上 下
11 / 34
第二章 悪夢

しおりを挟む
「ワッ……」
 土曜日の朝、京子は夢で目を覚ました。悪夢だった。
 夢の中に、城戸が出て来たような気がするのだが、顔が違っていた。優しい笑顔ではなく、野獣のような歯をむき出しにした恐ろしいものだった。
 京子はベッドから降り、洗面所で顔を洗った。ひどい顔をしていた。髪は乱れ、目の下には濃い隈ができていた。
「フー」と京子は鏡の中の自分に向かってため息をついた。
「行かないと……」 
 城戸の実家に行って、城戸の研究に関する資料を探そう。昨夜、京子はベッドの中で考えた。奇病の原因が城戸の行っていた研究と、関係があるのでは、という疑念が消えなかった。確かめたい分けではなかったが、確かめないと、心が落ち着きそうになかった。
 葬儀の後、城戸の実家には足を運んでいない。城戸の私物がフィンランドから城戸の実家に送られてきたはずなのだが、思い出すのが辛くて、見に行けなかった。
 食欲がなかった。京子は、取りあえず熱いコーヒーを飲んだ。携帯電話を手にとり、一つ溜息をついてから、城戸の母、佐代子に電話をかけた。
 三度、呼び出し音が鳴った後、「はい、城戸です」と佐代子の声がした。
「あ、あの、私……京子ですけど」
 京子が言った。
 一瞬、間があってから、
「……京子さん」とつぶやくような返事が返ってきた。
「何か……」
「いえ、あの……実は、よろしかったら祐介さんの荷物を見せていただけないかと……」
「荷物?」
「フィンランドから……」
「ああ……そうね、京子さん、ご覧になってないのね」
「ええ。そうなんです」
「どうぞ、いらして下さい」
「ありがとうございます。それじゃ、今日の午後、よろしければ」
「えっ、ええ、どうぞ。お待ちしてます」
 城戸の家は、新宿から電車で十五分程の閑静な住宅街に建っていた。
 京子が行くと、佐代子が笑顔で出迎えてくれた。佐代子は、今は一人で暮らしていた。
「娘がすぐ近くにいて、時々、マー君と一緒に、来てくれるの」
 結婚した長女が近くに住んでいて、孫を連れて時々遊びに来ると、佐代子は嬉しそうに言った。
 城戸は、日本で大学院を卒業した後、二年間カナダに留学し、さらに、アメリカの研究所で三年過ごし、日本に戻ったと思ったら、またすぐフィンランドへ行ってしまった。
 学生時代から旅行が好きで、時間ができれば世界中を転々としていた。
 アメリカから帰ってきた時にも、荷物は、小さなボストンバッグが一つだけだった。家具や電化製品は全て人にあげてしまったと話していた。フィンランドでも事情は同じだったようだ。
「これだけなのよ」
 佐代子が革製の頑丈そうなボストンバッグを一つ居間に持って来て、京子に見せた。フィンランドから送られてきたのは、遺骨の他には、ボストンバッグが一つだけだったという。
「まだ、ここに入れたままなの」
 佐代子がバッグを開けた。中には、下着やワイシャツ、Tシャツなどが丸めて隅に置かれていた。他には、文庫本が一冊、手帳、サングラス、キーホルダー、雑多な小物があるだけだった。
 京子が手帳を手に取ると、
「紅茶でも入れますね」と佐代子は言い、席を立った。
「あっ、すみません」
 佐代子は、京子に気をつかって席を外したらしい。
 手帳の筆跡は確かに城戸のものだった。ページをめくって行くと、八月二十四日の欄に、「K。バースデイ」と書かれていた。京子の誕生日だった。
 涙がこみ上げてきて、京子はバッグからハンカチを取りだし、目頭を押さえた。
「……京子さん」
 佐代子が、紅茶を置きながら、京子に声をかけた。
「あっ、すいません」
 涙声になっていた。
 佐代子が紅茶を口に運び、京子も紅茶を一口口に含んだ。
「お砂糖はいいの?」
「ええ」
 紅茶のかすかな苦さが、心地よく感じた。
「娘の子がね、祐介に良く似てるのよ。生まれ変わりかなって。かってにね、思っているの」
 佐代子が言った。三ヶ月前、長女に子どもが産まれ、時々、一緒に来るのだという。
「どんなに悲しんでも変わらないことは変わらないでしょ。だから、そう思うことにしたの。祐介はこの子に生まれ変わったんだって」
「……」
「京子さん……」
 佐代子は静かにカップを置き、京子に顔を向けた。
「はい……」
「今でも、祐介のことを思ってくれるのは、嬉しいけど……」
「……」
「本当に有り難いと思っているし、私、あなたを本当の娘のように思っていて……」
「……」
「もう、どうにもならないでしょ。悲しんでいても生き返るわけじゃないから。待っていても帰っては来ないし」
 京子はうつむき、口びるをかんだ。
「京子さんには、幸せになって欲しいの」
「……ええ」
 京子は、ただうなずいていた。佐代子の話す姿からは、京子への心遣いが感じられた。
「新しい幸せを探してくれていいのよ。きっと、祐介も、そう望んでいるはずだし、私もあなたが、笑顔になってくれる方が、ずっと嬉しいから」
「……はい」
 佐代子は、言い終えてホッとしたように、紅茶を一口飲み、柔らかい笑顔を京子に向けた。
 キーホルダーに鍵が三本ついていた。一本は京子の部屋の鍵だった。
 以前、京子が仕事を終え、部屋に帰ると、部屋の前で城戸が待っていた。聞くと、三時間、待ったのだという。
「連絡してくれればよかったのに」
「しようとしたけど、携帯のバッテリーが切れてさ」
「もう」
 翌日、京子は部屋の合い鍵を作って城戸に渡した。
「なくしそうだからいいよ」と城戸は言ったが、
「だって、また部屋の前で待たれても、周りの人に変に思われるから」と京子は言って、合い鍵を渡した。
 何を見ても思い出してしまう……。
 京子は小さく溜息をついた。
「あら、こんな物が……」
 佐代子が箱の中から、小さなアヒルのおもちゃを取りだした。
「まったく、あの子ったら」
 佐代子があきれたように言った。。
「あっ、ちょっと、いいですか」
 京子が横から手をのばした。
「え、ええ」
 佐代子は、アヒルのおもちゃにしては、京子があまりに真剣な顔をするので、驚いたような顔で京子に渡した。
 京子は、手に取り、じっくり見た。おもちゃではない。それは城戸が使っていたUSBメモリーだった。以前、「こんなの見つけたんだ」と城戸がおどけて、京子に見せたことがあった。
「やっぱり……」
 京子がつぶやいた。
「なんなの、それ?」
 佐代子が尋ねた。
「USBメモリーです」
「ユーエスビー?」
「パソコンのデータを記録しておく物なんですけど、こちらにパソコンは……」
「あっ、ごめんなさい。そう言う物は私、よく分からないから」
「そう……ですよね」
「それって、そんなに、大変な物なの」
 佐代子がアヒルを見ながら言った。こっけいなただの黄色いアヒルのおもちゃにしか見えない。
「中を見てみないと」
 京子は答えた。
「中?」
 佐代子は、切り裂くとでも思ったらしく、ギョッと顔をした。
「ここを」
 とUSBの挿入口を出し、佐代子に見せた。
佐代子は不思議そうな顔でアヒルの後ろから出てきた金属の部分を見た。
「パソコンに刺すと、この中に記録されている内容が読めるんです」
 京子は、子どもに話すように説明した。
「そうなの」
 佐代子が京子からアヒルを渡されて、繁々と見た。
「それで、何が入っているの? あの子の日記とかかしら」
「内容は分かりませんが、多分、研究の記録とか、研究データとか」
「そうなの……」
 日記ではないようで 、佐代子はがっかりしたような顔をした。
「あの……二三日、これ、お借りして良いですか、私のパソコンで調べてみて、何か分かったらお知らせしますので」
「ええ、いいわよ。もちろんよ。京子さんに見て貰えば、祐介もきっと喜ぶわ」
「ありがとうございます」
 京子は、頭を下げた。
 インターフォンが鳴った。佐代子が出た。
「あら、治子、どうしたの今日は」
 娘のようだった。
 佐代子が玄関に行くのに合わせ、京子も立ち上がった。
「あ、私、これで、失礼します」
「あら、そう」
「ごちそうさまでした」
「いいえ、何もなくて」
「それじゃ、これ、お預かりしていきます」
 京子はあひるをバッグに入れた。
 インターフォンがもう一度鳴り、佐代子は、「はいはい、今行きますよ」と言いながら、バタバタと小走りで玄関に向かって行った。
 玄関を開けると、赤ちゃんを抱っこした女性が立っていた。長女の治子と孫の雅行だった。
 治子は、佐代子の後ろにいる京子を見て、驚いた顔をした。
「京子さん……」
「おじゃましています」
「しばらく……」
「マー君、元気だった。おばあちゃんでちゅよ」
 佐代子が赤ん坊ののど元を撫でると、赤ん坊は「キャッキャッ」と嬉しそうな声を出した。
「私、これで、失礼します」
 京子は靴を履き、治子の脇をすり抜けるようにして、玄関から出た。
「京子さん、どうしたの」
「祐介の持ち物を見てみたいって」
「そう……」
 背中で二人の話し声が聞こえていた。
「ほら、マー君、いらっしゃい」
 最後に佐代子の弾んだ声が聞こえ、玄関のドアが閉まった。
 体が急に重く感じた。母親は孫が生まれ、もう悲しみに区切りがついたのだろうか。自分はまだ悲しみを抱えたままだ。
 
 京子は、自分のアパートに戻り、城戸のUSBを自分のノートパソコンに差し込んだ。
 コーヒーを入れ、少し時間をおいてから、決心をつけるように小さく頷き、パソコンの前に座った。
 調べなくてはいけないのだが、USBに残っているファイルを見るのが少し怖かった。
 城戸の母親ほどではないが、自分も何とか少しずつ悲しみが薄らぐように、心の中で整理し始めている。それが全て元に戻ってしまいそうで怖かった。
 プライベートな日記でも残っていて、その中で、私のことが書かれていたら、もう立ち直れないかもしれない。逆に、知りたくないようなことが書かれていても、それはそれで、心に傷が残る。
 行き違いのようなことは無かっただろうか、ケンカしたことは無かっただろう。何を言ってみても、何を知ったとしても、相手はもうこの世にはいない。疑問や不審を感じても聞くことはできない。問題は残ったままになってしまう。
 それと、何よりもある疑念があった。城戸が行っていた研究が一連の奇病の原因なのではないか。それを知るのが、京子は一番恐ろしかった。

 城戸が遺体で発見されたフィンランドの研究所は、現在、取り壊され、更地になっていた。
 三月。たまたま訪れた郵便配達が家の裏手で男の死体を発見した。警察が調べたところ、研究所の中には、さらに四人の死体が残されていた。男性が二人、女性が二人だった。遺体は全て、居間とおぼしき部屋にあった。
 男性二人の内、一人は拳銃で撃たれ、もう一人は胸をナイフで刺されていた。
 女性の内、一人は頭部を強打して死亡。そして、もう一人の女性は、男性を撃った拳銃を手に自殺していた。
 部屋には、争った跡が見えた。警察は調査後、男女間の愛情のもつれと結論づけた。
 閉ざされた空間に年頃の男女が五人住んでいれば、何らかのトラブルがあって不思議ではない。
 想像をたくましくすれば、ある男が他の女性に手を出し、怒った相手の男と争いになった。男は自分を裏切った女を殴り、弾みで死んでしまった。男は相手の男と争い、ナイフで殺した。そして、ナイフで殺された男の彼女が、拳銃で男を殺し、自分も自殺する。あり得ない話ではない。しかし、問題は家の裏手で死んでいた男だった。オオカミにでも食われたのか、体中の肉が食いちぎられていた。

しおりを挟む

処理中です...