アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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6章 歴史の終わり

6章6話 歴史の歯車 *

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【新帝国歴1132年8月12日 リヒャルト】

「…………」
 リヒャルトは鋭い目でその顔を見る。彼女は顔を上げようとはしない。椅子の上で肩を落とし、視線を足元の床に投げている。そこにある見えない何かを凝視するかのようにその目は見開かれている。
 アリーシャだ。呼び出しには応じたものの、いつもとは明らかに様子が違っていた。絶望したような表情で、寒さに耐えかねているようにすら見える。
 ここはリヒャルトの書斎だった。アリーシャにとっては久しぶりの場所だった。彼女の様子を聞き及ぶに、多数の人々の同席の下で話を聞ける状態ではないと判断し、リヒャルトは彼女をここに呼んだのだった。
 外の光は明るいが、それと対照的に室内は暗い。その部屋の暗さよりもアリーシャの目は今は暗く、光が消えているようにリヒャルトには見えている。
 まあ、あれを見たのだから、と、リヒャルトは思った。

 蒸気機関車の公開実験にて現れた超巨大災厄。それを目撃した時にも、アリーシャはリヒャルトの側にいた。その恐怖に竦み上がった表情をリヒャルトは思い返してみる。自分だって恐怖したし、目撃した人間の皆がそれは同じだっただろう。
 それから十日余りが過ぎており、リヒャルトはその後、体制を立て直し始めていた。客人の安全を確保して帰路につかせる。あれを目撃した市民の恐慌状態をなんとか収め、また首都内での衛兵の配備によって混乱に伴う治安悪化を統制する。そんな仕事に没頭することで、少なくとも自分の中だけでは冷静さを取り戻すことができていた。
 一方のアリーシャだ。彼女のことだから、今回の混乱に打てる手を進言してきても不思議はなさそうだが、沈黙を保ったままで、それどころか自室に引きこもっているとのことだった。前に彼女が言っていたが、災厄を支えている技術はアリーシャが知っているものより高いらしい。そのため打つ手が思いつかない、ということは有り得た。
(……それにしても)
 リヒャルトは訝しむ。以前、遺構の攻略作戦で、敵方から放たれた砲門の一撃を目にしても、アリーシャは冷静だったのだ。あの超巨大災厄の攻撃はその印象すら塗り替えるものだったが、今回はアリーシャの方が怯え切ってしまうのはどうにも腑に落ちない。

「……例の災厄は去っていった、例によって。だが、今回の場合、それだけでは終わっていない。各地の災厄と、遺構の様子が変化している、と、そういう連絡を受けている。……聞いているか?」
 リヒャルトの言葉に、アリーシャは無言で頷く。心ここにあらず、というわけでもないようだ。
「お前は、何か分かるか? 現在の状況について。根拠がなくても、断片的でもいい。思いつくことがあったら、何でもいいから教えてくれ」
「…………」
 なおも黙り込むアリーシャに、リヒャルトは歩み寄る。
「……できません」
「アリーシャ?」
 それから、堰を切ったかのように、アリーシャは捲し立て始めた。
「私は、あれが歴史を変えてしまうことを知っていた。あれが、いつ、どこでできるか、それだけで全く変わってしまうことを知っていた。それなのに、私は。私は引き金を引いてしまった。私は。私は。私は、偉そうに講釈なんてしてはいけなかった、あんな風に。『その歯車が噛み合っていって、誰もその先を見る人がいなければ、どこに向かって行ってしまうのか分からない』なんて。それを知っているのに、理解していなかった。できない、できません。私はそれができるほど賢くなんてない」
 アリーシャは頭を抱える。その絶望的な目には、リヒャルトは映っていないかのようだ。

 リヒャルトはアリーシャの前に立ち、その肩を両手で掴む。その手の力に、アリーシャは身を固くする。
「こっちを向いてくれ、アリーシャ」
 それからリヒャルトが発した言葉は、思いもよらず、掠れた叫び声になる。
「お前は、私の未来を見届けてくれるんじゃなかったのか」
 それはまるで、必死で哀願するような。
 無様だな。リヒャルトは自分のことを、そう考える。こんなのは、君主にも相応しくなければ、一人前の男とも言えない。
「…………」
 リヒャルトは頭を抱える。

 アリーシャの『公妾』の件だ。リヒャルトには、そのことをどうしても、自分の胸の裡だけに収めて乗り越えることができない。

 それは宮廷の要請で行ったことで、リヒャルトは渋ったが最後には折れた。だが、全く意に染まない、気に食わないだけの無理強いに屈したのかと言ったら、多分そうではないとリヒャルトは認めざるを得ない。何もしないでいれば、彼女はいずれ自分の手を離れていく存在だった。
 だからある意味では望んだ結果なのかもしれない。理性的で分別があり、誇り高い振る舞いをしようと努めている意識下のリヒャルトではなく、人間の皮を剥がせば誰にも存在している、打算と欲望のみに基づく合理性に突き動かされる無意識の彼が望み、その通りに行動した結果だった可能性をリヒャルトは否定できない。
 自分は、栄光ある祖先の頼りない血統の先にあるただ一人の存在として、その冷たい椅子に腰掛ける少年だった。誰よりも豪華な衣装をお仕着せで身に纏いながら、同時にその虚勢を剥ぎ取られて、丸裸で、その愚かさも弱さも誰の目にも明らかな姿で、そこに座し続けなければならない、その人生の終わりまで。

 愚かで弱い、裸の王様。
 全てを見透かされているのかもしれない。彼女には、そして、他の全ての人間、誰一人としてそれを知らないものはない。生まれてくる子の血統すら管理されている。それが生命を持つずっと前から、自分がそうしたいと願う、はるかな前から。誰とどんな人生を生きたいのか、自分の手で選び取ることができない。
 そんな風に生きていたくはないのか? 全てを投げ出したいのか?
 そうじゃない。今の問題はそうじゃない。今は非常事態で、自分の役目は危機にあって臣民を保護し、安全な場所まで導くことだ。自分が本当に力を発揮できるのは、今、この危機の時だけなのだ。彼女もそれを理解して、それで力を貸してくれたはずではなかったのか。

「…………」
 その間リヒャルトは、ずっと無言だった。アリーシャは目を見開いて、硬い表情でこちらを見ている。今は彼女が、遥か遠くに隔たってしまっているように、リヒャルトには感じられている。

 こんなのは望んでいなかった。
 少しだけ、誰かに理解してもらえれば。打算も計算もなく、ただ自分の心が確かにここにあるとだけ、それを知っていて、それをいつも気に留めていてくれる人がいれば、それで良かったはずだった。それさえあれば、どれだけの孤独にも重圧にも耐えてみせる。それだけの強さは備えている、今の自分自身にすら、リヒャルトはそれを確約できた。
 だから、そんなことは必要じゃなかった。それが必要だと、勝手に周りが考えただけだ。だから黙っているべきだったのだ。何も告げず、ただその在り方を認めて、愛していれば良かった。自分の心の中でだけ。

 ただただ素朴で単純な人間の絆、リヒャルトが必要としていたのはそれだけだ。
 だけどそれを人間は、自分の人生で、自分の意思で獲得しなければならない。
 生まれた時から自分に繋げられた絆、その糸だけを手繰り、そこを伝う乳だけを啜って生きていくことは不可能だ。
 だから欲が出ただけ、惑わされただけなのだ。塀越しに伸びた枝に罪の林檎がぶら下がっていても、それをもぎ取らないだけの分別は備えている、そのはずだ。倫理から逸脱した取引を誘惑され、自分を見失うことさえなければ。

 本当に、そうなのか?

 自由に生きてはならないのか、ただその心が在る通りに?
 こんな世界の終わりまで?

「……殿下」
 思いもよらず掛けられた声に、リヒャルトは顔を上げる。アリーシャだ。
 自分が涙を流していたことにも、彼は気が付かなかった。

 みっともないところを、見せたな。
 そう言おうとして、言葉が喉に詰まり、出てこないことにリヒャルト気が付く。
 アリーシャは黙って手を伸ばす。彼女だって困惑しているはずだ、そうリヒャルトは考える。
 言葉を交わすことも、別の行動に出ることもなく、しばらくそうしていたのは、数分だったのか、もっと長い時間だったのか。

「……お前の言う、その言葉も。それからそのことで、今のお前がどれだけ辛い思いをしているのかも、私には分からない。だけど、私は、それでも戦え、と言うしかないんだ。許してほしい」
 それが、リヒャルトの口から、やっと出た言葉だった。こんな冷たくて、ぎこちない。しかしその言葉とは裏腹に、その声は掠れて頼りない。

「……殿下。リヒャルト様。私は」
 アリーシャは小さな声で答えると、またリヒャルトの額へと手を伸ばした。
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