Apple Field

水晶柘榴

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壱 腐敗

(02) 字 -アザナ-

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「うまいか? そうか、たんとお食べ」

 アガタは、己が武人となった時から可愛がっている、尾花栗毛おばなくりげの馬を背を撫でた。毎日大事に世話をした相棒は、主人に忠実だ。今も草を食べることに夢中のように見えて、アガタが口を開くたびにピクリと耳が動いている。

「さて、クサカ、もう少ししたら水を飲もうな。また働いてもらわなければならないんだ。……お前たちも、順番だ」

 クサカ。それは愛馬の名である。幼い頃、草に寝転ぶことが好きでそう名付けたのだ。他の三頭の馬にも微笑み、クサカのすぐそばにいた馬の頭を撫でてやると、嬉しそうに首を揺らした。

 ―――ブルル!

 不意に、馬が唸り声とともに振り向いたので、そちらに視線を向ける。建物の間の土ばかりの細道を、見慣れた姿が歩いていた。しかし、こちらに向かうその姿は、数が足りない。

「ココノ殿、カツミ、ヒイズ殿はどうした」

「……先生は、弟に会ったみたいで、少し話してから来ると」

 カツミは一瞬顔をしかめ、それから返事した。おそらく自分だけ敬称がないことが不満なのだろう。だからといって、今更敬称をつけても、気味悪がるだろうと考えて、アガタは指摘しなかった。

 カツミは両手に抱えた荷物を馬車くるまに詰め込む。なんとなく不器用な性質たちにも見えないので、視線を向けずとも会話は成立するだろう。そう考え、アガタは再び口を開いた。

「弟? 西方の領主邸りょうしゅていにいるとばかり思っていたが……」

「領主……? アガタは知っているのか?」

「ヒイズ殿の家は古い領主の家系なので、聞いたことぐらいはあるが……直接会ったことはない」

 ヒイズは物腰柔らかく、ぐうに仕える青年であった。多少予想していたことなのだが、やはりそれなりの家柄だったらしい。なぜそのような者が旅に同行するのだろうか。

「やっぱりヒイズ先生は偉い身分か……」

「ん? ああ、そうか。お前は知らないのだな……」

 アガタの物言いにカツミは首をかしげたが、すでに彼女はこちらを向いてはいなかった。

「喉が渇いたのだな? すまないがここを頼む。彼らに水を飲ませなければ」

 そう言って青毛あおげの馬を小さな水飲み場へと引っ張っていった。こちらを振り返りもしなかったので、聞き出すタイミングを失ってしまい、思わずココノを見る。すると彼女はその視線に気がついたようで、控えめにコクリと頷いた。

「ヒイズ先生は、西の大きな領主さまのご長男で、知識を司る長官として、圖書寮ずしょりょうの膨大な量の書物の管理を任され、多くの部下が指示に従いあちこちで働いております。“ヒイズ”という呼び名は、国内で最も知恵のある方という証だとか……」

「ヒイズは、名前じゃなかったのか?」

 皆がヒイズと呼んでいたので、てっきり本名だと思っていたのだが、どうやらココノの口ぶりでは本名ではないようだ。

ぐうに使える方は、奴隷以外は名前を語らないのでございます。よくわからないのですけれども、昔の習慣だとヒイズ先生が言ってました。アガタさんも、多分、本名では、ないと……思い、ます……」

 カツミの眉が寄っていくので、ココノの語調も、だんだんと弱くなっていく。しかし聞いたのはカツミなので、自信がなくとも彼女に責任はない。

 考えているのは、今もぐうにいるであろう、ヤカタのことだ。あの男に名を訪ねたとき、“お館様”と呼ばれた彼が“ヤカタ”と名乗った。それは明らかな偽名である。しかしもともと本名を名乗る風習がないならば、彼はカツミに対して不誠実だったことになるのだろうか。

「―――俺は、何も知らないのか……」

 彼に対する不信感はぬぐい去れず、しかしこれでは、信用すべき相手の判断すらままならない。

 ヒイズは港街である、水晃ユクミツに連れて行こうとしていた。港町ならば、様々な人も集まるだろうし、訪れるには陽妻タカヅマの城門をくぐり抜ける必要もあるので、集まる者は比較的まともな人種であろう。

 人が多ければ情報が集まる。ヒイズはきっと、知識を与えるために、水晃ユクミツに連れて行こうとしているのだ。それならば彼に与えられる知識を吸収することに専念するべきだろう。

「……」

 不意に、人の気配を感じたので振り向くと、ヒイズがこちらに向かって歩いて来るところだった。

「遅くなって申し訳ありません」

 ―――一人である。どうやら弟とは話し終えたらしい。

「弟さんとの話はいいんですか?」

「……? ああ、そういえば兄と言われましたね。ええ、もう話は一通り終わりました。私は旅立ちますが、だからといって今生こんじょうの別れというわけでもないのですから、特に話し込むことはないですよ」

 ヒイズはそう言って微笑みを浮かべ、それから少し決まり悪そうに荷物を持たせてしまったと詫びた。どうやらヒイズは、なぜ弟と知っているのか疑問だったようだが、すぐに青年の言葉を思い出したらしい。特に訂正もなく話を続けたので、弟ということに間違いはないのだろう。

 しかし……。

「兄上、まだ話は終わっておりませんよ!!」

「……ヒイズ先生、本当によろしいのでしょうか?」

 路地の奥で叫んでいるのは、先ほどのヒイズの弟だ。黒髪の少年が抱えられ、彼の出した大声に耳をふさいでいる。どうやら追いかけてきたらしく、少年が抱えられているのは、人が多いのではぐれないようにだろう。

「……」

 ヒイズはフゥっと息を吐き、それから追いかけてきた弟に向き直った。カツミもココノも、ヒイズのそんな様子に困惑し、思わずアガタを見るが、彼女は呆れたような顔をしているだけだった。

「アガタはあれが気にならないのか?」

「ん? ああ、ヒイズ殿の家は名家だ。いさかいはつきものだな」

 どうやら厄介な家系らしい。この様子ではヒイズもその弟と思われる青年も、その厄介ないさかいに悩まされているのかもしれない。

「……っ」

 不意に、アガタの様子が変わった。どうやら驚いているようだ。その様子が不思議なので、カツミもヒイズの方を見る。

 小声で話しているらしく、話は聞こえない。しかしヒイズの様子はそっけなく、青年は納得していないようだ。抱えられた少年は戸惑ったように、二人を交互に見比べており、間に挟まれている様子が気の毒でもある。

「……放っておいていいのか?」

「いくら身内とて、ヒイズ殿に口で勝てるわけはないだろう。それに、巻き込まれると厄介だ」

 カツミは問いかけたが、アガタの様子は薄情である。ココノも驚いたように口元に手を当てているので、アガタの様子を正常と感じていないのだろう。

 青年は顔をしかめたり、青ざめたりと忙しく表情を変え、ほどなくして観念したように肩を落としながらきびすを返した。どうやら諦めたらしい。一方でヒイズは、しょうがないと言いたげに息を吐き、それからこちらへと戻ってきた。

「申し訳ありません。長く実家と連絡をとっていませんでしたので、弟に文句を言われてしまいました」

 ヒイズは少しバツが悪そうに手を頭の後ろに回し、苦笑を浮かべた。手にはめている、かせの鎖は相変わらず、ジャラリと音を立て、それからはっとしたように、カツミに向き直った。

「まだ教えていなかったのですが、申し訳ありません。この国では身内以外に真名まなを名乗る風習はないのです。私の失態ですので申し訳ありませんが、弟の名前は忘れるか、秘めていただきたい」

「あ、わかり、ました…」

 そういえばヒイズは、弟の名を呼んでいた。一度しか聞いていなかったし、さして興味もないのですっかり忘れていたが、どうやら大事なことだったらしい。流れで、忘れるように言われた名前を思い出してしまったが、仕方ないことだろう。

「先生、またいちを見ますか? それとも、今日はここまでにするか……」

 カツミとしてはこれで引き上げると言われた方がありがたかった。聞きたいことがあるからだ。ノベルについてはもちろん、この国の一般教養も教えてもらいたい。そうしなければ生きていくことが難しそうなので、できればこのまま勉強したいくらいである。

(……優等生らしくて気持ちが悪いな)

 少々背筋が薄ら寒いのは、気のせいではないだろう。好奇心は否定しないが、それでも自分が勉強熱心とは思えない。

「そうですね……。どのみち帰りも通るのですから、水晃ユクミツへ進みましょうか。この寒い中、野宿はしたくないでしょう?」

 たしかに寒い。ノベルによってか、馬車くるまの中に冷気は入り込まなかったように思うが、それでも暖かな寝台ベッドに寝転がることができるのならばそうしたい。思えば気絶させられたり、外で寝て馬車くるまの中で目覚めたりと、まともな睡眠を取っていないようにも思う。なによりも柔らかな寝台ベッドでの目覚めは気持ちがいいので、もう一度くらいは体験しておきたいものである。

「なら、出発できるぞ」

 気が付けばアガタは、四頭の馬に水を飲ませ終えていた。世話をしてくれたからなのか、馬も懐いているようである。彼女が愛おしそうに撫でているのは、彼女が自分の物だと語った、尾花栗毛おばなくりげの馬だ。

「そうだ、一頭ずつ名を与えて、馬の主人を決めたほうがいい。三頭には名がないから、自分で名付けるんだ」

 アガタはそう言いながら、己の馬を馬車くるまに繋ぎ、それからカツミたち三人に視線を向けた。

「わ、私も、でございますか……?」

 その発言にココノは驚いたように胸に手を当てていた。奴隷という彼女は馬の主人など考えたこともなかったのだろう。真っ赤になり、冷や汗まで流している。

「……ココノ、俺は馬のことは知らない。先に選べ」

 カツミがそう言うと、驚いたようにココノの顔がキョロキョロと左右に動く。その様子は面白くもあったが、ヒイズとアガタも頷いた。それに背を押されたように、ココノはおずおずと青毛あおげの馬に近づいた。

 馬はそれに答えるように頭を下げ、近づくココノに擦り寄った。

「……ハル、と名づけます」

「ヒイズ殿の教育の賜物たまものか? 良い名だな」

 少し照れくさそうに告げたその名に、アガタが口を開く。その言葉を聞いたココノはさらに恥ずかしそうに、両手で顔を隠した。

 真っ黒ではあるが、青という名の馬に、ハルという青い名を与えた。たしかにいい名だ。自分も負けじと名を与えようかと思い、馬に向き直ったが、月毛つきげの馬にも鹿毛かげの馬にも良い名が浮かばない。

「……」

 ヒイズの方をさりげなく見ると、ジャラリと音を立て、手でうながした。先に選べということらしい。

「……」

 再び馬を見る。なんとなく、色合いは鹿毛かげの方が好みなので、触れてみる。よく手入れされているようで、硬い毛は心地よく美しい。

「レイ」

 その毛並みの美しさから、“レイ”と名付けた。鹿毛かげが美しいのだから、レイでいいだろう。これ以上に考えるにも自分には知識がない。

「二人とも良い名を考えましたね。ではこの馬は……目がやや細いですね。イズルと名付けましょう」

 ヒイズは月毛つきげの馬にイズルと名付けた。単純に月が出たという意味ではないのだろう。これで四頭の馬に名が付いたことになった。

「クサカ、彼らの名が決まった。これからも仲良くしてもらうのだぞ?」

 アガタはそれぞれの馬をつなぎながら、尾花栗毛おばなくりげの馬に向けてそう言った。

 アガタの尾花栗毛おばなくりげの馬が、クサカ。ココノの青毛あおげの馬が、ハル。ヒイズの月毛つきげの馬がイズル。そして、カツミの鹿毛かげの馬がレイ。

「クサカ殿は天馬てんばと名高い駿馬しゅんめです。ほかの馬も良い刺激となることでしょう」

天馬てんば?」

「足の速い優れた馬を駿馬しゅんめといいますね? この上ない駿馬しゅんめ天馬てんばというのですよ」

 カツミが聞き返したので、ヒイズが愛想よく説明してくれる。ふと視界に入ったココノも、納得したように両手を合わせていたので、彼女も知らなかったのだろう。

「それでは、参ろう」

 馬を馬車くるまに繋ぎ終えたアガタが、機嫌よさげにそう言い、全員馬車くるまに乗り込んだ。続く先は水晃ユクミツである。




「目障りだな」

 開かれた窓。風はしおの香りを運び、活気のある喧騒けんそうもどこか遠い。小高い丘にある建物は、港町を一望いちぼうでき、目に入る空と海の鮮やかな青は美しい。

 しかし、男が見ていたのはそれらではなかった。

いやしき者たちが……」

 漆喰しっくいの建物が立ち並ぶ港町の、ある一角。そこは周囲に比べて煤けたような、灰色の建物で埋め尽くされている。隣接して、けれども統一もなく、まばらに建てられた家々の重苦しい雰囲気に男は嫌悪けんおしているのだ。

「……」

 不意に、男は顎鬚あごひげを撫ぜ、口角こうかくを上げた。

 遠く高い空は、日が射していながらに、冷たい空気をまとっていた。


~・~・~・~・~・~・~・~・

今回から執筆ペースを上げるために、文字数を減らすことにしました。
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