヴィルヘルミーナは悲しそうな様子ではなかった。目を見開いて、何かをじっと考え込んでいる。
エックハルトは跪き、ヴィルヘルミーナと同じ視線の高さになる。そして再度、口を開いた。
「ヴィルヘルミーナ様。世の中には、石が落ちるように一直線に進んでいって、他の誰が止めようとしても止まらない、そんな出来事があります」
ヴィルヘルミーナには難しいだろう。
何が言いたいのか?
それはヴィルヘルミーナにとって、役に立つことなのか?
そう自問自答しながらも、エックハルトは続ける。
「人間はそんな出来事に翻弄されてばかりです。できることは、そんな理不尽に当たってどう振る舞えるか、それだけですよ。そして人間の価値は、そこにしかありません」
ゲームセットだ、と、エックハルトは思っていた。リヒャルトとヴィルヘルミーナでは、幸せな結婚は望めない。妥協するか、別の道を選ぶか。それしか選択肢は残されていない。
自分にできることは、大してなかったのだ。
その言葉をエックハルトは、内心で繰り返す。
幼いリヒャルトと、幼いヴィルヘルミーナ。
歳相応ではない分別が備わっているとしても、成熟した精神までは心許ない。そして、その不相応な分別を周囲の大人は利用していて、しかも成り行きをただ傍観している。そして、エックハルトも結局その一人でしかなかった。
ヴィルヘルミーナは、首を傾げて、不思議そうにエックハルトの顔を見ていた。
「エックハルト様。わたくしにはあまり、難しいお話は分からないのですけど」
そう言ってヴィルヘルミーナは、エックハルトに近づくと、その両手をエックハルトの頬に当てた。
「エックハルト様が私を気遣ってくださってる事はわかります。……ありがとうございます、ですわ」
結局、自分にできることは大してなかったのだ。
そんな思いを抱えながら、エックハルトはその場に立ち尽くしている。
工房での戦闘後、廃墟の外でのことだった。アリーシャはその場を辞去し、リヒャルトは現場に留まって、リンスブルック侯国の士官と、今回の戦闘について言葉を交わしている。
「……あなたは」
低い声でエックハルトは、リヒャルトに言葉を掛ける。
「…………」
そんなエックハルトに、リヒャルトは無言で視線を返すだけだ。その目からは、強大な敵に怯えずあくまで殺し切らんとする獣性の痕跡が消えていない。死の危険のある戦闘に際して意図的な亢進状態を作り出すと、少なくとも数時間、場合によっては数日は言動や行動が過剰になりがちだ。
エックハルトは怒鳴りつけてやろうかと一瞬考える。援護を待たずに単独で飛び出したこともだし、その後のあの、苛烈に過ぎる叱責だ。アリーシャは臣下であり人前で叱責されてもまあ問題はないが、ヴィルヘルミーナは別だ。リヒャルトの言い草は、仮にも他国を代表する一人であるヴィルヘルミーナに対する非礼と言えた。
だが、自分もまだ彼と同様の状態にあることは否定できない。ここでリヒャルトと言い合いになって、リンスブルックの臣民の前で醜態を晒してしまったら本末転倒だ。
アリーシャは、彼に話があると言っていた。ここはアリーシャに任せておくべきかもしれない。なんだかんだ言ったところで彼女も聡明な女だし、リヒャルトよりはヴィルヘルミーナに理解がありそうだ。
(しかし、だ)
そう、しかし、だった、エックハルトにとっては。リヒャルトのアリーシャへの執心は頭の痛い問題だ。そして、そのことに本人が気がついていないのがさらに問題だった。
なぜって、ヴィルヘルミーナだけがその場に残されていて、一人蚊帳の外に置かれていることでは、何も変わりはなかったからだ。護衛が側についていたものの、この場で彼女に配慮する人間がいないという事実の救いにはなっていない。
エックハルトは内心で毒づく。
(また、馬鹿君主の尻拭いか)
エックハルトの見立てでは、リヒャルトとヴィルヘルミーナとの折り合いの悪さは結局、周囲が仕向けるようには、リヒャルトが彼女に恋心を抱けないことの問題だ。あの少年の心は一面では野獣のようで、鎖に繋がれて引っ張られるほど、逆の方向に向けて駆け出し、どうにかして戒めを解こうとする。
それが幼く、また愚かだとエックハルトは考える。恋心など、女への愛など、自分が自分のために利用するものだと。リヒャルトもいずれは理解する、この女とその女の違いなど、実は大きな問題になどならないことに。
ヴィルヘルミーナの方については、まだ幼い少女の内面のあわいや揺らぎにまで立ち入ろうとは、エックハルトは思わない。だがリヒャルトが内面の獣の手綱を制御し切ることができれば、そのうちには二人とも現実の要求に屈服するだろう。そうなれば諸々の物事は収まっていくはずだと、今までのエックハルトは考えていた。それが別の女の登場で、思った通りには行かなくなったのだが。
そんな風にエックハルトは自身の打算と悪徳に塗れた人間だったが、大人の事情で子供を無用に傷つけることは毛嫌いしていた。そんな矛盾を自分でも意識しつつも、それが自分にとって問題になるなどとは、エックハルトは考えたことがなかった。
エックハルトはヴィルヘルミーナに歩み寄り、恭しく頭を下げる。それから、側に立っていた護衛の者に声を掛ける。
「ヴィルヘルミーナ様を天幕の中へ」
ようやく立ち上がった天幕へと、周囲の者を促してエックハルトはヴィルヘルミーナを導く。雨がパラパラと落ちてきて、これから天候が崩れてきそうだった。これから夕方になって気温が下がってくれば本降りになるかもしれなかった。
「ヴィルヘルミーナ様」
「…………」
改めて近くで顔を見ると、ヴィルヘルミーナは悲しそうな様子ではなかった。目を見開いて、何かをじっと考え込んでいる。
エックハルトは跪き、ヴィルヘルミーナと同じ視線の高さになる。そして再度、口を開いた。
「ヴィルヘルミーナ様。世の中には、石が落ちるように一直線に進んでいって、他の誰が止めようとしても止まらない、そんな出来事があります」
ヴィルヘルミーナには難しいだろう。
何が言いたいのか?
それはヴィルヘルミーナにとって、役に立つことなのか?
そう自問自答しながらも、エックハルトは続ける。
「人間はそんな出来事に翻弄されてばかりです。できることは、そんな理不尽に当たってどう振る舞えるか、それだけですよ。そして人間の価値は、そこにしかありません」
ゲームセットだ、と、エックハルトは思っていた。リヒャルトとヴィルヘルミーナでは、幸せな結婚は望めない。妥協するか、別の道を選ぶか。それしか選択肢は残されていない。
自分にできることは、大してなかったのだ。
その言葉をエックハルトは、内心で繰り返す。
幼いリヒャルトと、幼いヴィルヘルミーナ。
歳相応ではない分別が備わっているとしても、成熟した精神までは心許ない。そして、その不相応な分別を周囲の大人は利用していて、しかも成り行きをただ傍観している。そして、エックハルトも結局その一人でしかなかった。
ヴィルヘルミーナは、首を傾げて、不思議そうにエックハルトの顔を見ていた。
「エックハルト様。わたくしにはあまり、難しいお話は分からないのですけど」
そう言ってヴィルヘルミーナは、エックハルトに近づくと、その両手をエックハルトの頬に当てた。
「エックハルト様が私を気遣ってくださってる事はわかります。……ありがとうございます、ですわ」
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