崩れゆく世界

伊原亜紀

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EP1

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 「肉が食いてーな」くたびれたソファの上で佐藤はそう呟き、容器を握り液体食物を口に流し込んだ。スパイスの効いたチキン風味のゼリー状の液体が喉を通っていく。ひどい味だ。

 栄養摂取だけを目的とした液体食物ばかり食べていては、体の健康的には問題がないのだが、気持ちが憂鬱になる。安価で大量に生産できる液体食物が開発された時、世界的な食糧難が解決され、多くの命が救われることになった。佐藤もこれがなければ、だいぶ前にのたれ死んでいたに違いはないのだが、あまりもの味気なさに、食すたびに嫌味が出る。

「仕事をすれば良いのでは」天井のスピーカーから機械音声が流れてくる。家庭用人工知能の改良版であるビーコンだ。昔の知り合いが開発したものを譲り受けることになった。

「そんなことはわかってるんだよ、ビーコン。それでもなお働きたくないと言うのが、人間の心情じゃないか」これだから人工知能は困るよ、と軽口を付け足そうとしたが、以前そのようなことを言った時にとんでもないことになったので辞めておいた。

 佐藤は液体食物が入っていた容器を、二メートルほど離れたゴミ箱に放り投げた。容器はゴミ箱の淵に当たり、コンクリートの床に落ちた。天井から伸びてきたアームがそれをゴミ箱に捨てる。

「電気代、ガス代、水道代の支払い期日が迫っていますよ。銀行残高、仮想通貨残高を合わせても、一万二千円。予想支払料金は五万五千円なので、働かなないとまずいですね。せめて私のための電気代ぐらいは払ってもらわないと」

「そんなに少なかったとは」仕事仲間に教えられた仮想通貨に振り込んだ金は、紙屑にも満たない値段になってしまった。何が三十倍は固いだ。ラングのホラ吹き野郎が。

「俺が最後に働いたのは?」

「3ヶ月前の2138年11月8日です」

「そんなに前だったっけ?」

「はい。連続強盗の賞金首を捕まえた時ですね。賞金は百八十万でした。そのうちの百万が未納の税金に消えて、八十万弱は生活費にカジノと仮想通貨、肉に消えました」

 佐藤は頭を掻きむしる。これはもう働くしかない。働いて元手を作り、それをカジノか仮想通貨に投入する。当たれば儲け物。外れればそれまで。明日の命が保障できない生活で、小さな金を未来にとっておく必要はない。佐藤にとっての人生とは行き当たりばったりの漂流のようなものだ。悲観的な訳ではない。ただ、その時その時のことを考えているだけだ。

「ピーコン、現在の賞金リストを表示してくれ」佐藤は天井を仰ぎ見てそう言った。

「承知しました」

 目の前に、空中ディスプレイが表示される。現在の賞金首リストだ。このリストは警視庁がアップしたもので、誰でも見ることが出来る。

「百万付近で絞り込みをかけて」

 画面が一瞬薄くなり、再びリストが表示された。

「そこから女を」

「もう抜いてあります」

「さすがだね」いくら賞金首とはいえ、女を殴ったり、女にゴム銃を向けたりするのは気分の良いものではない。佐藤はフェミニストではないし、立派な騎士道精神を持ち合わせている訳でもない。たとえ、明確な主義主張がなくても、なんとなく受け入れられないものが人にはある。

「そこから直近で事件を起こした順番にも」

「並び替えてあります」

「完璧だ」事件から時が経っていると、賞金首がもう死亡している場合や、捜索のための痕跡が見つからないことが多い。賞金首を追っていたら、死体に遭遇するなんてことは一度や二度ではない。死体は、この気温だとあっという間に腐ってしまう。腐敗した人間の匂いは、一度書いたらもう二度と嗅ぎたくないものだ。それに、身元が分からなくなるレベルで腐った遺体では、警察は賞金を出さない。もちろん、金がかかるD N A鑑定や、歯形の鑑定などは行わない。もしも、腐敗した遺体で賞金を得たいと考えるなら、それらの手続きを何から何まで自費で行わなければならない。そして、そこまでして、遺体が賞金首のものではないことなどざらにある。それらの理由で、佐藤は昔の賞金首を追わない。佐藤と同じ考えの賞金稼ぎは多いが、ビーコンの操作能力がある分、競合がいても佐藤に分がある。ビーコンを超える人工知能は、おそらく現時点では存在しない。

 佐藤はリストの中の一人に目をつけた。中東系の男だ。

「一番上の行の左から三人目の情報をちょうだい」

「多田マイケル。二八歳。移民の父と日本人の母の間に生まれました。両親は既に死去。職場である工場の社長を殺害し、現金百万円ほどを盗み、現在も逃亡中です」

 佐藤は事件の概要にさっと目を通す。計画性や残虐性は感じられない。こいつなら特に苦労することはないだろう。

「よし、こいつにしよう」

「承知しました。では、多田マイケルに関する情報を収集しておきます」

「よろしく」佐藤はソファから立ち上がると、天井に埋め込むように付けられた鉄のバーの下まで移動し、懸垂を始めた。

 トレーニングは、怠惰に見える佐藤が欠かさない習慣の一つだ。こういう仕事をしていたら、自分の体という一番の武器を磨かない選択肢はないし、それを怠った人間が死ぬのも見てきた。それに、トレーニングは、佐藤にとっての瞑想でもあった。思考を放棄し、筋肉の伸縮と関節の動き、呼吸の乱れに意識を落として行く。その深度は時間と共に下がっていく。懸垂、腕立て、片足スクワット、腹筋、逆立ち。それらを、秩序がある様に見えて無秩序な順番で繰り返していく。回数のカウントも行われず、ただ肉体との対話だけを行う。呼吸が乱れ、汗が床に流れ落ちる。一滴。二滴。乾きによる痛みが、喉に現れる。深度が限界に達したタイミングで、佐藤は動きを止め、床に横たわった。冷たい床を背にしながら、乱れた呼吸が脳の中でリズムを刻み、そのリズムが緩やかになって行くのを感じる。リズムが落ち着いたタイミングで、佐藤は立ち上がり、浴室に行って汗を流した。

 濡れた体を拭いていると、ビーコンから声がかかった。

「多田マイケルに関する情報を集め、デバイスに送信しておきました」

「ありがとう」佐藤はタオルで濡れた黒い髪を雑に拭きながら、礼を言った。

 ドライヤーで髪を乾かし、ジーンズに白いTシャツという出立ちで佐藤は部屋を出た。
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