ミサキの星空

不来方しい

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第一章 生徒と教師

013 裏切りと門出

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「これで、よし……」
 元々、荷物はそれほど多かったわけじゃない。所詮、男の一人暮らしだ。
 宅配業者に運んでもらった部屋は、空っぽになると広く感じた。僕がここを出れば、この部屋はもう僕のものではなくなる。しばらく経てば誰かが借り、思い出は上書きされていく。リビングで星を見た記憶も、触れ合ったぬくもりも。
 人からもらったものはただの物と化しても、唯一捨てられないものもある。運動会でもらった、手作り感のある花。手を引かれ、走った思い出。暖かくも、叶わない恋につらくて目を背けた。
 鞄にしまうとマンションを出て、車に乗った。向かう先は祖母の家だ。実家よりもほんわかしていて慣れた土地は、家主も暖かく出迎えてくれた。
「ごめん、おばあちゃん。せっかく夢を叶えたのに、教師を辞めてきちゃった」
 おばあちゃんは笑顔で何度も頷く。この笑顔を見たくて勉強を頑張ったのに、辞めても同じ笑顔で迎えてくれた。
「肉じゃがを作ったんだけど、食べるかい?」
「うん、食べる」
「温めようかねえ」
 祖母がご飯の準備をしている間、運ばれた荷物を開いていく。元々僕が使っていた部屋は、二度と戻るとは思わなかったのに、ダンボールを開くたびに賑やかになっていった。宝箱を開いているような気分で、初めて一人暮らしをしたときには味わえなかったものだ。あのときは不安で押し潰されそうだった。教師になってからも同性愛者だとからかわれ、どの世界でもみな変わらないと、せめて給料のために働こうと決めた。子供たちのためとは思えなかった。憎しみさえ沸いてしまう僕は、やはり教師は向いていない。
「みさき、おいで」
「今行く」
 テーブルのメインには肉じゃがだ。ジャガイモはおばあちゃんの手作りで、僕の一番の好物。ポテトサラダにしてもみそ汁に入れても、ホクホクして美味しい。あとは漬け物と、ワカメのみそ汁。ほっとする。
「明日、実家からおじいちゃんが帰ってくるのよ。そしたら荷物を解くの手伝うって」
「え、いいよ。腰悪いのに」
「手伝いたいんだよ。可愛い孫のために、何かしたいんだろうねえ」
 無条件の愛情は心地良い反面、逃げ出したくもなる。でも受け続けないと、祖父も祖母も心配する。悲しい顔をする。
「しばらくね、無職でいていいかな……」
「ええ、ええ。時間があるなら、畑仕事でもやるかい?」
「やる!」
 実家からすれば、僕ははみ出し者扱いだろう。無職でゲイなんて、いない者として扱われてもおかしくない。
「なに笑ってるの?」
「昔っから食べ方は変わらないねえ。ほっぺ膨らまして、一生懸命食べてくれるから、作りがいがあるのよ」
──先生、ハムスターみたいだ。
 彼は、笑いながらそう言った。怒っているだろうか。呆れているだろうか。あんなメールを送ったせいで、苦しんでいないだろうか。
 肉じゃがの味が分からなくなりそうで、浮かんだ顔をかき消した。
「疲れているだろうから、今日は早めに寝なさいね」
「そうするよ」
 食欲は思ったよりもあった。朝食も昼食もあまり食べられなかったのに。
 お風呂に入り、敷いてくれた布団の中に潜った。身体は疲れているのになかなか寝付けなくて、ハムスターの回し車の音を思い出していたら、すぐに瞼が重くなった。

 祖父に手伝ってもらったおかげで、荷解きは半日もかからなかった。暖かい出迎えに、僕は幸せ者だと思う。無職の僕にもこんなに優しくしてくれる人がいて、土を弄るのが楽しくて……好きになってくれる人がいて。
 引っ越してきてから数日が経つが、受け入れてくれる居場所があるって、贅沢すぎる。
「おや、お客さんかね」
 おじいちゃんの足音ではない。郵便かもしれない。
 今日はたくさんの野菜を採った。チンゲン菜は青々していて、里芋は丸みを帯びている。
 カゴに入れていると、おばあちゃんは誰かと会話をしながら戻ってきた。
「お客さん?」
「ええ、みさきに」
 顔を上げた。
 身動きが取れなくなった。
 なぜ、彼がここに。
「……みさき先生」
 怒られることなんて充分あり得るのに、目の前の男性は、心底安心したと、ほっとした表情で声を震わせた。
 傾いたカゴから里芋が落ち、彼の足下まで転がっていく。彼はそれを一個一個拾い、これは小さくてハムスターくらいの大きさだなと呟いた。
「…………どうして、」
「先生、ひとりで抱え込まなくていい。全部、教頭から聞いた。古賀のことも、写真のことも」
「なんで、そんな……」
「写真については、俺も当事者だ。知る権利くらいあるだろう。俺を守ろうとしたんだな」
「違う! 前々から決めてたんだ! 子供を好きになれない僕は向いてなかった。限界だったし、タイミングがたまたまかぶっただけだ」
 教頭は言わないって約束してくれたのに、いとも簡単に破られた。大人も信用できない。学校には、二度と関わりたくない。
「なんでだろうな……ほっとしてる俺もいるんだ。妙なしがらみから解放されて、楽しそうに土いじりをしてる先生を見たら、辞めて良かったかもしれないって思えた。先生には会えなくなるし、寂しいけど」
「雅人君……」
 カゴから野菜が全部落ちた。土に還ったのは、微笑む彼に抱きしめられたからだ。
 何か話したいのに、出てくるのは嗚咽しかない。
 わざわざ追いかけてきてくれた。こんな僕のために。住所はどこで知ったんだろう。聞きたいことが山ほどある。今日は何曜日だっけ、学校は、文化祭はどうだった。
 背中に手を回すと、彼の緊張が少し解けた。もしかしたら拒否されたらどうしようと、考えていたのかもしれない。
 呑気な声で、おばあちゃんは中にお入りと声をかけた。慌てふためくのは僕だけで、未成年の彼はしっかりとお礼を言う。どっちが大人なのか。情けない。
「なんで、メールの返事をくれないんですか」
「メール? ごめん、学校と離れたくて、スマホ自体しばらく見ないようにしてたんだ」
「読んで下さい」
 真剣な眼差しに、答えるのが僕の努めだ。
 数日ぶりに携帯端末を起動させると、六件の着信が入っている。すべて雅人君からだ。ゼロの実家より多いとは、おかしくて笑いが込み上げてくる。
 問題のメールを見てみると、遠慮のないまっすぐな文が目に飛び込んできた。
──先生、愛してる。
 笑いの神様はどこかへ飛んでいった。彼はカーブボールの投げ方を知らないのか。全力でドストレートだ。
「先生、俺……」
 襖の向こうから声がした。掴まれた手を解いて返事をすると、おばあちゃんがお盆に瓶入りのソーダとようかんを持ってきてくれた。
 美味しそうな和菓子を目の前にしても、雅人君の表情は冴えない。そっと手に重ねると、少しは眉間の皺が和らいだ。
「先生、返事は?」
「えー、待ってよ。ようかん食べない?」
「俺よりようかんか……」
「畑仕事でお腹空いちゃったし」
「今は何が採れるんですか?」
「人参とジャガイモ。それと里芋。今日の夕食は、里芋の煮物かもね」
「年がら年中採れるイメージなんですけど」 
「ふふ、ジャガイモは僕の好物だから、いつでも収穫できるんだ」
 ようかんの甘さは疲れた身体に染み渡る。ハムスターと独り言を言う彼は含み笑いをしていて、おもいっきり無視してやった。
「ほら」
 一口サイズのようかんを差し出され、誓った心はバキバキに折れた。僕は大きく口を開けて、かぶりついた。
「どうやって僕の家まで来たの?」
「タクシー。お小遣いとお年玉を使ってきた。それと和菓子屋で働いたお駄賃で」
「……………………」
 無駄遣いだ。雅人君のお父さんは知っているのだろうか。息子のお金の使い方を叱るべきだ。
「なぜ家が分かったのかって顔してるな。写真見ながらここまで来た。前に送ってくれただろ?」
「……冗談でしょ?」
「さすがにタクシーの運転手にも聞いた。道の駅で売ってる有名なまんじゅうや、桜の木がたくさん立っているところとか」
「それだけで?」
「充分だろ。我ながらストーカーの才能があるんじゃないかって思えた」
「探偵の才能もあるよ……」
 かろうじてのフォローも、ちゃんとお届けできたか疑問が残る。アイドルの家を特定する話はたびたびインターネットを騒がせているが、背景だけではなく、ガスコンロの形や壁に設置された照明のスイッチ、眼鏡に映るもので特定するなど、空想に近い話だ。現実だった。
「頭がパンクするんじゃないかってくらい、追い詰められてた。先生はあんなメールを送ってくるわ、学校に行ったらなぜか副担がみさき先生の役割を担ってるわ、教頭に問い質したら最初はゲロッてくれなくて、一時間粘った」
「聞いたの? 何を知っているの?」
「ほぼ全部」
「全部…………」
 頭が痛い。
「教頭に、みさき先生が映った写真が送られてきたって数枚見せられた。プラネタリウムに行ったときの俺と映った写真もあった。ドアの隙間に差し込まれてたって。みさき先生と面談をしたら、あっさり辞めると言っていたのも聞いた」
 あのときのことを鮮明に思い出す。文化祭の日で、浮き足立った雰囲気の中、僕は絶望の色に侵食されていた。
「誰が撮ったものとか、どうでもいいんだ。辞めるきっかけを作りたかったから、タイミングが合っただけ」
「あんなのストーカーだろ! 警察に……」
 雅人君がストーカー呼ばわりするの、ちょっと笑ってしまう。
「古賀にも問い詰めた。あいつは前科があるし、疑う余地はあった」
「知ってるよ。古賀君がやったってことも」
「え…………」
「古賀君の家ね、ちょっと複雑だから。僕は責められないんだ」
「どういうことだ?」
「お父さんが二人いるの」
 僕を恨む理由。すべてがそこに繋がっていた。
「古賀君のお父さんが、入学式のときに少し家の事情を話したんだ。中学のときに大怪我をして野球もできなくなって、荒れに荒れてるって。オイル事件あったでしょ? お父さんが学校に来て、何度も必死に頭を下げてた」
「けど、みさき先生を傷つける理由にはならない」
「うん。それはそうだね。古賀君の甘えだよ。他人に八つ当たりして逃げてばかりで、これからの人生も良くなるわけじゃない。でも、僕も逃げたから。古賀君を導く立場の僕は、彼の人生をより良い方向へ導けなかった。僕はもう教師じゃない。ただの無職」
「なら、いろんな可能性が秘めてますね」
 高校生の彼の方がよほどしっかりしているし、はっとするようなことを言う。
 両手を包まれて、僕は顔を上げた。
「先生のやりたいことを一緒に見つけたい。畑が好きなら農業でもいいし、星についての研究家でもいい。無職同士、これからも仲良くしていきたい」
「……男同士って、雅人君が思っている以上に、」
「それはもういい。悩みすぎて頭がパンクした。だから親父に全部話してきた」
「……………………え?」
 何を、どこまで。
「担任を好きになって、今日学校休んで会いに行ってくるって言った。最初は無言だったけど、俺の真剣さが伝わったら、男気を見せてこいってさ」
「せ、性別は……」
「もちろん知ってる」
 若さからか、彼の性格の問題なのか、常に僕より先を見ている。
「もう担任じゃない。だから……みさきさんって呼ぶ。いい?」
「一ノ瀬君ってけっこう積極的だね……」
「まさと」
「……雅人君」
 大きな身体に包まれると、何もかも任せてしまいたくなる。僕も手を回そうとしたら、おばあちゃんが夕飯だと伝えてきた。
「みさきさん、後で告白の返事をちゃんと聞かせてよ」
「期限はいつまで?」
「俺が帰るまで。さっき、おばあさんが夕飯食べてけって言ってくれた」
「おおお……おばあちゃんと何を話したの?」
「担任の先生に会いにきた。好きすぎて我慢できなかったって言った。みさきさんが嫌なら……これっきりにするから」
 本当に我慢できるのだろうか。かろうじて『待て』をしている大型犬に見える。かっこいい、大きなドーベルマン。
 未成年がこれだけ勇気を出してくれたのに、僕は何をしているのだろう。気持ちを必死に隠して、かといって耐えられず中途半端に彼に触れて。僕以上に、苦しんだに違いない。
「男女だから上手くいくって思うなよ。上手くいくなら離婚なんてものはこの世に存在していない」
「僕らは、その土台にすら立てない。そういう覚悟ってある?」
「先生は結婚がすべてだと思ってるのか? 今の時代に? したくなったら、海外にでも行けばいい」
 未成年の暴走に身を任せるのもいいかもしれない。
 いずれ彼は、子供が欲しいと言い、僕から離れるときも来るだろう。子供を引き合いに出されると、僕が身を引くしかない。予期せぬ未来まで想像力し、心をぐちゃぐちゃにするなんて馬鹿みたいだ。
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