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二章 猟犬の掟
第20話 潰れた卵 夢の終わり〈後編 三年の戦禍 癒えない笑声〉
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カイムが執務室にいると、何となく誰かに肩を叩かれたような気持ちになり、本を読む手を止める。重い背表紙を閉じ切ると、机の端へ寄せる。ヨルムンガンド等の伝説を集めた、それは所謂、御伽話だった。そのような幻想譚、誰が本気で読む者がいよう……それがいるのだから、現実というのは嫌になるものだった。しかも、それを本気にしているのが、国家が暗黙の了解で存在を許し続ける、武装集団だというのも笑えないだろう。
カイムは執務室へ足音が近付いて来るような気がして、手を空けておいた。そうしていると、直ぐに扉が叩かれた。
入室を許可する。
「ただいま帰館致しました」
二頭の猟犬が執務室へ訪ねて来る。同じくらいの身長で年齢をした二人――百八十五センチ前後の青年――が僅かに疲れた様子で、カイムの前に並んだ。
ユニスとエルドが胸に手を添え、頭を垂れる。仔犬が一番最初に習う礼儀作法を、完璧そのままカイムへ尽くした。
「お帰り、ユニスにエルド。ご苦労だったね」
「畏れ多い事でございます」
「楽にしなさい」
二人は自然な姿勢で立つ。
カイムは無言で二人を眺める。その二人と言えば主人の様子へ何の反応もせず立ち続けた。
――猟犬とは健気なもの。
カイムは二人をよく観察する。
エルドの丸っこい顔立ちは、あまり肉が削げて見えないのだが、今だけはほっそりして見えた。少しだけ二人は身繕いしているようで、さすがに主人の前で無精髭姿ではない。
カイムは頷くと笑む。
とても満ち足りていて、誤りが無い。
カイムは満足した気持ちでペンを握る。
「さて、事の次第はジェイドと話すといいけれど、彼には休暇を出した。でも、多分ジェイドは、早々に動き出しそうな感じだな」
「隊長はじっとしていられなさそうですね」エルドが口を引き結ぶ。
「カイム様、発言をよろしいですか」
カイムが頷くと、ユニスはほっとした顔をしている。
「今、ヘルレアはどうしているのでしょう」
「いらっしゃるが、詳しい事は影を集めて話した方がいいだろう。他に質問はある?」
カイムが無意味にペンを動かしていると、手からペンが弾き飛ばされて床に転がった。まるで二人が本当に猟犬のような俊敏な反応で飛び掛かる。カイムのペンを手にしたのはエルドだった。カイムの元へ来ると片膝を折り恭しくペンを掲げる。
「落とされた、お持物はどうなされますか」
エルドは落ちた物を触るかどうか聞いているのだ。
「いいよ、君にあげる」
「ありがたき幸せ」
まるで宝物でももらったように、エルドは子供の無邪気さを溢れさせて笑う。厳つい青年ではあるが、カイムに取ってはいつまでも仔犬だった。
カイムは微笑むと毬栗頭を撫でる。仔犬の頃から髪が強すぎて、どうにもならないとすっかり刈られてしまうのだ。手触りはとても気持ちよくて、カイムには好もしいのだが。
そうしていると、胸を焼くような負の感情に気が付く。自分は何をそんなに不快になっているのか考えてみても理由が見つからない。カイムは何の切欠もなくただ突然に理解した。ユニスがストレスを感じている。それはあまりにも分かり易い嫉妬だった。まるで子供が年下の兄弟に親を独占されたような、面白くなさと寂しさだ。
カイムは笑いそうになったが、同時に自分の制御能力の低下を思い知らされた。猟犬の情動を知らず知らずのうちに、集めるようになってしまったのだ。
「エルドはもう下がりなさい。後は影で集まって話し合うことにする。ユニスは残りなさい」
エルドが下がる。ユニスは身の置き場がなさそうにしている。
カイムが机を探ると、ポケットに入るくらいのペンライトを取り出す。筒身は傷だらけで使用感が激しい。
「皆には秘密だよ」カイムが指を口元へ添えるとペンライトをユニスへ渡す。
「頑張ったから、ご褒美。でも、もうオルスタッドに一つあげて、これ一個しかないから。ユニスに内緒であげる。絶対に誰かへ言ったら駄目だよ」
ユニスが親密な共犯者の顔付きで、大きく頷く。カイムからペンライトを受け取ると、夢中になって見つめている。
カイムの前では猟犬は皆、仔犬のようだ。
「ありがとうございます、カイム様」
「じゃあ、お帰り」
ユニスの機嫌はあっという間に直ってしまった。何か特別な事がない限り、ユニスとエルドはカイムの下賜したものを一生持ち続けるのだろう。
あのペンライトは戦時中、カイムが私物として使っていたものだ。あの仔達はカイムの特別な私物を特に喜ぶ。だから、エルドには大分可哀想な事をしたか。カイムにとっても考え深い品を、同時に居合わせたユニスだけに、下してしまったのだから。
ユニスが特別なわけでも、エルドを蔑ろにしているわけでもない、ただ、そういう流れになっただけ。
――僕にはもう、必要あるまい。
およそ三年という特別な戦禍で、身に着けていた細やかな装備品だ。
カイムはもう戦場に出ることは一生ない。一生許されない。
カイムの心には今でも猟犬達の賑やかな笑い声が響いている。
そして隣り合うように、濡れた咀嚼音が彼等を食い潰し続けるのだ。猟犬達は終わりの無い死を延々と繰り返す。その姿をカイムはいつも独り見るのだった。
カイムが執務室にいると、何となく誰かに肩を叩かれたような気持ちになり、本を読む手を止める。重い背表紙を閉じ切ると、机の端へ寄せる。ヨルムンガンド等の伝説を集めた、それは所謂、御伽話だった。そのような幻想譚、誰が本気で読む者がいよう……それがいるのだから、現実というのは嫌になるものだった。しかも、それを本気にしているのが、国家が暗黙の了解で存在を許し続ける、武装集団だというのも笑えないだろう。
カイムは執務室へ足音が近付いて来るような気がして、手を空けておいた。そうしていると、直ぐに扉が叩かれた。
入室を許可する。
「ただいま帰館致しました」
二頭の猟犬が執務室へ訪ねて来る。同じくらいの身長で年齢をした二人――百八十五センチ前後の青年――が僅かに疲れた様子で、カイムの前に並んだ。
ユニスとエルドが胸に手を添え、頭を垂れる。仔犬が一番最初に習う礼儀作法を、完璧そのままカイムへ尽くした。
「お帰り、ユニスにエルド。ご苦労だったね」
「畏れ多い事でございます」
「楽にしなさい」
二人は自然な姿勢で立つ。
カイムは無言で二人を眺める。その二人と言えば主人の様子へ何の反応もせず立ち続けた。
――猟犬とは健気なもの。
カイムは二人をよく観察する。
エルドの丸っこい顔立ちは、あまり肉が削げて見えないのだが、今だけはほっそりして見えた。少しだけ二人は身繕いしているようで、さすがに主人の前で無精髭姿ではない。
カイムは頷くと笑む。
とても満ち足りていて、誤りが無い。
カイムは満足した気持ちでペンを握る。
「さて、事の次第はジェイドと話すといいけれど、彼には休暇を出した。でも、多分ジェイドは、早々に動き出しそうな感じだな」
「隊長はじっとしていられなさそうですね」エルドが口を引き結ぶ。
「カイム様、発言をよろしいですか」
カイムが頷くと、ユニスはほっとした顔をしている。
「今、ヘルレアはどうしているのでしょう」
「いらっしゃるが、詳しい事は影を集めて話した方がいいだろう。他に質問はある?」
カイムが無意味にペンを動かしていると、手からペンが弾き飛ばされて床に転がった。まるで二人が本当に猟犬のような俊敏な反応で飛び掛かる。カイムのペンを手にしたのはエルドだった。カイムの元へ来ると片膝を折り恭しくペンを掲げる。
「落とされた、お持物はどうなされますか」
エルドは落ちた物を触るかどうか聞いているのだ。
「いいよ、君にあげる」
「ありがたき幸せ」
まるで宝物でももらったように、エルドは子供の無邪気さを溢れさせて笑う。厳つい青年ではあるが、カイムに取ってはいつまでも仔犬だった。
カイムは微笑むと毬栗頭を撫でる。仔犬の頃から髪が強すぎて、どうにもならないとすっかり刈られてしまうのだ。手触りはとても気持ちよくて、カイムには好もしいのだが。
そうしていると、胸を焼くような負の感情に気が付く。自分は何をそんなに不快になっているのか考えてみても理由が見つからない。カイムは何の切欠もなくただ突然に理解した。ユニスがストレスを感じている。それはあまりにも分かり易い嫉妬だった。まるで子供が年下の兄弟に親を独占されたような、面白くなさと寂しさだ。
カイムは笑いそうになったが、同時に自分の制御能力の低下を思い知らされた。猟犬の情動を知らず知らずのうちに、集めるようになってしまったのだ。
「エルドはもう下がりなさい。後は影で集まって話し合うことにする。ユニスは残りなさい」
エルドが下がる。ユニスは身の置き場がなさそうにしている。
カイムが机を探ると、ポケットに入るくらいのペンライトを取り出す。筒身は傷だらけで使用感が激しい。
「皆には秘密だよ」カイムが指を口元へ添えるとペンライトをユニスへ渡す。
「頑張ったから、ご褒美。でも、もうオルスタッドに一つあげて、これ一個しかないから。ユニスに内緒であげる。絶対に誰かへ言ったら駄目だよ」
ユニスが親密な共犯者の顔付きで、大きく頷く。カイムからペンライトを受け取ると、夢中になって見つめている。
カイムの前では猟犬は皆、仔犬のようだ。
「ありがとうございます、カイム様」
「じゃあ、お帰り」
ユニスの機嫌はあっという間に直ってしまった。何か特別な事がない限り、ユニスとエルドはカイムの下賜したものを一生持ち続けるのだろう。
あのペンライトは戦時中、カイムが私物として使っていたものだ。あの仔達はカイムの特別な私物を特に喜ぶ。だから、エルドには大分可哀想な事をしたか。カイムにとっても考え深い品を、同時に居合わせたユニスだけに、下してしまったのだから。
ユニスが特別なわけでも、エルドを蔑ろにしているわけでもない、ただ、そういう流れになっただけ。
――僕にはもう、必要あるまい。
およそ三年という特別な戦禍で、身に着けていた細やかな装備品だ。
カイムはもう戦場に出ることは一生ない。一生許されない。
カイムの心には今でも猟犬達の賑やかな笑い声が響いている。
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