荒れ地に花を

グタネコ

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第一章 ミイラ

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 場末という言葉がぴったりする路地裏だった。もつ煮込み、フィリピンパブ、お好み焼き、焼き鳥、カラオケスナック。酔っぱらいと文無し、女の嬌声と犬の鳴き声、愚痴と嘲笑。およそ秩序とは程遠い場所なのだが、無秩序も過ぎれば、そこに秩序と安息を見いだす人もいるらしい。
 小便と嘔吐の臭いが重くどんよりと籠もっていた。「焼き鳥」と書かれた暖簾を頭で分けて、山口広高が飲み屋からフラフラと出てきた。いや、店から追い出されたと言った方が正しい。
 酔いつぶれ、店の奥のカウンターで突っ伏していた。
「店、閉めますから」
 まったく、と言う顔で店の女将が言い、「ほら、山口さん」と主人が体を揺すった。
 付けは大分残っている。この様子では今夜も付けだろう。それでも来週には金が入ると言っていた。一応、雑誌記者だ。書くことも喋ることもウソばかりで、真実はどこを探しても見つからないが、遅れても勘定だけは取りあえず払っていた。潰れそうな飲み屋にしてみれば、「上」は付かないが、「客」には違いなかった。
「足下に気をつけて」
 主人は丁重に背中を押して、店から追い出した。
 山口は片手を上げ、「おう、また」と呂律の回らない口調で言い、外に出た。
 目は開いているのか閉じているのか分からない。体が左右に揺れ、今にも倒れそうなようすで歩いていく。アパートまで五分。泥酔していても体が道を覚えていた。
 木造三階建ての年季の入ったアパート。201号室。ギシギシと階段を上り、鍵を開け、倒れ込むように部屋に入った。
 二間だけ、家具はほとんどない。台所はあるが近頃は水を沸かすこともなくなっていた。
 部屋は寝るだけだ。風呂も使っていない。貯金はない。金が入れば居酒屋のつけを払い、競馬にいき、気が付けば消えている。
 体にガタがきていた。鏡には死人のような張りのない土気色の顔が写っていた。
 胸焼けがする。目は黄色く濁っている。ヤニ臭い。小便は褐色で、いつも下痢気味だ。手足はむくんでいて自分で触っても肝臓が腫れているのがわかった。
 タバコを止め、酒を控え、健康に気をつかい、休みには窓を開け、部屋を掃除して、競馬をほどほどにし、金を貯め、まともな生活に変えないと、来年にはこの世にいないかもしれない。
 そんなことは嫌ほど分かっているが、死ぬまで変えられないことも、もっとよく分かっていた。
 ここ二ヶ月、山口はどうにも目覚めが悪かった。酒がまずい、気持ちよく酔えない。飲めば飲むほど、頭の芯が覚めてくるようだった。そして、飲んだ翌日は決まって酷い二日酔いになる。
 あのセイだろう、と山口は思った。決まっている。外に理由はない。
「くそったれ」
 山口は立ち上がり、台所に行って蛇口をひねり、水を口に含んだ。しかし、ボロアパートの水道管を通ってきた水は、錆びとカビの臭いで、とても飲めたものではなかった。
 吐き出す。冷蔵庫のドアを開ける。山口は冷蔵庫の中をのぞいて、「チッ」と舌打ちをした。冷えたビールを期待したのだが中には文字通り何も入っていなかった。
 山口は着替えもせずにベッドに横になった。マットレスの中央が人の形に凹んでいた。ベッドは前の住人が置いていったものだった。
 この部屋を紹介した不動産屋は、残っていたベッドを指さし、
「どうします」と山口に聞いた。
「いらなければ、外に出しますけど」
 山口は、「使うよ」と答えた。誰が使っていようと気にはならない。寝られればそれでいい。前のアパートでは、三年間、引きっぱなしの布団に寝ていた。
 若いときには車の中で三日寝たこともある。今の姿からは想像できないが、これでも昔は―相当、昔だが―正義感にあふれた新聞記者だった。
 純朴にピューリッツアー賞にあこがれ、新聞には真実だけが書かれていると信じていた頃の話だ。
 書いた原稿がボツになり、上司とケンカして新聞社を辞めた。週刊誌に記事を書くようになり、いつからかウソを書いても心が痛まなくなった。
 ヤクザに知り合いができ、それを自慢したこともあった。アイツがオレに電話をしてきたのは、そんなことを覚えていたからかもしれない。
 さんざんウソを書いて人を泣かせてきたが、女を殴ったことはない。それがどうだ、何てことをしたんだ。全く、もう終わりだ。オレも落ちるところまで落ちた。
 あの女の記事を書いたのは、やったことをごまかすためだ。雑誌に載せれば、誰も自殺を疑わなくなる。金が入り、借金を返し、昔の女とハワイにでも行って、金を使い切ったら、また、くだらない記事を書いて、どこかに売り込めばいい。
 金は入ったが競馬に消えた。飲み屋のつけは残ったままだ。何もする気になれない。もう、どうでもいい。
 グチャグチャと人の顔が浮かんでは消えていった。別れたかみさんや子どもが、どこで何をしているのか全く分からない。浮かんでくる子どもの顔は、三歳のままだった。
 天井がグルグル回っていた。まぶたを閉じると、すぐに意識が薄れていった。
 山口はイビキをかき始めた。睡眠時無呼吸症候群。だらしなくむくんだ舌が気道をふさいだ。三十秒、呼吸が止まる。ガガガとひどいイビキと共に呼吸が回復し、山口は「ウーン」とうなされたようなうめき声を上げた。
 窓は開いていた。どこからか女の悲鳴のような嬌声が聞こえてきた。電気は点けたままだ。
 白い綿毛が、フワリと山口の体の上に降りた。一つ、また一つ、胸に足に顔に。粉雪が積もるように、山口の体は綿毛に白く覆われていった。
 山口の体が痙攣した。ベッドがギシギシと音をたてた。次第に痙攣もなくなり、外からの音が聞こえるだけになった。車が走り去っていった。犬が鳴いていた。二人の酔っぱらいがケンカをしていた。
 山口はミイラになっていた。
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