アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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6章 歴史の終わり

6章12話 兄弟

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【新帝国歴1132年11月15日 エックハルト】

「元気そうで何よりだ」
 室内に入るなり、リヒャルトは声をかける。
「お陰様で」
 エックハルトは簡単に、それだけ答えた。
 ここはリヒャルトの執務室だったが、エックハルトにも専用の机がある。リヒャルトは公宮外での仕事が忙しく、最近では執務室に戻ってくることすら稀だ。一方のエックハルトは、ずっと執務室で、淡々と業務をこなしていた。

『システム』の停止作戦を終えて、エックハルトらが帰還してから、実に一ヶ月半が経過していた。
 システムの停止時、何かが起こったことは世界中で確認できていた。闊歩していた『災厄』たちは、突然奇妙な挙動を始めた。同士討ち、あるいは我と我が身を破壊し始め、バラバラの鉄屑になるまでに自壊していった。その残骸が鹵獲され、詳しく調べられているものの、人智を超える力によって徹底的に破壊されているために、今のところ有益な成果は得られていない。敢えて言うならば、大量の鉄屑が労せずして手に入ったために、その加工は一大産業に発展していくと思われた。
 もう一つの顕著な現象は『遺構』だった。地下から構造を露出し、その真の威容を表していた各地の遺構は、災厄の自壊と時を同じくして崩壊した。どうやらそれら遺構の地下には巨大な空間が広がっていたようで、崩壊した遺構の地上部は、地下に向かって沈んでいったのだ。
 それは、エックハルトらが探索していた、あの大遺構でも同じだった。その崩壊前にエックハルトらが脱出できていたのは幸いだった。その後の帰路も順調で、死を覚悟して望んだ遠征部隊は皆無事だったのだ。

 問題は、その遠征部隊の中心人物だったアリーシャだ。
 アリーシャも無事脱出できていて、外傷はなかった。だがずっと茫然としていて、元の様子に戻らないということだ。彼女は今も病室に収容されていて、リヒャルトは日に上げずその様子を見に行っている。
「ずっとそうだ。私の方を見ようとはしない。側にいても」
 そう、気遣わしげなリヒャルトだったが、エックハルトは冷たく言い放つ。
「ご自身の恋愛の話はしないでいただけますか」
 リヒャルトはしばし無言になる。
「……どうしたんだお前」
「今、私は自分のことで手一杯なので。自分の、失恋で」
 机に向かったまま答えるエックハルトに、リヒャルトは少し焦る。
「お前、まさかアリーシャに……」
「違いますよ」
 ぴしゃりとエックハルトは否定した。
 違うはずだ、と、エックハルトは思う。

 エックハルトは、『彼女』の姿を目にしたのだ。あの、システム最奥部の前の映像で。自分の二度の死を受け入れて、先に進む彼女の言葉を聞いて、その手が自分の頭を撫でたところを見ていた。
 天から伸びてくる、光の手。
 大遺構から必死で逃げていたことは確かだ。生き延びる意志は、しばしば感情を凌駕する。そのことに気がついたのは、脱出後、地下に向かって崩落していく大遺構を目にした時だ。
 アリーシャを地上まで届けたら、自分は残れば良かったのかもしれない。
『私を私のままで、もう一度だけ生きさせて』
 それが彼女の言葉だった。アリーシャではない、彼女の彼女たる所以が存在していたその場所と運命を共にする以外に、想いを遂げる方法はなかったのかもしれない。
 だけど、彼女はこうも言っていた。
『幸せに生きて欲しいだけなのにさ』
 生きろ、と言いたいのか。
 彼女が自分に向けて残してくれた、唯一の言葉。
 せめてもう少しだけ、話がしたかった。その願望は意識の底の深い部分に絡みついていて、油断した隙に背後からの一撃を狙ってくる。
 エックハルトは、昨晩の夢を思い出す。

 ——彼女は僕の頭に手をやっている。それから僕に向かって語りかけるのだ、その、彼女らしい別れの言葉を。
「本当さあ。エックハルト、子供なのかな? そんなにママが必要?」
 僕は、彼女の顔を見ようとする。だけど彼女の背後からは強い光が差し込んでいて、真っ直ぐ正面を見ることはできない。
「そんな思い詰めなくたって大丈夫。あなたがちゃんと愛することができれば、その相手だってちゃんとあなたを愛してくれるはずだから」
 光の方に向かって立ち去ろうとする彼女の背中を、僕は抱き締める。
「…………ッ! こら!」
 彼女はそんな風に、僕に向かって怒るのだ。
「誰かが必要だなんて言ってない。僕に必要なのは、あなただ」
「いい加減、正気に戻りなよ。どうせ女になんて不自由してないんでしょ? だから、そういう忖度いらないから」
「正気なんて、最初からない」
「……そういうことは認めるんだ」
 彼女は困り果てている。その状況を利用して、僕はしばらく、そのままでいた。
「……男の子は、ママから卒業しないとならないんじゃないの?」
「この際だから、言っておきたいことが一つある。あなたは僕のママじゃない。あなたは、僕が人生で見つけた人だ」
「……本当、そんなこと言ったってさ。私もう、いないのに」
 最後にやっと、彼女は僕に、向き直ってくれる。
「だから、何もいらないから。元気、出してよ」
 そこで、目が覚めた——

 単なる無意識の反逆だ。彼女と本当に会話したとか、そこで告げた自分の言葉を理解してくれたとか、そういうことではない、だろうと思う。
 それでも一つだけ、大事なことを確認できた。彼女は、自分のママじゃない。自分の母親は、あの人だけだ。事切れる直前に、赤子である自分の首を絞めたという女。結局のところ、その死の間際に何が起きたのかはわからない。でも、そうだったのだとすれば、こんな冷たい世界に自分を一人残していきたくなかった、そういうことなのだろう。それで納得するしかない。
「……愛している。それだけは、どうか理解して」
 リヒャルトには聞こえないようにエックハルトは呟く。リヒャルトは怪訝な顔でエックハルトの方を見ただけだった。

「エックハルト」
 アリーシャの病室に向けて退出しようとするリヒャルトだが、扉の前で一度立ち止まる。
「お前がどう思っているか知らないが。私は、お前のことを……兄、だと、思っているから」
 それだけ言うとリヒャルトは立ち去る。
 無言で、横目で一瞥しただけで、エックハルトはその姿を見送った。

「兄、か」
 エックハルトは呟き、思い返す。リヒャルトとの馴れ初め、それからこれまで生きてきた二人の人生について。
 リヒャルトの父ヴィクターがエックハルトに用意してくれたのは、リヒャルトの廷臣の地位だった。彼も、それから奥方のヴァイオラも、リヒャルトが年若いうちに亡くなって、リヒャルトはたった一人の公位継承者になってしまった。
 これは、リヒャルトに何らの後見者がいなくなってしまったことを意味している。こういう場合には普通、君主は傀儡となり、政治の実権は有力貴族の玩具になる。真からリヒャルトのために立ち働く動機を持っているのは、まだ二十二歳で、申し訳程度の準貴族の爵位しかなく、権力も何もないエックハルトだけだった。
 エックハルトはある戦略に出る。有力貴族の後見を受けつつも、彼らの間の利害の不一致を巧妙に利用して、誰か一人に実権を握らせてしまうことを避ける。そうして、リヒャルトの成長のための時間を稼いだ。
 そうしながらエックハルトは、リヒャルトには教養をつけさせた。必要な学問を見極め、教師の良し悪しを嗅覚で嗅ぎ分けて、大急ぎで君主としての体裁を整えた。だが、エックハルト自身には、それらの学問を自分で深く理解する機会はなかった。
 エックハルトがいなければ、今のリヒャルトは存在しない。エックハルトが孤児だったように、リヒャルトも孤児だった。この豪華で寒々しい宮廷において、二人はお互い、たった一人の肉親だった。嫉妬と羨望に身を灼かれても、エックハルトはリヒャルトを必死で守っていた。
 リヒャルトはそれを、理解していた、ということだ。
「兄か。……あいつ」
 再度、エックハルトは呟く。そして、両手で顔を擦った。
 理解していないのは、自分の方だったのかもしれない。
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