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28話(※)~古代遺跡~
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~古代遺跡~
ロジェの背中が石の列柱の向こうに消えると、急にあたりが静かになったような気がした。
風が、崩れかけた柱の隙間を抜けていく。
俺とアルチュールは、しばらくそこで無言のまま立ち尽くしていた。
どちらから話しかければいいのか分からず、石畳を見つめていると、横から穏やかな声が落ちてきた。
「……本当に、大丈夫なんだな?」
その言葉に顔を上げる。アルチュールはまっすぐこちらを見ていた。
真剣で、どこか確かめるような目だ。
「ああ。平気だ」
「よかった……」安堵の声。「昨日、あの時……、何もできなかった自分が悔しかった……。あの眼帯騎士は自らおとりになってセレスを守ったのに、俺は、担当騎士に守られる立場で――戻ってくれと言っても聞き入れられず……くそっ」
言葉の終わりと同時に、アルチュールの拳が強く握られた。指の関節が白く浮き上がるほど力がこもっている。
「それは仕方ない。俺たちは学生だ。守られる立場なのは当然だし、責めることなんて何もない。あのときは、集団行動を乱したり騎士や他の誰かを危険に晒すことのほうが問題だった。俺のやったことは、よっぽど間違っている」
そう言いながら、俺は彼の顔を見つめた。握り締めていた拳は微かに指の力が抜けているものの、まだ多少、眉間に皺が残っている。
見ていると、何かしてやりたくなった。
「……なあ、ちょっと、歩かないか?」
アルチュールは頷き、静かに並んで歩き出した。
崩れた石畳の上を踏みしめる足音が、静かな遺跡に溶けていく。
やがて視界の先に、長いアーチ形の回廊が現れた。
「……すごいな」思わず声が漏れる。「中に入ろう」
「ああ」
幾重にも重なる影が、まるで時間そのものを刻んでいるようだ。
息をのむような空間に、アルチュールも一歩一歩を確かめるように歩みを進めた。
直後、ふとした瞬間に互いの指先が触れる。
そのわずかなぬくもりが、胸の奥に静かな波紋を広げた。
俺は、ためらうように、けれど自然な動きでアルチュールの指に自分の指を絡めた。
彼も、驚いたように一度まばたきをしてから、ゆっくりと握り返してくる。
それから、俺たちは足を止めた。
「セレス……」
アルチュールが小さく声をひそめる。
「ん?」
俺が横を向くと、彼は少し俯き、そのあと顔を上げて言った。
「俺は、騎士を目指すことにした。勿論、この学院に来た最初の目的も、忘れていない。けれど、自分の力で、セレスを守りたい。お前のほうが剣の腕はまだ上だが……近いうちに、絶対に勝ってやる」
「じゃあ、俺も益々腕を磨くよ。あとな……、俺は、守られるだけじゃいやなんだ。俺も、お前を守りたいと思っていることを覚えておいてくれ。ちゃんと、頼って欲しいと思っている。そして、ノアールの復活を、手伝わせてほしい」
そう言いながら、俺はそっとアルチュールとの距離を狭め、彼の肩に額を預けた。
アルチュールは一瞬、息を止めるように固まった。
胸の奥で、戸惑いと動揺が混ざっているのだろう。
「セレス……こんなことをされたら、俺はひどく勘違いしてしまう」
小さな声だが、そこには正直な困惑が滲んでいた。
俺は少し口角を持ち上げながら、額を彼の肩に押し当てたまま言う。
「それは、勘違いじゃないと思う」
そのまま、俺は静かに目を閉じた。
彼の体温が、じわりと額越しに伝わってくる。
心臓の鼓動が、触れ合った部分から互いに伝わり合うようで――どちらの音なのか、もう分からなかった。
しばらくの沈黙のあと、アルチュールが小さく息を吸った。
「……セレス」
呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に鋭いが優しい瞳があった。
深い碧を帯びた黒い虹彩に、陽光が反射して揺れている。
その眼差しはまるで猛禽のように真っすぐで、けれど獲物を狙うような冷たさではなく守りたいものを見つめる強さを宿していた。
――ああ、本当に、いい男だな。
思わず、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。
ネージュ、お前の言う通りだったよ。
ごちゃ混ぜだった感情が、どうやら一つに纏まってしまったようだ。逃げっぱなしではいられない。俺は、無理・しんどいラインを突破したらしい。
ごめんな、元のセレスタン。本当にごめん。
一瞬、お前のことを考えて、もしかしたら原作通り、俺はルクレールを選ぶのが正しいんじゃないかと思ったんだ。実際、本音を言えば彼のことは嫌いじゃない。あんなに大胆で自由奔放で、しかもあんなに強い男から「お前に会いに来た」と言われれば、俺の心だって揺れる。しかも、俺のために命を投げ出すことに、ほんの少しの迷いも見せなかった。それがたとえ、騎士としての使命だったとしても、惹かれないわけがない。
彼を選んだら……、俺は大切に甘やかされて、そばに居るときは片時も離れず、とても幸せになれるんだろう。目を離せば不安になるほどに彼は俺を愛し、きっと、溺れるように抱きしめてくれる。
けれど――、
彼に告白されたとき、俺の頭に浮かんだのはアルチュールだった。
あの瞬間に、もう答えは出ていたんだと思う。
俺は、この男が欲しい。欲しくてたまらない。
次の瞬間、アルチュールの瞳の奥がふっと揺れ、彼の手が俺の頬をやさしく包む。
距離が、ゆっくりと、けれど確実に縮まっていく。
息が触れるほどの近さで、俺はかすかに笑った。
その瞬間だった。
彼の唇が、噛みつくように俺の唇を塞いだ。
驚きよりも先に、体の芯が震えた。
火の精霊に祝福されたかのような熱が、唇から喉、胸の奥へと染みていく。
彼の指が、頬から耳の後ろへと滑り、優しく髪を撫でた。
息を吸うたびに、陽の当たる石の匂いと、燃えた木の香りが混ざったような――懐かしくて、どこか切ない匂いがした。
離れ際、ほんの一瞬、唇が名残惜しそうに触れ合った。
アルチュールは息を乱しながら小さく囁く。
「……セレス」
俺は微笑み、首を縦に振った。
そのすぐ横に、回廊の影へと続く細い通路が見えた。
俺は彼の手を取って、静かに誘う。
「……こっち」
細い通路の奥は、ほとんど陽の届かない薄暗い空間だった。
崩れた石壁が互いに寄り添うように傾いて、そこだけ外の喧騒がまるで届かない。
ふたりの呼吸だけが、空気を震わせている。
手を引かれるままにアルチュールが一歩踏み込む。
壁際まで下がった俺の背中が、冷たい石に触れた。
その瞬間、彼の両腕が俺を囲んだ。
至近距離で見つめると、アルチュールの瞳は光を吸い込んだように暗く、けれど底に熱を孕んでいる。
「……セレス」
低く、かすれた声。
返事をしようとした唇を、再び塞がれた。
今度は先ほどとは違う。迷いも、なにもない。
唇が深く重なり、息が混ざる。
名を呼びたいのに、そんな隙すら与えてくれない。
彼の指先が頬から首筋へ滑り、腰を掴んだ手が、服の上から俺を抱き締める。
胸の奥が焼けるように痛む。その痛みさえも、心地いい。溶けてしまいそうだ。
俺は、アルチュールの頭を掻き抱いた。
指先が、彼の髪を束ねていた紐に触れる。俺が使っていたものだ。そう考えた瞬間、また心臓が跳ねた。
愛しい。
こんなにも誰かを想うことが、幸福そのものだなんて、知らなかった。
世界の輪郭がぼやけて、互いの体温だけが鮮明になる。
唇が離れ、また唇が重なる。
どちらからともなく身体を寄せ、押し寄せる波のように熱が高まっていく。
石壁が背中を冷やし、その冷たさがかえって彼の体温を際立たせる。
肩で呼吸をする音が交わる。やがて、彼がゆっくりと唇を放す。
アルチュールの額が俺の額に触れ、しばらく二人とも何も言わなかった。
ほんの少しして、彼が囁くように言った。
「……好きだ、セレス」
俺は笑って、彼の胸に指を押し当てた。
「キスする前に言えよ」
そう言うと、彼も微かに笑って、もう一度唇を重ねてきた。
風が崩れた回廊の隙間を抜けて、ほんの一瞬だけ二人の髪を揺らす。
そのとき、野営地のほうからラッパの音が響いた。
出立準備の合図だ。
「行かないと……」
まだ鼻先が触れあっている相手に名残を断ち切るようそう呟くと、アルチュールが目を細めて頷いた。
「ああ……」
崩れた柱の間を抜ける陽が少しずつ昇り始めていた。
指先を繋いだまま、冷えた空気の中に残る互いの体温を確かめるように、しばらく無言のまま俺たちは並んで歩いた。
やがて野営地が見えてくる。
アルチュールは歩調を緩め、ちらりと俺の顔を覗き込む。
「やっぱり、救護テントまで送る」
「大丈夫だ」俺は軽く笑って首を振る。「ちゃんともう平気だから。……アルチュールは自分の班に戻れ。出発の準備があるだろ。それに、担当のデュボア寮監には剣の稽古場も借りている。彼に面倒はかけられない」
アルチュールはまだ何か言いたげに唇を開いたが、結局、諦めたように息を吐いた。
「……わかった。あとでまた砦で会おう」
「ああ」
互いに短く頷き合い、そこで道を分かれた。
野営地に戻ると、すでに撤収の気配が満ちていた。
焚き火の跡は土をかぶせられ、騎士たちが淡々とテントを解体している。
帆布が折り畳まれ、支柱が抜かれ、矢を入れる箙に似た細長い筒状の拡張袋へと吸い込まれていくたびに、ここにあった小さな街が音もなく消えていくようだった。
救護テントの前では、数人の騎士とロジェが手際よく作業を進めていた。
彼は俺を見付けるとすぐに椅子の上に置かれていた俺の革袋を手に取り、歩み寄ってくる。
「お帰り、セレス。表面に付いていた塩水の汚れも落としておいた」
「ほんとだ。ありがとう」
受け取った革袋は、まるで新品のように滑らかで、手に吸い付くような質感だった。
その細やかな気配りに、ロジェにはきっと妹か弟がいるのだろう……、とふと思った。
「――で、黒髪の彼とはいい話、できたか?」
からかうような声に、「えっ」と、思わず言葉を詰まらせる。
無言のまま、頬のあたりがじんわりと熱を帯びていく。
ロジェは俺のそんな様子ににやりと笑い、「図星か。まったく、若いってのはいいな。……恋せよ若人、ってやつだな」と小声でつぶやいた。
「ロ、ロジェだって若いじゃないですか」
「俺か? ……あー、俺はそういうのは向いてないんだ」
そう言ってロジェは軽く息を吐いてから、ぽん、と俺の頭に手を置いた。
大きな掌が髪を優しくかき混ぜる。笑っているのに、瞳の奥に微かな陰が差したように見えた。
背後では、解体の音が次々と重なっていく。
「さて、生徒はそれぞれ自分のヴァルカリオンのところで待機だ。ここが片付いたらすぐに発つぞ」
「……了解」
「先に行って、パイパーのところで待っていてくれ。朝の点検で顔を合わせたら、あいつ、セレスじゃないのかって顔でしょんぼりして、鼻をひっかけてきやがったからな」
軽く肩を叩かれ、俺は思わず笑いながら頷いた。
ロジェは小さく息を整えると、踵を返し、指示を飛ばしながら作業に戻った。
その背中を見送り、俺は革袋を腰に付け、パイパーのいる場所へ向かう。
厩舎の解体もすでに終わっており、ヴァルカリオンたちは、来たとき同様、それぞれの主である騎士の属性に合わせて整列していた。
周囲の空気の中には鞍の革の匂いと、グリフォン隊の翼を広げる風圧の音が混ざっている。
パイパーは俺を見つけると、小さく鳴いて首を振った。
「おはよう、パイパー」
その額を撫でると、ひときわ明るい鳴き声が返ってくる。
その瞬間、背後から軽い足音が近づいてきて聞き慣れた声がした。
ロジェの背中が石の列柱の向こうに消えると、急にあたりが静かになったような気がした。
風が、崩れかけた柱の隙間を抜けていく。
俺とアルチュールは、しばらくそこで無言のまま立ち尽くしていた。
どちらから話しかければいいのか分からず、石畳を見つめていると、横から穏やかな声が落ちてきた。
「……本当に、大丈夫なんだな?」
その言葉に顔を上げる。アルチュールはまっすぐこちらを見ていた。
真剣で、どこか確かめるような目だ。
「ああ。平気だ」
「よかった……」安堵の声。「昨日、あの時……、何もできなかった自分が悔しかった……。あの眼帯騎士は自らおとりになってセレスを守ったのに、俺は、担当騎士に守られる立場で――戻ってくれと言っても聞き入れられず……くそっ」
言葉の終わりと同時に、アルチュールの拳が強く握られた。指の関節が白く浮き上がるほど力がこもっている。
「それは仕方ない。俺たちは学生だ。守られる立場なのは当然だし、責めることなんて何もない。あのときは、集団行動を乱したり騎士や他の誰かを危険に晒すことのほうが問題だった。俺のやったことは、よっぽど間違っている」
そう言いながら、俺は彼の顔を見つめた。握り締めていた拳は微かに指の力が抜けているものの、まだ多少、眉間に皺が残っている。
見ていると、何かしてやりたくなった。
「……なあ、ちょっと、歩かないか?」
アルチュールは頷き、静かに並んで歩き出した。
崩れた石畳の上を踏みしめる足音が、静かな遺跡に溶けていく。
やがて視界の先に、長いアーチ形の回廊が現れた。
「……すごいな」思わず声が漏れる。「中に入ろう」
「ああ」
幾重にも重なる影が、まるで時間そのものを刻んでいるようだ。
息をのむような空間に、アルチュールも一歩一歩を確かめるように歩みを進めた。
直後、ふとした瞬間に互いの指先が触れる。
そのわずかなぬくもりが、胸の奥に静かな波紋を広げた。
俺は、ためらうように、けれど自然な動きでアルチュールの指に自分の指を絡めた。
彼も、驚いたように一度まばたきをしてから、ゆっくりと握り返してくる。
それから、俺たちは足を止めた。
「セレス……」
アルチュールが小さく声をひそめる。
「ん?」
俺が横を向くと、彼は少し俯き、そのあと顔を上げて言った。
「俺は、騎士を目指すことにした。勿論、この学院に来た最初の目的も、忘れていない。けれど、自分の力で、セレスを守りたい。お前のほうが剣の腕はまだ上だが……近いうちに、絶対に勝ってやる」
「じゃあ、俺も益々腕を磨くよ。あとな……、俺は、守られるだけじゃいやなんだ。俺も、お前を守りたいと思っていることを覚えておいてくれ。ちゃんと、頼って欲しいと思っている。そして、ノアールの復活を、手伝わせてほしい」
そう言いながら、俺はそっとアルチュールとの距離を狭め、彼の肩に額を預けた。
アルチュールは一瞬、息を止めるように固まった。
胸の奥で、戸惑いと動揺が混ざっているのだろう。
「セレス……こんなことをされたら、俺はひどく勘違いしてしまう」
小さな声だが、そこには正直な困惑が滲んでいた。
俺は少し口角を持ち上げながら、額を彼の肩に押し当てたまま言う。
「それは、勘違いじゃないと思う」
そのまま、俺は静かに目を閉じた。
彼の体温が、じわりと額越しに伝わってくる。
心臓の鼓動が、触れ合った部分から互いに伝わり合うようで――どちらの音なのか、もう分からなかった。
しばらくの沈黙のあと、アルチュールが小さく息を吸った。
「……セレス」
呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に鋭いが優しい瞳があった。
深い碧を帯びた黒い虹彩に、陽光が反射して揺れている。
その眼差しはまるで猛禽のように真っすぐで、けれど獲物を狙うような冷たさではなく守りたいものを見つめる強さを宿していた。
――ああ、本当に、いい男だな。
思わず、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。
ネージュ、お前の言う通りだったよ。
ごちゃ混ぜだった感情が、どうやら一つに纏まってしまったようだ。逃げっぱなしではいられない。俺は、無理・しんどいラインを突破したらしい。
ごめんな、元のセレスタン。本当にごめん。
一瞬、お前のことを考えて、もしかしたら原作通り、俺はルクレールを選ぶのが正しいんじゃないかと思ったんだ。実際、本音を言えば彼のことは嫌いじゃない。あんなに大胆で自由奔放で、しかもあんなに強い男から「お前に会いに来た」と言われれば、俺の心だって揺れる。しかも、俺のために命を投げ出すことに、ほんの少しの迷いも見せなかった。それがたとえ、騎士としての使命だったとしても、惹かれないわけがない。
彼を選んだら……、俺は大切に甘やかされて、そばに居るときは片時も離れず、とても幸せになれるんだろう。目を離せば不安になるほどに彼は俺を愛し、きっと、溺れるように抱きしめてくれる。
けれど――、
彼に告白されたとき、俺の頭に浮かんだのはアルチュールだった。
あの瞬間に、もう答えは出ていたんだと思う。
俺は、この男が欲しい。欲しくてたまらない。
次の瞬間、アルチュールの瞳の奥がふっと揺れ、彼の手が俺の頬をやさしく包む。
距離が、ゆっくりと、けれど確実に縮まっていく。
息が触れるほどの近さで、俺はかすかに笑った。
その瞬間だった。
彼の唇が、噛みつくように俺の唇を塞いだ。
驚きよりも先に、体の芯が震えた。
火の精霊に祝福されたかのような熱が、唇から喉、胸の奥へと染みていく。
彼の指が、頬から耳の後ろへと滑り、優しく髪を撫でた。
息を吸うたびに、陽の当たる石の匂いと、燃えた木の香りが混ざったような――懐かしくて、どこか切ない匂いがした。
離れ際、ほんの一瞬、唇が名残惜しそうに触れ合った。
アルチュールは息を乱しながら小さく囁く。
「……セレス」
俺は微笑み、首を縦に振った。
そのすぐ横に、回廊の影へと続く細い通路が見えた。
俺は彼の手を取って、静かに誘う。
「……こっち」
細い通路の奥は、ほとんど陽の届かない薄暗い空間だった。
崩れた石壁が互いに寄り添うように傾いて、そこだけ外の喧騒がまるで届かない。
ふたりの呼吸だけが、空気を震わせている。
手を引かれるままにアルチュールが一歩踏み込む。
壁際まで下がった俺の背中が、冷たい石に触れた。
その瞬間、彼の両腕が俺を囲んだ。
至近距離で見つめると、アルチュールの瞳は光を吸い込んだように暗く、けれど底に熱を孕んでいる。
「……セレス」
低く、かすれた声。
返事をしようとした唇を、再び塞がれた。
今度は先ほどとは違う。迷いも、なにもない。
唇が深く重なり、息が混ざる。
名を呼びたいのに、そんな隙すら与えてくれない。
彼の指先が頬から首筋へ滑り、腰を掴んだ手が、服の上から俺を抱き締める。
胸の奥が焼けるように痛む。その痛みさえも、心地いい。溶けてしまいそうだ。
俺は、アルチュールの頭を掻き抱いた。
指先が、彼の髪を束ねていた紐に触れる。俺が使っていたものだ。そう考えた瞬間、また心臓が跳ねた。
愛しい。
こんなにも誰かを想うことが、幸福そのものだなんて、知らなかった。
世界の輪郭がぼやけて、互いの体温だけが鮮明になる。
唇が離れ、また唇が重なる。
どちらからともなく身体を寄せ、押し寄せる波のように熱が高まっていく。
石壁が背中を冷やし、その冷たさがかえって彼の体温を際立たせる。
肩で呼吸をする音が交わる。やがて、彼がゆっくりと唇を放す。
アルチュールの額が俺の額に触れ、しばらく二人とも何も言わなかった。
ほんの少しして、彼が囁くように言った。
「……好きだ、セレス」
俺は笑って、彼の胸に指を押し当てた。
「キスする前に言えよ」
そう言うと、彼も微かに笑って、もう一度唇を重ねてきた。
風が崩れた回廊の隙間を抜けて、ほんの一瞬だけ二人の髪を揺らす。
そのとき、野営地のほうからラッパの音が響いた。
出立準備の合図だ。
「行かないと……」
まだ鼻先が触れあっている相手に名残を断ち切るようそう呟くと、アルチュールが目を細めて頷いた。
「ああ……」
崩れた柱の間を抜ける陽が少しずつ昇り始めていた。
指先を繋いだまま、冷えた空気の中に残る互いの体温を確かめるように、しばらく無言のまま俺たちは並んで歩いた。
やがて野営地が見えてくる。
アルチュールは歩調を緩め、ちらりと俺の顔を覗き込む。
「やっぱり、救護テントまで送る」
「大丈夫だ」俺は軽く笑って首を振る。「ちゃんともう平気だから。……アルチュールは自分の班に戻れ。出発の準備があるだろ。それに、担当のデュボア寮監には剣の稽古場も借りている。彼に面倒はかけられない」
アルチュールはまだ何か言いたげに唇を開いたが、結局、諦めたように息を吐いた。
「……わかった。あとでまた砦で会おう」
「ああ」
互いに短く頷き合い、そこで道を分かれた。
野営地に戻ると、すでに撤収の気配が満ちていた。
焚き火の跡は土をかぶせられ、騎士たちが淡々とテントを解体している。
帆布が折り畳まれ、支柱が抜かれ、矢を入れる箙に似た細長い筒状の拡張袋へと吸い込まれていくたびに、ここにあった小さな街が音もなく消えていくようだった。
救護テントの前では、数人の騎士とロジェが手際よく作業を進めていた。
彼は俺を見付けるとすぐに椅子の上に置かれていた俺の革袋を手に取り、歩み寄ってくる。
「お帰り、セレス。表面に付いていた塩水の汚れも落としておいた」
「ほんとだ。ありがとう」
受け取った革袋は、まるで新品のように滑らかで、手に吸い付くような質感だった。
その細やかな気配りに、ロジェにはきっと妹か弟がいるのだろう……、とふと思った。
「――で、黒髪の彼とはいい話、できたか?」
からかうような声に、「えっ」と、思わず言葉を詰まらせる。
無言のまま、頬のあたりがじんわりと熱を帯びていく。
ロジェは俺のそんな様子ににやりと笑い、「図星か。まったく、若いってのはいいな。……恋せよ若人、ってやつだな」と小声でつぶやいた。
「ロ、ロジェだって若いじゃないですか」
「俺か? ……あー、俺はそういうのは向いてないんだ」
そう言ってロジェは軽く息を吐いてから、ぽん、と俺の頭に手を置いた。
大きな掌が髪を優しくかき混ぜる。笑っているのに、瞳の奥に微かな陰が差したように見えた。
背後では、解体の音が次々と重なっていく。
「さて、生徒はそれぞれ自分のヴァルカリオンのところで待機だ。ここが片付いたらすぐに発つぞ」
「……了解」
「先に行って、パイパーのところで待っていてくれ。朝の点検で顔を合わせたら、あいつ、セレスじゃないのかって顔でしょんぼりして、鼻をひっかけてきやがったからな」
軽く肩を叩かれ、俺は思わず笑いながら頷いた。
ロジェは小さく息を整えると、踵を返し、指示を飛ばしながら作業に戻った。
その背中を見送り、俺は革袋を腰に付け、パイパーのいる場所へ向かう。
厩舎の解体もすでに終わっており、ヴァルカリオンたちは、来たとき同様、それぞれの主である騎士の属性に合わせて整列していた。
周囲の空気の中には鞍の革の匂いと、グリフォン隊の翼を広げる風圧の音が混ざっている。
パイパーは俺を見つけると、小さく鳴いて首を振った。
「おはよう、パイパー」
その額を撫でると、ひときわ明るい鳴き声が返ってくる。
その瞬間、背後から軽い足音が近づいてきて聞き慣れた声がした。
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