Apple Field

水晶柘榴

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序 旅立ち

(05) 試 -タメシ-

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「月が出ているのか……」

 先程まで暗いと思っていたが、渡り廊下に出たところで、明かりが射した。冷たい空気の中、空に浮かぶ望月つきがあまりに美しく、息を呑む。決して昼間のようというわけではないが、手のひらの手相しわが見える程には明るく、薄青い光に照らされた石造りの廊下が、どこか神秘的だ。

「……」

 今まで仮眠室かみんしつで休憩を取っていた。仕事の都合上、睡眠時間があまり取れないので、グウに戻った時は必ず仮眠かみんを取ることにしている。同時に必ず主人のヤカタに報告に上がっていることから、緊張を解きほぐす目的もあるのだろう。

 ムグラは肩の力を抜いて、息を吐き、それから再び歩き出した。鼻をかすめる湿った土の香りに、目的地のすぐそばに居ることを、今更のように感じ、苦笑くしょうを漏らした。すぐ近くに歩みを進めているというのに、もどかしい。気がせいてしまい、歩けば歩くほど、遠い場所に向かっているように感じてしまう。

 月明かりが照らす中庭は、渡り廊下などとは比べるべくもなく、より美しかった。花の季節ではないが、それでも整えられた緑を見れば、自然と心が穏やかになる。そんな庭に、少女が一人空を見上げていた。

 ムグラは少女に近づく。

「……望月まんげつを見上げるものではない」

「ムグラ様……!」

 声に振り向いた少女は、ムグラの姿を捉えるとともに、頬をほころばせた。花など咲いておらずとも、可憐な少女の笑みがこの場に彩りを与えていた。

「わたしはあまりおつむが良くないのです。なぜ満月まんげつを見上げてはいけないのですか?」

 長い髪をなびかせ、少女が首をかしげた。不思議そうに尋ねる丸い目が愛らしく、ムグラは目を細めて、少女の頭を軽く撫ぜる。

「月は神の化身けしんだ。女性が一人で月を見れば、神に見初みそめられ、連れて行かれるらしい」

「まぁ。せっかく美しい月ですのに……。でも、ムグラ様が一緒では問題が無いのでしょうか?」

 名案だと言いたげに笑う少女の姿に、思わず数年前のことを思い出す。彼女と初めて出会ったのも、この場所だった。月明かりに照らされ、色とりどりの花がほころんだこの場所で、彼女を見つけた。



寝床ねどこを追い出されてしまいました』

 部屋を追い出されたという、当時の彼女はまだ12で、ちょうど成人したばかりだと言っていた。花の前で俯いて泣いた彼女が哀れで、寝床ねどこを提供したのだ。部屋に案内した時の彼女の戸惑った様子は今思い出しても、微笑ましく、面映おもはゆい。

『武官様、なんとお礼を申し上げれば良いのか…』

 そう言った彼女の微笑みは、今とさして変わらないが、決して悪い意味ではない。花に囲まれた少女は、いついかなる時も、この場所でムグラを迎えてくれた。彼女はムグラの戻る場所となっていたのだ。どんな厳しい任務を言い渡されたとしても、彼女の笑顔が一筋の光であるかのように、癒しを与えてくれていた。当時も職務が忙しかったために、グウにはほとんど戻らなかったのだが、戻った時は必ず、彼女と出会ったこの場所を訪れていた。

『ムグラだ。私のことは皆そう呼ぶ』

『まぁ、ムグラ様、ですね! わたしの名は―――』



「―――チカシ」

 あの時名乗る彼女に背を向け、ムグラは机に向かった。しばらくは静かな空気が、彼女の緊張を伝えていたのだが、やがて小さな寝息を立てた。彼女の寝姿を見たのは、あの時一度きりだ。

「たしかに、二人共におれば。見初みそめられぬやもしれん。しかし、望月まんげつはこれから欠ける、終わりの象徴しょうちょうだ。二人で見上げるならば、我らの道は分かたれるやも知れぬな」

「えっ……」

 チカシ、そう呼ばれた少女の眉が下がり、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。多少の罪悪感が浮かぶが、それ以上におのれと離れがたいと思っているらしいことが嬉しく、より笑みを深めた。

「なんだ。チカシは私と共に有りたいか?」

「む、ムグラ様……それは……」

 チカシの頬はみるみる朱に染まる。ムグラはそんな彼女と目線の高さを合わせ、顔を覗き込んだ。初心うぶな彼女は感情を素直に伝えてくれる。嬉しさのあまり涙を流すことを知っていながら、おのれを喜ばせるその姿が見たくて、何度も彼女の心を試すのだ。その行動は愚かとも言えよう。

「……私は、またここを離れる」

「ハイ……」

 頬を染め上げた、涙目の少女の切なげな顔に、胸が締め付けられる。初めて会った時、彼女はまだ子供としか言いようのない少女だった。彼女と最初にこの中庭で出会い、それから何度も偶然の逢瀬おうせを重ね、いつの間にか、女性のような表情を見せるようになっていた。

 不意に、抱きしめたい衝動にかられ、おのれ叱責しっせきする。まだまだ、彼女は少女だ。決して、ムグラ自身の感情で動いてはいけない。それでも、おのれを見つめる瞳を、果たして子供と言えるだろうか。

「次も、チカシに会えるかは、分からぬ」

「……はい」

 チカシが小さく頷いた。

「だが、チカシとともに過ごした、この中庭での時間は私の宝だ」

「……はい」

「だからこそ、これを受け取って欲しい」

 不意に、ムグラはおのれふところに手を入れた。今日会えたら渡そうと思っていた。今日会えるかは賭けだったが、会えるだろうという、確信のような物があった。

「ムグラ様…これは……」

 渡されたのは、広げた状態でも、手のひらに収まるほどの、紙片しへん。しかし、その価値はただの紙切れではないことを知っている。

「また会おう、チカシ」

「……ハイ」

 少女の目から涙がこぼれ、頬を伝った。

 ムグラは、またこれから、グウを離れ、都を離れることになっている。言い渡された任務はあまりにも大切で、彼女を優先することはできなかった。

 不意に、ヤカタの執務室で見た、青年の姿を思い出す。彼とムグラはよく似ていた。ムグラがヤカタから与えられた仕事を重んじて、しがらみから抜け出せないように、彼も絡め取られてしまうだろう。人間の感情があるのならば、彼はこれから世界を救う。見捨てることなど、できやしないのだ。

 良心とは、厄介な感情なのだから。



 松明たいまつの揺れる炎が辺りを照らす。東と西で、空の色が明確に違うということにも気づかぬまま、両者は武器を振るい続けた。もっとも、仕掛けているのはカツミばかりで、アガタはその攻撃のすべてを受け流している。

「そろそろ疲れが出てきたのではないか?」

「どういうわけか、高揚こうようして疲労ひろうを感じない……!」

 カツミは全力でコンを振るいながら、疲れたとは思わなかった。戦うことがただ楽しくて、目の前の相手を負かしたい一心で動き続けた。

 武人として高い実力を誇るアガタにとって、カツミの攻撃など素人しろうと同然だったのだが、それでももう何時間もこの状態だ。最低限の力で動いていても流石さすがに疲れてきている。本職の自分よりも彼の体力が高いということなのか、それとも本当に高揚こうよう感から疲れに気がついていないのか……。

 いずれにせよ、長時間戦い続けるなどとは不可能に近い問題だ。鍛えれば化けるに違いない。アガタは目の前のカツミの武術指南が、これから楽しみに思えてきた。

「やっ」

 カツミが足元を狙えば跳躍ちょうやくで避けられ、喉元をつこうとすれば、体をひねってコンを交えて流される。アガタから反撃を受ければ、カツミも器用に体をらしたのだが、それはやはり武人の動きではない。それでも素人しろうとでここまでできれば上々だ。

 そういえば、カツミは視力が高いのだ。動体視力もいいのかもしれない。その動体視力と相手の攻撃に、体がついていけるのだから、身体能力もそれなりなのだろう。

「もったいないな。私の部下ならば、よい武人になるだろうに」

「それはよかった」


 その言葉の一瞬後、アガタに隙ができたように見えた。


「ふっ……!」

 カツミは容赦なく、アガタの腹に向けてコンを突き出す。

「甘い!」

 しかし経験の差とでも言うべきか、得物えものはカツミの手から離れ、逆に喉に突きつけられてしまった。

「……」

 カツミが両手を挙げたので、アガタはコンを下ろす。すると彼も満足気な顔で、両手を下ろした。

「……救世主きゅうせいしゅ殿、座ってみろ」

「名で呼べ。俺はカツミだ」

「そうだった。カツミ、いいから座れ」

 いきなりの呼び捨てに少々ムッとしながらも、カツミはおとなしく、その場に腰を下ろした。

「……!」

「やはりな」

 驚くカツミに対して、アガタは少し愉快ゆかいげだ。カツミは文句の一つでも言ってやろうと思ったが、立ち上がることができなかった。座ったとたんに足が震えて、力が入らなかったのだ。

高揚こうようすると気が付かぬが、人の体は疲労ひろうすれば動けないものだ。これでも食べて、しばらくそのままでいるんだな」

 アガタはふところから取り出した小袋こぶくろをカツミに放り投げると、先ほどはじき飛ばした、カツミのコンを拾い上げた。

「……干し豆か」

「腐りにくい上、かさばらず、栄養価も高いのでな。兵糧ひょうろうというほどではないが、ちょうどいい携帯食だ」

 カツミは、アガタの発言は気持ち半分で聞いて、干し豆を口に放り込んだ。塩水にでもけていたのか、少々塩っ辛いが、噛んだ瞬間にじんわりとしたほのかな甘みがにじみ出す。乾燥しているので、いささか口内にはきついが、汗をかいたのでかえって心地いい味だ。

 鍛錬場たんれんじょうは先程よりもさらに明るい。ぼちぼち、朝の見回りの者が活動する時間だろう。カツミは目立つ容姿なので、そうそうに退散したほうがいいかも知れない。見慣れぬ者が鍛錬場たんれんじょうにいれば、グウに仕える武人は、あまりいい顔をしないだろう。アガタは、もう少し早く切り上げるべきだったかと、反省はんせいする。

 ―――ジャラリ。

「……ん?」

 考え込んでいたのところ、聞き覚えのある音と人の気配で振り返る。

「おやおや、こんなところにおりましたか」

「ヒイズ殿」

 現れたのはヒイズであった。癖のある茶色の髪が、早朝そうちょうの風にわずかに揺れ、歩くたびにジャラリと、彼が腕につけているかせの鎖が擦れる。

「よくまぁ、ここがわかったものだな」

「アガタ殿がいる場所は、限られますからね。貴女の姿を、少なくとも圖書寮ずしょりょうで見かけたことはありませんでしたよ?」

 その言葉にはさすがに苦笑くしょうが浮かぶ。アガタの生まれは武家の名門で、物心着いた頃から、戦いの鍛錬たんれんを受けていた。無論むろん読み書きや兵法ひょうほうなどを学んだこともあるのだが、本を読む時間があるのならば、体を動かしていたいと思ってもおかしくはないだろう。

「……ちなみに、この屋外鍛錬場おくがいたんれんじょう以外で、どこにいると踏んでいたのだ?」

屋内鍛錬所おくないたんれんじょ、食堂、水飲み場、仮眠室かみんしつですかね」

随分ずいぶん断定的だな……」

「ほかの場所に行くのですか?」

 アガタは口を開くが、その後言葉は出なかった。たしかにそれらの場所はよく用いる場所なのだが、一方でその他の場所という物が、自分も浮かばなかったのだ。ヒイズの質問に答えることができず、少々悔しい。アガタは負けず嫌いなのだ。

「……ん? そういえば、カツミはヒイズ殿と……あ?」

「おや」

 アガタはカツミの存在を思い出し振り返る。たしか彼は、ヒイズと顔を合わせているはずなのだが、反応がない。やかましいたぐいの人間ではないだろうが、それでもなんの反応もないことはおかしい。そう考え話題を振ったわけなのだが……。


「これは、寝ているのか……?」

「疲れているようですね。一体どれほどの時間を鍛錬たんれんついやしたというのですか? ……満足気ではありますが」

 ヒイズがそう尋ねたので、思わず視線をらした。間合いを取り、睨み合っている時間が休憩だ、というような手合わせをしていた気がする。カツミがついてくるものだから、つい休憩を取ることを忘れていたのだが、後先考えない行動だったと反省はんせいする。

「……よく寝るな。グウに連れてきた時も、ずっと眠っていたというのに」

「気絶と睡眠では全く違う物ですよ?」

「それはわかっている」

 武人なのだから、それくらいの違いはわかっているつもりだ。どうやらヒイズに、アガタの冗談は通じないらしい。

 芝生しばふの上で、大の字になって眠るカツミの様子が、あまりにも気持ちよさげなので、こちらまで毒気を抜かれてしまう。前髪がやや長いせいで、あまり意識はしていなかったのだが、眠る姿はあどけない少年のようだ。

「……ヒイズ殿、どう思う?」

「どう、とは……?」

 問いかけるアガタに対して、ヒイズが首を傾げた。しかしその目は鋭く、どこか確信めいた物があるようにも思える。おそらく答えはわかっているのだ。

救世主きゅうせいしゅんだのは、各国かっこくに対して示すべき姿勢があるからだ」

「そのように聞き及んでおります。事実、各国かっこくでは“未蕾みらい”の被害が相次いでおり、我が国の被害は月に数件程度。水晃ユクミツの沖からは、零彗レンゼイがうっすらと見えるにも関わらず」

 アガタは浅く頷いた。

 虹澑國グリュウコクの東に位置する港町、水晃ユクミツりょうが盛んである。沖に出ると遠くにうっすらと、零彗國レンゼイコク特有の楼閣ロウカクの影が見えるらしいのだ。零彗國レンゼイコク大地だいちには、陽妻タカヅマグウよりも、ずっと背丈のある建物が建ち並び、道は石膏せっこうのような物で、綺麗に舗装ほそうされているのだという。虹澑國グリュウコクの者はあまり国外に行くことはないのだが、それでも、零彗國レンゼイコクに足を踏み入れた者は、口々に、異世界に旅をしたと言ったらしい。

 そんな先を行く国が、“未蕾みらい”によって滅ぼされたのだ。

「そう。だからこそ、各国かっこくの者も、対抗する戦人いくさびとがおれば、歓迎するだろう。だが……」

「……グウの者ですか」

 アガタは答えず、眠るカツミに視線を落とした。眠りが深いのか、横たわる青年はピクリとも動かない。胸から腹部にかけてが上下するので、眠っているのがわかる程度だ。

「なぜ、グウに仕える者に明かされないのか。表向き、私たちにはいとまを出されたことになっています。各国かっこくには声明が出されるでしょうに……。言いたいことはそれですか?」

「……きな臭くはないか?」

 気が付けばあたりは既に明るい。遠くから聞こえるざわめきに、人々の活動時間が近いことを知り、まるで示し合わせたように、頷き合う二人。

「……私は、早くここを去りたいです。今までこんなことはなかったというのに、急に、上の方々の思惑おもわくが想像できず、恐ろしいのです」

 救世主きゅうせいしゅ召喚しょうかんされたという話は、寝耳に水であった。内密ないみつに告げられたそれらは、決してグウの者に明かしてはならないという。それが不思議で、ヒイズはカツミに同情した。記憶がないということもだ。

 記憶のない者が、右も左も分からぬ状態で、国の事情に巻き込まれた。

「良い考えがあるのだが、乗らないか」

「……?」

 アガタはカツミをかつぎ上げるとニヤリと笑い、ヒイズはキョトンとした顔で、小首をかしげた。

 アガタの肩にかつがれたカツミは腕をダラリと投げ出し、ぴくりともしない。そんな様子にヒイズはもう一度、仕方ないと言いたげに、苦笑くしょうを漏らした。


「時に、アガタ殿?」

「ん、どうされた?」

 ヒイズは前を歩くアガタに声をかけた。勤め人が動き出す時間ということもあり、何度か人とすれ違い、視線を感じたが、グウの中でも武官の管轄かんかつであれば、気にすることはない。アガタの特訓で新人が倒れ、かつぎ運ばれることはよくあり、すれ違う者たちは、またかという哀れみの視線を向けているのだ。

 だがその視線の中には、珍しいカツミの容姿を気にする者もいるに違いない。金の髪の者など、少なくともこのあたりの人間では珍しい特徴だ。

「最後に水を飲んだのはいつでしょうか?」

 夜にカツミと会い、それからずっと戦っていた。後ろを歩くヒイズの視線が背中に痛い。特に意識していなかった荷物カツミが急に重く感じる。

「み、ず……」

 アガタは一日ぐらい水を飲まずに戦ったところで問題はない。もっとつらい前線を経験したこともあり、体も少々人のつねを超えて丈夫なので、特に気に留まらなかった。カツミが平気そうにしていたこともあり、アガタに大きな責任はないはずだ。

 ……ないはず、なのだが。

「アガタ殿……?」

 アガタは何故なぜか、後ろのヒイズに向き直ることができなかった。
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