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94話 シルエット家領地へ -15-
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洞窟の奥へ進むにつれ、音が消えていった。
足音は岩肌に吸い込まれ、吐く息さえ、どこか遠慮がちになる。
湿り気を帯びた冷気が、肌を撫でるようにまとわりつき――やがて、空間がひらけた。
天井から垂れ下がる無数の氷。床からせり上がる氷。
それらが互いに伸び合い、溶け合い、結晶の森のように連なっている。
淡い蒼と乳白色が幾層にも重なり、洞窟のその一角が凍てついた大聖堂のようだった。
その中心――、
最も太く、最も透明な氷柱の中に、影が見える。
氷の層に閉じ込められ静止した黒が、まるで、長い年月を経て聖堂の奥に安置された聖遺物のように、ひときわ厳かにそこに在った。
艶やかな毛並みが鮮明で、その存在感が周囲の冷光を押し返す。
氷柱は、ただの器。本当に空間を支配しているのは、その内側に眠る命だ。
――息を、のんだ。胸が、詰まる。
これほどの冷気の中で、これほどの静寂の中で、それでも生きている。
「……ノアール」
隣で、アルチュールが名を呼ぶ。
その声が、やけに遠く聞こえた。
「時間が、ここだけ切り取られているみたいだ」
俺は氷柱を見上げて言った。
美しい、という感想が、喉までせり上がってすぐに引っ込む。無意識のうちに拳を握りしめていた。
全身を覆う毛並みは漆黒。光を吸い込むような色合いが、かえって氷の透明さを際立たせている。
体長は二メートルほど。広い胸郭と力強い四肢は、まるで彫像のよう。
アルチュールは無言のまま、氷の前へ進み、ためらいなくその表面を手で触れた。
「……魔力を流してもいいか?」
俺が低く問いかけると、アルチュールは一拍置き、短く頷いた。
「了解」
俺は左手のベネンを氷の表面に押し当て、右手の人さし指と中指の指先を自分の額に当て、呪文を唱える。
「アナリズ、エタ・ヴィタル」
淡い光が広がり、氷の内側に刻まれた術式が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
レアクシオンヴィタル――確認。
シルキュラシオンマナ――安定。
アンラシヌマンアーム――保持。
アノマリー――検出されず。
状態は淡々と、冷静に示される。
「……良好!」
「そうか」
アルチュールの声は低かったが、ホッとしたのだろう。わずかに緩んだ。
俺は術式を収め、振り返る。
「やはり、問題は氷そのものじゃないな」
「ああ。龍脈、だな」
自然の流れは、人の手でどうこうできるものではない。
だからこそ、厄介。
「……地学の領分だ」俺は氷柱から視線を外さずに続けた。「龍脈の変調については、デュボア寮監に相談するのが一番だと思う。ただ……学院に戻ってからだと、またここへ来るまでに時間がかかる」
その間に、環境がさらに変わらない保証はない。
「……シエルに奇石通信を飛ばす、という手もあるが」
アルチュールは腕を組み短く息を吐いてそう言うと、すぐに首を振った。
「――研修期間中だ。緊急案件以外で割り込むのは、できれば避けたい」
「……ネージュなら別研修中だし、通信が繋がる可能性はある」
一瞬の間。
アルチュールは氷に閉ざされたノアールを見つめ、それから俺を見詰めた。
「頼む」
「もちろん」
胸元に下げたペンダントをそっと握る。
「……フェルマ・ヴォカ」
それからほとんど間を置かず、反応が返ってきた。
《こちらネージュ。どうした、セレス。シルエット家で将来の義父母さんに大切にされてるか?》
「出たな、第一声それか」思わず苦笑しながら返す。「まあ……歓迎されすぎて、泣かれるほどには。寝室には、バラの花びらが舞ってたよ」
ほう……と、向こうで、心底感心したような間があった。
《……凄いなそれは、予想以上だ。セレスを連れ帰って反対する親は存在しないだろうけど》
「また帰ったら詳しく話す。アルチュールが昔、酸っぱいトカゲを食べたこととか」
俺は即座に軌道修正する。
「さて、ネージュ、本題に入る。デュボア寮監に、龍脈について聞きたいことがあるんだ」
《急ぎのようだな。ん……ちょっと待ってくれ》
通信越しに、どこか賑やかな気配が混じる。
《今、休憩中なんだが……丁度、同じ部屋で、カナードの伝書使カリュストと翁が『知将の盤』を指してるのをデュボアの伝書使ノクスが横から見ている》
「……妙に豪華だな」
アルチュールが小声で言う。
《ノクスに声をかけるわ。――おーい。ノクス先輩、うちの超絶美人、存在が誘淫剤、近づく男、全てを恋の罠に落としていくセレスから連絡なんですけどー》
「よし。帰ったらお前、焼き鳥な!」
俺が低く言うと、通信越しでネージュが楽しそうに笑う気配がした。
数拍の沈黙。
《よう。セレス君、久しぶりだなぁ》
デュボアの伝書使――ノクスだ。
「お久しぶり、ノクス。いきなりで悪いんだが、休みのところ申し訳ない。ヴィクター・デュボア寮監に、今すぐ連絡は取れないだろうか?」
《あ? ああ、それなら全然いけるぞ》
即答だった。
間を置かず、どこか楽しそうな気配すら混じる。
足音は岩肌に吸い込まれ、吐く息さえ、どこか遠慮がちになる。
湿り気を帯びた冷気が、肌を撫でるようにまとわりつき――やがて、空間がひらけた。
天井から垂れ下がる無数の氷。床からせり上がる氷。
それらが互いに伸び合い、溶け合い、結晶の森のように連なっている。
淡い蒼と乳白色が幾層にも重なり、洞窟のその一角が凍てついた大聖堂のようだった。
その中心――、
最も太く、最も透明な氷柱の中に、影が見える。
氷の層に閉じ込められ静止した黒が、まるで、長い年月を経て聖堂の奥に安置された聖遺物のように、ひときわ厳かにそこに在った。
艶やかな毛並みが鮮明で、その存在感が周囲の冷光を押し返す。
氷柱は、ただの器。本当に空間を支配しているのは、その内側に眠る命だ。
――息を、のんだ。胸が、詰まる。
これほどの冷気の中で、これほどの静寂の中で、それでも生きている。
「……ノアール」
隣で、アルチュールが名を呼ぶ。
その声が、やけに遠く聞こえた。
「時間が、ここだけ切り取られているみたいだ」
俺は氷柱を見上げて言った。
美しい、という感想が、喉までせり上がってすぐに引っ込む。無意識のうちに拳を握りしめていた。
全身を覆う毛並みは漆黒。光を吸い込むような色合いが、かえって氷の透明さを際立たせている。
体長は二メートルほど。広い胸郭と力強い四肢は、まるで彫像のよう。
アルチュールは無言のまま、氷の前へ進み、ためらいなくその表面を手で触れた。
「……魔力を流してもいいか?」
俺が低く問いかけると、アルチュールは一拍置き、短く頷いた。
「了解」
俺は左手のベネンを氷の表面に押し当て、右手の人さし指と中指の指先を自分の額に当て、呪文を唱える。
「アナリズ、エタ・ヴィタル」
淡い光が広がり、氷の内側に刻まれた術式が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
レアクシオンヴィタル――確認。
シルキュラシオンマナ――安定。
アンラシヌマンアーム――保持。
アノマリー――検出されず。
状態は淡々と、冷静に示される。
「……良好!」
「そうか」
アルチュールの声は低かったが、ホッとしたのだろう。わずかに緩んだ。
俺は術式を収め、振り返る。
「やはり、問題は氷そのものじゃないな」
「ああ。龍脈、だな」
自然の流れは、人の手でどうこうできるものではない。
だからこそ、厄介。
「……地学の領分だ」俺は氷柱から視線を外さずに続けた。「龍脈の変調については、デュボア寮監に相談するのが一番だと思う。ただ……学院に戻ってからだと、またここへ来るまでに時間がかかる」
その間に、環境がさらに変わらない保証はない。
「……シエルに奇石通信を飛ばす、という手もあるが」
アルチュールは腕を組み短く息を吐いてそう言うと、すぐに首を振った。
「――研修期間中だ。緊急案件以外で割り込むのは、できれば避けたい」
「……ネージュなら別研修中だし、通信が繋がる可能性はある」
一瞬の間。
アルチュールは氷に閉ざされたノアールを見つめ、それから俺を見詰めた。
「頼む」
「もちろん」
胸元に下げたペンダントをそっと握る。
「……フェルマ・ヴォカ」
それからほとんど間を置かず、反応が返ってきた。
《こちらネージュ。どうした、セレス。シルエット家で将来の義父母さんに大切にされてるか?》
「出たな、第一声それか」思わず苦笑しながら返す。「まあ……歓迎されすぎて、泣かれるほどには。寝室には、バラの花びらが舞ってたよ」
ほう……と、向こうで、心底感心したような間があった。
《……凄いなそれは、予想以上だ。セレスを連れ帰って反対する親は存在しないだろうけど》
「また帰ったら詳しく話す。アルチュールが昔、酸っぱいトカゲを食べたこととか」
俺は即座に軌道修正する。
「さて、ネージュ、本題に入る。デュボア寮監に、龍脈について聞きたいことがあるんだ」
《急ぎのようだな。ん……ちょっと待ってくれ》
通信越しに、どこか賑やかな気配が混じる。
《今、休憩中なんだが……丁度、同じ部屋で、カナードの伝書使カリュストと翁が『知将の盤』を指してるのをデュボアの伝書使ノクスが横から見ている》
「……妙に豪華だな」
アルチュールが小声で言う。
《ノクスに声をかけるわ。――おーい。ノクス先輩、うちの超絶美人、存在が誘淫剤、近づく男、全てを恋の罠に落としていくセレスから連絡なんですけどー》
「よし。帰ったらお前、焼き鳥な!」
俺が低く言うと、通信越しでネージュが楽しそうに笑う気配がした。
数拍の沈黙。
《よう。セレス君、久しぶりだなぁ》
デュボアの伝書使――ノクスだ。
「お久しぶり、ノクス。いきなりで悪いんだが、休みのところ申し訳ない。ヴィクター・デュボア寮監に、今すぐ連絡は取れないだろうか?」
《あ? ああ、それなら全然いけるぞ》
即答だった。
間を置かず、どこか楽しそうな気配すら混じる。
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