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96話 シルエット家領地へ -17-
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氷室の中央。
眠るノアールを封じる氷柱を、術式の中軸と定める。
俺は一度、深く息を吐いた。
掌の淡く光るベネンにサリトゥが集束していくのを確かめる。脈打つような感覚は、すでに安定していた。
「では、始めます」
ここから先は、私語も感情も排される。
儀式は規定に従って進行され、発する言葉もまた、その一部となる。
友人や恋人としてではなく、術式の実行者として振る舞う段階だった。
奇石通信の向こうで、デュボア寮監と翁が同時に沈黙した。
先ずは、方位陣の刻印から。
――この世界における四方位は、地理ではなくスピラクシスと呼ばれている魂の相によって定義される。
北位《ボレアス》――静止と封印、時間の凍結。
南位《ヴィータリス》――脈動と繁栄、生命の奔流。
東位《ルクス》――顕現と啓示、存在の夜明け。
西位《モルス》――終焉と受容、魂の帰着。
日本で言う玄武・朱雀・青龍・白虎に相当するが、それぞれが属性ではなく魔力の流れを伴う役割を持つ。
まず俺は、氷柱の北――ボレアス位に膝をつき、掌を地へ当てた。
ベネンが、氷晶の床を侵食するように流れ、円ではなく、歯車状の陣が刻まれていく。
「……固定、完了」
次に、時計回りに移動する。
ルクス位。
ここでは刻印を深くしすぎない。
目覚めは、誘導すべきであって、強制ではないからだ。
ヴィータリス位では、俺は意図的に刻印の終端を“開けた”。
治癒術式を流し込んだあとの、余剰分の一時的な出口とする。
最後にモルス位では、符号を二重化する。
魂の定着――失敗は許されない。
四方の刻印が完成した瞬間、氷室の空気が、わずかに変わった。
静かだが、確実に魔力の循環が始まっている。
アルチュールへの下準備。
「アルチュール」
呼びかけると、彼はすぐに視線をこちらへ向けた。
「今から、精神位相の調律に入ります。何も考えず、ただ、呼吸だけを俺に合わせて」
彼は頷き、氷柱に背を向ける形で立った。
俺は彼の背後に回り、肩甲骨の間――精神集束点へごく弱く、ベネンを触れさせる。
《力を抜け》
翁の声が、通信越しに重なった。
《呼吸は四拍。吸って、止めて、吐いて、止める。思考を“静止”させろ。集中ではない。拡散だ》
アルチュールの呼吸が、次第に一定になり、感情の波が凪いでいくのが分かった。
契約者には強い意志より、安定した受容が必要。
「……四方の刻印、確認をお願いします」
アルチュールが一歩前に出て、陣を順に見ていく。
指先で空気をなぞり、魔力の流れを確かめる。
「良好。循環も、位相差も、理論通り」
俺は小さく頷く。
次に、立ち位置
氷柱を挟み、俺は ボレアス位、北の守護側。アルチュールはヴィータリス位、南の再生側。
対角線上に立つことで『拘束』と『解放』、『静止』と『循環』を同時に成立させる。
氷を溶かし、目覚めさせ、そして短時間で治癒を完遂する。
それは単なる回復ではない。三年の氷眠によって分断されていた肉体と魂、魔力の循環を、一気に再統合する工程だった。
治癒が完遂したその瞬間だけ、すべてが噛み合った「完成形」が訪れる。
だがその状態は長く続かない。長い眠りの反動は、必ず揺り戻しとして現れる。
使い魔契約は、その時点の在り方を刻みつける儀式だ。後に安定するとしても、最良の基準となるのはこの一瞬しかない。
尚、ごく一般的な健康な生き物と結ぶ使い魔契約であれば、ここまでの工程は不要。
しかし、深い傷を負い、氷の中で眠らせていたオオカミ犬を目覚めさせ、再び共に在らせるための契約である以上、『拘束』と『解放』、『静止』と『循環』を同時に成立させる構造が求められた。
よって、最良の瞬間を逃さずに契約へと移行する。
それは、先日ルクレールに施した、ボンシャンの高度治癒魔術と同じ術式。
違うのは、対象が人ではなく、オオカミ犬であること。
魔力量は足りている。
術式は、すでに身体に入っている。
訓練も、済ませた。
――あとは。
俺は、氷柱に向かって静かに告げた。
「ノアールを呼び戻します」
掌に、魔力が満ちる。
氷室の刻印が、同時に淡く光を帯びた。
儀式、開始。
眠るノアールを封じる氷柱を、術式の中軸と定める。
俺は一度、深く息を吐いた。
掌の淡く光るベネンにサリトゥが集束していくのを確かめる。脈打つような感覚は、すでに安定していた。
「では、始めます」
ここから先は、私語も感情も排される。
儀式は規定に従って進行され、発する言葉もまた、その一部となる。
友人や恋人としてではなく、術式の実行者として振る舞う段階だった。
奇石通信の向こうで、デュボア寮監と翁が同時に沈黙した。
先ずは、方位陣の刻印から。
――この世界における四方位は、地理ではなくスピラクシスと呼ばれている魂の相によって定義される。
北位《ボレアス》――静止と封印、時間の凍結。
南位《ヴィータリス》――脈動と繁栄、生命の奔流。
東位《ルクス》――顕現と啓示、存在の夜明け。
西位《モルス》――終焉と受容、魂の帰着。
日本で言う玄武・朱雀・青龍・白虎に相当するが、それぞれが属性ではなく魔力の流れを伴う役割を持つ。
まず俺は、氷柱の北――ボレアス位に膝をつき、掌を地へ当てた。
ベネンが、氷晶の床を侵食するように流れ、円ではなく、歯車状の陣が刻まれていく。
「……固定、完了」
次に、時計回りに移動する。
ルクス位。
ここでは刻印を深くしすぎない。
目覚めは、誘導すべきであって、強制ではないからだ。
ヴィータリス位では、俺は意図的に刻印の終端を“開けた”。
治癒術式を流し込んだあとの、余剰分の一時的な出口とする。
最後にモルス位では、符号を二重化する。
魂の定着――失敗は許されない。
四方の刻印が完成した瞬間、氷室の空気が、わずかに変わった。
静かだが、確実に魔力の循環が始まっている。
アルチュールへの下準備。
「アルチュール」
呼びかけると、彼はすぐに視線をこちらへ向けた。
「今から、精神位相の調律に入ります。何も考えず、ただ、呼吸だけを俺に合わせて」
彼は頷き、氷柱に背を向ける形で立った。
俺は彼の背後に回り、肩甲骨の間――精神集束点へごく弱く、ベネンを触れさせる。
《力を抜け》
翁の声が、通信越しに重なった。
《呼吸は四拍。吸って、止めて、吐いて、止める。思考を“静止”させろ。集中ではない。拡散だ》
アルチュールの呼吸が、次第に一定になり、感情の波が凪いでいくのが分かった。
契約者には強い意志より、安定した受容が必要。
「……四方の刻印、確認をお願いします」
アルチュールが一歩前に出て、陣を順に見ていく。
指先で空気をなぞり、魔力の流れを確かめる。
「良好。循環も、位相差も、理論通り」
俺は小さく頷く。
次に、立ち位置
氷柱を挟み、俺は ボレアス位、北の守護側。アルチュールはヴィータリス位、南の再生側。
対角線上に立つことで『拘束』と『解放』、『静止』と『循環』を同時に成立させる。
氷を溶かし、目覚めさせ、そして短時間で治癒を完遂する。
それは単なる回復ではない。三年の氷眠によって分断されていた肉体と魂、魔力の循環を、一気に再統合する工程だった。
治癒が完遂したその瞬間だけ、すべてが噛み合った「完成形」が訪れる。
だがその状態は長く続かない。長い眠りの反動は、必ず揺り戻しとして現れる。
使い魔契約は、その時点の在り方を刻みつける儀式だ。後に安定するとしても、最良の基準となるのはこの一瞬しかない。
尚、ごく一般的な健康な生き物と結ぶ使い魔契約であれば、ここまでの工程は不要。
しかし、深い傷を負い、氷の中で眠らせていたオオカミ犬を目覚めさせ、再び共に在らせるための契約である以上、『拘束』と『解放』、『静止』と『循環』を同時に成立させる構造が求められた。
よって、最良の瞬間を逃さずに契約へと移行する。
それは、先日ルクレールに施した、ボンシャンの高度治癒魔術と同じ術式。
違うのは、対象が人ではなく、オオカミ犬であること。
魔力量は足りている。
術式は、すでに身体に入っている。
訓練も、済ませた。
――あとは。
俺は、氷柱に向かって静かに告げた。
「ノアールを呼び戻します」
掌に、魔力が満ちる。
氷室の刻印が、同時に淡く光を帯びた。
儀式、開始。
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