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第一章
水簾洞の小猿 《四》
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「申し訳ない」
須菩提は、その場にひれ伏した。その日、薬の材料探しから帰ってきた須菩提の前に姿を現したのは、托塔天だった。久しく会っていなかった托塔天にかけられた言葉は、須菩提がひれ伏すには十分過ぎる言葉だったのだ。
「鶯光帝は、ご立腹だ。東海龍王の龍宮から神具を奪い取っただけでも大事であると言うのに、西王母の蟠桃園から三千年に一度熟す蟠桃果を持ち去ったのだ。西王母からの訴えもあって、鶯光帝からは討伐もやむ無し、と」
「お待ち下され! どうか、どうか、討伐だけは……!」
ひれ伏していた須菩提は、その面を上げ托塔天ににじり寄った。
「討伐……。と言うことになれば、その命はナタに下る。そうなれば、私も一緒に降りてくることになるだろう。私とて、そなたが我が子も同然に育ててきた子の討伐など、できればしたくはない」
「悟空には、よく言ってきかせます。どうか、どうか、討伐だけはお待ち下され!」
托塔天の足元で、ただただひれ伏し須菩提は声をあげる。
「年を、取ったな。須菩提」
托塔天と須菩提は、古くからの知り合いだ。下界に降りた時にたまたま須菩提と会ったのがきっかけだが、須菩提に仙の才能があることは一目でわかった。それ故、上仙になる日も近いだろうと思っていた。
だが、未だに須菩提は玄仙のままだ。“東勝神州は傲来国、その沖合いに浮かぶ花果山の仙石から孵った赤子を育てている”、そう上仙達から聞かされたのはいつのことか。
「須菩提よ、その年での子育ては大変だろう。ましてや、その子は人ではないのだろう」
「必ずや、必ずや、言い聞かせます!」
托塔天と須菩提は、神と仙であり住む世界も身分も違う。だが、托塔天にとって須菩提は気心の知れた友人だとも思っている。托塔天は、“ふう” と息を吐き出すと
「鶯光帝には、私から話をしよう。だが、一度だけのことと心得よ」
そう言い残し、天界へと戻って行った。
「うまいか?」
「キキッ!」
「キー!」
悟空のすぐそばでは、五匹の小猿が固まって桃を食べている。
手に持つ桃を投げてやれば、木の根元に隠れて此方を見ていた小猿が、後ろを気にしながらおずおずと前に出て桃の前で止まった。悟空をチラチラと見ながらも、目の前の桃の誘惑に “かぷり” とかぶりつけば、小猿はびっくりしたように “キ、キキッ!!” と鳴く。
その鳴き声につられるように木の後ろから小猿がぞろぞろと出てきたのには、悟空の方が驚いてその睛眸を見開いた。まだ幼い小猿達は “キキ、キキッ” と鳴きながら、桃にかぶりついた小猿を取り囲む。
「五匹かぁ」
うーんと考えた悟空は、須菩提の土産にと残しておいた桃を “ほら、これも食っていいぞ” と言って小猿達に投げたのだった。
「キッ、キキ」
目の前で、何かを告げるようにこてんと首を傾ける小猿に
「お前は、遊ばなくていいのか?」
と、悟空は言った。大きな岩の上に座った悟空の横に置かれた如意金箍棒は、岩から細く長く伸びて近くの木の根元で止まっている。その如意金箍棒の上をちょこちょこと歩いたり、ぶら下がったりして小猿達が楽しそうに遊んでいた。桃を美味しそうに食べて、皆で遊んで、小猿達は元気いっぱいの様子だ。
最初に桃をもらった小猿は時間と共に悟空に近づいてきて、今では悟空が手を伸ばせば触れる距離まできている。悟空は、自分の髪の色と同じその小猿の頭を優しく撫でた。
「温かい、な」
人と触れ合うこともなく、何かの温かさに触れることの少なかった悟空にとっては、久しぶりの生き物との交流だった。悟空に撫でられ、気持ちよげに揺れる小猿の姿に、何故か心が満たされて行くような気さえする。
「キキッ」
悟空の手元から肩にピョコピョコと乗ってきた小猿を見て、如意金箍棒で遊んでいた小猿達までもがわらわらと悟空の肩や頭に集まってきた。
「懐っこいな、お前ら」
悟空の身体の上でピョンピョンと動く小猿達も、悟空の髪を見て仲間だと勘違いしたのかも知れない。一頻り遊び回った小猿達は、悟空の傍らですぴすぴと眠りにつき始める。そんな中、一匹の小猿が悟空のそばを離れ、桃の食べかすに近寄った。
「何してるんだ、お前?」
悟空が見つめる中、小猿は桃の食べかすから種を取り出すと滝壺の水で洗いはじめた。そして辺りを見回して、滝から少し離れた日当たりのよい場所に穴を掘ってその種を埋めたのである。
悟空が西王母の蟠桃園から盗んだこの桃は、三千年に一度熟すもので、一口食べれば仙人になると言われる蟠桃果だった。そんな蟠桃果を食べた小猿達が普通の小猿のままであるわけはなく、彼らの出現によりこの琥珀色の毛並みを持つ猿達は人の言葉を理解し、人の言葉を喋しゃべる猿へと進化していくことになるのだ。
そしてこの日、この花果山でも陽の気の強い滝の周りに植えられた蟠桃果は瞬く間に大きくなり、西王母の蟠桃園の桃とは違う効能を持ち、これを食べた猿達がまた種を植え、花果山の水簾洞の一帯に、神仏から水簾洞の蟠桃園と言われる場所が誕生することになる。
********
ご立腹→腹を立てること。腹立ち
大事→重大な事柄。容易でない事件。たいへんな結果。非常に心配な事態
討伐→軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと
にじり寄る→膝をついたかっこうでじりじりとすり寄る
心得る→ある物事について、こうであると理解する。事情を十分知った上で引き受ける。承知する
かぶりつく→口を大きく開けて、勢いよくかみつく
懐っこい→人になれ親しみやすい
一頻り→しばらくの間盛んに続くさま
傍ら→端に片寄った所。すぐ近くのあたり。そば
滝壺→滝が落ち込んで深い淵となっている所。
効能→よい結果をもたらすはたらき。ききめ
次回投稿は13日か14日が目標です。
須菩提は、その場にひれ伏した。その日、薬の材料探しから帰ってきた須菩提の前に姿を現したのは、托塔天だった。久しく会っていなかった托塔天にかけられた言葉は、須菩提がひれ伏すには十分過ぎる言葉だったのだ。
「鶯光帝は、ご立腹だ。東海龍王の龍宮から神具を奪い取っただけでも大事であると言うのに、西王母の蟠桃園から三千年に一度熟す蟠桃果を持ち去ったのだ。西王母からの訴えもあって、鶯光帝からは討伐もやむ無し、と」
「お待ち下され! どうか、どうか、討伐だけは……!」
ひれ伏していた須菩提は、その面を上げ托塔天ににじり寄った。
「討伐……。と言うことになれば、その命はナタに下る。そうなれば、私も一緒に降りてくることになるだろう。私とて、そなたが我が子も同然に育ててきた子の討伐など、できればしたくはない」
「悟空には、よく言ってきかせます。どうか、どうか、討伐だけはお待ち下され!」
托塔天の足元で、ただただひれ伏し須菩提は声をあげる。
「年を、取ったな。須菩提」
托塔天と須菩提は、古くからの知り合いだ。下界に降りた時にたまたま須菩提と会ったのがきっかけだが、須菩提に仙の才能があることは一目でわかった。それ故、上仙になる日も近いだろうと思っていた。
だが、未だに須菩提は玄仙のままだ。“東勝神州は傲来国、その沖合いに浮かぶ花果山の仙石から孵った赤子を育てている”、そう上仙達から聞かされたのはいつのことか。
「須菩提よ、その年での子育ては大変だろう。ましてや、その子は人ではないのだろう」
「必ずや、必ずや、言い聞かせます!」
托塔天と須菩提は、神と仙であり住む世界も身分も違う。だが、托塔天にとって須菩提は気心の知れた友人だとも思っている。托塔天は、“ふう” と息を吐き出すと
「鶯光帝には、私から話をしよう。だが、一度だけのことと心得よ」
そう言い残し、天界へと戻って行った。
「うまいか?」
「キキッ!」
「キー!」
悟空のすぐそばでは、五匹の小猿が固まって桃を食べている。
手に持つ桃を投げてやれば、木の根元に隠れて此方を見ていた小猿が、後ろを気にしながらおずおずと前に出て桃の前で止まった。悟空をチラチラと見ながらも、目の前の桃の誘惑に “かぷり” とかぶりつけば、小猿はびっくりしたように “キ、キキッ!!” と鳴く。
その鳴き声につられるように木の後ろから小猿がぞろぞろと出てきたのには、悟空の方が驚いてその睛眸を見開いた。まだ幼い小猿達は “キキ、キキッ” と鳴きながら、桃にかぶりついた小猿を取り囲む。
「五匹かぁ」
うーんと考えた悟空は、須菩提の土産にと残しておいた桃を “ほら、これも食っていいぞ” と言って小猿達に投げたのだった。
「キッ、キキ」
目の前で、何かを告げるようにこてんと首を傾ける小猿に
「お前は、遊ばなくていいのか?」
と、悟空は言った。大きな岩の上に座った悟空の横に置かれた如意金箍棒は、岩から細く長く伸びて近くの木の根元で止まっている。その如意金箍棒の上をちょこちょこと歩いたり、ぶら下がったりして小猿達が楽しそうに遊んでいた。桃を美味しそうに食べて、皆で遊んで、小猿達は元気いっぱいの様子だ。
最初に桃をもらった小猿は時間と共に悟空に近づいてきて、今では悟空が手を伸ばせば触れる距離まできている。悟空は、自分の髪の色と同じその小猿の頭を優しく撫でた。
「温かい、な」
人と触れ合うこともなく、何かの温かさに触れることの少なかった悟空にとっては、久しぶりの生き物との交流だった。悟空に撫でられ、気持ちよげに揺れる小猿の姿に、何故か心が満たされて行くような気さえする。
「キキッ」
悟空の手元から肩にピョコピョコと乗ってきた小猿を見て、如意金箍棒で遊んでいた小猿達までもがわらわらと悟空の肩や頭に集まってきた。
「懐っこいな、お前ら」
悟空の身体の上でピョンピョンと動く小猿達も、悟空の髪を見て仲間だと勘違いしたのかも知れない。一頻り遊び回った小猿達は、悟空の傍らですぴすぴと眠りにつき始める。そんな中、一匹の小猿が悟空のそばを離れ、桃の食べかすに近寄った。
「何してるんだ、お前?」
悟空が見つめる中、小猿は桃の食べかすから種を取り出すと滝壺の水で洗いはじめた。そして辺りを見回して、滝から少し離れた日当たりのよい場所に穴を掘ってその種を埋めたのである。
悟空が西王母の蟠桃園から盗んだこの桃は、三千年に一度熟すもので、一口食べれば仙人になると言われる蟠桃果だった。そんな蟠桃果を食べた小猿達が普通の小猿のままであるわけはなく、彼らの出現によりこの琥珀色の毛並みを持つ猿達は人の言葉を理解し、人の言葉を喋しゃべる猿へと進化していくことになるのだ。
そしてこの日、この花果山でも陽の気の強い滝の周りに植えられた蟠桃果は瞬く間に大きくなり、西王母の蟠桃園の桃とは違う効能を持ち、これを食べた猿達がまた種を植え、花果山の水簾洞の一帯に、神仏から水簾洞の蟠桃園と言われる場所が誕生することになる。
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ご立腹→腹を立てること。腹立ち
大事→重大な事柄。容易でない事件。たいへんな結果。非常に心配な事態
討伐→軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと
にじり寄る→膝をついたかっこうでじりじりとすり寄る
心得る→ある物事について、こうであると理解する。事情を十分知った上で引き受ける。承知する
かぶりつく→口を大きく開けて、勢いよくかみつく
懐っこい→人になれ親しみやすい
一頻り→しばらくの間盛んに続くさま
傍ら→端に片寄った所。すぐ近くのあたり。そば
滝壺→滝が落ち込んで深い淵となっている所。
効能→よい結果をもたらすはたらき。ききめ
次回投稿は13日か14日が目標です。
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