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194話 最終章 物語のその先へ -4-
そこに立っていたのは、威風堂々たる純白のフェンリル――シオンだった。白銀の毛並みには煤や土埃がわずかに残っているものの、その姿に疲弊の色はない。
彼の隣で、モロー隊長が片手を腰に当てながら、こちらへひらりと手を振った。
「おっ、セレスーー!」
俺を見るなり、ぱっと表情を和らげる。
「セレス! よかったよかった。無事そうだな」
「モロー隊長」
「シーさん、ちょっと待ってて。いやぁ、ほんと、とんでもないもの見せてもらったよー」
軽い口調のまま近づいてきて、俺の肩を、ぽんぽん、と叩く。
「正直、途中から戦いながら簡易の遠見魔法で見ていて胃が痛かったけどねー」
とはいえ、さらりと言っているが、戦闘中に遠見魔法を簡易であれ、身体強化や防御術式を展開しながらやる、並列詠唱を当然みたいな顔をしてやるんだよ、この人は。
維持するだけでも本来かなり難しい。高い集中力と制御能力が必要になるのに。
『強いでしょ、あの人』
以前、ジュールが当然のように言っていた言葉を思い出す。
ルクレールが、生まれついた才覚で常識を踏み越えていく天才なら、モロー隊長は、積み重ねた鍛錬でそこへ食らいついた秀才。
彼は、あまりにも軽薄そうな態度に反して、その辺りを当然のようにこなす側の人間だった。
「すみません……」
「そこは謝るところじゃないよ」
即座に否定された。
モローは少しだけ笑って、それから珍しく真面目な声音になる。
「セレス、君が前に出なきゃ、今日この戦場に立った何人かは、たぶん、家族や大切な人が待っている場所に帰れなかった」
まっすぐに俺を見る。
「……それと、まだ正式発表前だから内緒だけどね」
そう前置きしてから、少しだけ声を落とした。
「現時点で、死者はゼロだ」
「――え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
一瞬、天幕の空気が止まった。
「……ゼロ?」
最初に反応したのはナタンだった。信じられないものを見るみたいに、モローを凝視している。
「本当に……?」
ガエたち私設騎士団の面々も、目を見開いたまま固まっていた。
「お、おい……」
「この規模で……?」
「あり得るのか、そんなことが……」
誰かが呟いた声が、やけに大きく響いた。
スタンピードだ。しかも、ナクティスの王まで出てきた。
死人が出てもおかしくないどころか、普通ならもっと酷い被害になっていたはず。
しかし、この情報を耳にして、まったく動じていない者もいた。
ルクレールは腕を組んだまま静かに目を伏せ、ロジェとジュールは微動だにせず、アルチュールも驚いた様子はない。むしろ、どこか張り詰めていたものが少しだけ緩んだように見える。
どうやら、既に王軍やノクターンクラスだけで、一部共有されていた情報らしい。
「もちろん、重傷者はいる。足をリザードに喰われた者もいるし、腕や片目を失った者もいる。無傷で済んだわけじゃない」
軽い口調はそのままだったが、その言葉には現実の重みがあった。
「でも、死者はいない。少なくとも今のところはね。これはかなり異例だよ――奇跡だ」
彼は小さく肩を竦め、ナタンを見た。
「近距離転移で医療班がかなり動きやすかったのも大きい。重傷者の搬送が異常なくらい速かったからね。ありがとう」
そう言ってから、モローは少しだけ目を細め、不意に礼を言われたナタンは、すぐに背筋を正した。
「……勿体ないお言葉です。私は、できることをしただけですので」
「うん。これから君は、色々と大変だと思う」
ナタンは一瞬だけ表情を引き締め、静かに頷く。
「……はい。侯爵から伺っています」
モローは軽く肩を竦めた。
「才能があると、周りは勝手に期待する。だからこそ、休む場所は自分で確保しておいたほうがいい。疲れたらガルディアンにおいで。おやつと紅茶と胃薬がうまいし、癒しのデュラン副警備官が居て、わりと居心地いいよ」
すかさず、ロジェが淡々と口を挟んだ。
「隊長、そこの三人は、ノクターンが狙っています。勝手に勧誘しないでください。あと、美味い胃薬は勧誘材料にはなりません」
それは、そう。と一瞬思ったけど、藤一郎・デュラン副官の作るコンプリマン・アリマンテールの胃薬は、おどろくほどうまいのは確かだ。
「でも、最初に彼らに声を掛けたの、こっちだからね」
モローは、妙に愛嬌のある、木の実でも頬の中に抱えていそうな小動物じみた表情を作ってぼやいた。
「ガルディアンには、オベール警備官が居るのに、居心地がいいわけないでしょう」
ルクレールが即座に切り捨てる。
「大丈夫大丈夫。オベール警備官が、ボンシャン寮監と絡まない限り、だいたい平和だから」
そこで、ふと思い出したようにジュールが視線を上げた。
「そういえば……、ボンシャン先生の使い魔は、最後まで無事だったのですか?」
……ボンシャン寮監の使い魔?
「ヴァルドラ……、ですか?」
俺が聞くと、モロー隊長は軽い調子のまま頷いた。
「暫定的な使い魔だから連れて来るのは賭けだったけど、結果的には影響なし。重傷者に長距離転移で負担はかけられないからね。後方に待機させ王都まで何往復もして、負傷者の搬送にかなり貢献してくれたよ」
言うまでもなく、神獣クラスは人と同様にスタンピードの影響をほぼ受けない。長期固定契約済みの個体も比較的安定しており、この戦場でも問題なく使役できていた。
だが――暫定契約の使い魔は別だ。
契約が浅ければ、魔力暴走や命令系統の崩壊を起こす可能性がある。最悪の場合、使役士自身の手で処理しなければならないこともある。
つまり、ボンシャンは、その可能性まで織り込み済みでヴァルドラを戦場へ投入したということだ。
それでも制御し切った。
暴走を許さず、最後まで搬送任務を遂行させた時点で、あの人の契約力と支配力が規格外なのは、もはや説明するまでもない。
「……相変わらず、とんでもないな。ボンシャン寮監」
思わず呟くと、ルクレールがごく自然に頷いた。
「昔から、あの人はそういうことを平然とやる」
「しかも、だいたい成功させるんだよねぇ」
モローが肩を竦めて笑う。そして、再びモロー隊長は、視線を俺へと戻した。
「君たちが無茶した分、後方の現場もちゃんと仕事したってこと」
彼は、くしゃり、と俺の頭を軽く撫でた。
「セレス……、怖かっただろ」
「……まあ、その……、それなりには」
「だろうな。それでも最後まで立ってた。十分すごいよ」
少しだけ目を細める。
「よくやった。ほんとに」
肩から、ふっと力が抜けそうになる。
「……ありがとうございます」
「うんうん。良い子だ。今は素直に褒められておきなさい」
モローは満足げに頷き――そこで、ようやく俺の腕にべったり張り付いている存在へ視線を落とした。
数秒の沈黙。
「……ところでセレス」
「はい?」
「なんとなく察しはついているんだけど……」
彼は、ゆっくりと人型のネージュを指差して聞いた。
「これ、ネージュだよな?」
ネージュが元気よく手を挙げる。
「そうだぞ!」
モロー隊長が、すっと真顔になった。
「へぇー……」
感心したように頷く。
「驚かないんですね?」
思わずそう尋ねると、モローは肩を竦める。
「うん。一度、シーさんから、彼が冥界でセレスとネージュに助けられたとき、ネージュが人型だったと聞いていたから」
「なるほど……」
納得して頷くと、モローは改めてネージュを上から下まで眺めた。
「しかし、……なんとなくセレスに似てるね」
「うちの子ですから」
俺が即答すると、ネージュがえへん、と胸を張った。
「そう! 俺はセレス成分たっぷりだからな!」
なんだその自己紹介。
だがモローは妙に真面目な顔で頷いた。
「いいなぁ……。じゃあ、どう? シーさんと一緒にガルディアンで警備補助獣にならないか?」
「駄目です」俺は即座に断った。「ネージュは俺の伝書使ですから」
「だそうだぞ、モロー隊長」
ネージュが得意げに腕を組む。
「うーん、残念」
モローは本当に残念そうに肩を落とした。
だが次の瞬間、ネージュがぴっと人差し指を立てる。
「ただし、料理長ヨアヒムの、ラム酒びったびたのラムケーキをくれるなら、休みの日だけ手伝いに行ってやってもいい。あと、隊長とカナード寮監の、日々の何気ない会話とか、休日の過ごし方とか、そういう生活感のある話を聞かせてもらえるなら、なお良しだ」
この腐男子鳥め。萌えの供給か。ちゃっかりしてやがる……。
俺は心の中で深くため息をついた。
「交渉材料がそこなんだ……」と、すぐ背後でアルチュールが呆れたように呟く。
「賢いだろ?」
「食い意地が張ってるだけだ」
そんなやり取りに、モローが吹き出した。
「いいね、採用。なんで俺の日常に興味があるのかは分からないけど、ラムケーキはヨアヒムにちゃんと注文しとくよ」
「よしっ!」
日常に興味があるのは、この鳥が腐っているからです。
しかし、本当に乗るのか……。
ネージュが嬉しそうに拳を握る横で、俺はなんとも言えない顔になる。
だが、そこでモローがふっと笑みを収めた。
「――さて、雑談はこの辺にして」
そう言いかけて、「あっ」ともらしながら、モローがふと思い出したように片手を上げた。
「シーさん。ごめん、もうちょっと待って」
シオンが一歩踏み出しかけたところで、足を止める。
モローはくるりと振り返り、今度はルクレールへ視線を向けた。
「一つだけ」
「……なんでしょう」
ルクレールがわずかに眉を寄せた。
モローはいつもの軽い笑みのまま、「俺、さっき決めたんだよね。何が何でも、ルクレールの目を守り隊の隊長になるって」と言った。
一瞬、ルクレールが珍しく完全に虚を突かれた顔をした。
いつもなら余裕綽々で受け流す男が、ほんのわずかに目を見開き、しばし言葉を失う。
「……なんなんだ、その妙な隊名は」
ルクレールが淡々と返した。
すると横から、ジュールが小さく息を吐く。
「モロー隊長――いえ、ルクレールの目を守り隊の隊長、その件なら、先ほど殿下が動かれました」
「えっ、もう?」モローが目を丸くする。「早すぎない!?」
「既に、コルベール公爵案件です」とロジェ。
「なーーんだ……。これからルクレールの元恋人全員に、歎願署名でももらって回ろうかと思ってたのにー」
そう言いながら、モローは両手を上下に離して構え、
「何枚ぐらい紙が必要かな……と考えてたんだ。……このくらい? ロジェ?」
紙束の厚みでも測るみたいに、わりと真面目な顔で空中に幅を作る。
ロジェが小首を傾げ、眉根を寄せて「うーん……」と唸る。
「なるほど。もっとか……?」
さらに手の間隔を広げる。
「やめてください!!」
今度ばかりはルクレールが即答した。
「ルクレールの目を守り隊の隊長! 山ほど居る元恋人たちの歎願署名は、逆効果です。悪い結果にしかなりません!」とロジェ。「目をえぐるのを防ぐどころか、某所をもぎ取れ、という直訴状になり、別件で慰謝料請求の書類が山のように届く未来しか見えない」
ロジェが淡々と言い切る中、俺はジト目で、無言のままルクレールを見つめ続ける。
「……」
「……」
数秒。
ルクレールは、さすがに居心地が悪くなったのか、わずかに片眉をぴくりと跳ね上げたあと、なんとも言えない顔で天幕の上――つまり、見ても仕方のない空間を見上げ、ゆっくりと俺から視線を逸らした。
だが、それでもこちらからの視線は感じるのか、ほんの少しずつ、少しずつだけ身体ごと角度を変え、距離を取ろうとしている。
なんだそれ。
普段あれだけ堂々としているくせに、妙なところで子供かよ。
こういうのもあって、俺はロジェを兄、ルクレールを弟みたいに思ってしまうんだ。
「……ルクレール?」
静かに名前を呼ぶと、
「昔の話だ」
即答だった。
しかも微妙に早口だ。
「なにが、昔だよ。つい最近までだろ」
俺が言うと、ロジェが肩を震わせ、ジュールがとうとう吹き出した。
モロー隊長が妙に爽やかな笑顔を浮かべて頷く。
「じゃあ、とりあえずその辺の処理は済みそうってことで、もう安心かな?」
「ええ」ロジェが淡々と頷く。「少なくとも、この件に関して表立って反対する貴族は、いないでしょう」
「なるほどね。了解」
軽く肩を竦めると、モロー隊長は、胸元から奇石を取り出した。
「――ロックハート。聞いてた?」
さらりと彼の伝書使へ呼びかける。
《ちーっす。聞こえていた》
「朗報。ルクレールの件、ほぼ解決ってことで、みんなに伝えといて」
《りょ。号外案件だな。流しとく》
「軽っ……」
思わず俺が呟くと、モローは、にっ、と笑い、それ以上は追及せず、うしろのシオンへ視線を向ける。
「それじゃ、シーさん。主に届けるもの――」
言われて、シオンが静かに一歩前へ出た。
純白の巨躯のまま、億千万の理を知るような瞳がまっすぐこちらを見る。
「セレスの大切なものだと思ったので、探した」
低く落ち着いた声とともに、シオンは一度だけモロー隊長へ視線を向けた。
「うん。直ぐに取り出すから」
モロー隊長が、どこか得意げに懐へ手を入れている間に、シオンの身体が淡い白光に包まれた。
柔らかな毛並みは光の粒となって静かにほどけ、人の輪郭へと変わっていく。
数秒後、そこに立っていたのは、白銀の青年だった。
魔力で編まれた衣服を纏い、変わらぬ静かな眼差しでこちらを見つめている。
「シーさんが戦場で探して見つけてさ。一応、元の物質構成魔法に干渉しないようにして、表面だけ俺が洗浄魔法できれいにしといた」
そう言って差し出されたモロー隊長の掌の上には、見慣れた銀の――、
「イヤー……カフ……」
言葉が止まった。
さっきまで聞こえて来ていた誰かの声も、衣擦れの音も、天幕の外のざわめきさえ、ふっと遠のいた気がした。
視界の中心にあるのは、ただ掌の上の小さな銀だけ。
戦闘の最中、ナクティスの王の口内へ放り込み、隙を作るための起点にしたもの。
回収は半ば諦めていたのだが――、
「それは……」
ロジェがわずかに目を見開いた。
当然だ。これは、ロジェと、その弟のニコラから俺へと贈られたものなのだから。
俺はそっと、ロジェへ向き直る。
「ロジェ。これのおかげで、本当に助かりました。ありがとうございました。……今度、ニコラにも直接お礼を言わせてください」
ロジェは一瞬だけ目を細め、それからふっと表情を和らげた。
「ああ。きっと、弟も喜ぶ」
モロー隊長が、イヤーカフをシオンへ手渡す。
「はい、シーさん」
「ありがとう、隊長」
シオンはそれを受け取ると、一歩、俺へ近づいた。
だが、そこでぴたりと止まり、不意に俺の背後へ視線を向ける。
「……主の番」
「ん?」
アルチュールが片眉を上げる。
「これを、私が直接、セレスに装着してもいいか?」
「……ああ」
アルチュールは微妙な顔をしながらも、短く頷いた。
なんで許可制なんだ。
というか、なんで、さっきから誰も俺本人には確認しないんだ……?
俺が若干納得いかない気持ちで二人を見る中、シオンは淡々と告げる。
「主の番に確認することは、とても必要だ。あとで不機嫌になられても困る」
「お前、俺の心が読めるのかよ!?」
思わず突っ込むと、シオンはわずかに首を傾げた。
「さすがに私でも、人の心は読めない。セレスの顔に書いてあったぞ」
アルチュールが眉を寄せる。
「おい。俺は不機嫌にはならない。面倒くさい男みたいに言うな」
「いいえ、なりますねー」
即答したのはナタンだった。
「お前は、セレスが絡むと普通に面倒くさい男だからな」
さらに、さっきまで肩身の狭い思いをしていたルクレールまでが、淡々と追撃する。
「ルクレール!?」
「ほらな。確認して正解だっただろ?」
シオンが静かに結論づける。
「なんなんだよ、この連携は……」
アルチュールが複雑な表情を浮かべて呻く横で、俺は思わず吹き出してしまう。
さっきまで命のやり取りをしていたとは思えないほど、天幕の空気は穏やかだった。
「さて、主……」
笑う俺を見て、シオンがようやくイヤーカフを耳元へ近づける。
ひやり、と銀が耳に触れ、瞬く間にそれはわずかに形を変えて耳殻に沿うようにぴたりと張りついた。
馴染んだ感覚に、ほっ、と息を吐く。
「完了した」
「ありがとう、シオン」
「うん」
短く頷くシオンの横で、アルチュールがまだ若干不満そうな顔をしている。
「また焼きもちですか?」と俺が聞くと、
「……だから、焼きもちじゃない」
アルチュールは低い声でそう答える。
微かにムッとした顔が可愛くて、口元が緩んだ。
「あっ、そうだ」
ふと思い出し、俺はシオンへ視線を向ける。
「預かってたもの、返すな」
「……ああ」
シオンが小さく頷いた。
俺は腰の拡張ポケットへ手を伸ばし、ベネンを当てる。
淡い光が一瞬だけ走り、収納空間が静かに開いた。
その中から一枚のコートを取り出し、シオンに差し出すと、
「セレス、ちょっと待ってくれ。元の姿に戻る」
「うん?」
「着せてくれるか、主?」
「……ああ、分かった」
刹那、彼の骨格が伸び、四肢が組み替わり、数秒後には、見慣れたフェンリルの姿がそこにあった。
神獣らしい神々しさと圧倒的な威容。
――なのだが、俺にはもう、どこか大型犬めいた親しみやすさまで感じてしまう。
もちろん、これは俺や、普段から彼と接しているごく一部の近しい人間だけの感覚だろう。
実際、シオンが元の姿へ戻った瞬間、周囲の気配わずかに張りつめる。入って来たときもそうだった。
ガエたちが、思わずぴくりと身体を硬直させ静まり返っている。
……ああ、やっぱり、普通はそういう反応になるよな。
俺の感覚が麻痺しているだけで、本来ならば、見る者に畏怖を抱かせる存在なのだろう。
それから俺は、ゆっくりと、丁寧にコートを広げた。
「ほら、じっとしてろ」
深い碧色の布地を背へ回し、左右を整えながら前で留める。
白銀の毛並みに、よく映える。
襟元を軽く整え、肩の位置を直してやると、シオンは大人しくされるがままになっていた。
「よし。こんなものかな」
最後に胸元をぽん、と軽く叩く。
シオンは首を巡らせ、自分の姿を確認するように一度だけ身体を揺らした。
「どうだ、主?」
「似合ってるよ、シーさん」
素直にそう言うと、シオンの耳がぴくりとわずかに動いた。
「いかしてるねえー」
横から、まだ人型のままのネージュが、うんうんと満足げに頷く。
そんなやり取りのあと、不意に、アルチュールが一歩前へ出た。
少しだけ押し黙り、言葉を探すように間を置く。
「……シオン」
呼ばれて、シオンが静かに顔を向けた。
「なんだ、主の番?」
「さっきは……助かった。お前がエピンの腕を止めなかったら、あの剣は俺の身体を貫いていた」
「鍛錬不足だな」
「ルクレール……」
「周囲への意識配分が甘い。正面に集中しすぎて、死角の気配を拾うのが遅いんだよ。帰ったら、また鍛えてやる」
「ああ、反論する言葉もない」
あの刃先の感触でも思い出したのか、アルチュールの表情が硬くなる。
俺も、あの瞬間を思い出して胸の奥がひやりとした。
だが、シオンはいつも通り淡々としていた。
「腕を止めたことなら、当然のことをしたまでだ。主が悲しむ顔は、見たくない」
「……そうか」
短く返したアルチュールの声は、さっきよりずっと柔らかかった。
ほんのわずかに間を置いてから、アルチュールが続ける。
「今度、なにか、たっぷりと礼をさせてくれ」
シオンが静かに首を傾げる。
「礼?」
「命を救われた借りだ。このままにしておくのは性に合わない」
律儀だな、と少しだけ笑いそうになる。
シオンはしばらく考えるように沈黙し、それからぽつりと言った。
「では、馬車で食べた、あのシルエット家のチーズが食べたい」
「……チーズ?」
「とても美味だった」
そういえば。
シオンがやたらとチーズに目を輝かせるようになったきっかけ、それだったな。
「そんなことでいいのか?」
「とても、とても重要だ」
きっぱり断言される。
すると、そこで後ろから穏やかな声が入った。
「それなら、私が取り寄せよう」とロベール。
「兄上」
「熟成庫に保管されているものを、後日、学院宛に届けさせる」
シオンの耳が、ぴくりと大きく動いた。
「……本当か?」
いつになく声に期待が滲んでいる。
ロベールは、わずかに口元を和らげた。
「ああ。本当だ。弟を救ってくれた恩を返さないとな」
「それは、嬉しい」
シオンにしては珍しく、声がほんの少しだけ弾んだ。
「セレス、チーズだ! チーズをアテに、ダンサーもデュボア寮監も翁も呼んで、一緒にワインを飲もう!」
フェンリルから、飲み会に誘われてしまった。
「お前、すっかり楽しみ見つけたな……」
思わず苦笑した、そのときだった。
モロー隊長、ロジェ、ルクレール、ジュール他――それぞれの胸元に下げられた奇石が、ほぼ同時に淡く明滅する。
「ん?」
モロー隊長が奇石に触れる。
時を同じくして、一斉に天幕の外も、にわかにざわつき始めた。
人の足音。呼びかける声。慌ただしいけれど、どこか安堵を含んでいる。
「……どうやら、トレモイユ家が兵站物資の放出を始めたみたいだな」
奇石からの内容を確認したアルチュールが、顔を上げる。
「温かいスープとパン、それから簡易浴用の湯も用意されたらしいぞ、ナタン」
「はい。私のところにも、オグマから同様の連絡が入りました」
ナタンが静かに頷いた。
「セレスさま。少しうちの天幕の様子を見て参ってもよろしいでしょうか。配布導線や負傷者を優先する列整理も必要になるかと。すぐ戻ります」
「ああ、もちろん」
俺が頷くと、ナタンは一礼して足早に出ていった。
相変わらず仕事が早い。
「こっちは別件だ」
ロジェが淡々と告げる。
「魔獣死骸の後処理班が人手不足とのこと。感染症対策のため、魔術浄化に長けた者は速やかに集合――だそうだ」
「確かに……あの死骸の山では人手も足りないだろう。放置すれば、瘴気や残留魔力で周辺の畑や牧草地、水場まで汚染される。時間との勝負だ」
ルクレールが、やれやれ、とため息をついた。
ロジェがさらに続ける。
「シオンがグールやゴブリン系統をかなり処理してくれたおかげで数は減っているが、素材として使えない残存死骸は焼却処分へ移行。火属性要員も追加招集。ということで、呼ばれてるぞ、ルクレール」
「ああ、くそ。了解。面倒だが、後始末まで含めて戦だ。疫病でも出したら、今日助けた人間まで死ぬ。直ぐに俺が出ると返信しといてくれ。ロジェ、こっちに来た報告は、バジリスク・リザードの素材回収だ」
今度はルクレールが自分の奇石を見ながら眉を寄せる。
「腐敗防止魔術をかけた上、至急回収しろってさ。風属性、水属性、それから解体技術のある刃物使いを寄越せ、だと。……欲張りだな」
「高級素材だからな」ロジェが冷静に返し、頷く。「俺とジュールが行く」
「じゃあ、俺は浄化担当かなー」
明るい声で、モロー隊長がひらりと片手を挙げた。
すると、ガエも胸元の奇石を確認して口を開いた。
「私のところにも同じ情報が入りました。我々コルベール家私設騎士団は、これより手分けして各支援に向かいます」
そう言って背後の団員たちを振り返ると、皆も頷く。
「了解!」
「行くぞ!」
さすがに動きが早い。
そのとき、アルチュールが一歩前に出た。
「そちらに合流していいですか?」
「え?」
思わず俺が声を漏らすと、アルチュールは淡々と言った。
「まだ身体は動く。後方支援なら問題ない」
いや、お前さっき、刺されかけてただろ。
そう言いかけた俺より先に、ルクレールがじろりと見る。
「無茶はするな」
「分かっている」
ガエが少しだけ口元を緩める。
「こちらとしては助かる。ぜひ」
「よろしくお願いします」
アルチュールは小さく頭を下げてから、軽く肩を回した。
なんだか少しだけ楽しそうに見えるのは、気のせいじゃないだろう。たぶんこいつ、こういう現場仕事みたいな空気、嫌いじゃない。
「じゃあ、行ってくる。セレス」
「……俺も」
言いかけた瞬間だった。
「駄目だ。魔力切れ起こしたんだから、先に温かいものでも口に入れて大人しく待ってろ。終わったら戻る」
「アルチュール……」
少し見上げ、微かに目尻を下げて、できる限り無害そうな顔を作ってみせる。ついでに、首も傾げた。
無言で訴えると、アルチュールは一瞬だけ目を細めた。
「……セレス、その顔どこで覚えた」
「なんのこと?」
「絶対わざとだろ」
呆れたようにため息をついてから、きっぱりと言い切る。
「駄目だ」
チッ、効かないか……。内心で小さく肩を落とした、そのとき。
ふと視線を横にやると、なぜかコルベール家私設騎士団の面々がカチコチに固まって顔を真っ赤にしていた。
「留守番してろ」
「……分かったよ」
そこまで言われると、さすがに反論しづらい。
観念して横にあった簡易椅子に腰を下ろすと、アルチュールは満足したように小さく頷いた。
「よし」
そのとき、
「おい、お前たち……」
眉間に深い皺を寄せたルクレールが、まるで苦味薬でも飲まされたみたいな顔で吐き捨てた。
「……絶対に半年後に別れる呪いをかけてやる」
ジュールが横で肩を震わせ、ロジェは無言で下を向く。たぶん笑いを堪えている。
「まあまあ」
モロー隊長がくすくす笑いながら肩をすくめると、天幕の空気がまた少しだけ和らいだ。
ルクレールは最後にもう一度だけ俺たちを見て、やれやれ、と首を振った。
「行くぞ。早めに片付けて終わらせる。……甘ったるいもんを見せつけられて胸焼けはするが、俺は、腹は減っているんだ」
「ああ」
「では、失礼します」
と、ルクレールたちは、それぞれ短く言葉を残して出ていった。
入口の布が揺れ、少しだけ外気が流れ込む。
「では、ぼっちゃま、我々も行ってきます」
「ガエ、気を付けて」
そう返した直後、最後尾を歩いていたアルチュールが、ふと振り返った。
足は止めないまま、ほんのわずかにこちらへ顔を向ける。
そして、声には出さず、口の動きだけで告げた。
『いってきます』
……なんだ、それ。
そんな些細な仕草なのに、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
俺は苦笑しながら、小さく手を振った。
アルチュールはそれを確認すると、ほんの少しだけ口元を和らげ、そのまま布幕を持ち上げ、消えていく。
なんか……仕事に行く夫を見送る新妻みたいじゃないか、俺。
などと、そんなことを、熱くなる頬を両手で包むようにして考えていたら、
「セレス様」
ラングロワ医師がこちらへ歩み寄って来た。
「はい?」
「申し訳ありませんが、我々も負傷者の経過観察へ戻ります。特にマエルの容態確認を優先しなければ」
医師が、わずかに眉間を押さえる。
「先ほどの通信を聞いて、あれが大人しく寝ているとは到底思えません」
「あー……」
思わず遠い目になる。
分かる。
彼なら「もう治りました!」みたいな顔で勝手に起き上がり、普通に後処理班へ混ざっていてもまったく驚かない。
「本来なら、絶対安静です」
「ですよねー……」
「です!」
医師はきっぱり言い切ったあと、少しだけ疲れた顔でため息をついた。
「あの手の患者は、自分が一度死にかけたという自覚が薄いので厄介です」
「……すみません。なんか、うちの騎士がご迷惑を」
「いえ。長年、医師をやっていますと、こういう患者にも慣れております。彼の場合、回復したこと自体は奇跡ですので」
そう言って、ラングロワ医師はふっと表情を和らげた。
「セレスぼっちゃまも、どうか今はご安静に。魔力切れは見た目以上に、実は身体へ負担がかかっております」
「はい。分かりました」
「本当ですね?」
「……はい」
なぜか少し念押しされてしまった。
医師たちはそれぞれ軽く会釈すると、足早に部屋を出ていく。
ばさり、と布幕が閉じられた瞬間。
「マエルの部屋に直行するぞ」
「君たちは若いんだから、先に行って見て来て下さい」
「はいっ」
「もし、抜け出そうとして居たら、取り押さえて!」
声と足音が次々と遠ざかっていく。布越しに響いていた気配が完全に消えると、天幕の中は急に静かになった。
残っているのは、俺と、ネージュと、シオン、それから数名の控えの者、そして、アルチュールの兄、ロベールだけ――、
「ん?」
ロベール・ド・シルエット殿?
なぜ、ここに残っている?
彼の隣で、モロー隊長が片手を腰に当てながら、こちらへひらりと手を振った。
「おっ、セレスーー!」
俺を見るなり、ぱっと表情を和らげる。
「セレス! よかったよかった。無事そうだな」
「モロー隊長」
「シーさん、ちょっと待ってて。いやぁ、ほんと、とんでもないもの見せてもらったよー」
軽い口調のまま近づいてきて、俺の肩を、ぽんぽん、と叩く。
「正直、途中から戦いながら簡易の遠見魔法で見ていて胃が痛かったけどねー」
とはいえ、さらりと言っているが、戦闘中に遠見魔法を簡易であれ、身体強化や防御術式を展開しながらやる、並列詠唱を当然みたいな顔をしてやるんだよ、この人は。
維持するだけでも本来かなり難しい。高い集中力と制御能力が必要になるのに。
『強いでしょ、あの人』
以前、ジュールが当然のように言っていた言葉を思い出す。
ルクレールが、生まれついた才覚で常識を踏み越えていく天才なら、モロー隊長は、積み重ねた鍛錬でそこへ食らいついた秀才。
彼は、あまりにも軽薄そうな態度に反して、その辺りを当然のようにこなす側の人間だった。
「すみません……」
「そこは謝るところじゃないよ」
即座に否定された。
モローは少しだけ笑って、それから珍しく真面目な声音になる。
「セレス、君が前に出なきゃ、今日この戦場に立った何人かは、たぶん、家族や大切な人が待っている場所に帰れなかった」
まっすぐに俺を見る。
「……それと、まだ正式発表前だから内緒だけどね」
そう前置きしてから、少しだけ声を落とした。
「現時点で、死者はゼロだ」
「――え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
一瞬、天幕の空気が止まった。
「……ゼロ?」
最初に反応したのはナタンだった。信じられないものを見るみたいに、モローを凝視している。
「本当に……?」
ガエたち私設騎士団の面々も、目を見開いたまま固まっていた。
「お、おい……」
「この規模で……?」
「あり得るのか、そんなことが……」
誰かが呟いた声が、やけに大きく響いた。
スタンピードだ。しかも、ナクティスの王まで出てきた。
死人が出てもおかしくないどころか、普通ならもっと酷い被害になっていたはず。
しかし、この情報を耳にして、まったく動じていない者もいた。
ルクレールは腕を組んだまま静かに目を伏せ、ロジェとジュールは微動だにせず、アルチュールも驚いた様子はない。むしろ、どこか張り詰めていたものが少しだけ緩んだように見える。
どうやら、既に王軍やノクターンクラスだけで、一部共有されていた情報らしい。
「もちろん、重傷者はいる。足をリザードに喰われた者もいるし、腕や片目を失った者もいる。無傷で済んだわけじゃない」
軽い口調はそのままだったが、その言葉には現実の重みがあった。
「でも、死者はいない。少なくとも今のところはね。これはかなり異例だよ――奇跡だ」
彼は小さく肩を竦め、ナタンを見た。
「近距離転移で医療班がかなり動きやすかったのも大きい。重傷者の搬送が異常なくらい速かったからね。ありがとう」
そう言ってから、モローは少しだけ目を細め、不意に礼を言われたナタンは、すぐに背筋を正した。
「……勿体ないお言葉です。私は、できることをしただけですので」
「うん。これから君は、色々と大変だと思う」
ナタンは一瞬だけ表情を引き締め、静かに頷く。
「……はい。侯爵から伺っています」
モローは軽く肩を竦めた。
「才能があると、周りは勝手に期待する。だからこそ、休む場所は自分で確保しておいたほうがいい。疲れたらガルディアンにおいで。おやつと紅茶と胃薬がうまいし、癒しのデュラン副警備官が居て、わりと居心地いいよ」
すかさず、ロジェが淡々と口を挟んだ。
「隊長、そこの三人は、ノクターンが狙っています。勝手に勧誘しないでください。あと、美味い胃薬は勧誘材料にはなりません」
それは、そう。と一瞬思ったけど、藤一郎・デュラン副官の作るコンプリマン・アリマンテールの胃薬は、おどろくほどうまいのは確かだ。
「でも、最初に彼らに声を掛けたの、こっちだからね」
モローは、妙に愛嬌のある、木の実でも頬の中に抱えていそうな小動物じみた表情を作ってぼやいた。
「ガルディアンには、オベール警備官が居るのに、居心地がいいわけないでしょう」
ルクレールが即座に切り捨てる。
「大丈夫大丈夫。オベール警備官が、ボンシャン寮監と絡まない限り、だいたい平和だから」
そこで、ふと思い出したようにジュールが視線を上げた。
「そういえば……、ボンシャン先生の使い魔は、最後まで無事だったのですか?」
……ボンシャン寮監の使い魔?
「ヴァルドラ……、ですか?」
俺が聞くと、モロー隊長は軽い調子のまま頷いた。
「暫定的な使い魔だから連れて来るのは賭けだったけど、結果的には影響なし。重傷者に長距離転移で負担はかけられないからね。後方に待機させ王都まで何往復もして、負傷者の搬送にかなり貢献してくれたよ」
言うまでもなく、神獣クラスは人と同様にスタンピードの影響をほぼ受けない。長期固定契約済みの個体も比較的安定しており、この戦場でも問題なく使役できていた。
だが――暫定契約の使い魔は別だ。
契約が浅ければ、魔力暴走や命令系統の崩壊を起こす可能性がある。最悪の場合、使役士自身の手で処理しなければならないこともある。
つまり、ボンシャンは、その可能性まで織り込み済みでヴァルドラを戦場へ投入したということだ。
それでも制御し切った。
暴走を許さず、最後まで搬送任務を遂行させた時点で、あの人の契約力と支配力が規格外なのは、もはや説明するまでもない。
「……相変わらず、とんでもないな。ボンシャン寮監」
思わず呟くと、ルクレールがごく自然に頷いた。
「昔から、あの人はそういうことを平然とやる」
「しかも、だいたい成功させるんだよねぇ」
モローが肩を竦めて笑う。そして、再びモロー隊長は、視線を俺へと戻した。
「君たちが無茶した分、後方の現場もちゃんと仕事したってこと」
彼は、くしゃり、と俺の頭を軽く撫でた。
「セレス……、怖かっただろ」
「……まあ、その……、それなりには」
「だろうな。それでも最後まで立ってた。十分すごいよ」
少しだけ目を細める。
「よくやった。ほんとに」
肩から、ふっと力が抜けそうになる。
「……ありがとうございます」
「うんうん。良い子だ。今は素直に褒められておきなさい」
モローは満足げに頷き――そこで、ようやく俺の腕にべったり張り付いている存在へ視線を落とした。
数秒の沈黙。
「……ところでセレス」
「はい?」
「なんとなく察しはついているんだけど……」
彼は、ゆっくりと人型のネージュを指差して聞いた。
「これ、ネージュだよな?」
ネージュが元気よく手を挙げる。
「そうだぞ!」
モロー隊長が、すっと真顔になった。
「へぇー……」
感心したように頷く。
「驚かないんですね?」
思わずそう尋ねると、モローは肩を竦める。
「うん。一度、シーさんから、彼が冥界でセレスとネージュに助けられたとき、ネージュが人型だったと聞いていたから」
「なるほど……」
納得して頷くと、モローは改めてネージュを上から下まで眺めた。
「しかし、……なんとなくセレスに似てるね」
「うちの子ですから」
俺が即答すると、ネージュがえへん、と胸を張った。
「そう! 俺はセレス成分たっぷりだからな!」
なんだその自己紹介。
だがモローは妙に真面目な顔で頷いた。
「いいなぁ……。じゃあ、どう? シーさんと一緒にガルディアンで警備補助獣にならないか?」
「駄目です」俺は即座に断った。「ネージュは俺の伝書使ですから」
「だそうだぞ、モロー隊長」
ネージュが得意げに腕を組む。
「うーん、残念」
モローは本当に残念そうに肩を落とした。
だが次の瞬間、ネージュがぴっと人差し指を立てる。
「ただし、料理長ヨアヒムの、ラム酒びったびたのラムケーキをくれるなら、休みの日だけ手伝いに行ってやってもいい。あと、隊長とカナード寮監の、日々の何気ない会話とか、休日の過ごし方とか、そういう生活感のある話を聞かせてもらえるなら、なお良しだ」
この腐男子鳥め。萌えの供給か。ちゃっかりしてやがる……。
俺は心の中で深くため息をついた。
「交渉材料がそこなんだ……」と、すぐ背後でアルチュールが呆れたように呟く。
「賢いだろ?」
「食い意地が張ってるだけだ」
そんなやり取りに、モローが吹き出した。
「いいね、採用。なんで俺の日常に興味があるのかは分からないけど、ラムケーキはヨアヒムにちゃんと注文しとくよ」
「よしっ!」
日常に興味があるのは、この鳥が腐っているからです。
しかし、本当に乗るのか……。
ネージュが嬉しそうに拳を握る横で、俺はなんとも言えない顔になる。
だが、そこでモローがふっと笑みを収めた。
「――さて、雑談はこの辺にして」
そう言いかけて、「あっ」ともらしながら、モローがふと思い出したように片手を上げた。
「シーさん。ごめん、もうちょっと待って」
シオンが一歩踏み出しかけたところで、足を止める。
モローはくるりと振り返り、今度はルクレールへ視線を向けた。
「一つだけ」
「……なんでしょう」
ルクレールがわずかに眉を寄せた。
モローはいつもの軽い笑みのまま、「俺、さっき決めたんだよね。何が何でも、ルクレールの目を守り隊の隊長になるって」と言った。
一瞬、ルクレールが珍しく完全に虚を突かれた顔をした。
いつもなら余裕綽々で受け流す男が、ほんのわずかに目を見開き、しばし言葉を失う。
「……なんなんだ、その妙な隊名は」
ルクレールが淡々と返した。
すると横から、ジュールが小さく息を吐く。
「モロー隊長――いえ、ルクレールの目を守り隊の隊長、その件なら、先ほど殿下が動かれました」
「えっ、もう?」モローが目を丸くする。「早すぎない!?」
「既に、コルベール公爵案件です」とロジェ。
「なーーんだ……。これからルクレールの元恋人全員に、歎願署名でももらって回ろうかと思ってたのにー」
そう言いながら、モローは両手を上下に離して構え、
「何枚ぐらい紙が必要かな……と考えてたんだ。……このくらい? ロジェ?」
紙束の厚みでも測るみたいに、わりと真面目な顔で空中に幅を作る。
ロジェが小首を傾げ、眉根を寄せて「うーん……」と唸る。
「なるほど。もっとか……?」
さらに手の間隔を広げる。
「やめてください!!」
今度ばかりはルクレールが即答した。
「ルクレールの目を守り隊の隊長! 山ほど居る元恋人たちの歎願署名は、逆効果です。悪い結果にしかなりません!」とロジェ。「目をえぐるのを防ぐどころか、某所をもぎ取れ、という直訴状になり、別件で慰謝料請求の書類が山のように届く未来しか見えない」
ロジェが淡々と言い切る中、俺はジト目で、無言のままルクレールを見つめ続ける。
「……」
「……」
数秒。
ルクレールは、さすがに居心地が悪くなったのか、わずかに片眉をぴくりと跳ね上げたあと、なんとも言えない顔で天幕の上――つまり、見ても仕方のない空間を見上げ、ゆっくりと俺から視線を逸らした。
だが、それでもこちらからの視線は感じるのか、ほんの少しずつ、少しずつだけ身体ごと角度を変え、距離を取ろうとしている。
なんだそれ。
普段あれだけ堂々としているくせに、妙なところで子供かよ。
こういうのもあって、俺はロジェを兄、ルクレールを弟みたいに思ってしまうんだ。
「……ルクレール?」
静かに名前を呼ぶと、
「昔の話だ」
即答だった。
しかも微妙に早口だ。
「なにが、昔だよ。つい最近までだろ」
俺が言うと、ロジェが肩を震わせ、ジュールがとうとう吹き出した。
モロー隊長が妙に爽やかな笑顔を浮かべて頷く。
「じゃあ、とりあえずその辺の処理は済みそうってことで、もう安心かな?」
「ええ」ロジェが淡々と頷く。「少なくとも、この件に関して表立って反対する貴族は、いないでしょう」
「なるほどね。了解」
軽く肩を竦めると、モロー隊長は、胸元から奇石を取り出した。
「――ロックハート。聞いてた?」
さらりと彼の伝書使へ呼びかける。
《ちーっす。聞こえていた》
「朗報。ルクレールの件、ほぼ解決ってことで、みんなに伝えといて」
《りょ。号外案件だな。流しとく》
「軽っ……」
思わず俺が呟くと、モローは、にっ、と笑い、それ以上は追及せず、うしろのシオンへ視線を向ける。
「それじゃ、シーさん。主に届けるもの――」
言われて、シオンが静かに一歩前へ出た。
純白の巨躯のまま、億千万の理を知るような瞳がまっすぐこちらを見る。
「セレスの大切なものだと思ったので、探した」
低く落ち着いた声とともに、シオンは一度だけモロー隊長へ視線を向けた。
「うん。直ぐに取り出すから」
モロー隊長が、どこか得意げに懐へ手を入れている間に、シオンの身体が淡い白光に包まれた。
柔らかな毛並みは光の粒となって静かにほどけ、人の輪郭へと変わっていく。
数秒後、そこに立っていたのは、白銀の青年だった。
魔力で編まれた衣服を纏い、変わらぬ静かな眼差しでこちらを見つめている。
「シーさんが戦場で探して見つけてさ。一応、元の物質構成魔法に干渉しないようにして、表面だけ俺が洗浄魔法できれいにしといた」
そう言って差し出されたモロー隊長の掌の上には、見慣れた銀の――、
「イヤー……カフ……」
言葉が止まった。
さっきまで聞こえて来ていた誰かの声も、衣擦れの音も、天幕の外のざわめきさえ、ふっと遠のいた気がした。
視界の中心にあるのは、ただ掌の上の小さな銀だけ。
戦闘の最中、ナクティスの王の口内へ放り込み、隙を作るための起点にしたもの。
回収は半ば諦めていたのだが――、
「それは……」
ロジェがわずかに目を見開いた。
当然だ。これは、ロジェと、その弟のニコラから俺へと贈られたものなのだから。
俺はそっと、ロジェへ向き直る。
「ロジェ。これのおかげで、本当に助かりました。ありがとうございました。……今度、ニコラにも直接お礼を言わせてください」
ロジェは一瞬だけ目を細め、それからふっと表情を和らげた。
「ああ。きっと、弟も喜ぶ」
モロー隊長が、イヤーカフをシオンへ手渡す。
「はい、シーさん」
「ありがとう、隊長」
シオンはそれを受け取ると、一歩、俺へ近づいた。
だが、そこでぴたりと止まり、不意に俺の背後へ視線を向ける。
「……主の番」
「ん?」
アルチュールが片眉を上げる。
「これを、私が直接、セレスに装着してもいいか?」
「……ああ」
アルチュールは微妙な顔をしながらも、短く頷いた。
なんで許可制なんだ。
というか、なんで、さっきから誰も俺本人には確認しないんだ……?
俺が若干納得いかない気持ちで二人を見る中、シオンは淡々と告げる。
「主の番に確認することは、とても必要だ。あとで不機嫌になられても困る」
「お前、俺の心が読めるのかよ!?」
思わず突っ込むと、シオンはわずかに首を傾げた。
「さすがに私でも、人の心は読めない。セレスの顔に書いてあったぞ」
アルチュールが眉を寄せる。
「おい。俺は不機嫌にはならない。面倒くさい男みたいに言うな」
「いいえ、なりますねー」
即答したのはナタンだった。
「お前は、セレスが絡むと普通に面倒くさい男だからな」
さらに、さっきまで肩身の狭い思いをしていたルクレールまでが、淡々と追撃する。
「ルクレール!?」
「ほらな。確認して正解だっただろ?」
シオンが静かに結論づける。
「なんなんだよ、この連携は……」
アルチュールが複雑な表情を浮かべて呻く横で、俺は思わず吹き出してしまう。
さっきまで命のやり取りをしていたとは思えないほど、天幕の空気は穏やかだった。
「さて、主……」
笑う俺を見て、シオンがようやくイヤーカフを耳元へ近づける。
ひやり、と銀が耳に触れ、瞬く間にそれはわずかに形を変えて耳殻に沿うようにぴたりと張りついた。
馴染んだ感覚に、ほっ、と息を吐く。
「完了した」
「ありがとう、シオン」
「うん」
短く頷くシオンの横で、アルチュールがまだ若干不満そうな顔をしている。
「また焼きもちですか?」と俺が聞くと、
「……だから、焼きもちじゃない」
アルチュールは低い声でそう答える。
微かにムッとした顔が可愛くて、口元が緩んだ。
「あっ、そうだ」
ふと思い出し、俺はシオンへ視線を向ける。
「預かってたもの、返すな」
「……ああ」
シオンが小さく頷いた。
俺は腰の拡張ポケットへ手を伸ばし、ベネンを当てる。
淡い光が一瞬だけ走り、収納空間が静かに開いた。
その中から一枚のコートを取り出し、シオンに差し出すと、
「セレス、ちょっと待ってくれ。元の姿に戻る」
「うん?」
「着せてくれるか、主?」
「……ああ、分かった」
刹那、彼の骨格が伸び、四肢が組み替わり、数秒後には、見慣れたフェンリルの姿がそこにあった。
神獣らしい神々しさと圧倒的な威容。
――なのだが、俺にはもう、どこか大型犬めいた親しみやすさまで感じてしまう。
もちろん、これは俺や、普段から彼と接しているごく一部の近しい人間だけの感覚だろう。
実際、シオンが元の姿へ戻った瞬間、周囲の気配わずかに張りつめる。入って来たときもそうだった。
ガエたちが、思わずぴくりと身体を硬直させ静まり返っている。
……ああ、やっぱり、普通はそういう反応になるよな。
俺の感覚が麻痺しているだけで、本来ならば、見る者に畏怖を抱かせる存在なのだろう。
それから俺は、ゆっくりと、丁寧にコートを広げた。
「ほら、じっとしてろ」
深い碧色の布地を背へ回し、左右を整えながら前で留める。
白銀の毛並みに、よく映える。
襟元を軽く整え、肩の位置を直してやると、シオンは大人しくされるがままになっていた。
「よし。こんなものかな」
最後に胸元をぽん、と軽く叩く。
シオンは首を巡らせ、自分の姿を確認するように一度だけ身体を揺らした。
「どうだ、主?」
「似合ってるよ、シーさん」
素直にそう言うと、シオンの耳がぴくりとわずかに動いた。
「いかしてるねえー」
横から、まだ人型のままのネージュが、うんうんと満足げに頷く。
そんなやり取りのあと、不意に、アルチュールが一歩前へ出た。
少しだけ押し黙り、言葉を探すように間を置く。
「……シオン」
呼ばれて、シオンが静かに顔を向けた。
「なんだ、主の番?」
「さっきは……助かった。お前がエピンの腕を止めなかったら、あの剣は俺の身体を貫いていた」
「鍛錬不足だな」
「ルクレール……」
「周囲への意識配分が甘い。正面に集中しすぎて、死角の気配を拾うのが遅いんだよ。帰ったら、また鍛えてやる」
「ああ、反論する言葉もない」
あの刃先の感触でも思い出したのか、アルチュールの表情が硬くなる。
俺も、あの瞬間を思い出して胸の奥がひやりとした。
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律儀だな、と少しだけ笑いそうになる。
シオンはしばらく考えるように沈黙し、それからぽつりと言った。
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「……チーズ?」
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そういえば。
シオンがやたらとチーズに目を輝かせるようになったきっかけ、それだったな。
「そんなことでいいのか?」
「とても、とても重要だ」
きっぱり断言される。
すると、そこで後ろから穏やかな声が入った。
「それなら、私が取り寄せよう」とロベール。
「兄上」
「熟成庫に保管されているものを、後日、学院宛に届けさせる」
シオンの耳が、ぴくりと大きく動いた。
「……本当か?」
いつになく声に期待が滲んでいる。
ロベールは、わずかに口元を和らげた。
「ああ。本当だ。弟を救ってくれた恩を返さないとな」
「それは、嬉しい」
シオンにしては珍しく、声がほんの少しだけ弾んだ。
「セレス、チーズだ! チーズをアテに、ダンサーもデュボア寮監も翁も呼んで、一緒にワインを飲もう!」
フェンリルから、飲み会に誘われてしまった。
「お前、すっかり楽しみ見つけたな……」
思わず苦笑した、そのときだった。
モロー隊長、ロジェ、ルクレール、ジュール他――それぞれの胸元に下げられた奇石が、ほぼ同時に淡く明滅する。
「ん?」
モロー隊長が奇石に触れる。
時を同じくして、一斉に天幕の外も、にわかにざわつき始めた。
人の足音。呼びかける声。慌ただしいけれど、どこか安堵を含んでいる。
「……どうやら、トレモイユ家が兵站物資の放出を始めたみたいだな」
奇石からの内容を確認したアルチュールが、顔を上げる。
「温かいスープとパン、それから簡易浴用の湯も用意されたらしいぞ、ナタン」
「はい。私のところにも、オグマから同様の連絡が入りました」
ナタンが静かに頷いた。
「セレスさま。少しうちの天幕の様子を見て参ってもよろしいでしょうか。配布導線や負傷者を優先する列整理も必要になるかと。すぐ戻ります」
「ああ、もちろん」
俺が頷くと、ナタンは一礼して足早に出ていった。
相変わらず仕事が早い。
「こっちは別件だ」
ロジェが淡々と告げる。
「魔獣死骸の後処理班が人手不足とのこと。感染症対策のため、魔術浄化に長けた者は速やかに集合――だそうだ」
「確かに……あの死骸の山では人手も足りないだろう。放置すれば、瘴気や残留魔力で周辺の畑や牧草地、水場まで汚染される。時間との勝負だ」
ルクレールが、やれやれ、とため息をついた。
ロジェがさらに続ける。
「シオンがグールやゴブリン系統をかなり処理してくれたおかげで数は減っているが、素材として使えない残存死骸は焼却処分へ移行。火属性要員も追加招集。ということで、呼ばれてるぞ、ルクレール」
「ああ、くそ。了解。面倒だが、後始末まで含めて戦だ。疫病でも出したら、今日助けた人間まで死ぬ。直ぐに俺が出ると返信しといてくれ。ロジェ、こっちに来た報告は、バジリスク・リザードの素材回収だ」
今度はルクレールが自分の奇石を見ながら眉を寄せる。
「腐敗防止魔術をかけた上、至急回収しろってさ。風属性、水属性、それから解体技術のある刃物使いを寄越せ、だと。……欲張りだな」
「高級素材だからな」ロジェが冷静に返し、頷く。「俺とジュールが行く」
「じゃあ、俺は浄化担当かなー」
明るい声で、モロー隊長がひらりと片手を挙げた。
すると、ガエも胸元の奇石を確認して口を開いた。
「私のところにも同じ情報が入りました。我々コルベール家私設騎士団は、これより手分けして各支援に向かいます」
そう言って背後の団員たちを振り返ると、皆も頷く。
「了解!」
「行くぞ!」
さすがに動きが早い。
そのとき、アルチュールが一歩前に出た。
「そちらに合流していいですか?」
「え?」
思わず俺が声を漏らすと、アルチュールは淡々と言った。
「まだ身体は動く。後方支援なら問題ない」
いや、お前さっき、刺されかけてただろ。
そう言いかけた俺より先に、ルクレールがじろりと見る。
「無茶はするな」
「分かっている」
ガエが少しだけ口元を緩める。
「こちらとしては助かる。ぜひ」
「よろしくお願いします」
アルチュールは小さく頭を下げてから、軽く肩を回した。
なんだか少しだけ楽しそうに見えるのは、気のせいじゃないだろう。たぶんこいつ、こういう現場仕事みたいな空気、嫌いじゃない。
「じゃあ、行ってくる。セレス」
「……俺も」
言いかけた瞬間だった。
「駄目だ。魔力切れ起こしたんだから、先に温かいものでも口に入れて大人しく待ってろ。終わったら戻る」
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少し見上げ、微かに目尻を下げて、できる限り無害そうな顔を作ってみせる。ついでに、首も傾げた。
無言で訴えると、アルチュールは一瞬だけ目を細めた。
「……セレス、その顔どこで覚えた」
「なんのこと?」
「絶対わざとだろ」
呆れたようにため息をついてから、きっぱりと言い切る。
「駄目だ」
チッ、効かないか……。内心で小さく肩を落とした、そのとき。
ふと視線を横にやると、なぜかコルベール家私設騎士団の面々がカチコチに固まって顔を真っ赤にしていた。
「留守番してろ」
「……分かったよ」
そこまで言われると、さすがに反論しづらい。
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「……絶対に半年後に別れる呪いをかけてやる」
ジュールが横で肩を震わせ、ロジェは無言で下を向く。たぶん笑いを堪えている。
「まあまあ」
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ルクレールは最後にもう一度だけ俺たちを見て、やれやれ、と首を振った。
「行くぞ。早めに片付けて終わらせる。……甘ったるいもんを見せつけられて胸焼けはするが、俺は、腹は減っているんだ」
「ああ」
「では、失礼します」
と、ルクレールたちは、それぞれ短く言葉を残して出ていった。
入口の布が揺れ、少しだけ外気が流れ込む。
「では、ぼっちゃま、我々も行ってきます」
「ガエ、気を付けて」
そう返した直後、最後尾を歩いていたアルチュールが、ふと振り返った。
足は止めないまま、ほんのわずかにこちらへ顔を向ける。
そして、声には出さず、口の動きだけで告げた。
『いってきます』
……なんだ、それ。
そんな些細な仕草なのに、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
俺は苦笑しながら、小さく手を振った。
アルチュールはそれを確認すると、ほんの少しだけ口元を和らげ、そのまま布幕を持ち上げ、消えていく。
なんか……仕事に行く夫を見送る新妻みたいじゃないか、俺。
などと、そんなことを、熱くなる頬を両手で包むようにして考えていたら、
「セレス様」
ラングロワ医師がこちらへ歩み寄って来た。
「はい?」
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医師が、わずかに眉間を押さえる。
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「あー……」
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分かる。
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「本来なら、絶対安静です」
「ですよねー……」
「です!」
医師はきっぱり言い切ったあと、少しだけ疲れた顔でため息をついた。
「あの手の患者は、自分が一度死にかけたという自覚が薄いので厄介です」
「……すみません。なんか、うちの騎士がご迷惑を」
「いえ。長年、医師をやっていますと、こういう患者にも慣れております。彼の場合、回復したこと自体は奇跡ですので」
そう言って、ラングロワ医師はふっと表情を和らげた。
「セレスぼっちゃまも、どうか今はご安静に。魔力切れは見た目以上に、実は身体へ負担がかかっております」
「はい。分かりました」
「本当ですね?」
「……はい」
なぜか少し念押しされてしまった。
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平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。
基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。
一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。
それでも宜しければどうぞ。
トイレで記憶を失った俺は、優しい笑顔の精神科医に拾われる
逆立ちのウォンバット
BL
気がつくと、俺は駅のトイレで泣いていた。
自分の名前も、どうしてここにいるのかも分からない。 財布の学生証に書かれていた名前は、“藤森双葉”。
何も分からないまま駆け込んだ総合病院で、混乱する俺に声をかけてくれたのは、優しい笑顔の精神科医・松村和樹だった。
「大丈夫ですよ」
そう言って、否定せず、急かさず、怖がる俺を受け止めてくれる先生。
けれど、失った記憶の奥には、思い出したくない“何か”があるようで――。
記憶を失った大学生と、穏やかな精神科医の、静かな救済の話。
※毎日22時更新予定
愛しのスパダリに窮地を救ってもらってエンダァァァ!したと思ったらスパダリが誠実すぎてゴールラインを超えられなかった件
KP
BL
突発的な短編その二。
これまたタイトル通りです(笑)
よろしければどうぞ。
小悪魔系世界征服計画 ~ちょっと美少年に生まれただけだと思っていたら、異世界の救世主でした~
朱童章絵
BL
「僕はリスでもウサギでもないし、ましてやプリンセスなんかじゃ絶対にない!」
普通よりちょっと可愛くて、人に好かれやすいという以外、まったく普通の男子高校生・瑠佳(ルカ)には、秘密がある。小さな頃からずっと、別な世界で日々を送り、成長していく夢を見続けているのだ。
史上最強の呼び声も高い、大魔法使いである祖母・ベリンダ。
その弟子であり、物腰柔らか、ルカのトラウマを刺激しまくる、超絶美形・ユージーン。
外見も内面も、強くて男らしくて頼りになる、寡黙で優しい、薬屋の跡取り・ジェイク。
いつも笑顔で温厚だけど、ルカ以外にまったく価値を見出さない、ヤンデレ系神父・ネイト。
領主の息子なのに気さくで誠実、親友のイケメン貴公子・フィンレー。
彼らの過剰なスキンシップに狼狽えながらも、ルカは日々を楽しく過ごしていたが、ある時を境に、現実世界での急激な体力の衰えを感じ始める。夢から覚めるたびに強まる倦怠感に加えて、祖母や仲間達の言動にも不可解な点が。更には魔王の復活も重なって、瑠佳は次第に世界全体に疑問を感じるようになっていく。
やがて現実の自分の不調の原因が夢にあるのではないかと考えた瑠佳は、「夢の世界」そのものを否定するようになるが――。
無自覚小悪魔ちゃん、総受系愛され主人公による、保護者同伴RPG(?)。
(この作品は、小説家になろう、カクヨムにも掲載しています)
悪役に転生させられたのでバットエンドだけは避けたい!!
あらかると
BL
主人公・日高 春樹は好きな乙女ゲーのコンセプトカフェの帰りにゲーム内のキャラに襲われ、少女によってトラックへと投げ込まれる――――という異常事態に巻き込まれ、挙句の果てに少女に「アルカ・スパイトフルとして生きて下さい」と。ゲームに似ている世界へと転生させられる。
ちょっと待って、その名前悪役キャラで最後死ぬキャラじゃないですか!!??それになぜ俺がそんな理不尽な目に合わないといけないんだ・・・!!ええっ!
あっ!推しが可愛いーーーー!!と、理不尽に心の中で愚痴りながらも必死に、のんびりと気軽に過ごすストーリ(になるはず)です。
多分左右固定
主人公の推し(アフェク)×主人公(春樹)
その他cpは未定の部分がありますが少し匂わせで悪役であったアルカ(受)あるかと思います。
作者が雑食の為、地雷原が分かっていない事が多いです。