腐男子♥異世界転生

よしの と こひな

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7話~学院のガルディアン~

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~学院のガルディアン~


 夕食を済ませたあと、俺たちはそれぞれの寮室へ戻り、動きやすい体操着に着替えた。長めの紐で髪を後ろに結んでいると、机の上にちょこんと座っていたネージュが、じとっとした目でこちらを見ながら小さな羽根をわずかにふくらませて、器用にくちばしを鳴らす。

「留守番……だよな?」
「そうなるなぁ……」
 俺が言うと、ネージュはわずかに視線をそらしながらも、小さく頷いた。理解はしているらしい。けれど、どこか寂しそうな、拗ねたような、複雑な顔をしている。
「訓練中の様子、奇石通信で共有してやるよ。……あとでな」
 その言葉に、ネージュの尻尾の先がピクリと動いた。ほんの少しだけご機嫌が戻ったようだ。
「しょうがねぇな……。まあ、しっかりと汗かいてこい」
 ぶっきらぼうな物言いだが、なんだかんだで、ちゃんと見てくれているのが伝わってくるから、悪い気はしない。いい相棒を持ったものだ。――腐ってるけど。

 ……しばらく描いていないが、今度、イラストをメインとした薄い本でも作ってプレゼントしてやるか。ネージュが喜びそうなネタをちょこっと盛り込んで。……"ほどけた靴紐を結んであげる胸板の厚いスパダリ攻め”だな。よしっ。

「じゃあ、行ってくる。いい子で待ってろよ」
 扉を開けようとした瞬間、背中越しにネージュの声が飛んできた。
「帰って来たら、昨日の腐談議の続き、するからな!」
 思わず苦笑が漏れる。
「はいはい。分かったよ」
 ネージュは机の縁で器用に足を組み、レオのお勧めで気に入ったらしい木の実を片翼の先に持ちながら、にやりと笑った。まるでハロウィン前夜にガラス張りの地下シェルターで、ワインを片手に持って椅子に座っていたあの人みたいだ。くちばしの先で羽根を梳くその仕草には、どこか得意げな余裕がある。
 ドアが閉まりかけたそのとき、視界の片隅でネージュの片翼がひらりと動いのが見えた。手を振るようなその仕草が、妙に微笑ましく、胸に残った。

 部屋を後にし、アルチュール、リシャール、ナタンと共に寮の廊下を進む。階段を下りながら交わす会話は、どこか肩の力が抜けた穏やかなものだった。
 校舎にはまだところどころ明かりが灯っていて、日中とは違う、静けさと余韻の混じった空気が漂っている。窓の外に目をやれば、夕暮れに染まった石造りの壁がわずかな残光を受けて淡く輝いていた。まるで、長い時間をその身に刻んできたかのような、どこか懐かしい色合いだ。
 俺たちは、南棟にある倉庫へ向かっていた。アルチュールが、デュボアから受け取ったメモを手に俺の右横を歩く。剣の稽古ができることを待ち遠しく思っているのだろう、足取りが軽い。
 渡り廊下を抜けると、空気が一段とひやりとする。外気が入りやすい構造なのか、それとも時間帯のせいなのか、少し肌寒くさえ感じられた。
 倉庫の手前にある重厚な扉。その上には「管理室」と刻まれた真鍮のプレートが掛けられていた。控えめな光を受けて、くすんだ金色がちらりと光る。

 リシャールがひと呼吸置いてから、ノックを二度、小さく叩いた。
 間もなく、内側からカチリと錠の外れる音がして、重たそうな扉が静かに動く。

 現れたのは、ひどく整った顔立ちの青年だった。年の頃は、二十代後半ぐらいだろうか。静かで表情をたたえているのに、どこか現実離れした空気をまとっている。
 肌は、淡い褐色をしていた。陶磁器に似た滑らかさと、血の通う肉体のぬくもりを感じさせる色彩。その存在がただそこに立っているだけで、自然と目が引き寄せられる。
 肩にかかるほどの柔らかい白金色の髪が、横顔に神秘的な印象を添え、色素の薄い睫毛の奥には、灰青の瞳がのぞいていた。澄んだ水面の静けさと、時間の流れから取り残された深さを宿して――。
 そして、袖口からのぞいた片手の質感が妙に硬質で、関節の動きにもわずかに機械的な癖があった。動きの端々に、かすかにぎこちなさがある。だが、それすらも人形じみた彼の輪郭の中では、ごく自然な違和感として収まっている。
 温度も湿度も感じにくいそのたたずまいは、まるで高級ビスクドールか、完璧に造形された彫刻のようだった。

 ――俺は知らない。
 本編には出てこないキャラクターだ。初めて見るその相手に、不意の戸惑いが胸をよぎる。

「お待ちしておりました、殿下。先ほど、ヴィクターの伝書使クーリエ、ノクスがやって来て事情はうかがっております」
 青年の声は、落ち着き払っていて、深みのある低音だった。その響きには、丁寧ながらもどこか貫禄めいたものがある。

 だが――

 第一寮『サヴォワール』の寮監であるはずのデュボアを、「ヴィクター」と名で呼んだことに、俺はふと引っかかりを覚えた。

 外見だけで見比べると、どう見ても年長であるはずのデュボアを、あえて名前で呼ぶ――それが敬意に欠けているようには感じられなかったのが、かえって妙だ。
 無礼というよりは、古い付き合いがあるのか……、あるいは彼自身が同等か、それ以上の時間を歩んできた者のような、そんな空気がある。

 ……もしかしたら、この人は見た目より、ずっと歳上なのかもしれない。

 そのとき、アルチュールが、一歩前に出た。
「……これを預かってきました」
 言ってから、手にしていたメモを差し出す。青年はそれを丁寧に受け取ると、ちらりと目を通して、小さくうなずいた。
「確かに。内容、拝見いたしました。倉庫は、こちらです」
 青年が身を翻そうとした刹那、リシャールがふいに声をかけた。
「……リュドヴィック・シルヴァン・オベール警備官、学院内では、他の生徒と同じように接してくれないか?」
 青年――オベールは足を止め、肩越しにリシャールを振り返った。
 その灰青の瞳には、一瞬、思案するような静かな色が浮かんだが――すぐに、それを覆うように浅く頭を下げた。
「……分かりました。では、案内しよう。こちらだ」
 その声音は先ほどよりも和らぎ、口調もわずかにくだけていた。
 軽く礼を終えた彼は、今度こそ踵を返すと廊下の先へと歩き出す。
 俺たちは視線を交わし、遅れまいとそのあとに続いた。

 ――リシャールが知っている相手だったのか。

 その事実に、俺は小さく驚きを覚えた。
 王宮には何度も足を運んでいるが、あの名も、あの顔も、セレスタン本体の記憶にもない。
 リシャールが個人的に覚えているほどの人物なら、普通、王家に次ぐ名門コルベール公爵家の嫡男ならば一度くらい顔を合わせていてもおかしくないはずだ。

 だが、リュドヴィック・シルヴァン・オベールは間違いなく、初対面だった。
 その背中を見ながら、俺の中で小さな疑念と好奇心が、静かに息を吹き始めていた。

 まもなく、オベールは何もない壁の前で立ち止まった。装飾も目印もない。ただの石造りの通路の延長――だが、彼はそこをじっと見据えたまま、ゆっくりと右手を掲げる。

「――セーヴル開門
 低く、落ち着いた声が呪文を紡いだ瞬間、空気がふわりと波打った。
 それまでただの石壁にしか見えなかった表面に、薄い光の筋が走る。それはやがて矩形くけいを描き、輪郭をなぞるように淡く発光していく。やがて重たげな金属扉が、静かに姿を現した。
 音ひとつ立てず、扉が横に滑って開いていく。
 中には、細長い木箱が、規則正しく積まれていた。
 それらはいずれも封印の印を受けており、ひと目で貴重な物資だと分かる。
「この中にお望みの物がある」
 オベールがそう言いながら、ひとつの木箱へと近づき、自ら封を解く。蓋をゆっくりと開くと、内部には丁寧に梱包された剣が収められていた。
 その様子を見て、リシャールが先に一歩前に出て中へ入る。続いてアルチュール、そして俺とナタンも倉庫の中へと足を踏み入れた。
 そして、リシャールは箱の中から慎重にひと振りの剣を取り上げ、重みと質感を確かめるように一度手の中で持ち直したあと、すぐ後ろにいたアルチュールに無言でそれを手渡した。
 美しい銀の鍔に、うっすらと青い光がにじんでいる。間違いない、本編にも出てきたエクラ・ダシエの剣だ。
 アルチュールはわずかに驚いたような顔を見せたが、すぐに表情を引き締め、受け取った。
 リシャールが一歩引き、静かに声をかけた。
「……鞘から抜いて、確認してくれ」
 アルチュールはうなずき、慎重な手つきで剣の柄に手をかけた。ゆっくりと引き抜かれた刃は、倉庫内の淡い光を受けて、わずかに青白く輝いた。
 刃の中心を走る細かな紋様は、ただの装飾ではない。魔力の通り道として彫り込まれた、繊細な術式の流線だ。
「……すごいな」
 思わず、アルチュールの口から感嘆の声が漏れた。彼は剣を軽く振ってみせ、その感触を確かめるようにもう一度構え直す。
 そのまま自然な動きで、左の袖口をまくり自分の腕に刃を添えた。
「おい、アルチュ……」
 ナタンが驚いたように声を上げかけたその瞬間、皮膚に触れた刃がふわりと白い霧のように掻き消えた。
 血は出ない。肉も骨も傷ついてはいない。
 俺は声に出すのをこらえながら、心の中でひそかに叫んだ。

 ――やばい、本物だ。完全に再現されてる……!

 感動と興奮がないまぜになって胸の奥で爆ぜる。
 アルチュールは至極冷静に、剣をもう一度鞘に収めた。
 何事もなかったようにリシャールへ視線を流す彼を見て、俺は改めて思った。

 剣を持つ推しが、最高すぎて震える!
 いやもう、好き。無理。ありがとう。冷静沈着な顔して、躊躇いなくあんなもの自分の腕に当てるとか、それでいて微塵も動揺せず、ちゃんと効果を確認して、さっと収めるとか、そんなの……沼しかないだろ。あ゛あ゛あ゛あ゛、この沼、深いーーっ!

 直立不動、体は微動だにせず、外側の顔は至って冷静なまま。表情筋ひとつ動かさず、内心だけで大爆発していた俺のすぐ隣で、リシャールが静かに言った。
「気に入ったか?」
 アルチュールは小さく首肯し、改めて手の中の剣を見つめる。
「……すばらしいな。……この霧散の効果、精度が高すぎる」
 その言葉に、リシャールはわずかに口角を上げた。そして、背後に控えていたオベールをちらりと見やり、ひとこと。
「――だそうだ」
 唐突な言葉に、俺もナタンも、思わずオベールの方へ視線を向けた。アルチュールも少しだけ戸惑ったように眉を寄せる。
「……え? 『だそうだ』って……?」
 ナタンが首をかしげながら尋ねたそのとき、リシャールがさらりと続ける。
「この剣の設計者は、彼だ。リュドヴィック・シルヴァン・オベール。魔道具技師としての正式な資格も持っている」

 言葉を失う俺たちを前に、オベールはとりたてて得意げになるでもなく、ただ静かに口を開いた。
「……学院の警備任務の傍ら、必要に応じてこうした設計や調整も任されている。そもちろん、鍛造たんぞうそのものは専門の職人が手掛けているが……、この剣は、から頼まれて、俺が設計し、仕上げたものだ」
 警備官としても有能そうだったのに、技術職としても一流とか、いったいどれだけハイスペックなんだ?
 ――というか、

「ルシ、アン……?」

 思わず声に出してしまった。
 第三寮『ソルスティス』の寮監を? あのヴィクター・デュボアすら視線だけで黙らせられるルシアン・ボンシャンを? まさかの呼び捨て!?
 俺が目を見開くと、ナタンも同じような顔をしていた。
 そんな俺たちをよそに、オベールは表情一つ変えず、淡々と続ける。
「俺とルシアンは、学院時代の同期だ」
 あまりにもさらりと告げられたその事実に、思わず言葉を失った。

 いや、ちょっと待って。同期? あのボンシャンと?
 じゃあつまり……ほぼ同い年?
 いやいやいや、ルシアン・ボンシャンは、見た目は三十代前半だが、実年齢、五十代後半だぞ?

 この学院に飛び級で入学する者はいない。杖の代わりに掌に刻むベネン魔法陣の加護を受けられるは、十八歳以上。遅れて入学する留学生も居るけれど、それにしたって外見だけで見ると、どう考えても計算が合わない。

「なんだ、興味津々といった顔をしているな? 君たちに時間があるなら話してやるが、急いでいるんだろ? ならば、あとで殿下から聞けばいい。隠すようなことでもないからな」
 そう言って、オベールは軽くため息をつき、右の袖口に指をかけると迷いなくシャツの袖を肘までまくり上げ、左手でその腕をそっと撫でるように確認してから、爪先でコンコンと小さく叩いた。

 ――乾いた音が、空気を裂くように響く。

 人の肌ではありえない、それはまるで陶磁器を叩いたような、鈍くも硬質な音だった。
 見えている腕の表面は滑らかで、血管も産毛もない。ひと目でわかる。そこにあるのは“生身の人間の腕”ではなかった。
 音と質感、その異質さが、言葉以上に雄弁に語っていた。

 ――そんなものを見せられて、「あとで殿下に聞け」と言われても。
 いや、今、本人がここにいて語る意思があるのなら、どうしたって直ぐに事情を知りたくなる。
 とはいえ……。

 俺はちらりと、隣にいるアルチュールを見た。
 剣を手にしてからの彼は、明らかに高揚していた。一刻も早く実際に振って、感触を確かめたがっているのが見て取れる。稽古場での実戦的な確認を、今すぐにでも始めたいのだろう。それもよくわかる。
 だから、彼が「先にホールへ行こう」と言えば、俺は迷わず従うつもりだった。
 だが――、
 アルチュールは、ただじっと、オベールの腕を見つめていた。
 普段は冷静沈着なその瞳が、わずかに揺れている。興味でも、同情でもない。そこには、純粋な驚きと、理解しようとする意志があった。

「アルチュール?」小さく呼びかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。「……話、聞いてもいいかな」
 俺の問いかけに、彼はほんの一拍だけ間を置き、すっと頷いた。
 それを確認したリシャール殿下が、わずかに口元を和らげながら言葉を継いだ。
「オベール、可能な範囲で構わない」
 リシャールに促されたオベールは、少しだけ目線を落とし、淡々と――けれど少しだけ、感情の温度を下げた声で語りはじめた。

「約四十年前の事故で、俺は片腕と両足の膝から下を失った。当時、ボンシャンと……いや、ルシアンと、俺は常に競い合っていた。いや、競っていたと思っていたのは、俺だけか……。最初から、同じ土俵に立てていなかったのかもしれない。それでもなお、勝てると信じていたんだ、愚かにも。……俺は、あいつのことが嫌いで嫌いで仕方なかったよ。何をやらせても俺より上で、しかもそれを当然のような顔で受け流す。鼻についた。だからこそ、俺のほうが先に、複合術式の応用理論を実現させようと必死だった。焦っていたんだ。どうしても、あいつより先に完成させたくて」わずかに唇を歪め、オベールは言葉を続ける。「当時、俺は学院の地下室を借りて、毎晩のように実験を繰り返していた。教師の目を盗みながらな。危険な術式を試すには、そこが一番都合がよかった。結果、術式の暴走を止めきれなかった。爆発が起きる直前、障壁を張ろうとしたが……遅かった。俺はルシアンのように、種類の異なる魔法を同時に使えるわけじゃないからな。手が回らなかった。防御も、制御も、全部中途半端で終わった。結局、爆発に巻き込まれて、意識が飛んで……気がついたときには自分の体の一部がなくなっていた。胸のあたりから上は奇跡的に無事だったが、他はもう、ほとんど使いものにならなかった。そのあと、直ぐに駆け付けて俺を見つけたのはルシアンだった。まだ動いていた心臓と脳と、いくつかの内臓を残してあとは衝撃で体内で破裂だ。……それでもあいつは、俺を“生かす”って言ったんだ。俺の体の欠損部分は、ルシアンの土魔法によって造形された。精緻な粘土細工のように、術式を封じ込めて形を保つアルケ・ビスク魔導保存細工の応用だ。しかも……内臓のいくつかは、ルシアンが自分のものを魔法で取り出して分け与えた。魔術的な移植……いや、“供与”に近いかもしれない。彼の魔力と一体化した臓器を、俺の体に宿すことで、俺の命をつないだ」

 ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
 それは恐ろしい話だった。でも同時に――それ以上に、ボンシャンのオベールに対する凄まじいほどの執念と執着を感じた。

「それ以降、俺の体の時間はほとんど止まったままだ。術式と土魔法によって保存され、老いもしない。ルシアンは……そういう魔法を、当時からあっさり使いこなしていた。――いや、実行に移したのは、あれが初めてだと言っていたな」
 息を呑んだのは、俺だけじゃなかった。
 ナタンもアルチュールも、何も言えずにただその話を聞いていた。
 オベールは淡々と語っていたけれど、その背後にあるもの――あのボンシャンという男の、恐ろしいまでの知識と技術、そして覚悟の深さに、全員が圧倒されていた。
「……だから俺は、生きている。ルシアンが、俺を“完成させて”くれたからだ」言い終えたオベールは、しばらく沈黙したあと、わずかに肩を竦めた。「……そりゃ、頭が上がらないよ。あいつには。生き方も、死に方も、全部ひっくるめて背負われたようなもんだ。俺にできることがあるとすれば、あいつが託したものを、黙って果たしていくだけだ。学院に残れと言われれば、残る。何かを作れと頼まれれば、黙って作る。それが俺に残された、生の使い道だと思ってる。それでも……、俺は今でもあいつが大嫌いだ。心から嫌いだ。たぶん、一生そうだろうな」彼はわずかに目を伏せ、皮膚の代わりに焼き物のような質感をもつ自らの手を見下ろした。「毎日、この腕や足を見るたびに思い知らされるんだよ。自分の体が、他人の手で、他人の技術で形作られてるってことを。――俺は、どうやったって、あいつには敵わない。勝てる日は来ない」
 その言葉には、押し殺された悔しさのようなものも滲んでいた。
 ただの恩ではない。ただの憧れでも、尊敬でもない。
 もっと複雑で、もっと拗れた感情が、その決意の下に静かに折り重なっていた。

「――なあ、焦るなよ」そこからふいに視線を上げ、オベールは俺たちを順に見渡す。「いま、自分にできないことを無理にやるな。少しずつ、積み上げればいい。時間がかかってもいい。身体でも、心でも、術でも、……鍛錬ってのは、そういうもんだ」
 その声音に、説教じみた響きは一切なかった。ただ、自身の痛みを経た者だけが口にできる、静かな重みがあった。

 倉庫で剣を受け取ったあと、俺たちは寮のホールへと向かって歩き始めた。

「……重みのある言葉だったな」と、アルチュールが低く呟き、ナタンが小さく頷いた。「正直、あんな話が聞けるとは思っていなかった」
 誰もが少なからず胸を衝かれたような表情を浮かべていた。オベールの語り口は穏やかだったが、だからこそ、なおさら一言一言が響いたのだ。
 しばし沈黙のあと、リシャールが歩を緩めずに言った。
「概要は聞いていた。事故に巻き込まれて、ボンシャンに救われたということまでは……」ひと呼吸置いて、言葉を継ぐ。「だが、ここまで具体的に、それも当人の口から語られるとは思わなかった。リュドヴィック・シルヴァン・オベール警備官は学院のあの部屋に籠もっていることが多い。私でさえ今までは、まともに顔を合わせるのは年に一度か二度あるかどうかだ」

 それを聞いて、俺はようやく合点がいった。
 本編には、彼の名前も姿も登場していなかった。
 日常的に姿を見かける機会のない人物ならば、セレスタン・ギレヌ・コルベールの記憶にも、オベールの存在がなかったわけだ。

 その思考の途上で、ふと、胸元にさがる重みを感じて俺は奇石の存在を思い出した。

 そういえば、倉庫に入る前から通信状態のままにしていたのだった。

 剣の受け取りに集中していたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。慌てて手を添え、そっとストーン・ホルダーを覆うようにして耳元に近づける。
 すると、かすかに、しかし絶え間なく石の内側から音が漏れ聞こえてきた。

 ――カタカタカタカタカタカタカタ……。

「………………」
 どうやらネージュの寝床と思われるバスケットの揺れる連続音に混じって、鼻声と、しゃくり上げるような泣き声が交互に響いている。

《ううう……っ、なに、もう、むり……やばい、これ、尊死案件……っ》
 籠の中で、片翼の先を胸に当て、泣き崩れているらしいネージュの姿が容易に想像できた。

 ――カタカタカタカタカタカタカタ……。

《無理むりむり、あんなの聞かされたら生きて帰れない……、え、帰る? ここ、俺のおうちじゃねえか。もうてんぱりすぎ。でも保存……保存は……録音保存ッ、ちょ、録音、録音どこ!? そんな機能、ねぇぇえ!? ああああ保存できてないの罪すぎるうぅぅ! ねぇやだ、ほんと無理、なんでよりによってそんな嫌いなやつに体つくられてんの!? 内臓が、ボンシャン由来!? やだやだやだ、しんどい、嫌いっ、大嫌いっ、て言いつつ、なんなのあの人、きっとボンシャンが微笑んだだけでオベールの世界の彩度が上がるに違いないボンシャン! やだ、語尾がボンシャン。ヤバイ。無理。しんどい。二人とも顔が良すぎる罪で逮捕されてほしい……、奇石からは見えないけど、オベール、イケメンに違いない。ボンシャンが生きてる限りずっと見守ってるんだよ。でも、嫌いっ。大嫌いっ。……ふたりのあの距離感ッ! お前ら何年越しの感情抱えてんだよォォォおおおおッ!! 拗らせすぎぃぃ、あぁもう無理、尊死、いや、既に俺、召されてるわ》

 嗚咽まじりのひとり芝居が、どうやら机に置きっぱなしになっているバスケットの中で展開されているようだ。
 おそらく、あの小さな肩を震わせながら、涙と鼻水と興奮を入り混ぜた顔で寝床に突っ伏して震えているのだろう。


 ――拝啓、綾ちゃん。
 伊丹トキヤ兄ちゃんは、そちらの世界にいたとき、こんなふうに感情の濁流に翻弄されていましたか?
 遠く離れたこの地で、己ではない誰かがこうして自分の内側をさらけ出し、もがき、泣き、そして萌え死にそうになっている様子を知ることで、初めて自分という存在の輪郭がくっきりと浮かび上がるような気がします。

 他者の熱量や苦悩を目の当たりにして、己の内面を見つめ直すことができるのです。

 その意味で、ネージュのことは、今の自分にとっても、これからの自分にとっても、なにかの糧になるのかもしれない――、

 ……なんのか、これ? まあいいや。と、静かに胸に刻んだ。

 ……あー、通信音量を最小にしておいて、本当によかったぁー。

 音声制御の呪文を含め、『ドメーヌ・ル・ワンジェ王国の薔薇 金のきみと黒の騎士』本編に登場する全ての呪文を暗記していたかつての自分に感謝だ。
 うっかり音声最大のままだったら――あのネージュの腐った独白を公開する羽目になっていたかと思うと、冷や汗が出る。
 まあ、もうネージュが喋れることは、アルチュールを筆頭に関係者全員が知っているけど――まだネージュは片言しか話せないフリしてるし、こんな内容なんて聞かせられない。

 いまだ、カタカタカタカタカタカタカタカタ――と小刻みに音を漏らす奇石を、そっと手で押さえながら、俺は体操着の襟に指を差し入れ、胸元の内側へ滑り込ませた。
 できるだけ肌に密着させるように押し当てると、音が幾分か和らいだ気がした。

 ネージュの情緒が落ち着くまでのあいだ、少しでも隠してやるのが、せめてもの配慮――いや、正直に言えば、俺のためだ。こんな内容、聞かれたくなさすぎる。

 そっと息を吐き、心の中でネージュの回復と理性の帰還を祈る。
 奇石を押さえる指先に意識を集中しながらも、俺は歩みを止めることなく、寮のホールへと向かっていた。

 ……あとで、ネージュにオベールのイラストでも描いてやるか。あの二人の関係性にひとりで盛大に悶えてる様子を見ると、手間はかかるが、まあ、描きがいはある。

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