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第六章 暴走
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木下由佳は、まぶしそうに目を細めた。
「いやんなっちゃうな」
思わず愚痴が出た。
快晴だ。日差しが肌にいたい。初夏は真夏よりも紫外線が強いらしい。日焼け止めクリームをもっと塗ってくればよかったと、由佳は後悔した。
黒い長靴に、背中に大きく「タツミバイオ」と入った黄色い作業着、そして、オレンジ色の作業帽。二十二歳の若い女性がする格好ではない。大学の友だちに見られたら一生からかわれてしまう。
農場の雑草取りと水やりだった。
「水は多めに端から端までキチンとまくこと、雑草はよく見てしっかり抜くこと」
主任の小笹は、毎日、同じ事を同じ口調で言う。由佳は小笹の剥げだした頭を思い出しながら、「まったく」と小さく首を振った。
「やったふりして戻ろうよ」
由佳のすぐ後ろを山本早紀が歩いていた。早紀は由佳よりもさらにやる気がない。
二人は新入社員だった。タツミバイオの事務職。新宿本社を希望したのに、配属は川崎の研究所になった。川崎と言っても、小田急線の生田駅から、歩いて十五分以上もかかる畑の中だ。
新宿の高層ビルで働き、仕事帰りにおしゃれなレストランでワインを飲んで、休みの日には素敵な恋人とお台場辺りで遊んで……そんな想像をしていたのに、今は長靴を履いて手袋をし、ダサい帽子をかぶって草むしりをしている。
農業は会社の原点だ。お客さんは農家が多い。タツミバイオの社員は、何よりもまず、農業を知らなくてはならない。配属初日に聞かされた所長の訓示だ。
化粧品会社は化粧の研修をする。靴墨の会社は靴磨きの実習をする。北海道で酪農体験をさせる乳業メーカーもあるらしい。農業関連の会社なのだから草むしりぐらいは仕方がないのかもしれないが、日に焼けると肌にシミができる。土埃で髪の毛がバサバサになる。家に帰ってシャワーを浴びても、肥料の臭いが体に染みついているようで気持ちが悪い。
「失敗したかな……」
由佳はつぶやいた。内定は幾つかとっていた。親に「一番大きな会社がいい」と言われて、タツミバイオを選んでしまった。
「これからはバイオの時代だぞ」
ウソばっかりだ。こんなことなら、ネットゲームの会社にしておけばよかった。大学で仲の良かった優香は、渋谷で毎晩、合コンだと言っていた。
「由佳もおいでよ。ちょっとチャラいけど面白い人ばっかりだから」
ここの研究所には、研究オタクのような男ばっかりで、面白い人なんていない。
「高橋部長って人……」
早紀が後ろでぼそりとつぶやいた。
「えっ?」
由佳は振り返って早紀を見た。
「殺されたかもしれないって」
声が小さくなる。
「ええ? そんなこと、誰が言ってるの?」
由佳もつられて声をひそめた。
「みんな言ってる。おかしいって、その……死に方が……」
「そうなの……」
高橋はミイラになって死んだ。猟奇的な事件だ。高橋の遺体を見つけた社員には、事件のことを軽々しく話さないようにと会社から口止めされていたが、酒が入れば口は止めようがない。高橋の死はただの病死ではない。会社では誰もが噂していた。
ただ、この二人は部長がミイラになって死んでいたとは知らなかった。もし、知っていれば、草取りなどせずにトットと会社を辞めていただろう。
「殺されたって、強盗とか?」
由佳が言うと、早紀は首を振った。
「奥さんとか?」
早紀はもう一度首を振り、
「小野っていう会社の人が殺したんじゃないかって……」と言った。
「小野さん……」
二人は、まだ小野に会ったことはなかった。
「警察が電話してきたって、友加里さんが言ってた」
大野友加里は、二人の先輩だった。
「そうなんだ……」
「それでね……」
「なに?」
「その小野って人、もうすぐ、ここに配属になるんだって」
「ええ!」
由佳は思わず大きな声をだした。二人は周りを見回した。
「それホント? こわ……」
「だよね……。友加里さん、昔、その人、振ったことがあるんだって。恨まれてたらどうしようかなって」
背が低く、猫背でダサイメガネをかけ、白衣を着て、顕微鏡ばかり見ている。研究オタクの独身男。早紀は話しながら、友加里が言っていた、ひどくゆがんだ小野の人物像を思い浮かべていた。
「止めようかな、ここ……」
由佳がつぶやいた。
「だよね……」
早紀が相づちをうった。
とりあえず、まだタツミバイオの社員だ。草取りと水やりをしなくてはならない。二人は、長靴を引きずるように重い足取りで歩いていった。農場が近づいてくる。建物の角を曲がると視界が開けた。
「ええっ?」
二人同時に声が出た。歩みが早くなる。
「あれっ?」
由佳は首をひねった。目の前に広がっているのは、緑の畑ではなく、茶色の土だけだった。昨日までは確かに緑の植物が広がっていたはずだったなのに。
誰かが収穫したのか、それとも、他の作物に植え替えようとして、どこかに捨てたのか。
「ええっ?」
近づいて見ると、焦げ茶色の土の上には、カラカラに干からびた植物の死骸が散らばっていた。
もしかしたら、私のせい? と由佳は心配になった。
昨日、面倒くさくて、水をしっかりあげなかったせいで、枯れてしまったのでは……。 川崎は砂漠ではない。昨夜、気温は二十度だった。数日、水を忘れた程度で畑の植物は枯れはしない。不まじめな新入社員に罪はなかった。
何だろう?。
急にゾワゾワと毛が逆立つような気がしてきた。本能の警告。今すぐ逃げろと原始の脳が教えている。
「本当にやめようかな……」
由佳がつぶやき、早紀がうなずいた。
遺伝子組み換えした収穫量が多い大豆。タツミバイオが研究していた大豆は、一晩で全て枯れていた。
「いやんなっちゃうな」
思わず愚痴が出た。
快晴だ。日差しが肌にいたい。初夏は真夏よりも紫外線が強いらしい。日焼け止めクリームをもっと塗ってくればよかったと、由佳は後悔した。
黒い長靴に、背中に大きく「タツミバイオ」と入った黄色い作業着、そして、オレンジ色の作業帽。二十二歳の若い女性がする格好ではない。大学の友だちに見られたら一生からかわれてしまう。
農場の雑草取りと水やりだった。
「水は多めに端から端までキチンとまくこと、雑草はよく見てしっかり抜くこと」
主任の小笹は、毎日、同じ事を同じ口調で言う。由佳は小笹の剥げだした頭を思い出しながら、「まったく」と小さく首を振った。
「やったふりして戻ろうよ」
由佳のすぐ後ろを山本早紀が歩いていた。早紀は由佳よりもさらにやる気がない。
二人は新入社員だった。タツミバイオの事務職。新宿本社を希望したのに、配属は川崎の研究所になった。川崎と言っても、小田急線の生田駅から、歩いて十五分以上もかかる畑の中だ。
新宿の高層ビルで働き、仕事帰りにおしゃれなレストランでワインを飲んで、休みの日には素敵な恋人とお台場辺りで遊んで……そんな想像をしていたのに、今は長靴を履いて手袋をし、ダサい帽子をかぶって草むしりをしている。
農業は会社の原点だ。お客さんは農家が多い。タツミバイオの社員は、何よりもまず、農業を知らなくてはならない。配属初日に聞かされた所長の訓示だ。
化粧品会社は化粧の研修をする。靴墨の会社は靴磨きの実習をする。北海道で酪農体験をさせる乳業メーカーもあるらしい。農業関連の会社なのだから草むしりぐらいは仕方がないのかもしれないが、日に焼けると肌にシミができる。土埃で髪の毛がバサバサになる。家に帰ってシャワーを浴びても、肥料の臭いが体に染みついているようで気持ちが悪い。
「失敗したかな……」
由佳はつぶやいた。内定は幾つかとっていた。親に「一番大きな会社がいい」と言われて、タツミバイオを選んでしまった。
「これからはバイオの時代だぞ」
ウソばっかりだ。こんなことなら、ネットゲームの会社にしておけばよかった。大学で仲の良かった優香は、渋谷で毎晩、合コンだと言っていた。
「由佳もおいでよ。ちょっとチャラいけど面白い人ばっかりだから」
ここの研究所には、研究オタクのような男ばっかりで、面白い人なんていない。
「高橋部長って人……」
早紀が後ろでぼそりとつぶやいた。
「えっ?」
由佳は振り返って早紀を見た。
「殺されたかもしれないって」
声が小さくなる。
「ええ? そんなこと、誰が言ってるの?」
由佳もつられて声をひそめた。
「みんな言ってる。おかしいって、その……死に方が……」
「そうなの……」
高橋はミイラになって死んだ。猟奇的な事件だ。高橋の遺体を見つけた社員には、事件のことを軽々しく話さないようにと会社から口止めされていたが、酒が入れば口は止めようがない。高橋の死はただの病死ではない。会社では誰もが噂していた。
ただ、この二人は部長がミイラになって死んでいたとは知らなかった。もし、知っていれば、草取りなどせずにトットと会社を辞めていただろう。
「殺されたって、強盗とか?」
由佳が言うと、早紀は首を振った。
「奥さんとか?」
早紀はもう一度首を振り、
「小野っていう会社の人が殺したんじゃないかって……」と言った。
「小野さん……」
二人は、まだ小野に会ったことはなかった。
「警察が電話してきたって、友加里さんが言ってた」
大野友加里は、二人の先輩だった。
「そうなんだ……」
「それでね……」
「なに?」
「その小野って人、もうすぐ、ここに配属になるんだって」
「ええ!」
由佳は思わず大きな声をだした。二人は周りを見回した。
「それホント? こわ……」
「だよね……。友加里さん、昔、その人、振ったことがあるんだって。恨まれてたらどうしようかなって」
背が低く、猫背でダサイメガネをかけ、白衣を着て、顕微鏡ばかり見ている。研究オタクの独身男。早紀は話しながら、友加里が言っていた、ひどくゆがんだ小野の人物像を思い浮かべていた。
「止めようかな、ここ……」
由佳がつぶやいた。
「だよね……」
早紀が相づちをうった。
とりあえず、まだタツミバイオの社員だ。草取りと水やりをしなくてはならない。二人は、長靴を引きずるように重い足取りで歩いていった。農場が近づいてくる。建物の角を曲がると視界が開けた。
「ええっ?」
二人同時に声が出た。歩みが早くなる。
「あれっ?」
由佳は首をひねった。目の前に広がっているのは、緑の畑ではなく、茶色の土だけだった。昨日までは確かに緑の植物が広がっていたはずだったなのに。
誰かが収穫したのか、それとも、他の作物に植え替えようとして、どこかに捨てたのか。
「ええっ?」
近づいて見ると、焦げ茶色の土の上には、カラカラに干からびた植物の死骸が散らばっていた。
もしかしたら、私のせい? と由佳は心配になった。
昨日、面倒くさくて、水をしっかりあげなかったせいで、枯れてしまったのでは……。 川崎は砂漠ではない。昨夜、気温は二十度だった。数日、水を忘れた程度で畑の植物は枯れはしない。不まじめな新入社員に罪はなかった。
何だろう?。
急にゾワゾワと毛が逆立つような気がしてきた。本能の警告。今すぐ逃げろと原始の脳が教えている。
「本当にやめようかな……」
由佳がつぶやき、早紀がうなずいた。
遺伝子組み換えした収穫量が多い大豆。タツミバイオが研究していた大豆は、一晩で全て枯れていた。
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