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11話 水汲み
しおりを挟む「行ってくるよ」
そう言い残し、俺は屋敷を出た。
食堂には、まだスープの香りがほんのりと残っていたが、シャルはさっき食べ終わったばかりで、今はアル姉と片付けをしているはずだ。
食後すぐに出るのもどうかとは思ったが、朝には日課の水汲みがあるのだ。
屋敷の裏手に回ると、俺の呼び声を待っていたかのように、アースが大きな影を揺らして現れた。朝日に照らされた鱗が淡く輝いている。
「おはよう、アース。今日もよろしくな」
アースは低く、喉を鳴らして応えた。それが「早くしろ」の合図だと知っている俺は、手早く荷台の用意を済ませた。
人の手では持てない巨大な樽に取っ手を取り付けた、特製の水汲み容器。アースはそれを後ろ脚で器用に掴み、ぐいっと持ち上げる。そして、俺はその背にまたがる。翼が大きく広がり、瞬く間に空へと舞い上がった。
眼下に広がるのは、深い森と曲がりくねった小道、そして山の麓には小さな村がある。その周辺には畑が広がっている。
俺たちがいるワイバーンの里は、山の中腹にある。平地が少なく岩盤層が多いため、井戸の水量も限られている。里にある井戸は細く、地中水を細々と汲み上げている程度で、飲み水には足りても、洗濯や調理などに使うには心もとない。
だから、こうしてアースと一緒に、山の奥の滝壺まで水を汲みに行くのが、俺達の日課になっていた。
「……シャルの分もあるしな」
ふと、呟いてしまう。
昨日から加わった家族――正式に“家族”と呼んでいいのかも迷うが――彼女の食欲は、正直言って想定外だった。
アースの背中で風を切りながら、俺は自然と視線を遠くに向けた。
このままでは、冬までに蓄えが尽きる。シャルの分が増えた分、何かを削らなければならない。でも、それは嫌だった。
(アースと狩りに行けば、多少は肉の蓄えは増やせる。でもそれだけじゃ足りない)
アースと取ってきた獲物は村人にも分配すると父さんが明言しているので、家に回る量も少ないのだ。
そういうのも、本来はワイバーンが持ってきた獲物は幼体ワイバーンのためのものなので、村人が手を付けてはいけないことになっているのだ。
アースは成体になったばかりだし、俺の騎竜だから例外としているが、我が家で獲物を独占しては村人もいい感情は持たないだろうから。
本当なら、獲物の素材を商人に売ってお金にすることができるのだが、ワイバーンが狩った獲物の素材はグルセンバイヤ家の商人に引き渡すことになっているのだ。
これも本来は、親ワイバーンが子供ワイバーンのために取ってきた獲物の残りカス――骨や皮の一部など――を回収しているのだが、アースが狩った獲物の素材もその対象にされてしまうのだ。俺とアースが狩った獲物だと認めてくれないのだ。
……まあ、これは俺がアースに乗れることを秘密にしているからなんだけど。
「金策……ねぇ」
手段を択ばないならある程度、金策の目途もあるのだけど……。
でも、貴族の子供が勝手に商売を始めるわけにもいかないし、アースに乗って他領や他国で素材を売るのもバレた時がヤバい。そもそも俺はまだ十歳だからまともに買ってくれるかも怪しいが。
一応、本家に頼るという手もある。けれど、きっと見返りを求められる。父さんがまた頭を下げることになるかもしれない。いや、あのテオルド叔父上がそれを許すわけがない。
「……それは、だめだ」
俺の声に、アースがちらりと目を向けた。
気づけば、滝壺のある渓谷に差しかかっていた。アースはお手の物とばかりに高度を落とし、水辺へと降り立つ。足で器用に樽を水面にそっと沈めていく。
勢いよく流れる清水が、静かに樽を満たしていく。
それをぼんやり眺めながら、俺の思考はまだ渦を巻いていた。
(どうすれば……)
その時だった。
「 ――グルゥゥ……」
低く、喉を鳴らす音。
アースが、明らかに不満げな声で俺を睨んでいた。
「……ごめん。ぼーっとしてた」
俺は慌てて背筋を伸ばし、アースの背をぽんと叩いた。
樽はすでに満水になっていた。アースはそれを再び掴み、飛び立つ準備を始める。
「ありがとう。帰ろう」
アースはひとつ鼻を鳴らし、風を切って空へと舞い上がった。
◇
ワイバーンの里と渓谷を二度往復して屋敷に戻ると、玄関の前でシャルが腕を組んで待っていた。
白い髪が朝日を受けて淡く光り、腕を組んで立つ姿はどこか思案げだった。
「おかえりなさい」
口調は淡々としているが、その瞳は少しだけ興味を帯びているようだった。
アースが樽を下ろすと、シャルはその大きな樽に視線を送った。
「ねえ。……なんで、水を汲みに行ってるの? 井戸はあるのでしょ?」
その問いに、俺は一瞬、言葉を探した。
「……この村の井戸は水量が少なくてさ。人数分の水をまかなうには、足りないんだよ。ワイバーンの子供たちもいるからね。だから、渓谷にある滝壺から、アースと一緒に運んでるんだよ」
「ふーん、そんな大きな樽で水を運べるのね。アースってすごいわね」
シャルはゆっくりと頷いたあと、空に飛び立つアースの背を名残惜しげに見送った。
「でも、毎日こうやって運んでるの? けっこう大変じゃない?」
シャルの声は静かで、どこか思案げだった。非難でも呆れでもなく、ただ、素直な疑問として口にしているようだ。
「まあ……アースも慣れてるし、俺ももう日課みたいなもんだし。大変だけど、水がないと困るから」
「だったら――井戸を新しく掘ったらいいんじゃない?」
その一言があまりにも自然で、当たり前のようだったから、俺は一瞬、言葉を失った。
「――そりゃそうだけど。……まず金がない。それにこの村に入れる人は限られているから井戸を掘る職人を招くにも何かと大変なんだ。今ある井戸が完全に枯れたらさすがに本家も動いてくれると思うけど……」
それでも絶対ではない。テオルド叔父上がもし間に入ったら、それすら邪魔しかねない。
「何よそれ。……まぁ、役に立たないものは置いておいて。お金がないなら、自分達で掘ればいいでしょう。私がやるわ」
「……ん? シャルが井戸を掘るの? ……いやいや、無理だろ?」
「無理じゃないわ。ちゃんと見れば、どこに水脈があるかくらいはわかると思う。私がいた部族では、そんなの自分たちで全部やってたから。水脈を見つけて、掘って、補強して使えるように……専門の職人には劣るかもしれないけど、掘ることは問題ないわ」
シャルはまっすぐこちらを見て言った。その目に浮かぶのは自信であり、そこに軽い思いつきの影はなかった。
「……いや、でも、ここは山だし、岩盤が多くて掘るのに苦労したらしいから……そんなに簡単には――」
「私がいたのも山よ。もちろん簡単じゃない。でも、できるかできないかって言われたら……たぶん、できると思うわ」
シャルの言葉には迷いがなかった。ただ思いつきで口にしただけではない。実際にそうした経験がある人間の声だった。
「――分かった。父さんに相談してみよう。何人か人手もいるだろうし」
「うん。まずは周辺を見てみたい。地形とか、風の通り方とかで、ある程度は見当がつくと思う。私が役に立つことを証明するわ」
そう言って、シャルは軽く伸びをした。
その表情には、初めて見せるような小さな決意と、取り組む前の充実感が浮かんでいた。
失敗しても、これまで通り水を運べばいい。それだけの話だ。
でも、もしかしたら――本当に井戸が掘れるかもしれない。そんな予感を感じさせる静かな自信が、彼女の目に宿っていた。
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