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最終章:崩壊王国の戦い
第179話 災厄・スカイリンク
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「さあ、あとはこれをそのまま落とすだけ……どうなると思う?」
「だめ!お願い、やめてってば!てんぱい!てんぱぁぁぁぁぁぁ!」
クザンの両手振り下ろすと、空に浮いた水の塊が一気に崩れた。世界中の人が見ている前で、巨大な水塊は重力に引かれ、やがて支えを失った大陸のように崩れ落ちていった。
ド ド ド ド ドドドドドッ———-ぱーーーーーーーーーーーーーーーん!!
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
玄太の叫びもむなしく、叩きつけられた海水の塊は無数の奔流となって一気に世界を吞み込んだ。
—————
地上の惨状と裏腹に、研究室は嘘のように静まり返っていた。水音も悲鳴も、ここには届かない。ただ玄太の小さな鳴き声だけが、細々と響いていた。
「……う、う~…………うぅ」
「アンバランスな世界の終幕。これが、あるべき末路」
膝を抱えて座り込む玄太は、涙を止めようとすればするほど呼吸が乱れ、肩が小刻みに震えた。
海に飲まれた街。流された人々。目を閉じても、最悪の光景が焼き付いて離れない。――そして気づけば、アルカノアのみんなの姿が重なってしまう。アリスが。ラクター隊長が。ライラやベータ君たちが。水に呑まれていく幻が頭の中で勝手に動き出し、玄太は首を振っても追い払えなかった。
「みんな……てんぱいのスカイリンクで……みんながぁ……」
天貴と玄太が帰る場所は消えた。仲間も、畑も、てんぱいが持ってきたおやっさんの野菜も、全てが消えた。誰に届くでもない声を漏らしながら、ポタポタと床にしずくを落とす。
そんな玄太の様子を、クザンは静かに見下ろしていた。
*****
転移前、おやっさん農場の食堂。
「ぱねえっす!天気が操作できるってったら、農場のヒーローっすよ!!てんぱい!」
ふたりして、その真意も知らずにワクワクしてたあの頃。
「命名!スカイリンクなんてどっすか!てんぱい!」
「お、いいなそれ!」
不安とニヤケが入り混じったようなてんぱいの顔。……おれが一番好きな、てんぱいの表情。
*****
でもいま目の前にあるのは、不安もニヤケもしない無表情のてんぱい。嬉しいも楽しいも、悲しいも苦しいも何も浮かばない。まるで感情という概念そのものが削ぎ落とされた、空洞のような顔。一緒に笑っていた面影は、どこにもない。
「これが天災を呼ぶアストラの上位神力。スカイリンクの本来―――」
平坦で乾いた声が聞こえると、玄太の胸の奥で何かがぶちっと切れた。
――おれのてんぱいは、もっとあったかくて、強くて、かっこよくて……おれが世界で一番、大好きな人だ。そんな無表情で、てんぱいのフリなんてするな。
込み上げる感情が、涙で濡れた頬をさらに熱くした。玄太は顔を上げ、歯を食いしばったままクザンを見上げて睨みつけた。
「ばかっ…………ばかばかばか!!」
声は震え、怒りとも悲鳴ともつかない叫びが口からあふれ出す。もう、目の前の存在が神だなんてことすら頭から吹き飛んでいた。
「みんな……必死で……生きてたんだ!平等じゃなくても不公平でも、考えて悩んで、諦めて!それでも前に進んでたんだ!」
拳を打ちつける音が、むなしく床に吸い込まれた。
「お前が創った世界なら、もっと大事にしろよ!!最後まで責任持てよ!!」
「……人間が神に説教?いや、そんな事はどうでもいいか。どうせ―――」
青いツナギがゆっくりと一歩、また一歩と近づいてくる。
胸の奥で渦巻く赤い魔力が、天貴の体内で脈打つように明滅し、空気そのものをじりじりと焦がしていった。
「……最後のひとりだ」
低く落ちたその声にためらいはない。
クザンは玄太の前に立ち、短い首へ手を伸ばすと、緑のツナギごと軽々と吊り上げた。喉元に触れた指先が、魔力の流路を探る。動脈に直接流し込めば、人間など一瞬で止まる。対象を消去のための単なる工程――そのはずだった。
なのに。
「…………?」
放たれるはずの魔力は集束せず、指先は玄太の脈動を捉えたまま震えている。
「や……やるなら……早くやれば?」
玄太が震える声で挑発すると、クザンは鋭く眉を寄せた。命令は出している。それなのに――この身体は動かない。魔力が喉元に触れる寸前で、何かに引き戻されるような感覚。
「しぶといな……邪魔をするな」
器自信に向けた呟く声が、低く落ちる。玄太は顔を歪めたまま、泣き腫らした目でその異変を見つめていた。
「……まさか……」
「おまえ……」
どちらに向けたか分からない言葉をつぶやくと、再び玄太の首に力が入った。
「ひぐぅっ!」
「そうか……おまえを消せば、器の意思も完全に消えるはず。この身体、あと50年は使うんだし、ノイズは除去しておかないと」
掌に力が込められた瞬間、玄太の足が浮きかける。肺に入るはずの空気が塞がれ、視界がじわじわ白く滲んだ。
「っ……んぐ……」
爪先が床を探すように震える。息ができない。でも玄太は、泣き腫らした目を絶対にそらさなかった。
「……っ、てんぱい……いるんすよね……答えて……てんぱい!」
「おまえと共にそいつの名も消える……良かったなぁ、最期まで一緒だっ」
クザンの赤い魔力が玄太の首に集中し、玄太の首元へ送りこまれようとした、その一瞬先。
ピュルルルルル————バシュゥゥゥゥ!!!
蒼いツナギの足元に、突然赤い炎が着弾した。石床に焦げ跡が広がり、熱気が一瞬で研究室の冷気を押し返す。
「……っ!?」
予想外の展開にクザンの手から魔力が飛散し、玄太の喉を締めつけていた力が一気に緩む。
「っ――ごっ、はぁ……!はっ……!」
肺ごと吐き出すような咳をしながら、玄太は床へ崩れ落ちた。死の一歩手前で切り離された感覚に、頭が追いつかない。
(な、なんで……助かった……?)
震える手で床を支えながら、玄太は恐る恐る研究室の入り口へ目を向けた。
――かすかな影が、もそりと動く。
黒い。小さい。でも、その存在感だけは、誰よりも大きい。
「……うそ……」
次の瞬間、あのいつもの声が研究所の空気を震わせた。
「……揃うたの。家族が」
その言葉だけで、玄太の胸が一気に熱くなる。ありえない。けれど、聞き間違えるはずがない。玄太がずっと聞きたかった、小さな相棒の声。
————研究室の天井灯が、ゆらりと揺れた。
その揺らぎに合わせるみたいに、入口の影が長く伸びる。ほこりが金粉のように宙に舞い、その中心へ、黒い小さな影がゆっくり歩み出た。もふもふの黒毛。ちまっとした四本の脚。第三領域で身を挺して門番を倒して、その巨体に沈んだはずの仔牛。
「ク、クー……タン……?」
名前を呼ぶ声が震える。信じられないけど、本当にそこにいる。いや、本当は考えないようにしてたけど、諦めきれなかった。
「ぬしよ、遅ぅなったの」
玄太の震えに応えるみたいに、鼻先をふんっと上げる。片手に持った小さな甘乳パンをひょいと口に入れると、小さな体がえらそうにふんぞり返った。
「クータン!マジでクータンだぁぁぁ!!」
「もぐもぐ……少し硬いが……ゴクッ、美味なり」
いつもの減らず口。幻でも幽霊でもない、まぎれもなくクータンそのものだ。震える膝のまま、玄太は四つん這いで数歩、次いで転がるようにして駆け寄った。
「おまえ、門番に潰されて死んだんじゃなかったの……!?」
「これは奇なり。実際に生存しておるこの我を前にして、なお“なかったのか”とは──人間とは実に不思議な種じゃ」
伸ばした手が、小さな黒い毛並みに触れる。温かい。確かな重み。夢じゃない。
「……わあぁぁん……良かったよぉぉぉぉ」
玄太はぽろぽろ涙を落としながら、その小さな体を抱きしめた。クータンはいつもの無表情でそっぽを向くが、尻尾は嬉しそうに揺れている。
「ふぐっ……ぬしの抱擁は、門番の巨体より容赦ないの」
「だって!ひとりで寂しかったんだもんっ」
抱きしめた拍子にほのかに香る甘乳パンの甘い香りに、玄太はハッとして顔を上げた。
「そうだ、クータン!世界が……アルカノアが海になっちゃった!どおしよぉ!!」
「ふむ。であれば……いつぞや我も乗った、船というものがあろう?あれは水に浮く」
以前、玄太が東の灯台に捕らわれた時に乗ったガスケット船長の海賊船を思い出すクータン。事の重大さがイマイチわかっていない愚かな仔牛に。
「んな都合よく船があるかっての!ってか全部沈んじゃったから、もう甘乳パンも作れないんだぞ!」
「なんと!それは聞き捨てならぬ、由々しき事態じゃ!」
クータンの叫びは、世界の崩壊より甘乳パンの歴史的抹消を嘆いた。
「ってか、そこじゃないだろ!!アリスさんやみんなが――」
「ボクを無視して……何を騒いでいる」
冷たく落ちる声に、玄太が我に返る。ゆっくりと視線を上げると、青いツナギが腕を組んでふたりを見下ろしていた。
「件1096号……貴様は再起不能にしてこの領域から捨てたはず……なぜここにいる」
クータンは鼻をふんと鳴らし、まったく怯まず顎を上げた。
「主神の創りしこの世界の端に引っかかった。そこを通りかかったこやつに拾われたのじゃ」
「通りかかった、だと……?何を言っている」
理解できないといった表情のクザン。しかし、まぎれもない事実だ。
(そういえば、なぜこの男はここにいるのだ。神しか侵入を許されないこの領域に踏み入れただけでなく、ボクが創ったこの難解な王国をいともたやすく突破したのも……解せない……)
「イレギュラーどもが、揃いも揃って……」
クザンの声は低く、怒りとも戸惑いともつかない濁りを含んでいた。
世界を掌握しているはずの神の視界は、本来なら揺らぎなど起こさない。だがいま、目の前にいるのは、生存確率ゼロだったはずの仔牛と、神の領域に足を踏み入れるなど本来あり得ないただの人間。
そして、その二つの不穏分子が、当然のように家族と呼び合う異質な関係。理解の外側に立つ者たち。神が創ったはずの世界の中で、神自身の想定を外れる動きを見せる三つの点。
(玄太……クータン……俺はまだ……)
クザンの内側に灯る、小さな息吹。
「……ちっ…………」
それらが一点に揃った瞬間、器は、ゆっくりとしかし確実に軋み始めていた。
「だめ!お願い、やめてってば!てんぱい!てんぱぁぁぁぁぁぁ!」
クザンの両手振り下ろすと、空に浮いた水の塊が一気に崩れた。世界中の人が見ている前で、巨大な水塊は重力に引かれ、やがて支えを失った大陸のように崩れ落ちていった。
ド ド ド ド ドドドドドッ———-ぱーーーーーーーーーーーーーーーん!!
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
玄太の叫びもむなしく、叩きつけられた海水の塊は無数の奔流となって一気に世界を吞み込んだ。
—————
地上の惨状と裏腹に、研究室は嘘のように静まり返っていた。水音も悲鳴も、ここには届かない。ただ玄太の小さな鳴き声だけが、細々と響いていた。
「……う、う~…………うぅ」
「アンバランスな世界の終幕。これが、あるべき末路」
膝を抱えて座り込む玄太は、涙を止めようとすればするほど呼吸が乱れ、肩が小刻みに震えた。
海に飲まれた街。流された人々。目を閉じても、最悪の光景が焼き付いて離れない。――そして気づけば、アルカノアのみんなの姿が重なってしまう。アリスが。ラクター隊長が。ライラやベータ君たちが。水に呑まれていく幻が頭の中で勝手に動き出し、玄太は首を振っても追い払えなかった。
「みんな……てんぱいのスカイリンクで……みんながぁ……」
天貴と玄太が帰る場所は消えた。仲間も、畑も、てんぱいが持ってきたおやっさんの野菜も、全てが消えた。誰に届くでもない声を漏らしながら、ポタポタと床にしずくを落とす。
そんな玄太の様子を、クザンは静かに見下ろしていた。
*****
転移前、おやっさん農場の食堂。
「ぱねえっす!天気が操作できるってったら、農場のヒーローっすよ!!てんぱい!」
ふたりして、その真意も知らずにワクワクしてたあの頃。
「命名!スカイリンクなんてどっすか!てんぱい!」
「お、いいなそれ!」
不安とニヤケが入り混じったようなてんぱいの顔。……おれが一番好きな、てんぱいの表情。
*****
でもいま目の前にあるのは、不安もニヤケもしない無表情のてんぱい。嬉しいも楽しいも、悲しいも苦しいも何も浮かばない。まるで感情という概念そのものが削ぎ落とされた、空洞のような顔。一緒に笑っていた面影は、どこにもない。
「これが天災を呼ぶアストラの上位神力。スカイリンクの本来―――」
平坦で乾いた声が聞こえると、玄太の胸の奥で何かがぶちっと切れた。
――おれのてんぱいは、もっとあったかくて、強くて、かっこよくて……おれが世界で一番、大好きな人だ。そんな無表情で、てんぱいのフリなんてするな。
込み上げる感情が、涙で濡れた頬をさらに熱くした。玄太は顔を上げ、歯を食いしばったままクザンを見上げて睨みつけた。
「ばかっ…………ばかばかばか!!」
声は震え、怒りとも悲鳴ともつかない叫びが口からあふれ出す。もう、目の前の存在が神だなんてことすら頭から吹き飛んでいた。
「みんな……必死で……生きてたんだ!平等じゃなくても不公平でも、考えて悩んで、諦めて!それでも前に進んでたんだ!」
拳を打ちつける音が、むなしく床に吸い込まれた。
「お前が創った世界なら、もっと大事にしろよ!!最後まで責任持てよ!!」
「……人間が神に説教?いや、そんな事はどうでもいいか。どうせ―――」
青いツナギがゆっくりと一歩、また一歩と近づいてくる。
胸の奥で渦巻く赤い魔力が、天貴の体内で脈打つように明滅し、空気そのものをじりじりと焦がしていった。
「……最後のひとりだ」
低く落ちたその声にためらいはない。
クザンは玄太の前に立ち、短い首へ手を伸ばすと、緑のツナギごと軽々と吊り上げた。喉元に触れた指先が、魔力の流路を探る。動脈に直接流し込めば、人間など一瞬で止まる。対象を消去のための単なる工程――そのはずだった。
なのに。
「…………?」
放たれるはずの魔力は集束せず、指先は玄太の脈動を捉えたまま震えている。
「や……やるなら……早くやれば?」
玄太が震える声で挑発すると、クザンは鋭く眉を寄せた。命令は出している。それなのに――この身体は動かない。魔力が喉元に触れる寸前で、何かに引き戻されるような感覚。
「しぶといな……邪魔をするな」
器自信に向けた呟く声が、低く落ちる。玄太は顔を歪めたまま、泣き腫らした目でその異変を見つめていた。
「……まさか……」
「おまえ……」
どちらに向けたか分からない言葉をつぶやくと、再び玄太の首に力が入った。
「ひぐぅっ!」
「そうか……おまえを消せば、器の意思も完全に消えるはず。この身体、あと50年は使うんだし、ノイズは除去しておかないと」
掌に力が込められた瞬間、玄太の足が浮きかける。肺に入るはずの空気が塞がれ、視界がじわじわ白く滲んだ。
「っ……んぐ……」
爪先が床を探すように震える。息ができない。でも玄太は、泣き腫らした目を絶対にそらさなかった。
「……っ、てんぱい……いるんすよね……答えて……てんぱい!」
「おまえと共にそいつの名も消える……良かったなぁ、最期まで一緒だっ」
クザンの赤い魔力が玄太の首に集中し、玄太の首元へ送りこまれようとした、その一瞬先。
ピュルルルルル————バシュゥゥゥゥ!!!
蒼いツナギの足元に、突然赤い炎が着弾した。石床に焦げ跡が広がり、熱気が一瞬で研究室の冷気を押し返す。
「……っ!?」
予想外の展開にクザンの手から魔力が飛散し、玄太の喉を締めつけていた力が一気に緩む。
「っ――ごっ、はぁ……!はっ……!」
肺ごと吐き出すような咳をしながら、玄太は床へ崩れ落ちた。死の一歩手前で切り離された感覚に、頭が追いつかない。
(な、なんで……助かった……?)
震える手で床を支えながら、玄太は恐る恐る研究室の入り口へ目を向けた。
――かすかな影が、もそりと動く。
黒い。小さい。でも、その存在感だけは、誰よりも大きい。
「……うそ……」
次の瞬間、あのいつもの声が研究所の空気を震わせた。
「……揃うたの。家族が」
その言葉だけで、玄太の胸が一気に熱くなる。ありえない。けれど、聞き間違えるはずがない。玄太がずっと聞きたかった、小さな相棒の声。
————研究室の天井灯が、ゆらりと揺れた。
その揺らぎに合わせるみたいに、入口の影が長く伸びる。ほこりが金粉のように宙に舞い、その中心へ、黒い小さな影がゆっくり歩み出た。もふもふの黒毛。ちまっとした四本の脚。第三領域で身を挺して門番を倒して、その巨体に沈んだはずの仔牛。
「ク、クー……タン……?」
名前を呼ぶ声が震える。信じられないけど、本当にそこにいる。いや、本当は考えないようにしてたけど、諦めきれなかった。
「ぬしよ、遅ぅなったの」
玄太の震えに応えるみたいに、鼻先をふんっと上げる。片手に持った小さな甘乳パンをひょいと口に入れると、小さな体がえらそうにふんぞり返った。
「クータン!マジでクータンだぁぁぁ!!」
「もぐもぐ……少し硬いが……ゴクッ、美味なり」
いつもの減らず口。幻でも幽霊でもない、まぎれもなくクータンそのものだ。震える膝のまま、玄太は四つん這いで数歩、次いで転がるようにして駆け寄った。
「おまえ、門番に潰されて死んだんじゃなかったの……!?」
「これは奇なり。実際に生存しておるこの我を前にして、なお“なかったのか”とは──人間とは実に不思議な種じゃ」
伸ばした手が、小さな黒い毛並みに触れる。温かい。確かな重み。夢じゃない。
「……わあぁぁん……良かったよぉぉぉぉ」
玄太はぽろぽろ涙を落としながら、その小さな体を抱きしめた。クータンはいつもの無表情でそっぽを向くが、尻尾は嬉しそうに揺れている。
「ふぐっ……ぬしの抱擁は、門番の巨体より容赦ないの」
「だって!ひとりで寂しかったんだもんっ」
抱きしめた拍子にほのかに香る甘乳パンの甘い香りに、玄太はハッとして顔を上げた。
「そうだ、クータン!世界が……アルカノアが海になっちゃった!どおしよぉ!!」
「ふむ。であれば……いつぞや我も乗った、船というものがあろう?あれは水に浮く」
以前、玄太が東の灯台に捕らわれた時に乗ったガスケット船長の海賊船を思い出すクータン。事の重大さがイマイチわかっていない愚かな仔牛に。
「んな都合よく船があるかっての!ってか全部沈んじゃったから、もう甘乳パンも作れないんだぞ!」
「なんと!それは聞き捨てならぬ、由々しき事態じゃ!」
クータンの叫びは、世界の崩壊より甘乳パンの歴史的抹消を嘆いた。
「ってか、そこじゃないだろ!!アリスさんやみんなが――」
「ボクを無視して……何を騒いでいる」
冷たく落ちる声に、玄太が我に返る。ゆっくりと視線を上げると、青いツナギが腕を組んでふたりを見下ろしていた。
「件1096号……貴様は再起不能にしてこの領域から捨てたはず……なぜここにいる」
クータンは鼻をふんと鳴らし、まったく怯まず顎を上げた。
「主神の創りしこの世界の端に引っかかった。そこを通りかかったこやつに拾われたのじゃ」
「通りかかった、だと……?何を言っている」
理解できないといった表情のクザン。しかし、まぎれもない事実だ。
(そういえば、なぜこの男はここにいるのだ。神しか侵入を許されないこの領域に踏み入れただけでなく、ボクが創ったこの難解な王国をいともたやすく突破したのも……解せない……)
「イレギュラーどもが、揃いも揃って……」
クザンの声は低く、怒りとも戸惑いともつかない濁りを含んでいた。
世界を掌握しているはずの神の視界は、本来なら揺らぎなど起こさない。だがいま、目の前にいるのは、生存確率ゼロだったはずの仔牛と、神の領域に足を踏み入れるなど本来あり得ないただの人間。
そして、その二つの不穏分子が、当然のように家族と呼び合う異質な関係。理解の外側に立つ者たち。神が創ったはずの世界の中で、神自身の想定を外れる動きを見せる三つの点。
(玄太……クータン……俺はまだ……)
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それらが一点に揃った瞬間、器は、ゆっくりとしかし確実に軋み始めていた。
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