水の神話

夏目べるぬ

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第11章

生け贄(2)

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 そして三日後。ついにオロチに生け贄の捧げられる日がやって来た。
 オロチの出没したという湖は、海のように大きな湖だった。
 湖の周りを森が取り囲み、普段なら人々がそこで魚釣りを楽しむ絶好の場所であった。
 ところが、そこに突然魔物が現れ、人々を襲い喰らった。
 そのときから、この湖は人々に恐れられる不吉な場所となってしまったのだった。
 ルナは、生け贄として湖のほとりに建てられた木の祭壇に、手足を縛られた状態で仰向けに寝かされた。
 長老はそれを、手に松明を持って祭壇から遠く離れた崖の上から眺めていた。
 ルナの両親は、長老の傍らで、跪いて熱心に祈りを捧げていた。
 人々はその崖の上で、オロチを呼ぶように炎の円を描くように片手に持った松明を振り回していた。
 都の楽師たちが、太鼓を叩き、笛を吹き、その拍子に合わせてオロチを招き寄せるように踊り子たちが踊っていた。
 賑やかな祭り。しかし、これは生け贄の儀式。人々はいつもの楽しい気分ではなかった。
 ミナトたちは祭壇の下で、怪物が現れるときをじっと待っていた。
 しばらくして、湖の中からオロチと思われる巨大な首がひとつ出てきた。
 人々の中から悲鳴が上がった。
 大きな大蛇のような怪物だった。山というには大げさだが、その頭は人間の十倍はありそうだった。黒光りした鱗に覆われた頭に真っ赤な目が二つ。頭がまた一つ、二つと水の中から現れた。その度に、水飛沫がざばざばと上がり、湖の水面が大きく揺れ、大地も震動した。
「こいつが!」
 ミナトの体が震えた。見たこともないほど大きな魔物だった。
 八つの首が水の中から現れ、水飛沫が高く上がった。水面から覗いているのは首の部分だけで、体は見えていない。長い首の影が湖の周辺を覆った。首だけ見るとまるで八匹の大蛇のようだが、八つの首の根元が一つになっており、一匹の魔物であることが分かる。
 オロチは八つの首をもたげて、祭壇の方へ向かってゆっくりと進んできた。
 八つの首は、それぞれ意志を持っているかのように、各々好き勝手な動きをしている。
 ちろちろと、オロチの口から先の割れた長い舌が覗いている。
 オロチの十六の目が、祭壇の上のルナを捉えた。
 ルナに向かって、オロチはまっすぐに近付いて来た。
 シーロンが動いた。
 竜の珠を取り出して白銀の竜に姿を変えると、シーロンはオロチに向かって炎を吐き出した。オロチは面食らったように後方へ下がった。
(ミナト、ルナを!)
 シーロンがミナトの心に呼び掛けた。
「あ、ああ!」
 ミナトは祭壇のはしごを上り、ルナを縛り付けていた縄を解いた。
「お前は皆と逃げるんだ!ここにいては危ない!」
「私は逃げません。皆を不安にさせたくありませんから。」
「そんなこと言ってる場合じゃねえ!」
 ミナトはルナを抱きかかえると、祭壇から飛び降りた。
「ここはヤバイ!皆逃げろ!」
 崖の上にいる人々に向かってミナトは叫んだ。人々は呆然としていたが、ミナトの声に我に返り、その場から逃げ出した。
「私は大丈夫です。神様はオロチを倒すことに専念して下さい。」
 ルナは落ち着いていた。
「…分かった。でも、ここは危ない。逃げるんだ!」
 ミナトはルナを地面に降ろすと、エスリンたちのもとへ走った。
 シーロンは空から炎を吐いてオロチをかく乱し、エスリンが風を起こしてシーロンの炎の威力を高めていた。オロチは八つの首を大きく揺らして苦しそうにもがいていた。
 だが、オロチが首を揺らす度に湖や大地が震動し、崖が崩れ出した。
「ルナ…!」
 ミナトは後ろを振り返り、目でルナの姿を捜した。
(ミナト!油断するな!)
 シーロンの声が心に響いた。
「うっ!?」
 ミナトの前に、突然悪魔が一匹現れた。青い体に、二本の角。
「てめー!」
 ミナトは右手をかざして大きな氷の塊を作り、それを悪魔に向かってぶつけた。
 その悪魔の体の表面はぬるぬるとしており、氷の塊が当たると、悪魔の体はぐにゃりと潰れた。
「な、何だ!?」
 一匹悪魔を倒したと思ったら、また一匹悪魔が湖の中から現れた。その悪魔も、体がぬるぬるとした粘液に覆われており、動きも鈍かった。まるで、生まれたばかりのような姿だった。倒すのは造作もなかったが、悪魔は湖の中から次々と現れ、たちまちミナトは数十匹の悪魔に取り囲まれた。
「こいつらは…!?」
 悪魔たちは、ぬるぬるとした手でミナトの全身に絡みついてきた。
「は、離せ!気色悪イ…!」
 悪魔は次々と湖の中から出てきて、ミナトを取り巻いた。
「きゃあっ!」
 ルナの悲鳴が聞こえた。
「ルナ!」
 ミナトは声のする方に一所懸命首を動かした。やっと視界に入ったルナは、悪魔たちに捕まっていた。
「くそー!」
 ミナトは体中に力を込めて、絡みつく悪魔たちから逃れようとしたが、悪魔たちはますます絡みついて離れない。
「離せってんだあああ!」
 もがけばもがくほど、悪魔たちは全身に絡みつき、締め付けてくる。
 ルナもまた、全身が粘膜に覆われた悪魔たちに絡みつかれて動けなくなっていた。

 一方、シーロンとエスリンは連携しながらオロチに攻撃していた。
 シーロンは、大きな炎を三日月形の刃のような形状に変化させて、オロチの首めがけて放った。
 炎の刃がオロチの首の一つに命中した途端、首はまっすぐな切り口で綺麗に切れ、切れた首は湖に大きな音と共に落ちた。
 エスリンも風の刃を作り出し、オロチの首を切り落とした。
 しかし、切れたと思った首の切り口から新たな首が生えてきた。
 何度切り落としても、次々に首は再生を繰り返した。
(キリがない!)
 シーロンは切った切り口を炎で焼こうとしたが、炎に包まれても、首は再生した。
「グオオオオ…!」
 オロチは苦しみの声を上げながら、首の再生を繰り返し、首を四方八方に振り回して暴れた。
 オロチから攻撃してくることはなかったが、いくらこちらから攻撃しても、硬い鱗には傷一つ付いていないようだった。
(なんて奴だ…。奴が苦しんでもがけばもがくほど、周りは破壊されてしまう…。)
 湖の周辺を取り囲んでいた崖は崩れ、森の木々も幾つかなぎ倒されていた。既に、そこにいた人々は皆逃げていた。もしそこに人がいたら、間違いなくオロチの首になぎ倒されて即死していただろう。
(あれは…?)
 シーロンは、悪魔たちに捕まっているミナトとルナを発見した。
(どういうことだ…何故悪魔が…?それにあの悪魔たちは…?)
 悪魔たちの異様な姿に、シーロンは遠くからでもはっきりと見える目で気が付いた。
 シーロンは炎を吐いてオロチを牽制しながら、悪魔たちを観察した。
 粘液を纏った悪魔たちは、次々と湖の中から出てきていた。よく見ると、オロチのいる所の下の方から、悪魔たちが浮かび上がってきていた。
(まさか…オロチが悪魔を…。)
 シーロンは、エスリンに呼び掛けた。
(エスリン!ここは俺に任せて、オロチに気付かれないように、水に潜ってオロチの腹の方を調べてみてくれないか。ミナトが悪魔に襲われているんだ。多分、それはオロチが原因だ。)
「分かったわ!」
 エスリンは風で身を隠すようにして、すばやくオロチの背後に移動すると、静かに水に潜った。
 オロチの黒い体が、水の中にどっしりと浮かび、深い湖底に大きな影を作っていた。
 八本の尾が揺れていた。その揺れが波を起こし、容易にはオロチに近付けない。
 その中から、悪魔が数匹現れた。悪魔たちは、湖面を目指して泳いでいく。
 何とかオロチの腹の方に近付いたエスリンは、目を見張った。
 オロチの腹部に小さな穴が開き、中から悪魔が出てきたのだ。
「オロチは…悪魔を生む魔物…!?」
 エスリンは光の矢を、オロチの腹部の穴に向かって深く突き刺した。
「ギャアアアア…!」
 オロチの悲鳴が大地を揺らした。オロチは悶え苦しみ、八つの首を大きく反らすと、水面に向かって倒れ込み、首の一つがシーロンにぶつかった。シーロンはそのまま、湖に落下していった。
 湖は渦を巻き、水中でエスリンとシーロンは渦に巻き込まれていた。
 オロチは苦しみながら、湖に潜っていき、湖底に大きく開いていた横穴に入っていった。

「うおおおお!!」
 ミナトは、全身に力を込めて水の力を生み出そうとしていた。絡みつく悪魔の感触は気にならなくなっていた。
「俺がやらなきゃ…!!」
 ミナトの体が青く光り出した。その光に、悪魔たちは一瞬怯んだ。
 空から、大雨が降ってきた。
 ただの雨ではない。その雨は、悪魔の体に当たると、たちまちのうちに悪魔の体を消滅させた。
「おお…!?」
 ミナトに絡みついていた悪魔は皆雨によって消えた。ルナを捕らえていた悪魔も。
「…すげえ…。」
 ミナトは驚いていた。悪魔が全て消え去ると、雨は止んだ。
「神様…ありがとうございます。」
 ルナは平伏した。
「よせよ。あんなの俺にとっちゃあ雑魚だし。礼ならオロチを倒してから言ってくれよ。」
 ミナトはオロチの方を見たが、そこにオロチの姿はなかった。

 しばらくして湖の渦は収まり、シーロンはエスリンを抱きかかえて湖から這い上がった。エスリンは気絶していた。
「オロチはあの穴から…。」
 抜け目なく、シーロンはオロチの逃げていった所を見ていた。
 既に、シーロンは人型に戻っていた。
「シーロン!」
 ミナトとルナが駆け寄ってきた。
「オロチはどうなったんだ!?それにエスリンは…!?」
「エスリンは大丈夫だ。ちょっと気を失っているが、心配はいらない。」
「そっか…。」
 ミナトは寝ているエスリンを見て安心したように微笑んだ。
「オロチは…逃げた。残念ながら、倒すことは出来なかった。悪魔はミナトが?」
「ああ!悪魔は俺が皆やっつけたよ!」
 得意げにミナトは言った。
「そうか…。ルナも無事だったようだな。」
 ほっとしたような顔でシーロンは言った。
「オロチの奴、逃げたのか。」
「ああ。湖の底に横穴があった。そこに逃げていったのを見たよ。」
「それじゃあもうオロチの巣はその奥だな!そこに行けば、オロチの奴を追い詰められる!さっさと行こうぜ!」
「そうだな…だがもう俺は限界だ。今追いかけていっても無駄だろう。あいつは確かに化け物だ。傷一つ付けられなかった…。」
 シーロンは悔しそうな表情で言った。
「俺が悪魔に捕まってなきゃ、オロチを倒せたかもしれねーのに。…しかしあいつら…あの悪魔たちは何だったんだ…?何か変な液体にまみれてて…気持ち悪かったな。」
「おそらく…オロチが生み出した悪魔だろう…。」
「え?オロチが悪魔を生んだ??」
「もしかすると、これは重要なことかもしれないな。地上に悪魔が棲み付いている原因…それがオロチだとしたら…。」
「オロチが悪魔を生み出してるってのか!?」
「…とにかく、一旦ルナを両親のもとへ連れて行って、安心させてあげよう。俺たちも、休息が必要だ…。」
 いつになく暗い表情でシーロンは言い、気を失ったままのエスリンを背負って歩き出した。
 ミナトとルナはその後について歩き出した。

 ミナトたちが都に戻って来ると、広場に人々が集まっていた。
「神様!」
「オロチは…?オロチを倒されたのですか…!?」
「ルナ!」
 人々の中から、ルナの両親が飛び出してきた。そしてルナを抱きしめた。
「良かった…良かった…!」
 両親は涙を流して喜んだ。
「神様に助けて頂いたの。でも…オロチは死んでいないわ。」
 ルナの言葉に、人々は静まり返った。
「オロチは俺たちが必ず倒す!だから、少し待っててくれ。」
「長老から全て聞きました。神様。あの生け贄のことは…間違いだったのですね?」
 人々の一人が言った。
「私たちは、間違っていました。生け贄を捧げれば自分たちは助かると…。いくら神様のお言葉だとしても、それを何の疑いもなく信じて、私たちは何の努力もせず、誰かを犠牲にして生きようなどと…。ルナには、申し訳ないことをしてしまった。」
「謝ることはないわ。私だって、自分が犠牲になれば皆が助かると思っていた…。でもそれでは何の解決にもならない。私が生け贄になっても、その後も誰かが生け贄にされる。そして結局は皆オロチに食べられて、滅ぼされてしまう。私たちは、暗闇や魔物に怯えているだけだったけど、これからは前よりも強く生きなくちゃいけない。」
「その通り!今天界を仕切ってる神の言う事は聞くな!俺はこう見えてもこの国の王だったんだ!俺が人間を守る!!」
「あなた様が…ミナト様…?あの三貴子の…?」
 人々はざわめいた。
「何故ミナト様が地上に…?」
「何でって、お前らを助けるためだよ!神だからな!」
 ミナトはどんと胸を叩いた。
「カッコつけないの。」
「な…!エスリン、てめー起きてたのか!?」
 エスリンはシーロンに背負われたまま、薄目を開けてミナトを見ていた。
「ミナト様!アマト様はどうなってしまったのですか!?」
 人々が口々に尋ねた。
「お前らにこんな馬鹿なことを命じたのは姉上じゃねーよ。でも姉上は大丈夫だ。ちょっと今は、病気で寝込んでるだけだ。心配すんなって!暗闇はもうすぐ晴れる。俺たちを信じて待ってろ。」
「病気…?神様も病気にかかるのですか…。」
「それじゃあ、アマト様を信じていていいのですね。」
「ああ。」
 人々の表情は、いくらか明るくなった。
「待ってろよ!」
 ミナトは、幾分暗さを増した空を見上げた。
 黒く重い雲が、空を包んでいた。
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