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第一章 レクルキス王国

2 シーニャとケーオ

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 山を抜け、木々が途切れると、綺麗な星空が見えた。星の配置に全く見覚えがなく、いかにも異世界らしい。月の運行が地球と同じだとすると、まだそれほど夜は更けていないようだった。

 家、というより水車小屋であったが、シーニャの家は真っ暗だった。俺が止める間もなく、彼女は寝ていた両親を叩き起こした。

 「ほら起きて! 未来の旦那様のご到着よ!」

 おいおい、ちょっと待て。

 彼女の言葉の効果はてきめんだった。
 急に小屋から光が溢れ出し、カタカタガタガタとうるさくなった。辺りを見回すと、近くにもう一軒、やや大きめの小屋がある他は、畑が広がっている。
 ここへ来るまでに一応柵らしきものを通って来たから、ここは村の外れなのだろう。

 『トリスは独身の設定です。年齢も二十代前半まで戻しました。彼女は十五、六歳ぐらいでしょう。あなたが彼女と結婚しても、この世界では普通です』

 グリエルが足元で呟く。姿は猫、視線は小屋へ向けたまま。夢にしても、妙な展開。

 「何で俺を召喚したん?」
 『私の望みは』

 「お待たせしました! どうぞ中へ!」

 シーニャが顔を出した。逆光で顔はよく見えないが、声はものすごく弾んでいた。

 中へ入ると、すぐテーブルがあった。形のバラバラな木皿が並び、中央にドイツパンのような物が積まれ、金属製のコップと水差しが隅に固まっている。椅子も手作り感満載。

 「ごめんなさいねえ。折角シーニャの旦那様がご挨拶に来てくれたというのに、何も用意できなくて。この娘ったら、いつも急に言い出すから」
 「とにかく、中へ入りなさい」

 黒髪で人の良さげな母親らしき女性がにこやかに歓迎する隣で、白髪頭の父親らしきが仏頂面ぶっちょうづらで腕組みしている。
 入ったら無事では済まない気がしたものの、グリエルが率先して入るので、追うようにして足を踏み入れた。

 奥には広めの二段ベッドが設えてあり、下段には幼児が手足を投げ出して寝入っていた。
 壁際には戸棚、反対側の壁は窓。台所やトイレ、製粉設備などは別にあるのだろう。
 他には、灯りを載せる棚しか見当たらない。
 招じ入れられ、椅子を勧められたが、俺は座らなかった。

 「まずは、食事にお招きいただき、ありがとうございます。お休みのお邪魔をしたこと、お詫びいたします。私と連れの猫は、旅の途中で、落とし穴にハマったところを、偶然通りかかったお嬢さんに助けられました。私は故郷に妻と子ども達がおりますので、お嬢さんと結婚することはできません。こちらへ伺ったのは、ご両親にもお礼を申し上げるためです。改めて、罠から救ってくださり、ありがとうございました」

 一息で喋り倒し、一礼する。グリエルは猫らしく足元に鎮座ちんざしている。小屋の中に沈黙が下りた。

 「では、夜も遅いので、これにて失礼いたします」
 「ちょっと待ってください、トリス様!」

 きびすを返した俺の袖を、シーニャが掴んだ。布の強度が分からず、止まらざるを得ない。

 「結婚しなくてもいいから、一緒に連れて行ってください!」
 「シーニャ、無茶をお言いでないよ」
 「お母さん、わたしはここで結婚してここで子ども産んで、ここで畑仕事とか手伝いながら夫に従って一生暮らすのは嫌なの! 自分の力で稼ぎたい!」
 「馬鹿を言うな」

 父親の一声に、シーニャがひるんだ。俺に妻子がいると聞いてから緩んでいた表情は、再び仏頂面に戻っていた。

 「じゃあ、俺も行くよ。親父さん、それならいいだろ?」

 入り口から、新たな声がした。
 一同の視線を集めて登場したのは、二十歳前後の少年だった。多分、俺の今の外見より若い。がっしりした体躯たいく、顔も布から覗く腕も、よく焼けていて、髪の毛まで炎を連想させる赤毛だった。

 「げ、ケーオ。何でここに」
 「そりゃあ、夜中に灯り点けて、あれだけ騒げば起きるよ。うち、隣だしな。親父に、様子見てこいって言われてよ。親戚になるかもしれない家に、何かあったら心配だろ」

 シーニャが赤面した。潤んだ瞳で俺を見るが、俺だって困る。
 グリエルを見ると、目が点になっていた。歩きかけた足を空中に留めたまま、固まっている。知り合いにでも似ているのだろうか。ちなみに俺には見覚えがない。

 「行くって、カイの許しはあるのか?」

 シーニャの父親も戸惑っている。平気なのは、ケーオだけである。

 「親父なら、承知しているよ。俺、前から大きな町で修行してみたかったんだよね。シーニャの剣も槍も見様見真似で打ったからさ、本式のやり方を知りたいっていうか。お前もお抱えの鍛治職人がいれば、武器に困らないだろ?どうせ行くなら一緒に行こうぜ」

 思い出した。シーニャが結婚させられるとか言っていた鍛治職人の息子だ。赤面するぐらいなら嫌いではなさそうなのに、何故離れようとするのか、謎だ。

 「お父さん、ケーオが一緒なら、心配ないわ」

 母親が言った。目が点になったままのグリエルが彼女を見上げる。父親が大きく息をはいた。

 「仕方がない。ケーオと一緒なら、許す」

 俺に向き直って、頭を下げる。

 「では、トリスさんとやら、シーニャをよろしく頼みます」
 「は、はい」

 うっかり返事をしてしまった。何故、婚約者が同道すると決まった娘を初対面の人間に預ける?
 グリエルはというと、フレーメン反応みたいな表情だった。猫が変な匂いを嗅いだ時にする、あの変顔。やっぱり夢としか思えない展開である。


 結局その晩、俺とグリエルはケーオの父、カイの小屋へ泊めてもらった。旅の支度を整えたい、というシーニャの両親の願いがあって、しかしながら、いかんせん小屋が狭すぎた。

 カイの小屋の方が、ケーオと兄の部屋がある分、広かった。俺たちは兄弟の部屋で寝た、はずだったが、朝になるとグリエルは小屋の外から戻ってきた。形も黒い雪だるまに戻っている。

 『外で寝た?』
 『はい。私、ひどくいびきをかくようなので』

 口に出していないのに返事があった。最初からそうすればよかった。猫と話す変な人と思われなくて済む。

 それより、俺は夢の中で眠って普通に起きている。
 合わせ鏡のように、夢の中の夢の中の夢の中の夢の中の‥‥と続いて、合わせた回数起きれば戻れるのだろうか。
 ならば、異世界召喚の方がスッキリ説明できる。

 『納得していただけましたか』
 『わかりやすい方が真実とは限らない』
 『‥‥前の世界では、仰る通りです』

 言い終えた途端にグリエルが猫の姿になった。ほぼ同時に、ケーオが顔を出す。

 「おはようトリス。朝飯用意したから、裏の井戸で顔洗って来な」
 「ありがとう」

 食卓には、ドイツ風パンと水、干し苺のような物、干し肉のような物が並んでいた。
 卓に着いているのはケーオと父親のカイだけである。兄は、婚約者の家へ行ったそうだ。椅子が三つしかないせいだろう。猫姿なので当然グリエルの席はなく、俺の足元へ座った。

 「トリスさんは、何のお仕事をなさっているのかな?」

 勧められて、干し果物へ手を伸ばしたところで尋ねられた。カイもまた、頑健な体躯を炎に焦がした、赤毛の大男だった。親子で並ぶと、ケーオがほっそりして見える。

 『首都の魔法学院を目指し、まずは冒険者になるべく、経験と費用を蓄えているところです』

 初耳だが、グリエルが教える通りに話した。カイもケーオも、その説明で納得した様子だった。改めて干し果物に手を伸ばすと、つまむ前にケーオが話し始めた。

 「兄貴が結婚したら、とりあえず家に住むだろ。俺も鍛治仕事しかできないから、どのみち村を出るつもりだったんだよ。このままシーニャと結婚したら、シーニャの家を継ぐ事になる。あいつ、家を継ぐ気、まるでないだろ?」

 「村長に親父からの紹介状を書いてもらったし、そろそろ出発しようかというところで、昨日の騒ぎが聞こえたんだ。道中物騒だし、シーニャも剣を使うとはいえ、実戦経験ほぼないからね。旅慣れている人と一緒に行けるのは心強い」

 俺は逆に心細くなった。つい昨日まで、平和な日本で通勤生活を送っていた中年のおっさんが、戦った経験のない少女戦士と鍛治職人を率いて冒険しなくてはならないのだ。

 朝食は水を飲むだけで終わった。実のところ、さほど空腹を感じていなかった。
 グリエルは水も飲めなかった。もっとも、井戸端で水浴びした時に、飲んだかもしれない。
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