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「死んでやる」
「死ねば」
スーツを着た男は、辺りを見回した。甲高い声の持ち主は、すぐ側、高層マンションの屋上の柵の外側にいた。男は息を吸い込み、ひっと喉を鳴らした。弾みで体が空中へ落ちかかるのを、咄嗟に柵にしがみつく。
「けけけ」
笑ったのは、男ではない。歳の頃五、六歳と思しき男児である。つんつるてんの白い肌襦袢をまとい、髪は肩まで伸びてぼうぼうだ。男はむっとする。
「何が可笑しい」
「だって、死のうとしているのに、落ちないようにしがみつくなんて、けけっ」
「これは、違うぞ」
男は柵から慎重に体を離した。最後に十本の指が残った。男児は、視線で引きちぎらんばかりにひたと指を見つめる。指がうっ血し始める。
「ママはどこだ。呼ばなくていいのか」
「いないもん」
よく見ると、男児は柵に寄りかかったり柵を掴んだりせず、地面の上に描いた線に立つように、自立していた。
「お前、そんなところに立って、怖くないのか」
「全然。おじさん、怖いんでしょ」
「怖くなんかないぞ」
男は徐に指を離した。筋肉がこわばって、なかなか外れなかった。一本ずつ、六本目からは片手を手伝わせ、全ての指を柵から解放した。
「見ろ。俺だってできる」
突風が吹き、男は煽られて転落した。
遺書を書き終えた少女は、引き出しから大型カッターを取り出した。カチカチと音を鳴らして出て来た刃が銀色に光る。少女はそれを手首に当てた。
「それじゃ死なないよ」
甲高い声にぎょっとして、少女はうっかりカッターを引いてしまった。真新しい刃は、見事な直線を描いて皮膚を切り裂いた。
「痛っ」
少女はカッターを取り落とし、血が滲み出した腕を押さえた。驚いた拍子に狙いがずれ、静脈を切ったようだ。振り向くと、鍵をかけた部屋の中に、白い着物の男の子がいた。
「あんた誰よ。どうやって入ってきたの」
習慣で、少女は押し殺した声を出した。両親は仕事から戻らない。兄弟も学校から戻るには早すぎる時間だ。学校を仮病で早退した少女は、玄関にも自分の部屋にも鍵をかけて閉じこもった筈だった。
「あんた、死ぬ気ないだろ」
奇妙な男の子は、質問に答えなかった。小学生になったかならないか、ぐらいの年頃である。六、七歳は年下だ。少女はむっとした。
「あるわよ。こうして遺書も書いているでしょ」
誇らしげに便せんを見せる。淡い色付きで、マンガチックなキャラクターがちりばめられた、ファンシーな紙である。象形文字を連想させる丸っこい字が並ぶ。男の子は一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。
「けけけ。あんた、こういうの書くの、初めてじゃないだろ。本気の遺書には見えないな」
少女は鼻白んだ。刃の出たカッターを男の子へ向けるが、彼は動じず、却って少女が動揺する。
「だから何よ。ガキの癖して、さんざん偉そうな事ぶっているけど、今あたしが死んだら、怖くて泣き喚くに決まっている」
「それなら試してみなよ」
元々その気だった筈の少女は、男の子から急かされると、天の邪鬼にも躊躇った。男の子は、あからさまに馬鹿にした顔つきをした。
「ほれ見ろ。やっぱり最初から死ぬ気なんかなかったんだ」
「あるわよ」
「大体、手首をカッターで切ったぐらいで死ねる訳ないのに」
少女の反駁を無視して、男の子は喋る。まさに手首に当てかけたカッターが、動きを止める。先刻誤って切った傷は、早くも血が固まって塞がりかけている。
「切るなら頸動脈か、腕を切っても血が止まらないように工夫しなくちゃいけないのに、ちゃちな鍵をかけた自分の部屋でこれ見よがしに手首を切るなんて、当てつけもいいところだよ。尤も、親に恨みがあるんだったら、これ以上ない嫌がらせだけどね。本当に死んじゃったら、親が悲嘆にくれるところを確認して満足できるかどうか、こっちの世界にいる人間には、わからないもの」
「ひゅううおっ」
男の子が喋っている間に、少女は喉笛を掻き切っていた。よほど勢いよく切ったと見えて、気管まで切れて、息が漏れている。血も流れている。少女はカッターを取り落とし、床に転げ落ちた。言葉にならない声を発しながら、涙を滲ませ、必死に目を動かす。その視線の先に、男の子が移動した。彼の人を馬鹿にした表情は変わらない。
「残念だねえ。頸動脈は、そこじゃないよ。ここ」
男の子は、自分の首を指して見せた。少女の手が喉元に触れ、痛みで反射的に離れた。手は男の子の方へ伸びるが、到底届かない。少女は足を使うことを忘れたようだった。
「学校で教えてくれるのに、ちゃんとお勉強してこなかったんだねえ。でも、家族の人が帰るまで時間があるから、きっと大丈夫。死ねるよ。よかったね。けけけっ」
男の子は少女の手を身軽に避け、体を飛び越えて部屋から出て行った。扉の鍵はかかったままである。床をのたうち回る少女の手が、カッターに触れた。
少女はカッターを掴み、震える手で先ほど教わった箇所へ、刃を当てた。
ぴゅーっと血が噴き出した。少女の動きが止まり、赤い血液だけが規則的な運動を繰り返した。それも徐々に弱まり、やがて止んだ。
「死ねば」
スーツを着た男は、辺りを見回した。甲高い声の持ち主は、すぐ側、高層マンションの屋上の柵の外側にいた。男は息を吸い込み、ひっと喉を鳴らした。弾みで体が空中へ落ちかかるのを、咄嗟に柵にしがみつく。
「けけけ」
笑ったのは、男ではない。歳の頃五、六歳と思しき男児である。つんつるてんの白い肌襦袢をまとい、髪は肩まで伸びてぼうぼうだ。男はむっとする。
「何が可笑しい」
「だって、死のうとしているのに、落ちないようにしがみつくなんて、けけっ」
「これは、違うぞ」
男は柵から慎重に体を離した。最後に十本の指が残った。男児は、視線で引きちぎらんばかりにひたと指を見つめる。指がうっ血し始める。
「ママはどこだ。呼ばなくていいのか」
「いないもん」
よく見ると、男児は柵に寄りかかったり柵を掴んだりせず、地面の上に描いた線に立つように、自立していた。
「お前、そんなところに立って、怖くないのか」
「全然。おじさん、怖いんでしょ」
「怖くなんかないぞ」
男は徐に指を離した。筋肉がこわばって、なかなか外れなかった。一本ずつ、六本目からは片手を手伝わせ、全ての指を柵から解放した。
「見ろ。俺だってできる」
突風が吹き、男は煽られて転落した。
遺書を書き終えた少女は、引き出しから大型カッターを取り出した。カチカチと音を鳴らして出て来た刃が銀色に光る。少女はそれを手首に当てた。
「それじゃ死なないよ」
甲高い声にぎょっとして、少女はうっかりカッターを引いてしまった。真新しい刃は、見事な直線を描いて皮膚を切り裂いた。
「痛っ」
少女はカッターを取り落とし、血が滲み出した腕を押さえた。驚いた拍子に狙いがずれ、静脈を切ったようだ。振り向くと、鍵をかけた部屋の中に、白い着物の男の子がいた。
「あんた誰よ。どうやって入ってきたの」
習慣で、少女は押し殺した声を出した。両親は仕事から戻らない。兄弟も学校から戻るには早すぎる時間だ。学校を仮病で早退した少女は、玄関にも自分の部屋にも鍵をかけて閉じこもった筈だった。
「あんた、死ぬ気ないだろ」
奇妙な男の子は、質問に答えなかった。小学生になったかならないか、ぐらいの年頃である。六、七歳は年下だ。少女はむっとした。
「あるわよ。こうして遺書も書いているでしょ」
誇らしげに便せんを見せる。淡い色付きで、マンガチックなキャラクターがちりばめられた、ファンシーな紙である。象形文字を連想させる丸っこい字が並ぶ。男の子は一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。
「けけけ。あんた、こういうの書くの、初めてじゃないだろ。本気の遺書には見えないな」
少女は鼻白んだ。刃の出たカッターを男の子へ向けるが、彼は動じず、却って少女が動揺する。
「だから何よ。ガキの癖して、さんざん偉そうな事ぶっているけど、今あたしが死んだら、怖くて泣き喚くに決まっている」
「それなら試してみなよ」
元々その気だった筈の少女は、男の子から急かされると、天の邪鬼にも躊躇った。男の子は、あからさまに馬鹿にした顔つきをした。
「ほれ見ろ。やっぱり最初から死ぬ気なんかなかったんだ」
「あるわよ」
「大体、手首をカッターで切ったぐらいで死ねる訳ないのに」
少女の反駁を無視して、男の子は喋る。まさに手首に当てかけたカッターが、動きを止める。先刻誤って切った傷は、早くも血が固まって塞がりかけている。
「切るなら頸動脈か、腕を切っても血が止まらないように工夫しなくちゃいけないのに、ちゃちな鍵をかけた自分の部屋でこれ見よがしに手首を切るなんて、当てつけもいいところだよ。尤も、親に恨みがあるんだったら、これ以上ない嫌がらせだけどね。本当に死んじゃったら、親が悲嘆にくれるところを確認して満足できるかどうか、こっちの世界にいる人間には、わからないもの」
「ひゅううおっ」
男の子が喋っている間に、少女は喉笛を掻き切っていた。よほど勢いよく切ったと見えて、気管まで切れて、息が漏れている。血も流れている。少女はカッターを取り落とし、床に転げ落ちた。言葉にならない声を発しながら、涙を滲ませ、必死に目を動かす。その視線の先に、男の子が移動した。彼の人を馬鹿にした表情は変わらない。
「残念だねえ。頸動脈は、そこじゃないよ。ここ」
男の子は、自分の首を指して見せた。少女の手が喉元に触れ、痛みで反射的に離れた。手は男の子の方へ伸びるが、到底届かない。少女は足を使うことを忘れたようだった。
「学校で教えてくれるのに、ちゃんとお勉強してこなかったんだねえ。でも、家族の人が帰るまで時間があるから、きっと大丈夫。死ねるよ。よかったね。けけけっ」
男の子は少女の手を身軽に避け、体を飛び越えて部屋から出て行った。扉の鍵はかかったままである。床をのたうち回る少女の手が、カッターに触れた。
少女はカッターを掴み、震える手で先ほど教わった箇所へ、刃を当てた。
ぴゅーっと血が噴き出した。少女の動きが止まり、赤い血液だけが規則的な運動を繰り返した。それも徐々に弱まり、やがて止んだ。
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