牧野

伊原亜紀

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居酒屋と打ち明け話-1

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  僕たちは、大学の近くの沖縄料理店のカウンター席で飲んでいた。出会って四ヶ月後の、牧野の二十歳の誕生日を祝う会だった。誕生会といっても名前だけで、実態はいつもの飲み会と変わらない。いつもと違うのは、会計が僕持ちになり、僕から牧野へのささやかなプレゼントがあるだけだ。牧野がカフェイン中毒者なので、僕は彼女にマグカップを買った。白地に英字のロゴが入ったシンプルなものだ。人に送る誕生日プレゼントにこんなに悩んだのは、人生で初めてのことだった。
 暦の上では秋のはずなのに、まだ暑さは十分に取り残されていた。カウンター席は僕らとワイシャツ一枚のサラリーマン風の中年の男たちで埋まり、二階にある大部屋からは、大学生たちの大きな声が漏れていた。コールが聞こえ、その席の様子が容易に想像できた。

「私は人に相談というものをしたことがないんだけれど」
会話が途切れたタイミングで牧野が呟いた。
「俺もないな」僕は今までの人生を振り返ってみる。進路相談という儀礼的な相談はあったが、あれは数には入らないだろう。僕は今までの人生で、相談することができる相手を見つけることができなかった。いや、見つける必要がなかったのかもしれない。相談を要する出来事など、僕の日常には起こらなかった。
「今からあなたに相談しても良い?」
「逆に良いの。俺なんかに相談して」
「私には取ることのできる選択肢が少な過ぎて、相談する相手として思い浮かぶのはあなたしかいない」
「消去法的選択か」僕は文句を言うように返したが、内心は嬉しかった。喜びを隠すために、レモンサワーを一口飲んだ。
 グラスを置いて、牧野の方を見ると、牧野が正面を向きながら言った。
「今までの人生で、好きな人ができたことがない」淡々としたいつも通りの口調だった。
僕は取り皿にとったゴーヤチャンプルに目をやりながら、なんと返そうか考えた。しかし、凡庸な僕に良い返しは思いつかなかった。
「一応確認するけど、それは恋愛的な意味でってことだよね」僕はそう言い、
「それはもちろん。家族は好きだし、あなたのことも同じように好きだよ。そこにある程度の不満があるにせよ」
「それは光栄だね」好きな相手に家族と同じように好きと言われるのは、嬉しさと同時に心にくるものがある。僕はゴーヤを強く噛み締める。口の中に苦みが広がる。お前のせいだぞ、ゴーヤ。何もしていないゴーヤは気の毒なことに、僕の口の中で砕けた。
「私には何か欠点があるのかもしれない」とレモンサワーを一口飲んだ後、牧野はそう呟いた。その呟きは牧野に似合わない、ある種の切なさを感じさせる物だった。僕たちの間に浅い沈黙が降りた。浅い沈黙は、深い沈黙よりもたちが悪い。深いところに落ちてくれれば、それはもう終着点なのだ。中途半端なところに留まってしまうと、どこにも辿り着いていない居心地の悪さを感じる。
僕 は逃げるように、目の前の七味唐辛子が入った瓶を眺めた。その瓶はソースや油のようなもので薄汚れていたので、使っていないお手拭きでそれを拭いた。お手拭きは薄く汚れ、瓶は綺麗になった。僕は綺麗になった瓶を元の位置に戻した
 店内の喧騒が僕たちを引き上げた。
「まあ、確かに好きな人ができないって話はあまり聞いたことがないけど、欠点というほどのものでもないんじゃないか」僕は言葉を選んで切り出す。牧野はゴーヤを箸で摘んでいる。
「それに、まだ好きな人に出会っていないだけで、明日急に好きな人ができるかもしれない。今まで出会ってきた中に、牧野の恋愛対象たる人がいなかっただけかもしれない」僕はいつも通り退屈な返しをする。退屈だが、退屈なものが役に立たないわけではない。もし退屈なものが役に立たないのなら、この世界はとうに終わってしまっているだろう。退屈でないものと有用さは、比例するものではない。むしろ、退屈な意見の方が人生において有用な場合は多くあるだろう。特に、この世界できちんと生きることを目的とするのなら。
 牧野は僕の顔をじっと見つめた。何もかも見透かしてしまいそうな細く鋭い目。僕はその視線に耐えられなくなり、逃げるようにレモンサワーを飲んだ。
 やがて牧野は、「あなたはいつも優しい」と呟いた。
 僕は本質的に優しい人間ではなく、かなり打算的に優しい人間だが、それを受け取る人にとっては大きな違いはない。
 僕は自分が打算的な人間であることを自覚しているので、「優しい」と言われると、その人を騙しているようで申し訳のない気持ちになる。だが、牧野に「優しい」と言われ、単純な僕の中には喜びが芽生え、いつも通りの罪悪感と混じり合い、複雑な気分になった。
「世界中の人間が僕みたいになったら、この世から戦争も犯罪も無くなるだろうね」ストレートに物事を伝えることが苦手な僕は、つまらない冗談を言う。
「平和だけど、随分退屈な世界になりそう」牧野は少しだけ笑いながら言った。
「世界中の人間が牧野になるよりは随分ましな状態になると思うけど」
「それはそうかもしれない」牧野の笑顔を、僕はほっとする気持ちで見た。
 その後、いつものように本と映画の話をした。最近二人で見に行った予告だけ面白かった肩透かし映画や、魅力的な映画のキャラクターベスト10、古典小説の面白さ。そんな話をしながら、いつもと違いかなり飲んだ。牧野は僕に想いを吐露したことの恥ずかしさがあったのかもしれない。僕もそんな牧野に引きづられるようにして飲んでいた。
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