水守の手《ホラー・BL風味》

よしの こひな

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後編

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 台所には、濡れた水音だけが、ぽと、ぽと、と鳴っておりました。

 動けませんでした。

 背筋を、冷たい何かが撫でてゆく感覚。
 そのくせ、部屋の空気はどこまでも熱く、湿っている。

 『それ』が、私の足元にまで迫ってきたとき。

 シンクの上――そこには、洗った空のコップがもうひとつ、伏せたまま置かれていたはずでした。

 それが、突然、音もなく転がり落ちたのです。

 ガランッ……パシャ……ン。

 割れはいたしませんでした。
 けれど、何も入っていなかったはずのコップから、水が……溢れ出たのです。

 まるで誰かがそこに水を注ぎ、そのまま床へ流したかのような量でした。

 床に広がった水の中から、ひとつの『水の手』が、静かに、けれど明確な意志を持って、こちらへ伸びてまいりました。

 そちらの水は、先ほどとは異なりました。
 冷たいのでも、ぬるいのでもない。
 少しだけ涼やかで、夕立のあとの清流のような匂いがいたしました。

 触れられた瞬間、私は悟りました。

 これは――『あいつ』の手だと。

 事故で命を落とした友人。あいつの手でした。

 なぜ、そう確信できたのかは、わかりません。
 けれど、右手に包み込まれた感触が、何よりも確かなものでございました。

 目の前には、『水の何か』が、私をどこかへ引き込もうとしていました。
 けれど、それを遮るように、あいつの手が、私を引き止めてくれたのです。

 そして――次の瞬間、もう一本の『手』が現れ、勢いよく『水の何か』に突き刺さりました。

 ズッ……。

『水の何か』は、しばらくして形を保てなくなり、私の眼前で崩れていきました。
 私の目の前で起きたのは、まさしく『祓い』でございました。
 その後には、ただの水たまりだけが残されていたのです。

 あれほどまでに張り詰めていた空気は、いつの間にか消え失せておりました。
 夜蝉の声も戻り、風も、再び吹き始めておりました。

 気付くと、私はその場にしゃがみ込んでおりました。

 右手に残る感触。
 川の冷たさでも、夏の汗でもない。
 どこか、夕暮れ時のぬくもりのような温度。

 思えば、葬儀のとき、私は泣くことができませんでした。
 あいつの家族が背中を震わせているのを見ながら、私はどうしても泣けなかったのです。現実感がないまま、ただ呆然と立ち尽くし、自分のせいではないのかという罪悪感ばかりが胸を満たして、涙が出なかったのでございます。

 四十九日のあの夜、あいつは、泣くことを許してくれたのかもしれません。

 ──もしかしたら。

 私があいつを「親友」と呼びながら、胸の奥のどこかで、それ以上の想いを抱いていたこと……、彼は、とうに気づいていたのかもしれません。
 そして──あいつの側にも、同じような想いが、あったのではないか。

 伝えることは叶いませんでした。
 けれど、もしほんの一瞬でも、気持ちが通い合っていたのだとしたら。

 それだけで、もう、十分すぎるのです。

 ◇

 いまも、ときおり思い出します。

 あの水音。
 あの感触。

 そして、あの声なき声。

 ――「駄目だ。行くな」

 もし、もう一度だけ、あいつに会えるのなら。

 今度は、ちゃんと顔を見て。
 きちんと、言葉にしたいのです。

 「ありがとう」と。

 ――水の底から、届いた君の声に。

……終……
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