死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

文字の大きさ
92 / 167
二章 猟犬の掟

第22話 呪縛の刺繍 猟犬の戒め〈前編 空っぽの夢〉

しおりを挟む
29


 そよ風が柔い薄茶の猫っ毛を遊ばせ、目を閉じる彼の頬も、また風がくすぐっている。はっきりと彫りの深い顔立ちではなく、どちらかというと穏やかな印象を与える眼鼻立ちなのだが、彼独特の強張ったような仏頂面が、優しさを欠いてみせた。

 彼は事務机についていて、部屋には彼以外誰もいなかった。

 彼は、自分専用の事務室にいる。

 それ程広い部屋ではなかったが、必要十分な条件は満たしている。そこは影としての業務を円滑に行えるよう与えられた一室だ。勿論、館に設けられた一室なので、事務室と言うより、どちらかというと古き良きアパートメントの様相を呈している。

 彼がぼんやりと眼を開く。

 ――何故、風が。

 ――珍しく居眠りをしていたのだろうか。

 自分の些細な失態にため息をつく。

 ――仕事をしなければ。でも、何の?

 ああ、自分はすっかり呆けてしまったのかと顔を拭う。

 机の書類が目には入り確認すると、主へ提出しなければならないものだった。彼は書類を片手に、急いで部屋を出ると執務室へ向かう。

 執務室へ通じる扉の前で伺いを立てようとした時に、扉が唐突に開いて、書類が彼の足元を舞う。すると、目の前にいる男性が屈んで書類を集めている事に驚いた。彼自身も急いでに加わる。主を屈ませた上、ぶちまけた書類まで拾わせていたのだ。

「あの……さま、申し訳ございませんでした」彼は思わず口をつぐむ。何かを言いあぐねたような。

「どうした? 珍しくぼんやりとして」

「先程、何をしてたのか忘れてしまって」

「大丈夫か……、疲れているんだろう」

 何故か音が聞き取れない部分があったが、自分の事を言われているのだと分った。

「面目ない、しだいでございます」

「休暇でも取ったらどうだ。お前全然休んでいないだろう」

「いえ、仕事が生き甲斐ですから」

「過労死されても困るからな、……の代わりなんてそうはいないと思うぞ」

「もったいないお言葉でございます」

 主と執務室へ入ると、書類確認を願う。書類を丁寧に主は読みながら、独り頷いている。そうしていると、大雑把なノックの後、勝手にドアを開けて顔を出したのは隊長だった。

「お前等、暇そうだな」

「そのような事があるわけありません」

 隊長が豪快に笑いながら入って来る。

「お前も暇そうだな」主が隊長へ笑いかけ、書類の整頓をしてから、彼へ手渡した。

 暇そうと、問いかけ合う挨拶が持つ、意味の切なさに微かに目を伏せる。何事も無くいられる今を確かめ合う言葉。数分後には死に別れるかもしれない相手への、精一杯ユーモアを込めたやり取り。

 主と隊長がソファへ向かうと、座って談笑を始めた。

 穏やかな笑い声と、ざっくばらんな笑い声に彼は密かに微笑む。こうして僅かな休憩時間をみつけると、二人はよくお喋りをしている。彼はその時間に、ただ寄り添うのが好きだった。まるで今この時だけ、自分を取り巻く世界が、優しさに満ちているような気がするのだ。

「……、暇だろ。少しは休め」隊長がソファを遠慮なく叩いている。

 ――隊長、そのソファは、私達の給料何ヶ月分だと思っているんですか。

 つい、心の中で本音を述べる。

「……にお茶を入れてもらおう。……も座ってくれ」

「では、遠慮なく」

「そうだ、……休暇を取らないか。この書類にサインしてくれ」主が低卓へ紙を差出す。

「いえ、私は」

 腹の底を揺さぶるような重低音が聞こえる。彼は弾かれるように気付いて、周囲を見回した。

 何か巨大な生き物の鳴声。

 主人と隊長は何の反応も示していない。彼は手元の書面を見るが何故か読む事が出来なかった。

 何かが苦しむような悲痛な鳴き声が聞こえる。

 ――これは何なのだろうか。

 もう一度焦点を合わせようとすると、今度は簡単な手続き書類だというのが分かった。

 彼は氏名欄へ、ペンを走らせる。

 ――チェスカル・マルクル。

 チェスカルは転がり落ちるような、感覚に捕らわれると、地面にうつ伏せで倒れている事に気が付いた。這いつくばって、自分が今何をしているのか、まったく判らなかった。

「さあ! 綺麗に刺繍してあげるわ、チェスカル・マルクル」

 チェスカルはその声で、綺士だということを瞬時に理解して、体勢を立て直そうと本能で動いた。

 アデラインは糸を高速で引き寄せながら、中空に一抱えもありそうな図案を組上げていった。百足ムカデの姿が見えて来ると、ほぼ同時に――チェスカル・マルクル――という名が装飾的な書体で表れる。

 アデラインが刺繍と呼ぶものが、完全に形を取ると、両腕を振るような動作をする。そうした瞬間、刺繍は姿を消してしまった。チェスカルは周囲を警戒して見ていたが、そのまま何も起こらず、アデラインは手を大きく振るばかりだった。

「何故? これも偽名だというの」綺士の体躯で分かり辛いが、首を傾げているよう。

「初めからお前になど、名前をやるわけがないだろう」

「どうして、幻の中で偽名など騙れるの」

「好きに考えるがいいさ」

「……けれどチェスカル、あなたは何て惨めなんでしょう。あなたが見た夢は、あまりにも空っぽで、ゴミクズ同然ね」

 チェスカルは小さく笑い出すと、我慢出来なくなって吐き出すように大笑いする。これ程おかしくて笑うのも久し振りだった。

「もう、そうなっては他者の心も分かるまい」

「そうか……そうね、気に入ったわ、チェスカル。今までよりも更に、あなたが欲しくなった。あなた達からは何一つ、誰の名前も引き出せなかった。驚いたわ、化物のよう」

 ハルヒコが鼻で嘲笑う。

「化物に化物と、呼ばれる日が来るとは思わなかった」

「そうだわ。もしかしてあなた達は本当に、人間ではないのかしら。隠喩でも蔑称でも隠語でもなく、本当に猟犬イヌなのね。なんておぞましい人間もいるものか。お前等、主と名乗る恥知らずに、名前を取られたのだろう。畜生以下の存在に堕とされて、飼われ続けているのか。何たる憐れ。のうのうと主を名乗り続ける、文字通りこれ程のがいるとは……、」

 発砲音と共にアデラインの額に穴が空く。

 チェスカルとハルヒコが、霧の中にある狙撃位置を思わず追う。

他人の家ひとんちの御主人様への悪口は、その辺にしとけよ。ゲテモノ」

 ルークが険を含んだ表情で現れる。

「ようやく来たか」チェスカルがため息をつく。

「そもそも、探してくださいよ」

「お前は探しても絶対に見つからないだろう」ハルヒコが飽きれたように息を吐く。

「あら、失礼ね、ヒトの話しは最後まできちんと聞くものよ。奴隷以下の畜生にも劣る、穢らわしい肉人形共」

「よくもまあ、色々罵倒の言葉が出てくるものだ」ハルヒコは飽きれているよう。

「あなた達、心まで喰い付くされているでしょう。主に慰めとして求められたことはないかしら。とても可愛がってもらえたのではなくて? それはそれは、嬉しかったでしょう、心も身体も縛られているのだから」

「相変わらず、下品極まりない奴だ」

「ぶっ殺してやりたい――でも、副隊長、ひとまずここから逃げますよ。解放して来ましたから」

「何の事だ?」

「捕まっていた土地神を逃して来ました。めっちゃ怒ってる」

「あなた、何を言って……」アデラインが糸を操作している。

「お前、自分が幻覚に陥っている事に、気が付かなかったみたいだな。ずっと捕まえている気になっていた」

「そんな……そんな事が、あるわけない。あんな化物を猟犬如きに触れるはずが」

 巨大な重低音が空気を震わせている。肌がちりちりと微かに痛い。強い力が近付いて来るのが、チェスカルにも分かった。そして同時に、音色のような何かが繰り返されて、同じ箇所を延々と繰り返している。それはもう、曲というより鳴き声だった。

 ――これはあの幻の中で聞いたはず。

 金属が細かく擦れ合う音が、更に近付いて来て大きくなってくる。

「直ぐに来ます。早く逃げましょう。相手は神です。俺でも神々が何をするか分からない」

「だが、人々が……、」

 低く重たい一声が上がる。声へ視線を転じた瞬間、巨大な黒々とした百足ムカデが身を起こした姿で現れる。綺士よりも確実に大きい、体長は優に六メートル。身体が細く薄いだけ、視覚的な圧迫感は少ないが、それでも人間に取って何の有利さも、もたらさすはずもない。

「ヤバい、もう来た! 急ぎましょう」

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

異世界召喚でクラスの勇者達よりも強い俺は無能として追放処刑されたので自由に旅をします

Dakurai
ファンタジー
クラスで授業していた不動無限は突如と教室が光に包み込まれ気がつくと異世界に召喚されてしまった。神による儀式でとある神によってのスキルを得たがスキルが強すぎてスキル無しと勘違いされ更にはクラスメイトと王女による思惑で追放処刑に会ってしまうしかし最強スキルと聖獣のカワウソによって難を逃れと思ったらクラスの女子中野蒼花がついてきた。 相棒のカワウソとクラスの中野蒼花そして異世界の仲間と共にこの世界を自由に旅をします。 現在、第四章フェレスト王国ドワーフ編

ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜

平明神
ファンタジー
 ユーゴ・タカトー。  それは、女神の「推し」になった男。  見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。  彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。  彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。  その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!  女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!  さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?  英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───  なんでもありの異世界アベンジャーズ!  女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕! ※不定期更新。最低週1回は投稿出来るように頑張ります。 ※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。

天城の夢幻ダンジョン攻略と無限の神空間で超絶レベリング ~ガチャスキルに目覚めた俺は無職だけどダンジョンを攻略してトップの探索士を目指す~

仮実谷 望
ファンタジー
無職になってしまった摩廻天重郎はある日ガチャを引くスキルを得る。ガチャで得た鍛錬の神鍵で無限の神空間にたどり着く。そこで色々な異世界の住人との出会いもある。神空間で色んなユニットを配置できるようになり自分自身だけレベリングが可能になりどんどんレベルが上がっていく。可愛いヒロイン多数登場予定です。ガチャから出てくるユニットも可愛くて強いキャラが出てくる中、300年の時を生きる謎の少女が暗躍していた。ダンジョンが一般に知られるようになり動き出す政府の動向を観察しつつ我先へとダンジョンに入りたいと願う一般人たちを跳ね除けて天重郎はトップの探索士を目指して生きていく。次々と美少女の探索士が天重郎のところに集まってくる。天重郎は最強の探索士を目指していく。他の雑草のような奴らを跳ね除けて天重郎は最強への道を歩み続ける。

スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活

昼寝部
ファンタジー
 この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。  しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。  そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。  しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。  そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。  これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私 とうとうキレてしまいました なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが 飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした…… スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます

S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります

内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品] 冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた! 物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。 職人ギルドから追放された美少女ソフィア。 逃亡中の魔法使いノエル。 騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。 彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。 カクヨムにて完結済み。 ( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )

処理中です...