アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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8章 未来への布石

8章7話 大公殿下と出奔令嬢

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【新帝国歴1140年5月2日 ヴィルヘルミーナ】

「お口に会いますでしょうか」
 その声は少年のもので、でもどこかしら静かで冷たい、ひんやりとした空気を感じる。

 ヴィルヘルミーナが向かい合っているのはヴォルハイム大公国君主、アルトゥル・エルツェルツォーク・フォン・ヴォルハイムその人だ。藍色の地に金色の帯で縁取りされたヴォルハイム家の礼装を纏う、御歳14歳となられた大公。その金茶色の髪は短めで、背は華奢なヴィルヘルミーナよりもすでに高く、成長したら精悍な男性となることを予感させる。
 しかしその表情はどこかひんやりとして陰が宿っているようにも、ヴィルヘルミーナには感じられてしまう。少年ながら底が知れない、それがアルトゥルに対するヴィルヘルミーナの印象だった。

「ええ、とても」

 テーブル越しに大公と対峙するヴィルヘルミーナは、料理に視線を落とす。皿は東洋からの輸入品のようで、牛乳よりも白く、女性の肌よりも滑らかで、そして金色で縁取りがされている。

 ヴィルヘルミーナはヴォルハイム大公国でも事業を展開しており、それにはヴォルハイム大公も支援をしてくれている。そして、ヴォルハイム大公から招きを受けると、ヴィルヘルミーナとしては断るわけにはいかない。それで今晩の会食となったわけだが、ヴィルヘルミーナは胃に刺さるような奇妙な緊張感を覚えている。
 ヴィルヘルミーナはこんな風なかしこまった場で、個人的な会話に興じることが得意ではないと感じている。その理由は色々と考えられたが、合理的な理由というよりも、どこかしら本能で感じ取った、嗅ぎ分けたある危機の感覚のようなものだった。
 ヴィルヘルミーナが昔全力で逃げ出した、人間を捕らえる、蜘蛛の巣のような政略の網。この少年からは、その匂いが漂ってきている。

「今晩は、ツィツェーリア様はいらっしゃらないのですか?」

 ヴィルヘルミーナはキョロキョロと、落ち着かなげに周りを見渡してしまう。会食に興じるのはこの二人だけで、他に給仕のための召使が控えているが、微動だにせず、まるで家具ででもあるかのように振る舞っている。アルトゥルの叔母であるツィツェーリアは、ヴォルハイム大公国では摂政のような立場にあって、公的な場面ではアルトゥルの傍に立っているのをヴィルヘルミーナはよく見かける。

 ヴィルヘルミーナの言葉に、アルトゥルは少し笑う。
「あれは、あなたのことを気に入っていますからね。ですが、彼女がいてはやりにくい。そんな話があるのです」
「なんでしょうか?」
「何から話しましょうか。……単刀直入に、私の結婚について」
「へ?」
 ヴィルヘルミーナはつい、素っ頓狂な声を挙げてしまう。それにアルトゥルは少し笑う。
「おそらく、あなたが考えることとは、少し違っていると思います」
 それから、アルトゥルはヴィルヘルミーナに話してくれる。

「……ランデフェルト公爵息女との婚約を進めたいと、叔母としては考えているようです。ですが、私には分からない」
「何をですか?」
「ランデフェルトが信頼に足る存在かどうか。公爵も、それからその妃という女性も」
「素晴らしい方ですわ、アリーシャ様は」
「それを聞いて良かった、ですが」
 いつの間にか、アルトゥルは席を立ち、ヴィルヘルミーナの側まで歩いてきていた。釣られてヴィルヘルミーナは立ち上がる。
「その息女と、私が結婚していいのか? その結婚が、良い結果を招くのだろうか。彼女自身がどんな人間なのかも、私には分からない」
「お子様……ベアトリクス様は、まだ1歳でいらっしゃいますから」
「その通りです。それは人として、正しい道なんでしょうか」

 自分は彼の立場に理解を示すべきなんだろうか、政略結婚から逃げ出した経験者、先輩として。だが、その前に立つと、圧倒的な、飲み込まれるような恐怖感を覚える。今のヴィルヘルミーナは、昔のヴィルヘルミーナではない。傍目には大人として振る舞えるだけの分別を得て、逆にその分だけは自由を失ってしまった。だから、権力の下にあって屈しない、そんな昔と同じ選択が、今でもできるかは分からない。

「……分かり、ません。わたくしはそういうことは、何も」
 そう、正直に答えるしかない。
「ヴィルヘルミーナ様。あなたはランデフェルト公リヒャルトとの婚約を解消されていますね。それは、なぜですか?」
「なぜって……」
 ヴィルヘルミーナは言葉を失う。

 リヒャルトと自分は相性が悪かったから。リヒャルトには好きな人がいたから。そんなことを答えたらどうなる? その結果の責任は引き受けられない。何が起きるか分かったもんじゃない。

「わたくしには政治は務まりません、それで良いのではないですか?」
「そうは思えません。あなたは聡明でいらっしゃいますから」
「それでも駄目なのです。人には適性というものがありますわ、アルトゥル様」
 断固とした口調でヴィルヘルミーナは告げる。個人的な理由、のような答え方すらするわけにはいかない。
「分かりました。ご無礼をいたしました」
 そう言ってアルトゥルは引き下がり、ヴィルヘルミーナは少しだけ安堵する。
「これからもお会いできますか。お話を伺いたいのです」
 ヴィルヘルミーナは歯を食いしばる。
「…………間諜、のようなことは、わたくしには。本当に、向いていないのです」
「そんなお願いはいたしません」
 それから、アルトゥルはその言葉を口にする。
「あなたには、私の理解者になっていただきたいのです」
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