1 / 2
第一話
おばちゃんの三大要素
しおりを挟む
僕の職場にはたくさんのパートのおばちゃんが居る。
かつて若かりし頃の僕は、おばちゃんはいつだって面白くて頼りがいのある存在だった。
――― 僕は破滅的な家庭環境で育った。
故に家族や親族との関係性は薄く、外の社会が僕の人間形成の全てだったような気がする。
破滅的な環境で育った子供の大抵は悪い道に進む。僕もそうだった。
望まなくてもそうなった。
そして、アルバイトできるような歳になった頃から外の世界と関わり合い、多くの大人たちと触れ合う。
僕には感謝すべき大人たちがたくさん居る。
悪餓鬼だった僕に、色眼鏡も掛けずに叱ってくれたおばちゃんも居た。
「ちゃんと御飯食べている?」
そう言って、休憩時間に自腹で出前を取ってくれたおばちゃんも居た。
いま思い出してもとても暖かい気持ちになる。美味しかったなぁ~あの餃子定食……
おばちゃんに諭され、優しくされ、僕は少しずつ大人になった。
だがしかし!
それは若い頃の良い時の話だ。
あれから何十年かが経ち、僕もいい歳になった。
そして、相変わらず僕の周りにはおばちゃんが居る。
だが、なにかが違う…なにかが…
僕の職場に居るおばちゃんたちは、三十代が二名、五十代が四名、六十代が三名、七十代が三名だ。
なんという、後期高齢化社会なのだろう……
そして、こんな年寄りたちが働かなければならない日本の仕組みに嫌気がさす。
僕の知り合いのスリランカ人に訊くと、スリランカは大学まですべて学費は免除とか…
そのうえ、定年退職は五十五歳らしく、定年後の年金額でも悠々自適に生活できるらしい。
故に、こんなに年寄りばかりが働いている日本に衝撃を受けていた。
僕たちは何のために生きているのだろう。
幼き疑問かもしれないが、余程の富裕層にでもならない限り、きっと解けることのない疑問だ。
そして、今日もおばちゃんたちは元気に働いている。
腰が痛いと言いながら。
誰かの陰口を言いながら。
孫の自慢話をしながら。
そうなのだ、おばちゃんは基本的に三大要素でできている。
①健康話
②陰口(悪口)
③自慢話
この三つである。
無論、全てのおばちゃんがそうという訳では無い。だが、悲しい事に僕の周りのおばちゃんの99パーセントはこの三大要素でできている。
特に苦痛なのは休憩だ。
休憩室とは言え、事務所と兼用なのだが、長テーブルがあってそこに8脚の椅子が置いてある。
決して広い訳では無い。
テーブルにはお茶の入った魔法瓶と湯呑が置いてあり、誰かが持ってきたであろうお菓子が転がっている。
当然、婆さんばかりの職場なので糞まずいせんべいか、賞味期限が迫っている饅頭とかだ。
そして、テーブルに食物が置いてあると当然のようにむしゃむしゃと食っている奴が居る。
障害枠で採用されている男の子だ。男の子と言っても22歳くらいだろう。
そして、その脇では常にパートのおばちゃんたちが三人くらいは休憩に入っている。
耳から脳天まで刺激する甲高いダミ声。一秒たりとも黙らないマシンガントーク。下品極まり無い笑い声。
その横で便乗して「うひゃひゃひゃひゃ~」と気味悪く笑う障害枠の少年もどき。
僕はいつもこんな状況の中で休憩にぶち込まれる。
貴方なら耐えられますか?
だって一秒たりとも黙らないんだよ。
休憩とは本来、体も心もリラックスさせる為にあるのでは無いのか?
こんな休憩だったら無くてもいいや……最近ではそう思える。
だから僕はいつもテーブルにうつ伏して寝ている。とても煩くて寝れないけれど。
耳から入ってくる情報は…
「それって、膝関節症よ~なかなか治らないのよね~」とか、
「今日の○○さんの服見た?あんな派手なのよく着れるわよね~あたしだったら絶対着れない~」とか、
「うちの孫なんかユーチューブ観てるのよ~、わたしなんかよりずっと機械に詳しいの~」とか……
とにかく楽しくなるような話題とかでは無い。健康、陰口、自慢話のオンパレードなのだ。
聞いていて気分も悪くなる。そして、人の悪口のところになると障害枠の少年もどきが喜んで笑いだす。きっとまだ善悪の区別が深いところまではついていないのだろう。
それ以外にも、ちょこちょことした意地悪などは日常茶飯事だ。特に新人いびりが大好きで、わざと聞こえるような声で「こんなこともできないの~」などと言ってみたり、わざと人にぶつかってみたり、挨拶をしても機嫌が悪ければ無視をされる。
きっとこんな職場は日本にはゴロゴロとあるのだろうね。なにせ、超高齢化社会だから。
でもそれって普通じゃないよね。こんなことが普通と思えてはいけないよね。
いつのまにか、職場の若い人たちはおばちゃんに諦め癖がついている。
きっと同調している訳では無い。うまくやり過ごさないと面倒だからだ。
そして、僕もその一人なのだろう。いつの間にか諦め癖がついている。きっと、何を言ってもダメなんだろうって奴だ。そして、最近になって僕の中でもうひとつ新しい見方ができた。
先日、皆既月食だった日、休憩中におばちゃんがこう言った。
「今度皆既月食になるのは23年後なんだって。もうあたしは死んでいるわね」
それを聞いていたもうひとりのおばちゃんが、「あんたは憎まれっ子だから100歳まで生きるから大丈夫よ」とそう応えた。
そうか…このおばちゃんたちは残りの人生を少しでも楽しく過ごそうとしているんだな…
そう思えると憎たらしさも少しだけ和らいで、優しさがほんのちょっぴり顔を出す。
おばちゃん…もう既に男だか女だかなんて性別も無く、おばちゃんという生き物なのだろう。
人それぞれにやり過ごしてきた人生がある。
それはどんな人間にだって平等にある。
そんな中でもおばちゃんたちは強く逞しく生きてきたのだろう。そこは尊敬すべきなのだ。
でもね、もうちょっとお手柔らかにお願いします。
せめて休憩中だけは静かにしてください。
{完}
かつて若かりし頃の僕は、おばちゃんはいつだって面白くて頼りがいのある存在だった。
――― 僕は破滅的な家庭環境で育った。
故に家族や親族との関係性は薄く、外の社会が僕の人間形成の全てだったような気がする。
破滅的な環境で育った子供の大抵は悪い道に進む。僕もそうだった。
望まなくてもそうなった。
そして、アルバイトできるような歳になった頃から外の世界と関わり合い、多くの大人たちと触れ合う。
僕には感謝すべき大人たちがたくさん居る。
悪餓鬼だった僕に、色眼鏡も掛けずに叱ってくれたおばちゃんも居た。
「ちゃんと御飯食べている?」
そう言って、休憩時間に自腹で出前を取ってくれたおばちゃんも居た。
いま思い出してもとても暖かい気持ちになる。美味しかったなぁ~あの餃子定食……
おばちゃんに諭され、優しくされ、僕は少しずつ大人になった。
だがしかし!
それは若い頃の良い時の話だ。
あれから何十年かが経ち、僕もいい歳になった。
そして、相変わらず僕の周りにはおばちゃんが居る。
だが、なにかが違う…なにかが…
僕の職場に居るおばちゃんたちは、三十代が二名、五十代が四名、六十代が三名、七十代が三名だ。
なんという、後期高齢化社会なのだろう……
そして、こんな年寄りたちが働かなければならない日本の仕組みに嫌気がさす。
僕の知り合いのスリランカ人に訊くと、スリランカは大学まですべて学費は免除とか…
そのうえ、定年退職は五十五歳らしく、定年後の年金額でも悠々自適に生活できるらしい。
故に、こんなに年寄りばかりが働いている日本に衝撃を受けていた。
僕たちは何のために生きているのだろう。
幼き疑問かもしれないが、余程の富裕層にでもならない限り、きっと解けることのない疑問だ。
そして、今日もおばちゃんたちは元気に働いている。
腰が痛いと言いながら。
誰かの陰口を言いながら。
孫の自慢話をしながら。
そうなのだ、おばちゃんは基本的に三大要素でできている。
①健康話
②陰口(悪口)
③自慢話
この三つである。
無論、全てのおばちゃんがそうという訳では無い。だが、悲しい事に僕の周りのおばちゃんの99パーセントはこの三大要素でできている。
特に苦痛なのは休憩だ。
休憩室とは言え、事務所と兼用なのだが、長テーブルがあってそこに8脚の椅子が置いてある。
決して広い訳では無い。
テーブルにはお茶の入った魔法瓶と湯呑が置いてあり、誰かが持ってきたであろうお菓子が転がっている。
当然、婆さんばかりの職場なので糞まずいせんべいか、賞味期限が迫っている饅頭とかだ。
そして、テーブルに食物が置いてあると当然のようにむしゃむしゃと食っている奴が居る。
障害枠で採用されている男の子だ。男の子と言っても22歳くらいだろう。
そして、その脇では常にパートのおばちゃんたちが三人くらいは休憩に入っている。
耳から脳天まで刺激する甲高いダミ声。一秒たりとも黙らないマシンガントーク。下品極まり無い笑い声。
その横で便乗して「うひゃひゃひゃひゃ~」と気味悪く笑う障害枠の少年もどき。
僕はいつもこんな状況の中で休憩にぶち込まれる。
貴方なら耐えられますか?
だって一秒たりとも黙らないんだよ。
休憩とは本来、体も心もリラックスさせる為にあるのでは無いのか?
こんな休憩だったら無くてもいいや……最近ではそう思える。
だから僕はいつもテーブルにうつ伏して寝ている。とても煩くて寝れないけれど。
耳から入ってくる情報は…
「それって、膝関節症よ~なかなか治らないのよね~」とか、
「今日の○○さんの服見た?あんな派手なのよく着れるわよね~あたしだったら絶対着れない~」とか、
「うちの孫なんかユーチューブ観てるのよ~、わたしなんかよりずっと機械に詳しいの~」とか……
とにかく楽しくなるような話題とかでは無い。健康、陰口、自慢話のオンパレードなのだ。
聞いていて気分も悪くなる。そして、人の悪口のところになると障害枠の少年もどきが喜んで笑いだす。きっとまだ善悪の区別が深いところまではついていないのだろう。
それ以外にも、ちょこちょことした意地悪などは日常茶飯事だ。特に新人いびりが大好きで、わざと聞こえるような声で「こんなこともできないの~」などと言ってみたり、わざと人にぶつかってみたり、挨拶をしても機嫌が悪ければ無視をされる。
きっとこんな職場は日本にはゴロゴロとあるのだろうね。なにせ、超高齢化社会だから。
でもそれって普通じゃないよね。こんなことが普通と思えてはいけないよね。
いつのまにか、職場の若い人たちはおばちゃんに諦め癖がついている。
きっと同調している訳では無い。うまくやり過ごさないと面倒だからだ。
そして、僕もその一人なのだろう。いつの間にか諦め癖がついている。きっと、何を言ってもダメなんだろうって奴だ。そして、最近になって僕の中でもうひとつ新しい見方ができた。
先日、皆既月食だった日、休憩中におばちゃんがこう言った。
「今度皆既月食になるのは23年後なんだって。もうあたしは死んでいるわね」
それを聞いていたもうひとりのおばちゃんが、「あんたは憎まれっ子だから100歳まで生きるから大丈夫よ」とそう応えた。
そうか…このおばちゃんたちは残りの人生を少しでも楽しく過ごそうとしているんだな…
そう思えると憎たらしさも少しだけ和らいで、優しさがほんのちょっぴり顔を出す。
おばちゃん…もう既に男だか女だかなんて性別も無く、おばちゃんという生き物なのだろう。
人それぞれにやり過ごしてきた人生がある。
それはどんな人間にだって平等にある。
そんな中でもおばちゃんたちは強く逞しく生きてきたのだろう。そこは尊敬すべきなのだ。
でもね、もうちょっとお手柔らかにお願いします。
せめて休憩中だけは静かにしてください。
{完}
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる