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第二章 魔法学院
2 学院長は人頭馬身
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「まだ学院長続けているとは思わなかったわ」
「君の手間が省けてよかっただろう」
「門番の爺さんだって私を知っていたわよ」
「ウネイの記憶力は特別だよ。彼は歴代の職員名を全て覚えている。肖像画があれば顔もね。もう大分寿命が近付いて来ているのが心配だ」
「人間の命は儚いわねえ。後継者は育てているんでしょうね」
二人はそのまま雑談を始めた。話は聞いていて興味深いが、俺は居心地が悪い。部屋の中を観察してみる。
一面の壁は本棚になっていて、上半分の棚にぎっしり詰まっていた。木製の本は、要するに板である。俺の知る本に似た形をしているのは、羊皮紙かパピルスでも使っているのだろう。巻物も積んである。
これまで本らしい本を見てこなかった。俺はどれか一冊読んでみたくてたまらなくなった。
しかし、勝手に見られる立場ではない。学院なら図書室もあるだろう。今は我慢の時だ。
「で、彼がトリス。それとグリエル。ニッポンからの転生者。両方とも、強力な魔力の持ち主だけれど、そもそもこの世界の知識がないの。基礎から教えてやってくれない?」
雑談の流れで急に紹介されたので、慌てて立ち上がり、一礼した。グリエルも猫なりに頭を下げている。学院長の笑顔が大きくなった。
「懐かしい。ショウもそんな挨拶をしていたなあ。トリスくん、グリエルくん、自己紹介が遅れて済まない。私が当王立魔法学院院長のキナイ=エキュだ。よろしく」
学院長は蹄を二、三歩踏み出して、俺たちに握手を求めた。
俺は咄嗟にグリエルを抱き上げ、握手をさせた。終わるなり飛び降りるグリエル。
彼女は俺のペットという設定の筈だが、一人前に扱われている。猫も公平に扱うと示したかったのだろうか。自分も半分獣だから。
そう、キナイは人頭馬身だった。ケンタウロスとかセントールとかいうやつだ。
中世の貴族が着るような上着をきちんと着込んでいて、下半身を見なければ、上品で逞しい紳士に見える。
だが、後ろの方で揺れる馬の尻尾が、視界に入るのは止められない。今もグリエルが、尻尾の動きに合わせてゆらゆら動いている。いかにも猫っぽい。
「では、二人はこちらで引き取ろう。君はすぐ帰るのかね。ショウの孫娘が待っているだろう?」
「ちょっ、待って。私もここに住みたいの。もうショウの孫の子守りは終わったから」
サンナは慌てて言った。彼女が慌てるのを見たのは初めてだった。キナイはわざとらしくしかめ面をして見せた。
「それは、ご苦労様。ただではここに住めない。働いてもらわないと」
「働くってば。元々ここの教師だったんだから、勝手は知っているわよ。それに魔力感知で生徒の選別もできるし」
キナイの表情が引き締まる。
「いや、六十年も経てばカリキュラムも変わるし、昔と同じように教えられたら困る。風魔法も火魔法も、担当教師は足りている。君の魔力感知能力は希少ではあるけれど、生徒の選別には使わないよ。魔力が強いから魔法も強いという訳ではないだろう?」
「うう」
サンナは腕組みをした。豊満な胸が盛り上がる。横からグリエルの視線を感じ、ようやく自分がそれを凝視していたことに気づいた。
視線を外しキナイに目をやると、腰に手を当てて、明後日の方向を見ながら考え事をしていた。
揺れる馬の尻尾が目につかなければ、格好いいと思う。馬の尻尾が揺れると、可愛く見えてしまうのである。
「そうだな。サンナが工学系研究科の助手を務めるなら、ここに置いてもいい。現在の教職員は、ほぼ全員が君より年下だが、以後君の上司となる。君が、昔の経歴を盾に学院の秩序を乱さないでいられるかな」
「やるわ」
サンナは即答した。キナイはにっこり笑った。
「約束を破ったら失職だからね。では、寮に案内させよう」
迎えに来たのは、三十歳ぐらいの男性だった。
「カジィエです。ウネイの補助を務めております。よろしくお願いします」
ありふれた感じに見える。しかし門番の爺さんの後継者なら、見かけによらず記憶力が良いに違いない。
そのカジィエに案内されて、砦のような建物を裏手から出ると、ローマの闘技場跡に似た空間があった。ただし、観客席は少なく、闘う場所が広く取られている。
「闘技場です。魔法の実践の他、基本的な武具の扱いを学ぶ際にも使用します」
今は誰も使っていなかった。斜めに突っ切って横手から出る。今度は、煉瓦を綺麗に積み上げた三階建ての細長い建物が現れた。
城壁側の端には、小ぶりながら尖塔が立つ、教会のような建物と繋がっている。
「授業棟です。あちらの低い建物が、研究棟です。トリスさんとグリエルさんはこちらで学び、サンナさんは、あちらの建物が職場になります」
カジィエの指す方に、二階建ての同系統の建物があった。二つの建物はT字に配置されている。研究棟の脇には、授業棟と平行の向きに、ガラス張りの温室らしき建築物が併設されていた。
ガラス張り。これまで、窓や木戸はあっても窓ガラスは見たことがなかった。砦の窓には使われていたかもしれないが、とにかく贅沢な建築物だった。
俺たちは、授業棟と研究棟の間を通って更に奥へ進んだ。研究棟の温室の反対側には、窓の少ない倉庫のような建物があった。
だから研究棟は少なくとも、コの字型であることがわかった。もしかしたら向こう側にも何か建っていて、ロの字型かもしれない。
「さて、ここが皆さんの住居です。向かって右側が学院生、左側が教職員寮、正面に見えるのは、共用の食堂です」
俺たちの前に、新たな建物が横たわっていた。両側にある三階建てを中央の平屋で繋いだような形。
やはり煉瓦造りであるが、両サイドは授業棟よりも窓が小さめで、中央部はより大きめの窓だった。ガラスはない。中を覗き見ると、長テーブルと椅子がたくさん並んでいた。
「新入りだな。ん? 猫にも一部屋やるのか? 満室になるぞ」
急に大きな声がしたので、驚いて見ると、熊みたいな男性がモップを持って立っていた。
「ああ、ウルサクさん。こちらが、新入生のトリスさんとグリエルさんです。こちらが、ジェムトさんの下で働く助手のサンナ=リリウムさんです。皆さん、彼は学院生寮の監督ウルサクさんです。職員寮の方も担当しています。では、ウルサクさん、二人を頼みます。僕、サンナさんを部屋に案内しますので」
カジィエはサンナを連れて行ってしまった。ウルサクは、ついて来い、という身振りをすると、先に立って右手の建物へ向かった。
寮の個室はベッドと机が入ってほぼ埋まる広さで、トイレもシャワーも共用だった。この世界に来てから初めての個室である。壁も漆喰で塗ってある。
素直に嬉しい。俺は三階の三〇七室、グリエルは向かいの三〇六室に入れられた。ドアノブが棒状なので、グリエルの猫手でも開けられた。
猫に一室とは贅沢な話である。彼女は猫ではないし、正直同じ部屋をあてがわれなくて助かった。
授業は明日からで、荷物も大してなく、荷物の置き場に悩むほどのスペースもなく、他の学院生は授業中で挨拶もできず、ただベッドに腰掛けて窓の外を眺めるしかすることがなかった。
鎧戸付きの窓からは、授業棟が見える。あちらも窓ガラスなしで、学院生の存在がざわめきとなって伝わってきた。学校の雰囲気はどこも同じだ。懐かしい心持ちになった。
ノックの音がした。
「はい。どうぞ」
返事をしてから、グリエルだったら開けにくいだろうと気付いてドアを開ける。蹄が見えた。
「‥‥学院長」
キナイの後ろ足の隙間から、グリエルの顔が覗く。部屋に招じ入れるのが礼儀なのだろうが、物理的に無理だ。立ち尽くす俺に、キナイが微笑みかける。
「向こうに広い部屋があるから、そこへ行こう」
部屋を出て左に向かう。俺はずっと授業棟の方を見ていた。その向こうには学院長室のある事務棟がある。学院長はどこから来たのだろう。それに、階段を登る蹄の音も聞こえなかった。
「あの、つかぬことを伺います。ここまで、どこからどうやっていらしたのですか」
「ん? ああ、そこに昇降機があってね。普段は一階に置き放しで通路になっているから、知らない者も多い」
左端の部屋へ入ろうとしていたキナイは、隣にある蛇腹式の引き戸をガラガラと開けてみせた。
背後から覗き込むと、真四角な空間が一階まで吹抜けになっていて、四隅の太い鎖が三階まで伸びていた。
床面だけのエレベータである。その本体は、一階に止まっていた。
加えて、今開けてみせただけでガラガラと大きな音を立てるのに、ここに来てからそんな音は一度も聞いていない。
寮に来るまでの経路も不明である。つまり言い訳にもなっていない。
俺はひとまず追及を諦めた。サンナにも負けない学院長のことだから、レアな魔法を使えるのかもしれないし、新入生に説明する義務もないだろうし。
昇降機の隣の部屋は、確かに広かった。入った途端に壁に取り付けられた火皿に灯りが点く。何か点灯する仕掛けがあるか、学院長が火魔法を使ったのだろう。
窓はあるが、鎧戸が降りている。椅子が壁に沿って十脚程度並ぶ。多目的ルームといったところか。
「二人とも、座りたまえ」
キナイは立ったままだが、俺もアリエルも素直に従った。
「さて、サンナに聞かれたくない話でも、今なら出来るぞ。彼女の報告書によると、グリエルくんは人から猫に転生した。彼女は三百年しか生きていないが、私は五百六十年生きていて、暗黒大陸にも渡ったことがある。当学院はレクルキス随一の魔法学府で、私は学院の権限を一手に握る学院長だ。ここで学びたいのなら、隠し事はなしにしてもらおう」
笑顔で語る学院長の目は笑っていない。サンナが三百歳というショックもあって、俺は呆然とグリエルを見た。
彼女は耳を後ろに倒している。聞く気ないのか。
ここを追い出されても生きていけるとはいえ、学校の雰囲気を感じた後では、俺にとっては辛い選択だ。
「にゃーにゃーにゃー」
キナイが俺を見る。学院長も猫語はわからないようだ。
「今、話しやすい形になるので、攻撃しないでください、と申しております」
「分かった」
と言いつつ警戒は解かないキナイ。俺は通訳しながら少し緊張を解く。グリエルに聞く耳があって良かった。
ボン、と薄く煙が上がって瞬時視界が遮られた後に、グリリが出現した。グリエルの姿はない。キナイの眉が動く。
「初めまして。グリリと申します。先程の猫、グリエルと同一体です」
立ち上がり、膝を折って挨拶した。
「座りたまえ」
「ありがとうございます」
サマスで夕食に付き合って以来だ。これまで鎧姿ばかりだったのが、今は俺と似た服を着ている。キナイの顔に戸惑いが浮かぶ。
「確か、グリエルくんは雌猫だった筈。グリリくんは、男性の体をしているように見える」
正しい指摘である。このゆったりとした服のどこを見て判断したのかは不明だ。
「体は男性ですが、心は女性とお考えください」
「分かった」
しばらく沈黙が続く。先に口を開いたのはグリリだった。
「君の手間が省けてよかっただろう」
「門番の爺さんだって私を知っていたわよ」
「ウネイの記憶力は特別だよ。彼は歴代の職員名を全て覚えている。肖像画があれば顔もね。もう大分寿命が近付いて来ているのが心配だ」
「人間の命は儚いわねえ。後継者は育てているんでしょうね」
二人はそのまま雑談を始めた。話は聞いていて興味深いが、俺は居心地が悪い。部屋の中を観察してみる。
一面の壁は本棚になっていて、上半分の棚にぎっしり詰まっていた。木製の本は、要するに板である。俺の知る本に似た形をしているのは、羊皮紙かパピルスでも使っているのだろう。巻物も積んである。
これまで本らしい本を見てこなかった。俺はどれか一冊読んでみたくてたまらなくなった。
しかし、勝手に見られる立場ではない。学院なら図書室もあるだろう。今は我慢の時だ。
「で、彼がトリス。それとグリエル。ニッポンからの転生者。両方とも、強力な魔力の持ち主だけれど、そもそもこの世界の知識がないの。基礎から教えてやってくれない?」
雑談の流れで急に紹介されたので、慌てて立ち上がり、一礼した。グリエルも猫なりに頭を下げている。学院長の笑顔が大きくなった。
「懐かしい。ショウもそんな挨拶をしていたなあ。トリスくん、グリエルくん、自己紹介が遅れて済まない。私が当王立魔法学院院長のキナイ=エキュだ。よろしく」
学院長は蹄を二、三歩踏み出して、俺たちに握手を求めた。
俺は咄嗟にグリエルを抱き上げ、握手をさせた。終わるなり飛び降りるグリエル。
彼女は俺のペットという設定の筈だが、一人前に扱われている。猫も公平に扱うと示したかったのだろうか。自分も半分獣だから。
そう、キナイは人頭馬身だった。ケンタウロスとかセントールとかいうやつだ。
中世の貴族が着るような上着をきちんと着込んでいて、下半身を見なければ、上品で逞しい紳士に見える。
だが、後ろの方で揺れる馬の尻尾が、視界に入るのは止められない。今もグリエルが、尻尾の動きに合わせてゆらゆら動いている。いかにも猫っぽい。
「では、二人はこちらで引き取ろう。君はすぐ帰るのかね。ショウの孫娘が待っているだろう?」
「ちょっ、待って。私もここに住みたいの。もうショウの孫の子守りは終わったから」
サンナは慌てて言った。彼女が慌てるのを見たのは初めてだった。キナイはわざとらしくしかめ面をして見せた。
「それは、ご苦労様。ただではここに住めない。働いてもらわないと」
「働くってば。元々ここの教師だったんだから、勝手は知っているわよ。それに魔力感知で生徒の選別もできるし」
キナイの表情が引き締まる。
「いや、六十年も経てばカリキュラムも変わるし、昔と同じように教えられたら困る。風魔法も火魔法も、担当教師は足りている。君の魔力感知能力は希少ではあるけれど、生徒の選別には使わないよ。魔力が強いから魔法も強いという訳ではないだろう?」
「うう」
サンナは腕組みをした。豊満な胸が盛り上がる。横からグリエルの視線を感じ、ようやく自分がそれを凝視していたことに気づいた。
視線を外しキナイに目をやると、腰に手を当てて、明後日の方向を見ながら考え事をしていた。
揺れる馬の尻尾が目につかなければ、格好いいと思う。馬の尻尾が揺れると、可愛く見えてしまうのである。
「そうだな。サンナが工学系研究科の助手を務めるなら、ここに置いてもいい。現在の教職員は、ほぼ全員が君より年下だが、以後君の上司となる。君が、昔の経歴を盾に学院の秩序を乱さないでいられるかな」
「やるわ」
サンナは即答した。キナイはにっこり笑った。
「約束を破ったら失職だからね。では、寮に案内させよう」
迎えに来たのは、三十歳ぐらいの男性だった。
「カジィエです。ウネイの補助を務めております。よろしくお願いします」
ありふれた感じに見える。しかし門番の爺さんの後継者なら、見かけによらず記憶力が良いに違いない。
そのカジィエに案内されて、砦のような建物を裏手から出ると、ローマの闘技場跡に似た空間があった。ただし、観客席は少なく、闘う場所が広く取られている。
「闘技場です。魔法の実践の他、基本的な武具の扱いを学ぶ際にも使用します」
今は誰も使っていなかった。斜めに突っ切って横手から出る。今度は、煉瓦を綺麗に積み上げた三階建ての細長い建物が現れた。
城壁側の端には、小ぶりながら尖塔が立つ、教会のような建物と繋がっている。
「授業棟です。あちらの低い建物が、研究棟です。トリスさんとグリエルさんはこちらで学び、サンナさんは、あちらの建物が職場になります」
カジィエの指す方に、二階建ての同系統の建物があった。二つの建物はT字に配置されている。研究棟の脇には、授業棟と平行の向きに、ガラス張りの温室らしき建築物が併設されていた。
ガラス張り。これまで、窓や木戸はあっても窓ガラスは見たことがなかった。砦の窓には使われていたかもしれないが、とにかく贅沢な建築物だった。
俺たちは、授業棟と研究棟の間を通って更に奥へ進んだ。研究棟の温室の反対側には、窓の少ない倉庫のような建物があった。
だから研究棟は少なくとも、コの字型であることがわかった。もしかしたら向こう側にも何か建っていて、ロの字型かもしれない。
「さて、ここが皆さんの住居です。向かって右側が学院生、左側が教職員寮、正面に見えるのは、共用の食堂です」
俺たちの前に、新たな建物が横たわっていた。両側にある三階建てを中央の平屋で繋いだような形。
やはり煉瓦造りであるが、両サイドは授業棟よりも窓が小さめで、中央部はより大きめの窓だった。ガラスはない。中を覗き見ると、長テーブルと椅子がたくさん並んでいた。
「新入りだな。ん? 猫にも一部屋やるのか? 満室になるぞ」
急に大きな声がしたので、驚いて見ると、熊みたいな男性がモップを持って立っていた。
「ああ、ウルサクさん。こちらが、新入生のトリスさんとグリエルさんです。こちらが、ジェムトさんの下で働く助手のサンナ=リリウムさんです。皆さん、彼は学院生寮の監督ウルサクさんです。職員寮の方も担当しています。では、ウルサクさん、二人を頼みます。僕、サンナさんを部屋に案内しますので」
カジィエはサンナを連れて行ってしまった。ウルサクは、ついて来い、という身振りをすると、先に立って右手の建物へ向かった。
寮の個室はベッドと机が入ってほぼ埋まる広さで、トイレもシャワーも共用だった。この世界に来てから初めての個室である。壁も漆喰で塗ってある。
素直に嬉しい。俺は三階の三〇七室、グリエルは向かいの三〇六室に入れられた。ドアノブが棒状なので、グリエルの猫手でも開けられた。
猫に一室とは贅沢な話である。彼女は猫ではないし、正直同じ部屋をあてがわれなくて助かった。
授業は明日からで、荷物も大してなく、荷物の置き場に悩むほどのスペースもなく、他の学院生は授業中で挨拶もできず、ただベッドに腰掛けて窓の外を眺めるしかすることがなかった。
鎧戸付きの窓からは、授業棟が見える。あちらも窓ガラスなしで、学院生の存在がざわめきとなって伝わってきた。学校の雰囲気はどこも同じだ。懐かしい心持ちになった。
ノックの音がした。
「はい。どうぞ」
返事をしてから、グリエルだったら開けにくいだろうと気付いてドアを開ける。蹄が見えた。
「‥‥学院長」
キナイの後ろ足の隙間から、グリエルの顔が覗く。部屋に招じ入れるのが礼儀なのだろうが、物理的に無理だ。立ち尽くす俺に、キナイが微笑みかける。
「向こうに広い部屋があるから、そこへ行こう」
部屋を出て左に向かう。俺はずっと授業棟の方を見ていた。その向こうには学院長室のある事務棟がある。学院長はどこから来たのだろう。それに、階段を登る蹄の音も聞こえなかった。
「あの、つかぬことを伺います。ここまで、どこからどうやっていらしたのですか」
「ん? ああ、そこに昇降機があってね。普段は一階に置き放しで通路になっているから、知らない者も多い」
左端の部屋へ入ろうとしていたキナイは、隣にある蛇腹式の引き戸をガラガラと開けてみせた。
背後から覗き込むと、真四角な空間が一階まで吹抜けになっていて、四隅の太い鎖が三階まで伸びていた。
床面だけのエレベータである。その本体は、一階に止まっていた。
加えて、今開けてみせただけでガラガラと大きな音を立てるのに、ここに来てからそんな音は一度も聞いていない。
寮に来るまでの経路も不明である。つまり言い訳にもなっていない。
俺はひとまず追及を諦めた。サンナにも負けない学院長のことだから、レアな魔法を使えるのかもしれないし、新入生に説明する義務もないだろうし。
昇降機の隣の部屋は、確かに広かった。入った途端に壁に取り付けられた火皿に灯りが点く。何か点灯する仕掛けがあるか、学院長が火魔法を使ったのだろう。
窓はあるが、鎧戸が降りている。椅子が壁に沿って十脚程度並ぶ。多目的ルームといったところか。
「二人とも、座りたまえ」
キナイは立ったままだが、俺もアリエルも素直に従った。
「さて、サンナに聞かれたくない話でも、今なら出来るぞ。彼女の報告書によると、グリエルくんは人から猫に転生した。彼女は三百年しか生きていないが、私は五百六十年生きていて、暗黒大陸にも渡ったことがある。当学院はレクルキス随一の魔法学府で、私は学院の権限を一手に握る学院長だ。ここで学びたいのなら、隠し事はなしにしてもらおう」
笑顔で語る学院長の目は笑っていない。サンナが三百歳というショックもあって、俺は呆然とグリエルを見た。
彼女は耳を後ろに倒している。聞く気ないのか。
ここを追い出されても生きていけるとはいえ、学校の雰囲気を感じた後では、俺にとっては辛い選択だ。
「にゃーにゃーにゃー」
キナイが俺を見る。学院長も猫語はわからないようだ。
「今、話しやすい形になるので、攻撃しないでください、と申しております」
「分かった」
と言いつつ警戒は解かないキナイ。俺は通訳しながら少し緊張を解く。グリエルに聞く耳があって良かった。
ボン、と薄く煙が上がって瞬時視界が遮られた後に、グリリが出現した。グリエルの姿はない。キナイの眉が動く。
「初めまして。グリリと申します。先程の猫、グリエルと同一体です」
立ち上がり、膝を折って挨拶した。
「座りたまえ」
「ありがとうございます」
サマスで夕食に付き合って以来だ。これまで鎧姿ばかりだったのが、今は俺と似た服を着ている。キナイの顔に戸惑いが浮かぶ。
「確か、グリエルくんは雌猫だった筈。グリリくんは、男性の体をしているように見える」
正しい指摘である。このゆったりとした服のどこを見て判断したのかは不明だ。
「体は男性ですが、心は女性とお考えください」
「分かった」
しばらく沈黙が続く。先に口を開いたのはグリリだった。
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