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一章 死の王
第1話 死の王〈後編 いずれ背を向けようとも〉
しおりを挟む薄暗い執務室のソファで、カイムとヘルレアは、互いに見つめ合う。カイムは、人外ヘルレアの強い視線を、無防備に受け止めるしかない。
受け止める――しかし、その言葉は殆ど正しくはないだろう。どちらかと言えば、縫い止められる。更に言えば、掌握され、支配すらされていると表現する方が、余程、正しいのかもしれない。
カイムには、動く術が失われていると、迷い無く自覚出来ていた。
暗く沈んだ部屋で、ヘルレアの瞳は青々と灯る。だというのに、その瞳は、どこまでも闇に等しい。人間など、王の意志一つで、容易く囚われてしまうだろう。落ちてしまえば、二度と這い上がれ無い。常に、それはカイムを、奈落の底へ通ずる、獄門を前にしたような心持ちにさせる。
ヘルレアが引きつるような、小さな笑いを溢した。カイムには、それが不思議な行為のように感じられる。ヨルムンガンドから本物の感情を、吐露されたように思えたのだ。
「……ノイマンが私を自由にしたのは、私に人への支配や破壊以外の興味を、与えるためだったのだろう。
あの男は、誰よりも破滅的な人間だった。白と黒、両極端の危険な賭けに出たのだから」
「それが事実なら、ノイマン会長は賭けに勝ったということですね」
「どうだろうな、まだ結果など出ていない。ただ、言えることは、私が満足している、ということだけ」
満足している。カイムは、その言葉の意味するところが真に、ノイマンの意図通りに、物事が働いたのだという、証のように感じた。死と破壊、あるいは支配。おそらくそれが、全てであるはずの双生児に、経験や知識でもって、与えたものは大きかったのだ。
それは、しかし同時に、ヘルレアの遠くない死を、孕んでいた。双生児の生、そのもの、本能とも言える根幹を、脅かされたに等しいヘルレアは、もはや生に対する執着が、無くなっているようだった。
――人倫に縛られた無意識が、王を蝕んでいるといってもいい。
「あなたは、生きる事を望まないのですか。その子供のままの姿で、性も得ずに、死んでいくというのですか」
ヨルムンガンド双生児は、性別を持たない。事実、カイムの前に座るヘルレアは、十代半ばにしては、すんなりとし過ぎていた。身長は年齢相応にあるが、その体は性差が現れる前の、子供にしか過ぎなかったのだ。
「死にたいわけではない。けれど、生きたいと思うわけでもない。ただ、あえて言うなら、面倒なだけ。自棄になっているのは、私の方なのかもしれない。
どちらにしても、私にとっては、選びがたいものが多過ぎる」
「あなたは人の、僕の言葉を聴いてくださる。もし、人の目線に立つこともできるなら、人の嘆きが聴こえませんか。叫ぶような、縋り付くような、生きたいという願いを、聴いたことはありませんか」
「……」
「あなたなら、その手一つで、多くのものを変えられるかもしれない。だというのに、面倒だからと、おそらく、あなたが今まで得たであろうものも、全て捨ててしまえるのですか」
「……私は捨てられる。そういう生き物なのだろうと思う――でも、理解もできる。嘆きが聴こえないわけではないから」
「ならば、生きるという選択を、してはくださいませんか。あなたの死は、あまりに多くのものを奪いすぎる。少しでも命を永らえる意思があるならば、僕らは協力を惜しみません」
「番を与えてくれるというの」
ヘルレアは声高く、吐き捨てるように笑い声を上げた。本当に馬鹿々しい話を、聞き咎めたかのよう。耳鳴りを誘う鋭さに、金属が擦れ合う不快感を想起させる。
「あなたの命が、かかっているのですよ」カイムの顔は強張り、拳を握っていた。
双生児の寿命は短い。既にヘルレアは、十代半ばにして死期を迎えつつあった。しかし、唯一双生児を永らえさせる方法がある。人間を番とし、自らの巣を作るのだ。性を生まれつき持たない王は、人間の男女双方共に、番になることが可能だった。人間の性に合わせて、王は性を選ぶ。
「私がこのまま伴侶を持たなければ、本来の闘争が始まる前に、全て終えられるというのに、生き長らえさせてどうするというの。
いつ終わるともしれない争いを、本当に始めると? それで何の意味がある。お前たちの嫌う、余計な犠牲者を、更に増やすかもしれないというのに」
それでも、ヘルレアがこのまま死んでしまえば、もう一方の王が、人間社会を支配することになる。――あの、暴君が。
「何があっても、あの片王を絶対に、勝たせるわけにはいかないのです。あなたという牽制する者を失えば、後はもう、なし崩しにしか事は運ばなくなる。
あなたが人の世をさまよっている間、あの片王は既に多くの犠牲者を出しているのですから」
「確かに、お前達は無能だと、既に結果が出ているようだな」
「このままあなたを死なせてしまえば、あの片王の性質からして、人間が蹂躙し尽くされてしまうのは、目に見えているのです……あなたならば、みすみす無慈悲な真似をすることはない――そう、我々は信じています」
「……思い違いをするな。言葉を交わせるからといって、私が人にとって、善良だとは限らないのだから」
静な怒りが感じられた。ヘルレアの青い瞳が、鮮やかに湧き立つと、なお一層に、冴え冴えと闇に灯された。同時に、室温が急激に下がっていく。ヘルレアから波紋が広がっていくように、周囲に紗が掛かっていった。低卓の表面には薄っすらと霜が降り、絨毯は波が引いていくように色を失い、直ぐに部屋全体が白く色褪せていった。室内のどことも分からない場所から、軋む音が絶え間なく弾けている。
カイムの呼気が白く煙る。ヘルレア自身の口元に変化はなく、強い意志を宿す瞳だけが、カイムを見据えている。
情動が周囲に波及している。全てを静止させるほどの力。
カイムは早々に感覚を失いつつある手を、無意識にこすり合わせない様に、強く組んだ。震えで歯がかち合わないように、くいしばる。それでも身体の震えは止めようがなかった。
次の言葉を誤れば、先はない。何を言うべきか、言うべきでないか。圧倒的な力の差は、自由意志を押し潰す。
――それでも、言わねばならない。
「僕は少なくとも、こうして向き合い、会話ができるあなたの方が、今は信じられる。
未来のことは誰にも分からない、と、人は考えます……だから、この先もしも、などと言う議論は無意味でしかないのです。
もう、今はこれしかないというならば、どの様なものにでも、縋り付くしかない」
「それが、真の邪悪だったらどうする」
「あなたが人を虐げるというのなら、僕は戦い続けるだけです。今度はあなたの敵として――その場限りでしかない、慰めの救いで構わない」
カイムは深い息を吐いた。それはまるで、長い間積み重ねた感情を、吐露するような、絞りだすようなものだった。諦めや、失望を隠すつもりは、既になかったのだ。目の前に居る子供を、恐ろしいと感じないわけではない。それでも、綱渡りにも似た、危うい現状にいる自分自身を忘れるほどに、縋る手を払いのける子供へ、どうしようもない憤りを覚えずにはいられなかった。これは、ひどく身勝手な思いなのだろうと、カイムは解っていた。
眼前の王は、辛抱強い。あるいは、優しいと言ってもいい。カイムへ、これだけ自由な発言を許し、そして今もなお、彼の首は飛んでいないのだから。だが、それこそ、王の在るべき姿が狂っている証だった。
ヘルレアは急に立ち上がると、窓辺へ行って、無言でその景色を眺め始めた。
凍えるような寒さに満ちた一室で、その背中は本当に小さく、寄る辺のなさを感じさせる。
――けして揺るがないもののはずなのに。どうしてこれ程にも、その背中は、寂しく脆い存在に感じさせるのか。
「……懐かしい景色だ。こうして人間の暮らしを見下ろすと、隅々まで人の手が行き渡っているのが良く解かる。そんな強かな人間を、造作も無く握り潰せる歓びは、計り知れないもの。
街が更地に帰れば、さぞや星々も輝こう――人間など、本当に護る価値はあるか?」
「それは考えるに値しません。当たり前だからです。人の命を護り、生活を護る。これ以上の大義など、この世に存在しません」
ヘルレアはカイムへ振り返ると、ただ見つめ続けた。しばらくすると、部屋が温もりを取り戻してくる。
「お前が望むことは――何が欲しい」
「第一にあなたの延命を、我々は最も望んでいます。その為に、ここへお招きしました。先程も申しましたが、片王だけが生き残るという事態は避けられる」
「私が、このままお前に与してもいい、と、言ったらどうする?」
「我々の組織に立たれてもよい、ということですか……ならば、ステルスハウンドの代表である、僕が番となる形を希望します」
「残念だったな、私はお人形さんのような男に、興味はないんだ」
カイムは、ヘルレアのあまりにも軽い調子の言葉に、初めは何を言っているのかが判らなかった。意味が飲み込めてきた瞬間に、血がさっと、頭から遠ざかっていく感覚があり、先ほどとは違う意味で寒くなった。
カイムは固まるしかできなかった。
この段になって、好みの問題を挙げられるとは、思ってもみなかった。しかも容姿についてという、カイムに取ってどうにもならず、またこの際どうでもいいとしか思えない部分についてだ。
カイムは何か言葉を次がなくてはと、焦るが呻き声が漏れるばかりで、意味をなさない。
引き留める間もなく、王はひらひらと手を振って、立ち去って行った。
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