88 / 167
二章 猟犬の掟
第19話 バロット 孵れなかった卵
しおりを挟む
25
「オルスタッドを帰館させる事にしました」
カイムは椅子に座って、膝の上にノートパソコンを無意味に乗せている。
「もういい加減、執務室へ帰れよ。面倒臭い」
「一緒にいると約束したはずです。ですからこうして仕事道具一式揃えさせました」
「お前の立場だと、そんなものでは碌な仕事にならないだろうが。というより、周りの奴らの仕事増やしているだろ」
「お気付かいありがとうございます。代表などというのはステルスハウンドでは飾りですから」
「それは自分で言うな――オルスタッドが帰って来るんだって」
「状態が完全に落ち着いているわけではありませんが、正直、猟犬を他国の病院に置いておくのは完全に褒められた事ではありません。自家用航空機を出してなるべく早く搬送するので、結果的に今が潮時だろうと話しが付きました」
「なるほどな、報告ご苦労さん」
「何か企みがあるのではありませんか?」
「言っただろう、お前達しだいだと」
「是非とも教えて頂きたい」
「全ては流れのままに、だ。聞いた事あるだろ」
「さあ、どうでしょう」
「運命なんて臭い言葉を使うつもりは無いね。放っておけば物事は勝手に進むものだ。私は結果を待つだけ。オルスタッドもどうするかは、あいつ自身が決める」
「そういう事ですか」
「お前、私に欲情しているだろう」
カイムは何も飲んでいないのに吹き出してむせる。
「……何の前振りもなしで、物凄くストレートに来ますね」
「なに、私に欲情する人間は多い。珍しくないからあまり気に病むな。そもそも接触が原因なんだ。それを考慮すれば、お前は無実だ」
「何か犯罪を犯したようなニュアンスを、平然と入れるのは止めてください」
「私は十三才か、十四才なんだぞ。十分に犯罪じゃないか。お前三十代半ばくらいだろう。国家予算なみの資産を持つ、狂った金持ちのおっさんが、美しい子供を弄ぶ。妄想が荒れ狂うな」
「自分の事おっさんと言ったら、スカしてるみたいだって仰っていたでしょう。それに、ヘルレアが美しい子供なのは間違っていませんが、おっさんはヨルムンガンドを弄べる程の力倆を持っていません」
「そうなのか?」
ヘルレアが笑っている。何故か椅子から立ち上がって、カイムの元へ向かって来る。膝に置いてあるノートパソコンを取り上げて、空いているベッドに置いた。
「何がいい? 何がしたい?」初めて聞く、高い少女のような声。
ヘルレアが初めて中性さを自ら放棄して、カイムの性的指向へと合わせて来た。
ヘルレアはそのままカイムの膝に跨って、肩に縋った。体勢が危うい、というか傍から見たら卑猥な行為の最中であるように映るであろう。カイムの膝へ王が座する感触――その接触する場所は――もう既に秘所を連想させるだけの柔さを、カイムに感じさせていた。
カイムが性的な感覚から、懸命に意識を逸していると、ヘルレアが想像以上に軽い事に気が付いた。本当にただの子供を膝に抱いているような自然さがある。この身体のどこに、強大な破壊力を秘めているのか不思議に思える程だ。
得体のしれないしっとりとする香りが鼻腔一杯に広がった。人間の体臭とは違う。その当たり前の事に脳というのは追い付いていけないらしく、香りを意識して嗅いでいる。今までヘルレアの体臭など一度も感じた事がなかったものが、何故かこの時とばかりに襲い掛かってくる。
――ヘルレアこそナニがしたいのか。
「どうかしら、気分はどう? 興奮するでしょう」カイムの頬を掴まえる。
顔の距離が近過ぎる。
子供、子供と何度も自分を誤魔化そうとしても何の意味もなかった。多分ヨルムンガンドに年齢は関係ないのだ、身体の中に生まれた熱が、どうしようもなく煽り立てられ、消したくても消せなくなってくる。暴れ狂うような欲望で、思考が混乱を起こしている。犯すさまを生々しく想像する己と、それを理性で抑え付ける己が互いに打ち消しあっていた。
――けして触ってはいけない。
触れたら殺されてしまうだろう……か?
思わず生唾を飲んでしまい、気付かれる事に羞恥で顔まで真っ赤になっているのが分かる。カイムは色素が薄いので人より更に悟られやすいのだ。
「強張り過ぎだぞ。これでは私が弄んでいるみたいだ。おっさんが弄べよ――随分と可愛いらしいこと。いっそ、私が本当にふでおろししてやろうか」
カイムは椅子ごと引っくり返った。彼は身を固くし過ぎて、自分で不様に床へ転がっている。
ヘルレアは持ち前の身体能力で、しっかりと飛び退っていた。喜悦に身体を折っている。
「間抜け過ぎる。純真無垢にも程があるだろ。童貞を拗らせるとこうなるのか。三十越えて童貞だとなんとかかんとか」
「どうして、そのことを……けれどもとにかく、ヘルレアは笑い過ぎです。そこまで馬鹿にして嘲笑うなら、ヘルレアご自身で本当に僕を卒業させてください」カイムは立ち上がる。
「やはり、お前くらいになると対人能力ハンパないな。顔真っ赤で無言とはいかないか。そちらの方が可愛げがあって好ましいけどな……」
カイムは好き放題喋っているヘルレアの元へ行く。カイムよりずっと小さな王へと頭を下げると、その額にキスを落とした。
ヘルレアは口をぽかんと開けている。
「ただの童貞だと思わないでください。あなたの夫となる為に、今は生きているのですから」
ヘルレアは無防備に開けていた口をもう閉じている。無表情でカイムを見つめていた。
「覚悟は出来ているな?」
「覚悟がないのなら致しません」
ヘルレアがゆっくり近寄って来る。
――ああ、首を刎ねられるか。
ヘルレアにネクタイを引っ張られ、頭を下げさせられた。
「キスっていうのはな、こうするんだよ」
ヘルレアの冷たい唇が、カイムの唇に重なる。カイムは動けなかった。何も反応出来なかったのだ。
重なり合う唇は、一方的に求められているものだった。ただカイムは、ヘルレアが蠢くさまに身を任せている。しかし、いつしかその強い求めに応えて、互いが激しく求め合うものへ変わっていった。小さな舌がカイムの唇を割って、更に奥の口腔に侵入しようと、歯列を舐めて抉じ開ける。ヘルレアを受け入れると、舌があまりにも容易くからめ取られる。結合し、混ざり、融け合う。唾液が溢れて泡立つ音に、本能的な興奮を煽り立てられた。
それは溺れていくように犯し、犯されて。カイムはあまりの心地よさで、愛欲に従うままとなり、思考を蹂躪された。
それはまるで身体の深くに埋もれた心を、暴き合うような激しい行為だった。
――このまま境界を失うまで、溶け合ってしまいたい。
カイムは知らず知らずのうちに、ヘルレアの身体へ腕を回していた。しかし、当のヘルレアはそれに一切抵抗をみせなかった。むしろカイムのなすがままになって、いつの間にかリードさせ、女性的な対応を取り始めている。
カイムはもう止まらなかった。ヘルレアの背中へ回していた手が腰から臀部へと下りてくるが、バッグが手を阻む。カイムは直ぐに、バッグの下へと手を入れて、持ち上げるように動かし始める。その尻は肉付きが悪くすんなりしていた。カイムは何故か女を相手にしているつもりになっていたので、違和感を覚える。しかし、その手は愛撫を止めなかった。
ヘルレアの息が微かに乱れているのを感じると、頭へ一気に血が上った。
その瞬間、耳鳴りが近付き遠ざかりを繰り返す。あまりの不快さに顔を顰めていると、男でも女でもない狂ったような笑い声が、頭の中で暴れ回る。気が遠くなりそうになると、闇の中で青い双眸が燃え盛っていた。
――ヘルレイア。
――いや、違う。
――これは。これは、あいつが。
途端、薄く強いものが粉々に握り潰される乾いた音がして、息を詰める。
窒息しそうに感じると、カイムは自分が果てのない闇に佇んでいる事に気が付いた。すると、直ぐに星々が無限に闇へと散って瞬き出す。煌めく塵が霧として、雲として、世界へ流れ、満ちていた。
――いけない、これは。
猟犬が――。
巨大な意識の塊が際限無く集まって来る。館内以外の猟犬の意識までも手繰り寄せ始めていた。頭を万力で締められるような痛みに、ヘルレアから顔を逸らす。
カイムはヘルレアを突き放すように、身体を遠ざけた。彼は激しく乱れた自分に愕然としていた。
ヘルレアが口を拭っている。
「お前は駄目だ。お前の心はここにはない」
「ヘルレア、王、お待ち下さい。僕は……、」
ヘルレアがカイムの頤を捕える。
「お前は弱すぎる。番がどうとか言いながら、今まで気付きもしなかったのか――部屋から出て行け。このガキは私が一人で見る。カイムは頭を冷やせ、興奮し過ぎだ」
カイムはヘルレアの言葉に異を唱えられるはずも無く、ジゼルの部屋を出る。
扉を閉じた時、自分の情け無さに深く目を閉じた。
しかし今、カイムは猟犬の状態が不安でたまらなかった。あまりにも心身を乱し過ぎたのだ。
カイムはここ数年、もうほとんど猟犬を意識する事などなかった。猟犬はほぼ人間のように暮らさせていたし、大きな出来事がなければ干渉するつもりもなかったのだ。こういった感覚は十年……あるいは、真の感覚を言うならば、二十年振りだった。
カイムは完全に閉ざしている心と身体――それはどこか卵に似ている――を、まるで籠目のような卵細工へと切り開く。
ただ慣れ切ったその思考を過程を経るだけで、際限無く猟犬の存在が意識に雪崩込んで来た。少しやり過ぎたかと、籠目を小さくすると、丁度、遠く星空を見るような瞬きで館にいる猟犬が全て感じられた。見回してみる――それは意識の中で――皆、誰もが平穏に働いているようだった。
だが、気になる猟犬が二人いる。
リディア・マクレガーという猟犬の光が歪になっている。
彼女はランドルフ・ベイゼンの妻だ。
ランドルフは影の猟犬で、先頃殉職した猟犬だった。オルスタッドの部下で、東占領区へ潜入して、バラバラになった遺体から、おそらく使徒の手に掛かり命を落とした。
ランドルフとリディアには幼い子供がいる。そろそろニ才になろうという、可愛い盛りの娘だった。
カイムは重いため息をつく。
閉殻を開放するという事は、こうして猟犬の心へ常に気を揉んで、触れようとしてしまうという事だ。カイムはこうした人間的では無い行為を、閉殻をする事によって殆ど止めていたのだ。
――非人道的過ぎる。
その行いが良いか悪いかの問題では無い。心を土足で踏み躙る醜悪な行為であろう。
そして、もう一頭、ジェイドも精神が不安定なようだった。彼はカイムに最も近い猟犬、謂わば事実上の側近だった。猟犬は主に近い程、主の影響を受け易いものだ。カイムの不安定さが戦闘員へ如実に表れるというのは、厄介な事この上ないが、現状カイムの能力ではこれ以上強固な閉殻状態を作り保てない。
理由が違えど、二人の状態があまり酷ければ無視も出来まい。直接的な処置の必要性が出てくる可能性がある。
カイムは一瞬で興奮が覚める。
処置だけはなるべく避けたい。心の自由は出来るだけ守ってやりたい。それがたとえカイムに取って負担であろうとも。
中性的な声が頭に纏わりつく。カイムは顔を覆う。
「アルヘリオン……まだ僕等を苦しめるのか」
「オルスタッドを帰館させる事にしました」
カイムは椅子に座って、膝の上にノートパソコンを無意味に乗せている。
「もういい加減、執務室へ帰れよ。面倒臭い」
「一緒にいると約束したはずです。ですからこうして仕事道具一式揃えさせました」
「お前の立場だと、そんなものでは碌な仕事にならないだろうが。というより、周りの奴らの仕事増やしているだろ」
「お気付かいありがとうございます。代表などというのはステルスハウンドでは飾りですから」
「それは自分で言うな――オルスタッドが帰って来るんだって」
「状態が完全に落ち着いているわけではありませんが、正直、猟犬を他国の病院に置いておくのは完全に褒められた事ではありません。自家用航空機を出してなるべく早く搬送するので、結果的に今が潮時だろうと話しが付きました」
「なるほどな、報告ご苦労さん」
「何か企みがあるのではありませんか?」
「言っただろう、お前達しだいだと」
「是非とも教えて頂きたい」
「全ては流れのままに、だ。聞いた事あるだろ」
「さあ、どうでしょう」
「運命なんて臭い言葉を使うつもりは無いね。放っておけば物事は勝手に進むものだ。私は結果を待つだけ。オルスタッドもどうするかは、あいつ自身が決める」
「そういう事ですか」
「お前、私に欲情しているだろう」
カイムは何も飲んでいないのに吹き出してむせる。
「……何の前振りもなしで、物凄くストレートに来ますね」
「なに、私に欲情する人間は多い。珍しくないからあまり気に病むな。そもそも接触が原因なんだ。それを考慮すれば、お前は無実だ」
「何か犯罪を犯したようなニュアンスを、平然と入れるのは止めてください」
「私は十三才か、十四才なんだぞ。十分に犯罪じゃないか。お前三十代半ばくらいだろう。国家予算なみの資産を持つ、狂った金持ちのおっさんが、美しい子供を弄ぶ。妄想が荒れ狂うな」
「自分の事おっさんと言ったら、スカしてるみたいだって仰っていたでしょう。それに、ヘルレアが美しい子供なのは間違っていませんが、おっさんはヨルムンガンドを弄べる程の力倆を持っていません」
「そうなのか?」
ヘルレアが笑っている。何故か椅子から立ち上がって、カイムの元へ向かって来る。膝に置いてあるノートパソコンを取り上げて、空いているベッドに置いた。
「何がいい? 何がしたい?」初めて聞く、高い少女のような声。
ヘルレアが初めて中性さを自ら放棄して、カイムの性的指向へと合わせて来た。
ヘルレアはそのままカイムの膝に跨って、肩に縋った。体勢が危うい、というか傍から見たら卑猥な行為の最中であるように映るであろう。カイムの膝へ王が座する感触――その接触する場所は――もう既に秘所を連想させるだけの柔さを、カイムに感じさせていた。
カイムが性的な感覚から、懸命に意識を逸していると、ヘルレアが想像以上に軽い事に気が付いた。本当にただの子供を膝に抱いているような自然さがある。この身体のどこに、強大な破壊力を秘めているのか不思議に思える程だ。
得体のしれないしっとりとする香りが鼻腔一杯に広がった。人間の体臭とは違う。その当たり前の事に脳というのは追い付いていけないらしく、香りを意識して嗅いでいる。今までヘルレアの体臭など一度も感じた事がなかったものが、何故かこの時とばかりに襲い掛かってくる。
――ヘルレアこそナニがしたいのか。
「どうかしら、気分はどう? 興奮するでしょう」カイムの頬を掴まえる。
顔の距離が近過ぎる。
子供、子供と何度も自分を誤魔化そうとしても何の意味もなかった。多分ヨルムンガンドに年齢は関係ないのだ、身体の中に生まれた熱が、どうしようもなく煽り立てられ、消したくても消せなくなってくる。暴れ狂うような欲望で、思考が混乱を起こしている。犯すさまを生々しく想像する己と、それを理性で抑え付ける己が互いに打ち消しあっていた。
――けして触ってはいけない。
触れたら殺されてしまうだろう……か?
思わず生唾を飲んでしまい、気付かれる事に羞恥で顔まで真っ赤になっているのが分かる。カイムは色素が薄いので人より更に悟られやすいのだ。
「強張り過ぎだぞ。これでは私が弄んでいるみたいだ。おっさんが弄べよ――随分と可愛いらしいこと。いっそ、私が本当にふでおろししてやろうか」
カイムは椅子ごと引っくり返った。彼は身を固くし過ぎて、自分で不様に床へ転がっている。
ヘルレアは持ち前の身体能力で、しっかりと飛び退っていた。喜悦に身体を折っている。
「間抜け過ぎる。純真無垢にも程があるだろ。童貞を拗らせるとこうなるのか。三十越えて童貞だとなんとかかんとか」
「どうして、そのことを……けれどもとにかく、ヘルレアは笑い過ぎです。そこまで馬鹿にして嘲笑うなら、ヘルレアご自身で本当に僕を卒業させてください」カイムは立ち上がる。
「やはり、お前くらいになると対人能力ハンパないな。顔真っ赤で無言とはいかないか。そちらの方が可愛げがあって好ましいけどな……」
カイムは好き放題喋っているヘルレアの元へ行く。カイムよりずっと小さな王へと頭を下げると、その額にキスを落とした。
ヘルレアは口をぽかんと開けている。
「ただの童貞だと思わないでください。あなたの夫となる為に、今は生きているのですから」
ヘルレアは無防備に開けていた口をもう閉じている。無表情でカイムを見つめていた。
「覚悟は出来ているな?」
「覚悟がないのなら致しません」
ヘルレアがゆっくり近寄って来る。
――ああ、首を刎ねられるか。
ヘルレアにネクタイを引っ張られ、頭を下げさせられた。
「キスっていうのはな、こうするんだよ」
ヘルレアの冷たい唇が、カイムの唇に重なる。カイムは動けなかった。何も反応出来なかったのだ。
重なり合う唇は、一方的に求められているものだった。ただカイムは、ヘルレアが蠢くさまに身を任せている。しかし、いつしかその強い求めに応えて、互いが激しく求め合うものへ変わっていった。小さな舌がカイムの唇を割って、更に奥の口腔に侵入しようと、歯列を舐めて抉じ開ける。ヘルレアを受け入れると、舌があまりにも容易くからめ取られる。結合し、混ざり、融け合う。唾液が溢れて泡立つ音に、本能的な興奮を煽り立てられた。
それは溺れていくように犯し、犯されて。カイムはあまりの心地よさで、愛欲に従うままとなり、思考を蹂躪された。
それはまるで身体の深くに埋もれた心を、暴き合うような激しい行為だった。
――このまま境界を失うまで、溶け合ってしまいたい。
カイムは知らず知らずのうちに、ヘルレアの身体へ腕を回していた。しかし、当のヘルレアはそれに一切抵抗をみせなかった。むしろカイムのなすがままになって、いつの間にかリードさせ、女性的な対応を取り始めている。
カイムはもう止まらなかった。ヘルレアの背中へ回していた手が腰から臀部へと下りてくるが、バッグが手を阻む。カイムは直ぐに、バッグの下へと手を入れて、持ち上げるように動かし始める。その尻は肉付きが悪くすんなりしていた。カイムは何故か女を相手にしているつもりになっていたので、違和感を覚える。しかし、その手は愛撫を止めなかった。
ヘルレアの息が微かに乱れているのを感じると、頭へ一気に血が上った。
その瞬間、耳鳴りが近付き遠ざかりを繰り返す。あまりの不快さに顔を顰めていると、男でも女でもない狂ったような笑い声が、頭の中で暴れ回る。気が遠くなりそうになると、闇の中で青い双眸が燃え盛っていた。
――ヘルレイア。
――いや、違う。
――これは。これは、あいつが。
途端、薄く強いものが粉々に握り潰される乾いた音がして、息を詰める。
窒息しそうに感じると、カイムは自分が果てのない闇に佇んでいる事に気が付いた。すると、直ぐに星々が無限に闇へと散って瞬き出す。煌めく塵が霧として、雲として、世界へ流れ、満ちていた。
――いけない、これは。
猟犬が――。
巨大な意識の塊が際限無く集まって来る。館内以外の猟犬の意識までも手繰り寄せ始めていた。頭を万力で締められるような痛みに、ヘルレアから顔を逸らす。
カイムはヘルレアを突き放すように、身体を遠ざけた。彼は激しく乱れた自分に愕然としていた。
ヘルレアが口を拭っている。
「お前は駄目だ。お前の心はここにはない」
「ヘルレア、王、お待ち下さい。僕は……、」
ヘルレアがカイムの頤を捕える。
「お前は弱すぎる。番がどうとか言いながら、今まで気付きもしなかったのか――部屋から出て行け。このガキは私が一人で見る。カイムは頭を冷やせ、興奮し過ぎだ」
カイムはヘルレアの言葉に異を唱えられるはずも無く、ジゼルの部屋を出る。
扉を閉じた時、自分の情け無さに深く目を閉じた。
しかし今、カイムは猟犬の状態が不安でたまらなかった。あまりにも心身を乱し過ぎたのだ。
カイムはここ数年、もうほとんど猟犬を意識する事などなかった。猟犬はほぼ人間のように暮らさせていたし、大きな出来事がなければ干渉するつもりもなかったのだ。こういった感覚は十年……あるいは、真の感覚を言うならば、二十年振りだった。
カイムは完全に閉ざしている心と身体――それはどこか卵に似ている――を、まるで籠目のような卵細工へと切り開く。
ただ慣れ切ったその思考を過程を経るだけで、際限無く猟犬の存在が意識に雪崩込んで来た。少しやり過ぎたかと、籠目を小さくすると、丁度、遠く星空を見るような瞬きで館にいる猟犬が全て感じられた。見回してみる――それは意識の中で――皆、誰もが平穏に働いているようだった。
だが、気になる猟犬が二人いる。
リディア・マクレガーという猟犬の光が歪になっている。
彼女はランドルフ・ベイゼンの妻だ。
ランドルフは影の猟犬で、先頃殉職した猟犬だった。オルスタッドの部下で、東占領区へ潜入して、バラバラになった遺体から、おそらく使徒の手に掛かり命を落とした。
ランドルフとリディアには幼い子供がいる。そろそろニ才になろうという、可愛い盛りの娘だった。
カイムは重いため息をつく。
閉殻を開放するという事は、こうして猟犬の心へ常に気を揉んで、触れようとしてしまうという事だ。カイムはこうした人間的では無い行為を、閉殻をする事によって殆ど止めていたのだ。
――非人道的過ぎる。
その行いが良いか悪いかの問題では無い。心を土足で踏み躙る醜悪な行為であろう。
そして、もう一頭、ジェイドも精神が不安定なようだった。彼はカイムに最も近い猟犬、謂わば事実上の側近だった。猟犬は主に近い程、主の影響を受け易いものだ。カイムの不安定さが戦闘員へ如実に表れるというのは、厄介な事この上ないが、現状カイムの能力ではこれ以上強固な閉殻状態を作り保てない。
理由が違えど、二人の状態があまり酷ければ無視も出来まい。直接的な処置の必要性が出てくる可能性がある。
カイムは一瞬で興奮が覚める。
処置だけはなるべく避けたい。心の自由は出来るだけ守ってやりたい。それがたとえカイムに取って負担であろうとも。
中性的な声が頭に纏わりつく。カイムは顔を覆う。
「アルヘリオン……まだ僕等を苦しめるのか」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
異世界召喚でクラスの勇者達よりも強い俺は無能として追放処刑されたので自由に旅をします
Dakurai
ファンタジー
クラスで授業していた不動無限は突如と教室が光に包み込まれ気がつくと異世界に召喚されてしまった。神による儀式でとある神によってのスキルを得たがスキルが強すぎてスキル無しと勘違いされ更にはクラスメイトと王女による思惑で追放処刑に会ってしまうしかし最強スキルと聖獣のカワウソによって難を逃れと思ったらクラスの女子中野蒼花がついてきた。
相棒のカワウソとクラスの中野蒼花そして異世界の仲間と共にこの世界を自由に旅をします。
現在、第四章フェレスト王国ドワーフ編
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
第2の人生は、『男』が希少種の世界で
赤金武蔵
ファンタジー
日本の高校生、久我一颯(くがいぶき)は、気が付くと見知らぬ土地で、女山賊たちから貞操を奪われる危機に直面していた。
あと一歩で襲われかけた、その時。白銀の鎧を纏った女騎士・ミューレンに救われる。
ミューレンの話から、この世界は地球ではなく、別の世界だということを知る。
しかも──『男』という存在が、超希少な世界だった。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる