描く未来と虹色のサキ

不来方しい

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一章 絵画修復士として

05 差し込んだ光

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「もしかして、さっきの方が噂の学級委員長さん?」
 車がしばらく走り出すと、本格的に雨が降ってきた。
 窓ガラスには横殴りの線が何度もぶつかり、次第に音も強くなっていく。
 空を見ていると、先に口を開いたのは誠一だった。
 恋い焦がれた相手が男と知っても、特に問い質すわけでもない。
「ええ、そうです。葉山先生の仰る通り、普通に話せました。時間が何とかしてくれる場合もあるんですね」
「今でも好き?」
「それはないですね。同窓会の連絡が届くまでは本当に思い出しませんでしたし。イタリアにいた頃も、いつの間にか頭から消えていました」
「今は募集中?」
「募集……ですか。あまり考えていませんでした。けれど仕事だけが大事だとも思っていません」
「俺はどう?」
 意味はすぐに理解して、手の先が震えた。
 首筋から顔が熱くなり、瞼に痙攣が起こる。
「……私は、女性を好きになれません」
「うん」
 知っていたよ、と言わんばかりの言い方だった。
 愛のこもった返事は、どうしようもなく心に渦を巻いていく。
「葉山先生は違うでしょう?」
「いや? どっちとも付き合ったことがあるよ。どちらかというと、男性が好き」
「この前の男性も?」
「この前? モデルの人? あの人なら友人でそれ以上でもないよ。ずっと気にしていたの? それなら嬉しいな。さあ、もうすぐ着くよ」
 まだ慣れない洋邸の中へ車のまま突き抜けて行く。覚悟を決めろと、宣告を食らった気分だった。
 助手席から降りようとしたとき、腕を掴まれる。
 宣告は家の中へ入ってからではない。車から降りる前だ。
「咲…………」
 敬称を取り払われた名前呼びは、魔法がかかったかのように吸い寄せられていく。
 唇が合わさる瞬間、鼻が触れそうになり、顔を斜めに傾けた。
「──んっ…………」
 すぐには離れず、熱い吐息が唇にかかる。
 顔を突き出すと、もう一度合わさって今度は舌が触れてきた。
 薄い唇を開くと、舌が入り込んでくる。
 遠慮のある動きにどうにか答えたくて、何度か先端で唾液を絡め取った。
 離れていくと、糸が月明かりに照らされ、銀色に光る。
「怖い?」
「経験はあります」
「さっきの彼?」
「イタリアにいた頃です。お互いに気になっていた同級生と、キスだけ。……どうして私なんですか?」
「前に何度か会ってるって言っただろう? 君は保護対象でしかなかった。久しぶりの再会で、こんなに美しい男性になってるとは……思っていたが。君は昔から可愛らしかったからね。仕事で絵に向かう姿や、美味しそうにご飯を食べてくれる姿を見ていたら自然と惹かれる。この際だから白状するけど、住み込みで働くように言ったのは、下心もある」
 惹かれているのは事実で、頷いてしまえば楽になれた。
 だが頭に浮かんでくるのは父の姿だ。
「困らせてしまったみたいだ。すまない」
「違うんです。先生は何も悪くありません。抱えているものが多すぎて、甘えられないんです」
 毎夜のように父から嬲られているなど、彼が知ったらきっと幻滅するだろう。
「それは、俺の家にいれば楽になれる? それとも苦しくなる?」
「だいぶ、楽になれています」
「それで充分だ。私と過ごす時間が嫌なわけではないんだね」
「もちろんです。仕事のしやすい環境も、ご飯も、すべてが幸せで果報者だと思います」
「良かった。これからも美味しいものを作るからね。明日の朝もせひリクエストしてくれ」
 もう一度顔が近づいてきたので、咲は目を閉じた。
 雲間からうっすら見える月の光にまで注目を浴びているようで、恥ずかしかった。

「展覧会……ですか」
 朝食を食べながら、誠一は二週間後の展覧会について話をした。
「二週間後なんて急ですね」
「何点か出してみないかって話が来てね。せっかくだからって思ってる。それで、ちょっとしたお願いがあるんだ」
 誠一は申し訳なさそうな、けれどどこか自信に溢れた声でコーヒーの入ったカップを置いた。
「新作を出したいと思っていて、君を描きたいんだ」
「私を……ですか?」
「そうだ。モデルをしてもらいたい。たくさんの愛を絵にしたい」
「私で愛を表現できるなら嬉しいですが」
「君じゃないと表現できないと思うよ」
 朝から軽やかな笑いに包まれ、幸福であると実感する。
 実家とは天と地ほどの差だ。ずっとここにいたいと願っても、父の機嫌次第と仕事が終われば強制的に戻される。一人暮らしを望むが、夢のまた夢だ。
「君の肌を描きたい」
「肌? それってまさか、」
「全部脱げと言っているわけじゃない。君の綺麗な素肌を見せてほしい。画家としてもとても興味がある。個人的感情としても興味があるけど」
 茶目っ気たっぷりに言うと、お代わりのコーヒーを持ってきた。
 彼の絵になるということは、良くも悪くも注目を浴びる。
 新しい自分にもなれる気がした。
 それに、何時間の間でも彼の視線を独占できる。そう考えると、この上ない高揚感に包まれた。
「モデルの件、やらせて下さい」
「ありがとう。抜群に綺麗に描かせてもらうよ」
 二週間と時間が限られる中、咲は渡された浴衣に着替えた。
 初めて入る誠一のプライベートルームは、絵の具の香りがほんのりとした。
「此処でも絵を描いたりするのですか? 少し絵の具の匂いがします」
「いいや、描かないよ。残り香だろう。ベッドに座ろうか」
 言われた通りに腰を下ろすと、匂いは気にならなくなった。それよりも誠一の体臭がいっそう強くなり、鼓動が悲鳴のように高鳴る。
「ちょっと失礼」
「あっ…………!」
 肩の布を剥かれ、へそあたりまで下ろされた。
 丸出しの背中は冷房の風でひんやりとし、肌に視線が刺さる。
「……これ、どうしたの?」
「──ッ…………!」
 父に嬲られた痕だ。脇腹には赤く縄の痕がうっすらと残っていた。
 バスルームで何度も確認したが、問題はないと確信していた。ただ、浴衣の帯を強めに締めたせいで、赤く浮き出てしまっていた。
「多分、ちょっと帯か何かで擦ったんだと思います」
 これでごまかしきれるとは思っていなかったが、誠一はあっさりと引き下がった。
「緊張しなくていい。……肩に力が入っているね。深呼吸してごらん」
 下に浴衣を纏っていても、丸裸にされた気分だった。 
 変態でないと思いたいのに、咲は下まで全部脱ぎたくなる。
 男性が好きだと言った彼に生まれたままの姿を見せたら、抱きたいと言ってくれるだろうか。
「そのままで。俯き加減で、視線を下に落とそうか。君は斜めのシルエットもとても素敵だ。『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』なんていうけど、まさに君のことだね。花言葉は恥じらいや人見知りなんて、そのままじゃないか」
「よく褒めますね」
「そうやって恥ずかしがっている姿は薔薇の花びらを散らしたようだ。いつか薔薇に囲まれている君も描いてみたい」
「噴水回りにあった薔薇、とても素敵でした。いつも良い香りがして、あの香りを嗅ぐと天国にいると実感できます」
「天気が良くて気温もそれほど高くない日は、あそこでお弁当でも食べようか。さあ、横を向いてごらん」
「はい……」
 太陽よりも眩しく、薔薇よりも美しくしなやかな声。
 口に出していたらしく、彼は「そのままお返しするよ」と笑った。
 先は薔薇よりも頬を赤くし、ずっとこの時間が続くようにと願った。
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