ぼくのベティちゃん

むらうた

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七月

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 週末の朝を憂鬱な気分で迎えるのは、これで二度目。

 なんで上手くいかないんだろう。

 自分のことをもう少し要領がいい人間だと思っていた。

 五十川さんのマンションから自分のアパートへ戻る途中、川沿いの道を歩く気力も無くなりベンチで一休みしていた。

 名前も知らない大きな鳥がやって来て細く長い脚で川の中を物色する様子や、子どもたちが楽しげに競争して自転車を走らせる姿を眺める。

 木陰にはいたが、太陽が高くなるほどに暑さで汗が滲んだ。

 いい加減帰ろうとしたところでスマートフォンが鳴った。ディスプレイには奈美枝さんの名前がある。

「はい、弥田です」

『もしもし? 奈美枝だけど、朝からごめんね』

「大丈夫です、起きてます」

『あのね…馬場から聞いて気になって…弥田くん辞めちゃうの?』

「え? …あ! 辞めないです! すみません…昨日はちょっと弱気になってて…つい辞めるとか言ってしまって…」

 社会人として恥ずかしすぎる。

「社長へは自分からまた電話します!」

『そっか! よかったよかった! それならいいのよ。馬場は隣にいるからわたしから言っとく!』

 奈美枝さんはすぐさま、『弥田くん辞めないって』と隣にいるらしい社長へ声をかけた。

 よく聞こえないけれど社長がなにか言い、『五十川くん? 昨日、五十川くんも一緒だったの?』と奈美枝さんが応える。

 電話の向こうで会話がされるのをドキドキしながら聞いていた。

『馬場が余計なことしたみたいでごめんねぇ、五十川くんと仲直りはできた?』

「…ええと。たぶん」

 気弱な俺の返事に奈美枝さんが笑う。

『ま、辞めないならいいのよ』

「雰囲気悪くて迷惑かけてますよね、申し訳ないです」

『全っ然! うちの職場ってそもそも雰囲気が良いも悪いもないし…あ、それじゃ弥田くんは不満かもしれないけど』

「えっいえっその…」

『あはは、まあ気長に頑張って』

 なんて答えていいものやら。というか、奈美枝さんは俺の気持ちをどう捉えているのだろう。

 聞くのも怖いな。

『急に電話してごめんね、良い休日を』

「とんでもないです! ご心配をおかけしました」

 通話が切れ、脱力する。

 ああ、泣き上戸を治したい。もう禁酒にしようかな。宮本さんにもメールで謝っておこう。

 宮本さんの連絡先を探していると、視界の端で茶色のなにかが駆けていった。

「ん?」

 ゴールデンレトリーバー?

「ソーシ!」

 確信はなかったが呼びかけるとこちらに気づき「ワフッ」と鳴いて戻ってくる。

 勢いよくとびつかれるのをなだめつつ、「お前、どうした?」と飼い主を探す。が、誰もいない。

 五十川さん?

 リードがついたままだから、散歩の途中なのは間違いないだろう。

 放っておくわけにもいかず、俺はリードを掴むとソーシの走るままに後をついていった。

「どこまで行くんだよ」

 しばらく走り、土手の草むらに駆け上がったかとおもうと辺りを嗅ぎ回ってマーキングをした。

 それから「フンッ」と鼻を鳴らしこちらを見る。「もう満足だ」と言わんばかりに。

「いやいや、俺に委ねられても知らねえよ…とりあえず…来た道を戻るか」

 先ほどまでの興奮状態は落ち着いたようで、リードを引っ張ると俺の隣を並んで歩く。

「さっき別れたばっかだし、五十川さんと顔を合わせるのは気まずいんだけど…どうすっかなぁ」

 会いたいが、会いたくない。

 座っていたベンチまで戻り、さらに進む。

「実家で飼ってるって言ってたよな。ソーシ、自分の家わかるか?」

 話しかけてみたが通じなかった。

 交番に連れて行こうか。近くにあったかな。

 スマホで周辺の地図を確認していると、「ごめんなさいっ、その犬」と声をかけられる。

 はっと顔を上げると明るい髪色の小柄な女性が目の前にいた。

 涼しげな目元はよく知っている気がする。ソーシも嬉しそうに尻尾を振っていた。

「うちのコなんです」

「か、勝手にすみません!」

 俺は慌ててリードを返す。

「いえいえ! お散歩の途中で逃げちゃって困ってたの。助かったわ、ありがとう」

 五十川さんは一人っ子だと社長から聞いたことがある。となると、まさか。

「あの…俺、馬場印刷で働いてる者なんですが…」

「あら? 総ちゃんの知り合い?」

 総ちゃん!

「はいっ! 今年入社した弥田といいます」

 女性の表情が一段と明るくなる。

「あなたが弥田くんなのね! 話は聞いているわ。総士そうしの母の桃子です」

 若いお母さんだな!

「ご、ご実家で何か俺のこと話してるんですか?」

「ウチじゃなくて馬場くんから」

 なんだ。ま、そうだよな。

「お店に連れていくって言ってたのに、なかなか来てくれないし」

「お店?」

「スナックなんだけど、去年までは二次会とかで使ってくれてたのよ」

 二次会の前に俺が寝落ちしているせいか。

「俺、あんまりアルコールが強くなくて…二次会に行ける状態じゃなかったんだと思います」

「そうなの?」

 くすくすと笑われる。

「総ちゃんって愛想ないし、先輩らしいことできてないと思うけど大目に見てちょうだいね」

「はい! あっ、いや、五十川さんにはとてもお世話になってます!」

「気を遣わなくていいのよぉ、ぬいぐるみがないとだめなんて…母親として恥ずかしいわ」

「そんな! たしかに最初はびっくりしましたが…ベティも会社の一員です」

「だめだめ! 甘やかしちゃ! 何度も捨ててるんだけどその度に買ってくるからイタチごっこなのよね」

「す、捨ててるんですか」

「ええ、いまのコは何代目かしら」

 ベティがいなくなった時の五十川さんを鮮明に覚えているから、にこやかに捨てると言ったのにぎょっとした。

「…昔から、学生時代とかもぬいぐるみ持ってたんですか?」

「学校に持って行ってたかは分からないけど」

 プライベートなことを聞いていると知ったら、五十川さん怒るかな。

 俺の心配をよそに桃子さんが話してくれたところによると、幼い総ちゃんが寂しくないようにとプレゼントをしたのが最初のベティだったらしい。

 子どもの頃は一緒に眠る姿が微笑ましく、母親としてもプレゼントを喜んでくれてうれしかったと桃子さんは語った。

 成長していくにつれて寝姿を気にしなくなり、クマのぬいぐるみの存在も忘れていたのに、大学生になった息子の部屋で薄汚れたぬいぐるみを見つけて驚くことになる。

 母親からのプレゼントだから捨てられないのかと思い、ここは贈った本人が責任をもって捨てなければと処分したところ、三週間も口をきかない大喧嘩になったそうだ。

「それからしばらくして、似たようなクマのぬいぐるみを買ってきてるんだから。はぁ、あんなんじゃ結婚どころか恋人もまともに出来やしないわよ」

 捨てられたトラウマで余計にベティに対する執着がうまれたのかもしれない。なんの根拠もないけれど、そんなことを思った。

 去り際、「二次会がだめなら、一次会で使ってって馬場くんに言っといて」と桃子さんは言う。

「ピーチって店なの、弥田くん一人で来てくれてもいいけど」

 五十川さんと似た目元の、でも五十川さんでは見たことのない人懐こい笑顔が印象的だ。

 勝手に、厳格な家庭を想像していた。父親は仕事一徹で、母親は教育ママ、みたいな。実際の桃子さんとは正反対の母親像だった。

 教育ママだったら、息子と同じ名前をペットにつけないか。

 桃子さんに翻弄される五十川さんが容易に思い浮かぶ。

 俺は笑いをこらえつつ、「今度、お店にいきますね」と言った。


   ***


 夏休み間近は馬場印刷の繁忙期だ。イベントのチラシなんかの発注が多いからである。

 社長も奈美枝さんも五十川さんのことで俺を冷やかす暇もない様子だし、五十川さん本人とさえほとんどすれ違いだ。

 桃子さんに会ったことを話すタイミングも、気まずくなるような余裕もない。五十川さんの部屋で起こったことは幻なんじゃないかと思えるほどだ。

 その日も外回りから帰ると十七時を過ぎていた。まだこれから他の案件のデータを修正する作業がある。

 十八時には帰れるかなぁ。

 事務所へ入ると、珍しく奈美枝さんがまだ仕事をしている。

 いつもなら娘さんの迎えや食事の支度があるからと定時前には退社をしていた。

「ただいま戻りましたぁ」

「っおかえりぃ」

 何やら電卓を忙しなく叩いている。

 社長は不在。五十川さんもまだ外回り中のようだ。

「お迎え、今日は社長ですか?」

「迎え? やっだあ! こんな時間! どうしよう…帳簿が合わないのよぉ」

「大丈夫ですか?」

「…大丈夫じゃ、ない…弥田くん、代わりにお迎え行ってくれない?」

「え?!」

「今から園の先生に電話するから!」

「俺、娘さんに会ったこともないんですけど!」

「平気よ、うちの子は人見知りしないから」

 奈美枝さんはすぐにスマートフォンを耳に当て、「いつもお世話になっておりますー」とワントーン高い声で話しはじめた。

 どうやら拒否権はないらしい。

「親戚ではないんですけどー、どうしてもわたしが手を離せなくて…はい。美優も初対面ではあるんですが…構いませんか? 証明証? 免許証でいいですか?」

 ミユちゃんっていう名前なんだな。

 俺はおとなしく成り行きに耳をすませる。

「迎えに行くのは弥田という者です。弥生の弥、田んぼの田、あと、えっと…ちょっと待ってくださいね。弥田くん! 下の名前なんだっけ!」

「タイキです。大いなる希望」

 「そうだった、すごい名前よね!」と奈美枝さんは笑ってそのまま電話の相手に伝えている。

「それではお手数をおかけしますが、よろしくお願いいたしますぅ…っよし、営業車使っていいから! お願い!」

「本当に平気ですかあ?」

 奈美枝さんと社長の娘なら人見知りは無さそうだが、会ったこともない子どもを迎えに行くのはさすがの俺でも気が引ける。

「もちろん! 美優が待ってるから早く! 早く!」

 言葉に急かされ、戻ったばかりの事務所を追い出された。


   ***


 保育園の門を入り、どこへ行けばいいのか戸惑っていると「何か御用ですか?」と保育士らしい女性から声をかけられる。

 笑顔を向けられているが、明らかに不審者扱いだ。

「あ、あの…馬場美優ちゃんのお迎えに来ました」

「あら、そうでしたかぁ」

 笑顔が少し柔らかくなり、「代わりの方が来られるとは聞いていますが…確認できる身分証かなにかお持ちですか?」と聞かれるので、運転免許証を取り出した。

「弥田大希さん、ですね。美優ちゃん呼んで来ますから、ちょっと待っていただけますか」

 どうやら第一関門は突破できたらしい。

 居心地悪く小さなブランコや隅に置かれた三輪車を見ていると、先ほどの女性と手を繋いでツインテールの女の子がやって来る。

「美優ちゃん、今日はお母さんちょっと忙しいんだって。代わりにこのお兄さんと帰れる?」

 保育士さんの言葉につぶらな瞳がこちらを見上げた。俺はしゃがみこんで視線を合わせる。

「はじめまして、弥田です。美優ちゃんのお母さんやお父さんと一緒に働いています。突然ごめんね、ボクがお迎えで」

「んー、いいよ。しかたないなぁ」

 なんとなく、奈美枝さんに口調が似ていて可笑しい。

「じゃあ、また明日ね。さようなら」

「さよーならぁ」

 小さい手が迷いもなく俺の手を掴む。

「事務所でお母さんが待ってるからね」

「ヤタはさぁ、ナキムシなんでしょう?」

 呼び捨てかよ! しかも泣き上戸がバレてる!

「そうだねー、お酒呑むと泣いちゃうんだよねぇ…ところで美優ちゃん、お兄さんのことは弥田くん、とかやっくんって呼んでくれると嬉しいなあ」

「やっくんはもういるよぉ」

「じゃあ…たいちゃん! 下の名前、タイキだから」

「たいちゃんもいるぅ」

「たっくんは?」

「たっくんはね、ソツエンした」

「卒園したからたっくんでいい?」

「えー? パパはヤタってよんでるよ?」

「そーだねー」

 社長! お家で俺についてなんの話をしてんすか!

 車内で粘ってみたが、パパと同じ「ヤタ」から呼び方が変わることはなかった。

 手を繋いで事務所に帰ると、社長も五十川さんも戻っていた。

「パパー!」

「お! 美優ぅ、おかえりー!」

「ただいまぁ」

 駆け寄る美優ちゃんを抱き上げる様子は、社長が良き父親に見える。

「ママは?」

「先に帰ってご飯つくってるって、弥田に変なことされなかったかあ?」

「うん、ヤタいいやつだったよ」

 ああ、呼び捨て。

「あっ、クマさーん!」

 社長に抱き上げられているから、デスクの上のベティに気づいたらしい。

「とってぇ」

「あれはなぁ、この眼鏡のクマだからだめだよ」

「じゃあじゃあ! かーしーてぇ」

 五十川さんは無視をしてパソコンから視線を外さない。

 「耳が遠いのかなぁ聞こえてないみたい」と社長が笑いながら言う。

「それよりお腹減っただろ? 帰ってご飯にしよう!」

「うんー!」

「弥田にバイバイしたら?」

「ヤタぁ、ばいばーい」

 社長の肩越しに振られる手に、俺も「ばいばーい」と手を振り返す。

 二人の気配が消えてから五十川さんは舌打ちをした。見るからに子どもの相手とか苦手そうだ。

 さぁて、俺も仕事の続きを。

 そう思ったが、ぐぅと腹が鳴る。俺は腹をさすり、仕事の前に腹ごしらえするかと諦めた。

「…五十川さん?」

「んー?」

 顔はこちらに向けてくれないが、声のトーンで会話をする意思はあるらしいと分かる。

「俺、コンビニ行きますけど。なにか買ってきましょうか?」

「あ゛ー、うん。なんか、適当に…コメがいい」

「おにぎりですか?」

「うん。あと…カフェオレ」

「いつものやつ」

「そー」

「はーい、いってきます」

 こんな風に普通の会話はしてくれるし。嫌われてないんだろうなと思う。

 ただ、性的関係になるには抵抗があるというだけだ。

 事務所に二人きりだと意識しているのは俺だけで、五十川さんにとってはなんでもないことなのが虚しい。

 買ってきたものを食べながら、桃子さんとソーシに会ったことを話すと、「世間は狭いな」と一言だけ感想が返ってきた。

 こんな風に、普通の先輩後輩として過ごすだけでいいと思えたら楽なのにな。
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