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「さっさと火をつければ」
「何だお前。どこから入ってきた。近寄るんじゃねえ。こいつが見えねえのか。俺は灯油をかぶっているんだ。おかしな真似をしたら、火をつけて、お前も一緒に焼き殺してやるぞ」
「けけけ。おかしな真似をしなかったら、火をつけないんだ。そんなこと言われたら、おかしな真似という奴をしてみたくなるなあ」
「ふざけるなっ」
「あなたっ! おかしな真似は止めてえ!」
「まず、こちらへ来て話し合おう」
拡声器から男女の声が代わる代わる聞こえる。使っているのは、警察官と中年の女である。
少し離れた場所にある木造の古い建物の中には、灯油を頭からかぶった中年の男が、両手に新聞紙と携帯点火器を持って立っている。男は窓から外に向かって喚いていたのが、すぐ隣に現れた男児に驚き、注意を奪われた。
すかさず警察官が距離を縮める。男はすぐ外の気配に気づいた。
「それ以上、近付くんじゃねえ!」
警察官はその場に待機した。拡声器を持ち上げる。
「我々はこれ以上近付かない。だから、落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられる場合かよっ」
男は警察官と男児を交互に見ながら喚く。他の警察官に付き添われて、中年の女も拡声器の側まで来た。
「俺を死なせたくなかったら、来るなっ!」
「あなた~。死なないでえ~」
男の妻らしき女は、涙声である。それが拡声器で流されても、男は来るなと繰り返すばかりである。
「何だ。死にたくないんだ。はあっ。馬鹿みたい」
ため息をついたのは、建物の中にいる男児である。男が怒りの目を向ける。
「馬鹿だと? おい、お前ふざけるのもいい加減にしろ。ガキだと思ってつけあがりやがって、お前から火だるまにしてやってもいいんだぞ」
「そこに誰かいるのか」
拡声器が尋ねた。男児はぴょん、と窓枠に飛び乗った。白い肌襦袢が揺れた。男の目が光った。
「死ぬ気がないなら、行くよ」
新聞紙を落とした男の手が男児に伸びた。警察官がどよめき、女が悲鳴を上げた。
「クソガキ、死ねっ」
男の手は男児をすり抜けた。男はバランスを崩し、上体を大きく折り曲げた。窓から外へ転げ落ちそうになって、反射で手に力を入れる。点火器のスイッチが入った。
炎の幕が開いた。揮発して漂っていた灯油に引火したのだ。灯油を吸い込んだ服をまとった男の体も、たちまち燃え上がった。
「ぎゃああああああ」
「あなたあああああ」
警察官が一斉に動き出す。火は建物にも広がり、男は燃えたまま中へ転げ落ちた。後ろで待機していた消防団員が前へ出た。火勢が強い上に風向きも悪く、警察はもとより消防もあまり動けない。それでも放水が始まった。
逆風に煽られながら、必死の消防活動が続く。遠巻きに野次馬が集まる。
「あれ、空き家だった小屋だよね。放火?」
「ちゃうちゃう。焼身自殺」
「てゆーか、そしたら、放火みたいなもんでしょ」
野次馬は腰が抜けた中年女を遠目にしながら、楽しげに会話する。
「さっき、ケーサツが何か訊いてたけど、人質とってたの?」
「いや。誰もいなかったよ」
「てゆーか、自分が人質ってことでしょ」
火が勢いを弱めてきた。中に生きた人の気配はない。
浴室の入り口に、手書きの文字で、毒ガス発生中注意の張り紙がある。窓と戸口には内側からガムテープで目張りがしてある。浴室の内側には青年が二種類のプラスチック容器を前に座り込んでいる。スマホで話し中である。
「うん。そうかな。そんなことないよ。ははは」
「けけけ。そんなことあるよ」
ぎょっとした青年は、白く丈の短い着物を着た男の子と目が合った。
「ちょっと待って」
スマホを手で押さえ、背中に回す。
「どこの子だ。どこから入ってきたんだよ」
小声で話しても、浴室内では響く。スマホからは、何だよ、あんまり待たせんなよ、と男の声が聞こえる。男の子は手真似で、電話を切るよう合図した。
「ごめん。おふくろ帰ってきたみたいだから、切るわ。また今度な」
青年は、早口で相手に言うと、電話を切った。戸口を確認するが、テープが剥がれた跡はない。
「けけけ。また今度だってさ」
男の子は笑った。青年もつられて苦笑する。
「口癖だよ。変だな。これって幻覚が出るんだったかな」
答えながら、中身の詰まった容器をそれぞれ持ち上げてみる。どちらも買ってきたまま、きっちり蓋が閉まっていた。
「まだ密閉度が足りない。死にたくない人を巻き込みたいのか」
男の子が指差す先には、換気口があった。青年は持ち込んだガムテープでそこを塞いだ。他にも、指されるがままに何カ所かガムテープを貼った。
「それでよし」
男の子が満足そうに頷く。青年は、洗剤の蓋に手をかけた。ふと、視線を転じる。
「君も、一緒に死ぬのか」
「死なない。でも、死ぬまで一緒にいてやってもいい」
青年が立ち上がる。
「死にたくないんだったら、外に出なきゃだめだ」
目張りのガムテープに手をかけようとするのを、男の子が止めた。
「大丈夫。絶対心配いらない。俺、刈り取り童子って呼ばれているんだ」
「かりとりどうじ」
腑に落ちない青年に、童子は地団駄を踏む。
「えーい。じれったい。死神の子分だと思ってくれよ」
「あ、死神ね」
青年は納得顔になったが、童子は不満顔である。
「だから心配ないって。早く死んでおくれ」
青年は再び苦笑した。
「わかったよ。じゃあ、またな」
青年が容器の蓋を開け、二種類の中身をを混ぜ合わせると毒ガスが発生した。青年は汚いものを吐き散らし、下からも撒き散らし、苦しみながら死んだ。刈り取り童子は死体を見下ろした。
「死んだら会えないのに、またな、はないよ。けっ」
童子は壁から出て行った。
「何だお前。どこから入ってきた。近寄るんじゃねえ。こいつが見えねえのか。俺は灯油をかぶっているんだ。おかしな真似をしたら、火をつけて、お前も一緒に焼き殺してやるぞ」
「けけけ。おかしな真似をしなかったら、火をつけないんだ。そんなこと言われたら、おかしな真似という奴をしてみたくなるなあ」
「ふざけるなっ」
「あなたっ! おかしな真似は止めてえ!」
「まず、こちらへ来て話し合おう」
拡声器から男女の声が代わる代わる聞こえる。使っているのは、警察官と中年の女である。
少し離れた場所にある木造の古い建物の中には、灯油を頭からかぶった中年の男が、両手に新聞紙と携帯点火器を持って立っている。男は窓から外に向かって喚いていたのが、すぐ隣に現れた男児に驚き、注意を奪われた。
すかさず警察官が距離を縮める。男はすぐ外の気配に気づいた。
「それ以上、近付くんじゃねえ!」
警察官はその場に待機した。拡声器を持ち上げる。
「我々はこれ以上近付かない。だから、落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられる場合かよっ」
男は警察官と男児を交互に見ながら喚く。他の警察官に付き添われて、中年の女も拡声器の側まで来た。
「俺を死なせたくなかったら、来るなっ!」
「あなた~。死なないでえ~」
男の妻らしき女は、涙声である。それが拡声器で流されても、男は来るなと繰り返すばかりである。
「何だ。死にたくないんだ。はあっ。馬鹿みたい」
ため息をついたのは、建物の中にいる男児である。男が怒りの目を向ける。
「馬鹿だと? おい、お前ふざけるのもいい加減にしろ。ガキだと思ってつけあがりやがって、お前から火だるまにしてやってもいいんだぞ」
「そこに誰かいるのか」
拡声器が尋ねた。男児はぴょん、と窓枠に飛び乗った。白い肌襦袢が揺れた。男の目が光った。
「死ぬ気がないなら、行くよ」
新聞紙を落とした男の手が男児に伸びた。警察官がどよめき、女が悲鳴を上げた。
「クソガキ、死ねっ」
男の手は男児をすり抜けた。男はバランスを崩し、上体を大きく折り曲げた。窓から外へ転げ落ちそうになって、反射で手に力を入れる。点火器のスイッチが入った。
炎の幕が開いた。揮発して漂っていた灯油に引火したのだ。灯油を吸い込んだ服をまとった男の体も、たちまち燃え上がった。
「ぎゃああああああ」
「あなたあああああ」
警察官が一斉に動き出す。火は建物にも広がり、男は燃えたまま中へ転げ落ちた。後ろで待機していた消防団員が前へ出た。火勢が強い上に風向きも悪く、警察はもとより消防もあまり動けない。それでも放水が始まった。
逆風に煽られながら、必死の消防活動が続く。遠巻きに野次馬が集まる。
「あれ、空き家だった小屋だよね。放火?」
「ちゃうちゃう。焼身自殺」
「てゆーか、そしたら、放火みたいなもんでしょ」
野次馬は腰が抜けた中年女を遠目にしながら、楽しげに会話する。
「さっき、ケーサツが何か訊いてたけど、人質とってたの?」
「いや。誰もいなかったよ」
「てゆーか、自分が人質ってことでしょ」
火が勢いを弱めてきた。中に生きた人の気配はない。
浴室の入り口に、手書きの文字で、毒ガス発生中注意の張り紙がある。窓と戸口には内側からガムテープで目張りがしてある。浴室の内側には青年が二種類のプラスチック容器を前に座り込んでいる。スマホで話し中である。
「うん。そうかな。そんなことないよ。ははは」
「けけけ。そんなことあるよ」
ぎょっとした青年は、白く丈の短い着物を着た男の子と目が合った。
「ちょっと待って」
スマホを手で押さえ、背中に回す。
「どこの子だ。どこから入ってきたんだよ」
小声で話しても、浴室内では響く。スマホからは、何だよ、あんまり待たせんなよ、と男の声が聞こえる。男の子は手真似で、電話を切るよう合図した。
「ごめん。おふくろ帰ってきたみたいだから、切るわ。また今度な」
青年は、早口で相手に言うと、電話を切った。戸口を確認するが、テープが剥がれた跡はない。
「けけけ。また今度だってさ」
男の子は笑った。青年もつられて苦笑する。
「口癖だよ。変だな。これって幻覚が出るんだったかな」
答えながら、中身の詰まった容器をそれぞれ持ち上げてみる。どちらも買ってきたまま、きっちり蓋が閉まっていた。
「まだ密閉度が足りない。死にたくない人を巻き込みたいのか」
男の子が指差す先には、換気口があった。青年は持ち込んだガムテープでそこを塞いだ。他にも、指されるがままに何カ所かガムテープを貼った。
「それでよし」
男の子が満足そうに頷く。青年は、洗剤の蓋に手をかけた。ふと、視線を転じる。
「君も、一緒に死ぬのか」
「死なない。でも、死ぬまで一緒にいてやってもいい」
青年が立ち上がる。
「死にたくないんだったら、外に出なきゃだめだ」
目張りのガムテープに手をかけようとするのを、男の子が止めた。
「大丈夫。絶対心配いらない。俺、刈り取り童子って呼ばれているんだ」
「かりとりどうじ」
腑に落ちない青年に、童子は地団駄を踏む。
「えーい。じれったい。死神の子分だと思ってくれよ」
「あ、死神ね」
青年は納得顔になったが、童子は不満顔である。
「だから心配ないって。早く死んでおくれ」
青年は再び苦笑した。
「わかったよ。じゃあ、またな」
青年が容器の蓋を開け、二種類の中身をを混ぜ合わせると毒ガスが発生した。青年は汚いものを吐き散らし、下からも撒き散らし、苦しみながら死んだ。刈り取り童子は死体を見下ろした。
「死んだら会えないのに、またな、はないよ。けっ」
童子は壁から出て行った。
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