捩れた鎖

銀色小鳩

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捩れた鎖

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 この地方には古い言い伝えがある、大切にしていたものと自分の体の一部を箱に入れて贈り、そのまま命を絶てば、その大切なものが呪具となり永遠に贈った相手を縛り付ける。そういう言い伝えが。

 彼女がくれた指輪には鎖が通っている。指輪を付けられない作業の間首から下げられるようにと、指輪と一緒に贈られたものだ。
「ずっと一緒にいようね」
 プレゼントされたときに聞いた、甘い彼女の声を辿るように、同じ言葉を呟く。
 鎖を自分の首に巻いたあと左右に引っ張ってぎゅうと締めた。ああ跡がついた。彼女の跡だ。

 静香しずかはいつまでも大切に包み込んでいたい「女の子」だった。
 兄と結婚するまでは。

 のこぎりのように鎖を横に引くと、肌は赤く擦りけた。首の皮膚が、やっと少しだけ心と同じになった。この首を、この傷を、あの子にいますぐ見せてやりたい。静香が無かったことにした鎖は今もこの首に巻き付いている。ほら、ほら、ほら……、みてほら赤くただれて何度も何度も、あなたの鎖がわたしを苦しめる。見てほら見て、見ないの、わたしを見ないの? いつから見ないのあなたはわたしを見ないの。忘れているの。

 無理、もう無理、彼女との甘かった会話が全て、わたしの体に残り続ける。跡を見せたからといってわたしの傷は癒えない。
 わたしの部屋に来ていたのに、わたしだけを見ているわけじゃなかったのか。
ゆきの友達、あの子、なんていうの」
「あの子、可愛いね」
 兄の言葉に、あの頃のわたしは「わたしの彼女だからね」と優越感を持って心の中で返していた。今は、兄の言葉が浮かぶたびに、体の奥底から冷え切った溶岩がどろどろとわたしの血管も心臓も傷つけながら巡っていく。

 指輪をめてからゆっくりと刃先を指の根本ねもとに当て力を入れていく。ある一点を過ぎると痛みでそれ以上刃を進めることができなくなる。わたしはこの指を、静香につながったもの、静香自身だと思う事にし、「彼女」へ一気に刃を沈ませた。
 この流れる血など、もう、なくなってしまえばいい。
 自分の切った芋虫のような指先を眺める。わたしはやっぱりこの指輪に捕まってしまっている。指輪を返すときはこの心臓を返すときだ、心臓に一番近い薬指はわたしの心臓だ。

 なぜ兄にした。
 同じものを感じる、その一点くらいは残してほしかった。せめて兄を諦める痛みを同じように味わってほしかった。この痛みを私に植え付けるなら、同じ痛みを分け合ってほしかった。
 この首を、この指を、この魂を込めた指輪の箱を見せても、わたしの感じる痛みの全てを静香に与えることはできない。
 感情の渦巻く地獄に突き落としておきながら、自分だけがジブンダケガ……何故ドウシテそのまま生きられると思うのか。ドウシテ。

 わたしの首に跡をつけた愛しい鎖と指のついた指輪を、静香がくれた時の小さな箱に入れる。唇から飛び出す呪詛の言葉をもうとどめることはできない。

 ユルサナイユルサナイユルサナイ


 毎日顔を合わせる夕餉のテーブルで、兄はどんなに彼女が可愛いかを、どのように幸せにするのかを語る。
 その可愛い彼女はオマエのものじゃない、そうじゃなかった。あの可愛い笑顔の残像がくしゃっと笑ったまま目の前で滲んで歪み、わたしはその映像をもっと歪ませようとして、ねじれた糸のように彼女の映像を想像の中で絞り潰していく。
 聞かせないで。もう聞かせないで。この家系から縁を切ることなしには、わたしはもう静香から離れられないのか。

 わたしをこの家から追い出した。
 わたしをこの世界にいられなくさせた。
 ――裏切者。なぜ関係のない他人にしなかった。

 感情も体も心も魂も立場も全て、わたしを苦しませたこの鎖で雁字搦めにしてやりたい。命の花をその根から摘み取りもう二度と人前で咲かぬよう、わたしの中に取り込んでしまいたい。深く痛みを与えるこの沼にずぶずぶと引きずり込んで、ぬるつく指で静香の体を覆いつくし締めて滅してしまいたい。わたしもろとも。

 オマエヲシアワセニナドゼッタイニサセナイ

 この体が大きなへびになり初夜の床へ這いずり、静香の体に巻き付き、そのまま絞め殺す夢を、何度も視たのだ。

 婚約の両家の集まりの席で、無機物の石のようにただそこにあるわたしを見て、母があなたもいい人を見つけて色めけばいいのにと言った、その言葉は誰のせいでわたしに刺さったのか。わたしが何度も美しい、可愛いといってきた静香の面影はわたしを責める刃になった。彼女の美しさを見習ってお前が変われといいたげに、母の言葉は家族ごとわたしを置いてきぼりにしていく。

 二度とあの体には触りたくない。
 ――裏切者。
 触りたくないのに、わたしは触りたくないのに。

 オマエハワタシノモノダ

 彼女を攫おうと蛇は彼女へと擦り寄っていく。這いずる蛇はわたしではなく彼女が遺した鎖だ。

 結婚式のあの夜、幸せそうに笑う二人を見ながら、無表情で座るわたしからは鎖が垂れさがっていった。はじめはかすかに首に傷をつける程度の、肌を引っ掻く程度の細い鎖は、床へと潜り込んでいき、その先端を地中に潜らせるたびに深海魚の内臓のように圧力を増し、太く重い強固なものになっていく。その鎖が愛なのか、兄へと続く家系の濃い血へと繋がっていくものなのか、わからない。この首を絞めてくる強い力は、彼女のくれた指輪に繋がる鎖なのか。わからないまま、鎖は地面の下の奥底の暗がりへと伸びてゆく。わたしの感情を黒く塗りつぶし圧縮し、暗い地中に連れて行く。わたしを引きずりこもうとしてこの首を絞めてくる。息ができないほどに。

 静香、静香静香静香。
 この名前がわたしを呪詛のように縛り付けている。わたしを苦しめるその鎖を力強く引くのがそんなに悪いことか。

 彼女のウェディングドレスは白く眩しそうだった。あまりにふわふわとして、本当の世界にあるようには思われない……あの生々しい肉を手繰り寄せてそのままむしろ貪り食ってしまいたい。

「静香」
 静香に箱を渡すことにしたのは、蒸し暑い夏も終わり虫の声も聞こえなくなりはじめるころ、静香が兄と結婚して一年目の結婚記念日だった。わたしの体は冥府へ伸びる鎖と繋がっている。生き物の気配がなくなっていく土の、湿った冷たさだけが鎖を通して上がってきている。指輪と一緒にわたしの切った指を入れたので箱の中は血でぬめっている。
「開けてみて」
 箱を開けた彼女の喉からヒッという息を鋭く吸う音が聞こえ、箱が転がり落ちる。わたしは落ちた箱を丁寧に拾って、くずおれて座り込んだ彼女の両手に持たせる。わたしの薬指が無いのを見た彼女の目が恐怖とも心配ともつかない色に染まりわたしを見つめる。
 今狂ったのではない、兄との結婚が決まったときから狂っていた、もしかしたら静香がわたしを裏切るよりも、もっとずっと前からわたしは狂おしさを抱えていた。わたしは彼女の前で自分の赤くただれた首をなんども血が流れ出る薬指でなぞり、彼女の首に爪で傷をつけた。
「一緒に買った指輪と鎖は、どうしたの? 指輪と鎖は、どうしたの?」
 彼女に問いながら、彼女の首を掴んで床に縫い留めた。
 ゆっくりと彼女の首を絞めながら、二人を眠りへ誘う子守唄を歌う。静香の体がびくびくと終末から逃れるように跳ねる。なんと美しい命の躍動だろう。許さない、許さない、許さない。
 数分して彼女の意識が薄れたあと、胸元から紐を取り出し彼女とわたしの首を一緒に結わえてドアノブにかけると、二人の体が地に落ちていくようにと体重をあずけた。
 彼女がくれた永遠を誓う指輪のなかに、わたしは永遠に閉じ込められた。だからわたしも彼女を逃がさない。二度と他の人間の前で笑い咲くことのないように鎖でつないで冥府へ連れて行く。

 わたしの体がびくびくと終末から逃れるように跳ねる。ああ、ずっと苦しかったこの苦しみを、体がやっと表現している。わたしたちの体が同じように同じ季節に脈動し、その脈動を終えて、あたたかみをなくす、その最期の彼女の熱をわたしは誰にも渡さない。

 静香も兄もこの家も、この部屋に入る人間も。虫一匹ですら、わたしの行けない光の場所へ向かう事がないように、この部屋に入る生きとし生けるものはわたしがすべて滅してやる。

 ふと気が付くと、目の前にはわたしが両手に捧げ持った箱がある。さっき渡したはずなのに、さっきこの部屋には入ったはずなのに、さっき確かに静香を冥府へ鎖でつないで連れていったはずなのに。わたしは何度めかの夢を見る。

「静香」
 その部屋に入るとわたしは必ず静香を見つける。
「開けてみて」
 苦しみ抜いた死に顔を眺めたはずの静香は何度も蘇り、わたしのまえにたたずみ、指輪の箱を受け取る。
 箱を捧げ持つわたしの手指も瑞々しさをとうに失った。皮膚すら失い骨が見えている。

 何度も回転を続けるメリーゴーラウンドは、いまわのきわにみるただの夢なのか。回転木馬は悪夢のようにわたしに眩暈を起こさせる。眩む景色が、呼吸苦のために起きた眩暈なのか、夢なのかをもう判断はできない。わたしの周りを口を大きく裂けさせたピエロや双頭の馬が回っている。いつからわたしはここにいた? 何度静香を呼んだ? どこからが夢でどこからが呪いなのか。何度この景色は回転したのだろう。
 わたしは何度静香をこの手にかけたのか。

 何度目なのか。何度もドアは開かれ、何度もわたしはそこに立ち尽くす静香を見る。
「静香――開けてみて」
 部屋はいつのまにか薄暗く影のようになり、美しかった壁紙は剥がれドアノブは錆びて人の気配が無くなっている。鉢植えの花は枯れ、庭木は手入れもされず雑草が音もなく揺れている。

 静香静香静香。
 いつまで静香はわたしを縛り続けるのか。

 とぐろを巻いたわたしの体は太い鎖となり二人をよじり合わせている。鎖は渦を巻くように床下深く地中へと沈み続けていく。
 永遠に。
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