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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
私の人生は波乱で満ちている――
「お姉ちゃん、今までありがとう」
美しいウエディングドレス姿の花嫁が、私に向けて涙ながらに手紙を読み上げた。
両親を早くに亡くし、姉妹二人で支え合って今まで生きてきたのだ。披露宴の出席者たちが、ハンカチで目もとをおさえているのが見える。
とても感動のシーン。しかし……私と、目の前にいる彼女は、実際は赤の他人である。
やはり女は生まれながらに女優だな、という感想を内心抱きつつ、慈愛に満ちた笑みを彼女に向けた。
花染更紗、二十七歳。職業、人材派遣会社勤務の女優。
誰かの日常に入り込み、依頼通りに望まれた役を演じきること。それが私の仕事だ。
今回の依頼は、結婚式で新婦の姉を演じることだった。両親と死別し、姉妹二人で生きてきたという設定を演じてほしいと言われたのだが、実際新婦の家族は生きている。
ただ色々あって絶縁状態だそうで、その内情を相手の家族に知られたくないための策だそうだ。
姉役の私はキャリアウーマンで仕事が忙しいため、この先めったに顔を合わせることもない――という設定だ。その後のことは依頼人がなんとかするだろう。
式の終わりまできっちり姉役を演じきり、祝福ムードの中、私はそっとホテルを後にした。
「隣町の駅までお願いします」
乗り込んだタクシーから任務完了のメールを送る。
駅に到着したので電車に乗り、そのままオフィスへ戻った。
「ただいま戻りました」
「更紗ちゃん、お疲れ様。どうだった? 結婚式は」
「はい、問題なく終わりましたよ」
オフィスで迎えてくれたのは、私の義理の姉である千歳さん。この会社の経理を務めている。
「お帰り更紗」
そしてオフィスの奥の席に座っているのが、この会社の社長、花染若竹、三十五歳。私の母の再婚相手の連れ子で、つまり私と彼は義理の兄妹だ。彼は千歳さんの夫でもある。
「依頼は無事に果たせたか?」
「もちろん。クライアントの要望通りに演じてきましたよ。報告書を作成しておきますね」
コートを脱いで、アップにまとめている髪をほどく。隣で千歳さんが「せっかく綺麗にまとめたのにもったいない」と言っているが、私は依頼人の姉の姿からいち早く更紗に戻りたい。
「着替えたらちょっと来い。新しい依頼だ」
「はーい」
デスク前に座ったまま、義兄がなにかの書類をひらりと見せた。私は事務所奥の控室へ行き、私服に着替える。
母が再婚したのは、私が十八歳のときだ。
実の父は私が幼い頃に病気で他界。それから母は、女手一つで私を育ててくれた。その母が再婚したいと相談してきたので、私は即、賛成した。頑張ってきた母には、幸せになってほしいと心から思ったのだ。
再婚時、私はちょうど大学に入学したばかりで、八歳違いの義兄は当時二十六歳。勤めていた会社を辞めて、一風変わったこの人材派遣会社を設立したところだった。
再婚後、両親は海外へ移り住み、私はひとり暮らしをスタート。
義兄とも離れて暮らしていたので、お互い距離感がわからず、あまり兄妹として接してこなかった。ところが、私は大学卒業後に、この会社へ入社することとなる。そこには、私のちょっと変わった経歴が関係していた。
鏡を見ながらつけまつ毛をはがし、メイクを落とす。パパッと薄化粧をし直した顔は、先ほどまで結婚式で涙を浮かべていた、ちょっと派手目の人物とはまるで別人。どこにでもいる十人並な顔立ちの女性だ。
「相変わらず化粧詐欺だわ」
化粧映えするこの顔は、がっつりメイクをするとたちまち別人になれる。
この仕事をするには、平凡な私の顔は欠点ではなく、長所だ。
シンプルなジーンズとカットソーに着替え、義兄のもとへ向かう。
「お待たせしました」
義兄のデスク前に着くと、一枚の依頼書を手渡された。ざっと目を通す。
「久遠寺グループの御曹司直々の依頼だ」
義兄が淡々とした口調で言い放つ。全部を読み終えていなかった私は、思わず目を丸くした。
「え? あの自動車から不動産、学校運営まで手広くやっている、久遠寺家? なんでそんな雲の上の人がうちに話持ってくるの」
怪しさ満点だ。
胡乱な目を義兄に向けると、彼はあっさり「こっちにもコネがあるんだよ」と答えた。
「学生時代の友人が、その御曹司様と知り合いでな。その紹介」
「若竹さん、何気に顔広いですよね……」
手もとにある依頼内容を確認する。そこに書かれていたのは、久遠寺グループの令嬢を演じてほしい、というものだった。
久遠寺桜、二十三歳。私より四歳年下のご令嬢という役どころ。
今まで色々な依頼を受けてきたが、今回のはさすがに大物すぎる。口もとが引きつった。
「お嬢様になれと? しかも、ただの金持ちならまだしも、久遠寺家の令嬢って……。なにこの無茶ぶり」
「ああ、依頼人は久遠寺椿。依頼内容は、そいつの妹を演じてほしい、というものだな。期間はとりあえず一ヶ月。報酬は破格だ。断る選択肢はない」
ニヤリと笑った義兄の銀縁眼鏡がきらりと光る。彼は、実に悪どい顔をしていた。
「その目的っていうのが、妹さん宛ての見合いを破談にすることって……。破談にしたいなら、見合い相手を別の女に誘惑してもらえばいいんじゃないの?」
「それはそうだが、詳しいことは本人に聞いたほうが早い。明日来社予定だ」
こんな依頼ははじめてだ。セレブの考えは謎すぎる。
後で久遠寺家について調べておこう。せめてネットに上がっている程度の情報は仕入れておきたい。
私は事務処理を終わらせてから、一人暮らしのマンションへ帰宅した。
翌日の午後、依頼人がお付きらしき人と二人でやってきた。
三つ揃いのスーツをびしっと着こなしたその男性は、思わず頬を赤らめそうになる美形。背もスラっと高い。御曹司なだけでなく見た目もいいなんて、天は二物も三物の与えるんだとこの世の不平等さを嘆きたくなった。
身長は高く、均整の取れた体躯にまとう仕立てのいいスーツは、恐らくオーダーメイドだろう。
癖のない黒髪にすっとした目もとは涼やかで、和装が似合いそうだ。雅やかな印象が漂っている。
そんな艶やかな雰囲気をまとう御曹司様は、歩く姿まで優雅だ。依頼人のプロフィール情報によると、三十一歳で独身。女性が放っておかないに違いない。
「はじめまして、久遠寺椿と申します」
おまけに声までいいってどういうことだろう。
心の声は口には出さず、私は社交的な笑みを浮かべた。
「はじめまして、今回久遠寺様の担当を務めさせていただきます、花染更紗と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そう言って、久遠寺さんは丁寧に頭を下げた。
居丈高な俺様だったらいやだなと思っていたのに、拍子抜けしてしまう。
向き合って座り、何故うちの会社に依頼をしてきたのか、義兄とともに話を伺うことにした。
目の前の彼が少し困ったように眉を下げる。
「お恥ずかしい話なのですが、私の妹、桜は少々型破りな人間でして。幼い頃は病気がちであまり学校にも通えなかったのですが、身体が丈夫になったら随分と自由奔放になってしまい……世間が考える久遠寺家の娘のイメージとはかけ離れているんです」
――そう語り出した彼の妹さんは、なかなかに愉快な人だった。
簡単に言えば、破天荒な自由人。
子供の頃は病弱で、空気のきれいな田舎の別荘で育てられたそうなのだが、その後スイスのお嬢様学校に入学。スイスで病気も完治したそうだ。けれど病気が治ってからも年に一度帰国する以外は、ほとんど外国で過ごしたらしい。
そしていつの間にか、大人しく物静かだった少女は消えて、なにかがスパンッと突き抜けてしまったような性格になっていたのだとか。
久遠寺さんが、お付きの人から分厚いアルバムを受け取る。
「妹が写っています。この辺りから見てくださるとわかりやすいかと」
「では、遠慮なく拝見します」
義兄と一緒にアルバムをめくる。
写真に写っている幼少期の彼女は、病弱な美少女というイメージそのものだった。
癖のない黒髪に青白い肌。物静かな深窓の令嬢に見える。現代の白雪姫と言われてもおかしくないほど。
庇護欲を誘う姿は愛らしいけれど、ベッドの上や室内で撮影された写真ばかりで、病気がちだったことが窺えた。
けれど高校生くらいに成長した写真は、がらりと雰囲気が変わっている。背景から日本で撮影されたものだとわかるそれには、渋谷などにいそうな派手な恰好をした女の子が写っていた。
ひと言でいえば、ギャルい。
「この、文学少女のような物静かな少女と本当に同一人物ですか? ものすごい変貌ぶりですね」
「ええ、すごいでしょう」
久遠寺さんは苦笑せざるを得ないという感じだ。
「離れて暮らしていたせいで、余計気づくのが遅くなったと言いますか……。彼女が通っていたスイスの学校は、規律を重んじるところだったのですが、息抜きのオシャレには寛容でした。そこで、オンとオフを使い分けていたんでしょうね。日本に帰国するたびに明るく元気になったと喜んでいられたのも、中学生まででした。気づけば、オフのほうが本来の妹の姿になっていて。それでも『元気になったらやりたいことを全部やると決めていた』などと言われては、両親も私もあまり強く言えず……。離れて過ごしていたので、余計遠慮があったのでしょう」
「なるほど……」
アルバムの写真が進むにつれて、メイクはより派手になり、髪の毛は金髪やピンクなど鮮やかな色に変化していく。
カラコンもいれて、ついにはコスプレにも手を出していた。
この辺になるとカメラ目線の写真が減るため、どこかのイベントでの隠し撮りかな……深く突っ込むまい。
「それで、今はどうされているのですか? うちに依頼があったということは、妹さんは近くにいないか表に出て来ることができない状況だと推測しますが」
え、それって……
義兄の問いかけに妙な緊張を感じながら久遠寺さんを窺うと、彼は笑顔で言った。
「病気で動けないというわけではないんですよ。今も海外で暮らしています。外国育ちですから、日本は窮屈なんでしょうね」
「今も留学中ですか?」
私の問いかけに対する久遠寺さんの答えは、予想の斜め上をいっていた。
「いえ、大学を卒業後、卒業旅行で訪れた南米で運命の人を見つけたと言い、家族に相談なしに現地の人間と国際結婚してしまいました。現在カリブ海のキュラソー島に住み、つい先週妊娠中という連絡が」
「……なんと。それはそれは……」
おめでとうございます、とは迂闊に言えぬ。
キュラソー島は、南米ベネズエラの北にある小さな島だ。港町のカラフルで可愛い街並みは、世界遺産にもなっているらしい。
妹さんから届いた、まさかの報告。ご実家は相当な混乱ぶりだったそうだ。
ご両親は、彼女をグループの系列会社に就職させて、社会経験を積ませながら頃合いを見て縁談をすすめようと考えていたらしい。そんなところに結婚・妊娠の連絡。皆で頭を抱える羽目になった、ということのようだ。
ちなみに上流階級の中では、表に出てこない久遠寺家の令嬢は病弱な美女で、両親に溺愛されているという噂が浸透しているらしい。
久遠寺家のご当主夫妻が誰にも娘を紹介せず、ろくに存在も明かさないため、勝手なイメージが独り歩きしているのだ。
しかしそれを訂正もできず、かといって本人を紹介もできず。どうすることもできなかった結果がこれだ。
桜お嬢様は後悔しない生き方を自分で選んでいるので満足だそうだが、周りはそうもいかないだろう。
言ってしまえば、どこの馬の骨ともわからない相手の子供を身籠っている現状なのだ。そのことに、久遠寺家の当主は相当ご立腹で、現在妹さんは勘当同然とのこと。
「それで、すすめようと画策していた縁談というのが、簡単に断りにくい相手である、と。そのためうちの手助けが必要、ということでしょうか?」
義兄の問いに久遠寺さんが頷く。
「はい、もともとは久遠寺から頼んだ話ですし、お相手も一人ではなくて。それに本人に会わせずに断るのは失礼なので、せめて一度お会いしてからではないと……というのが、私と両親の考えです。そう伝えたところ妹本人が、誰かに自分の役を演じてもらえばいいじゃない、と」
彼女が自分から言ったのか、それ。すごいな。
でも当人が了承済みなら話が早い。
「妹さんは妊娠中で安易に飛行機に乗せられないし、帰国の意志もないと……」
「よっぽどあちらの空気が合っているんでしょうね。日本には当分帰ってこないと言い張っています」
ちなみに妹さんの結婚相手は、リゾート開発やホテルのオーナーをしているそうで、生活の心配はないそうだ。とはいえ、堅実な相手と縁を結び、幸せな家庭を築いてほしかったご両親には衝撃ばかりだろう。
話が壮大すぎて、激しい……という感想しか出てこない。
しかし破格の報酬を義兄がみすみす逃すはずもなく、彼はにっこり社交的に微笑むと「お任せください」と安請け合いをした。
「依頼内容は久遠寺桜様に代わり、縁談を無事に破談させること。かける期間は一ヶ月。それでよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いいたします」
久遠寺さんはまた、丁寧に頭を下げた。
自由すぎる妹を持ってとばっちりを受けているだろうに、心底困っているという風に見えないのは、彼自身がまとう空気がのんびりしているからか。
そもそもこういうときは、久遠寺家に仕える人が依頼に来そうなものなのに、御曹司自ら出向いてくるのがすごい。
美形でセレブ。でも、驕ったところがなくて、好感度が高い。
「こちらの更紗はかつて人気子役をしていた経歴がありまして、演技力には定評があります。ご要望にお応えできると思いますよ」
義兄がさらりと私にプレッシャーをかけてくる。
私はかつて、小戸森サラという芸名で子役として活動していた。五歳からの五年間、テレビに出ていたのだ。バラエティー番組に出たこともあるし、大物俳優との共演も経験している。その当時は、結構人気子役として、世間に名前が知れ渡っていた。
母子家庭だったため、母の助けになりたいと自分から望んで仕事をはじめた。でも十歳になった頃、芸能界に嫌気がさしてしまった。
早くから大人と接し、裏側の世界を見続けた所為で妙に達観した子供になっていたし、本当の自分を隠して周囲が望む子供らしい子供を演じるのにも疲れてしまった。
普通の女の子として学生生活を送り、友達だってほしい。
結局私は、十歳という若さで芸能界を引退した。
それ以降、義兄に誘われるまで演劇の世界とは離れていたけれど、今はこの仕事にやりがいを感じている。舞台がカメラの前か現実世界かの違いだけで、演技をすることに変わりはない。
プロの端くれとして、私も一度引き受けた仕事を中途半端にするつもりはない。やるからには、全身全霊で応えるつもりだ。
「ご希望通りの桜様を演じ切ります。どうぞよろしくお願いいたします」
久遠寺さんがほっと安堵の笑みを見せた。
「ありがとうございます。それでは更紗さんは私の妹として、これから一ヶ月、久遠寺の家に住んでいただけますか? より自然な兄妹を演じるには、私のことや家のことを知っておく必要がありますので」
「拘束時間によって費用がかかりますが、よろしいですか?」
義兄が口を挟む。
「問題ありません。依頼料は後日請求してください。ああ、更紗さんに必要なものはこちらで揃えますので、ご心配なく」
「そうですか、承知いたしました。では更紗、しっかり依頼をこなしてくるように」
「はい。これからよろしくお願いいたします、久遠寺さん」
「こちらこそ。では参りましょうか、更紗さん」
「え?」
参るとはどこに。
応接室のソファから立ち上がり、久遠寺さんが手を差し出す。
困惑しつつもつられるように立ち上がると、彼は私の手をすくいあげ、きゅっと握った。
「まさかと思いますが、今からですか⁉」
「ええ、善は急げと言うでしょう?」
微笑みながら、おっとり告げる。
力は決して強くないのに、何故だかその拘束から抜け出せないように感じた。
「安心してください、なんでも必要なものがあれば、言っていただければすべて揃えますので」
「……ありがとうございます……?」
乾いた笑みが零れそうになるのをぐっとこらえる。
そうして着の身着のままの状態で、私は久遠寺家の高級車に乗る羽目になった。
第二章
久遠寺邸は、想像以上の豪邸だった。
セキュリティ対策が施されているゲートは、車が近づくと自動的に開いた。そこから数分車を走らせて、ようやく屋敷の玄関前に到着する。
ここ、都内だよね?
疑わしくなるほどの敷地の広さに、口が開いてしまう。
緑豊かな自然公園と見紛う風景が庭だというのだから、お金持ちの生活はさっぱりわからない。庭だけで一体いくらかけているんだろう……
思わず遠い目になったが、それはまだ序の口だった。
「お疲れ様です、椿様、花染様」
「ありがとう、竜胆」
車から降りた久遠寺さんが、運転手を兼ねていた付き人の男性にお礼を告げた。
車の中で説明してくれたのだが、先ほどから気になっていたこの方は、代々久遠寺家に仕える久世竜胆さん。
柔和な笑みにきっちり後ろに撫でつけられた髪の毛で、まさしく執事というイメージだが、実際は執事ではなく家令補佐というものらしい。
先祖代々久遠寺家を支えてきた家柄というのが、今の時代にも受け継がれているとは……。時代錯誤と思わなくもないが、改めてすごい世界だ。
「さあ、更紗さん。どうぞ」
久遠寺さんが私の前にやってきて、手を差し出した。男性にエスコートされたことなんて今までの人生で一度もないため、一瞬間が空く。
「あ、すみません、大丈夫です……」
恐縮しながらやんわりと断った。手なんか握られたら、今以上にカチコチに緊張しちゃうわ。
そして車から降りた私は、目の前の屋敷を見て固まった。
「大きい……」
玄関扉に行くには、両サイドにある階段を上るらしい。玄関前には立派な柱があって、まるで西洋のお貴族様のお城だ。扉はもちろん両開き。しかも大きい。
「すごい豪邸ですね……。なんとか文化財になってそう……」
「何度か国から言われているけど、断り続けているんだ。一度指定されてしまうと、簡単に修繕もできないからいろいろと面倒でね。ここは、大正時代に建てられた古い屋敷なんだ。あちこちリフォームしているので、まだちゃんと住めるけど、冬は少々寒いかな。あ、そこ足もと気をつけてね」
これからは兄と呼ぶことになるのだから、お互い敬語はやめようと、車の中で言われていた。とはいえ、私の方はすぐに対応するのは難しい。けれど、彼の口調は随分砕けたものになっている。
玄関扉が中から開いた。
「お帰りなさいませ、椿様」
「ただいま、久世」
初老の男性が丁寧に出迎えてくれた。
ロマンスグレーの髪の毛がとても似合うこの人が、竜胆さんのお父様だろう。
久世家に仕える家令ということは、屋敷を取り仕切っているえらい人だ。
「これから桜になってくれる、花染更紗さんをお連れしたよ。後でみんなにも紹介したいから、先に話をしておいて」
「かしこまりました、椿様。お帰りなさいませ、桜様」
「こ、こんにちは……桜です」
なんともナチュラルに桜様と呼ばれてお辞儀をされて、焦りがわく。もしかしなくても、この屋敷に一歩入ったところからもう演技が始まっているの⁉
展開が早すぎて頭が追いつかない。
てっきりこれから、ゆっくり説明を受けるのだと思っていたのに。まさか速攻で演技テストをされるとは……
なんとか切りかえて、できるだけ落ち着いた感じの笑顔になるよう意識する。
綺麗に整えられた髭に囲まれた久世さんの唇が、にっこりと弧を描いた。
「しばらくお会いしない間に、随分落ち着きのある淑女になられましたね、桜様。少しお疲れのようですな。後でお好きな紅茶をお持ちいたしましょう」
「っ! あら、そうかしら。久しぶりにおいしいお茶が飲めるなんて楽しみだわ」
「一緒に桜様がお好きなケーキもお持ちしましょう。料理長が朝から張り切っておりましたよ」
玄関のなかに進むと、使用人の方々が待ち構えていた。十名ほどの方が皆、にこやかに挨拶をしてくれる。
「お帰りなさいませ、椿様、桜様」
着物に白いフリルのエプロンを身につけているこの方々は、女中さんというイメージだ。年代物のお屋敷にメイド服もいいけれど、着物というのもなかなかオシャレだ。レトロなお屋敷にしっくりくる。
「ただいま」と返した久遠寺さんにならって、同じように笑顔を向ける。私が迷わないようにか、久遠寺さんがすかさず私の手を握って振り返った。
「桜は帰って来たのが久しぶりだから、きっと忘れているよね。部屋まで案内しよう」
「……まあ、ありがとう、お兄様。久々すぎて度忘れしてしまって」
ああ、やっぱり一歩屋敷に入ったときから、私は久遠寺桜なのね……
せめて車の中で説明がほしかったと内心ぼやきつつ、完璧な笑顔を浮かべる。
久遠寺さんのおっとりした雰囲気に流されそうになるが、こんな家に生まれた御曹司が見た目通りの人のはずがない。一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない人だというのがこれでよくわかった。
正直、私の恰好がまだ更紗のままだから、すぐに役に入れと言われても難しいんだけど……。実際の桜お嬢様の口調がどういうものだったのかも、ちゃんと確認しなくては。
一体どこまでが玄関なのかわからない大理石の大広間を進んでいく。土足のままなので、どうやらこの屋敷は見た目通り西洋の文化を取り入れているらしい。
お手頃価格のワンピースにジャケットを羽織っただけの姿が、ひどく落ち着かない。なんかこう、イブニングドレスでも着ていなければいけないような気分になる。
「どうしたの?」
少し足取りが重くなっていたのか、久遠寺さんに訝しげに問われた。
「いえ、なんでもありませんわ」
付け焼き刃のお嬢様口調で返事をする。そうして少し歩いた先は、エレベーターホールだった。
え、家にエレベーターがあるの?
……ホテルか。
久遠寺さんは、久世さんにお茶を頼むと告げて、エレベーターに乗った。レトロでかわいらしいエレベーターは、三階が最上階。どうやらそこが私室になっているようだ。
「桜の部屋は僕の部屋の向かいなんだ。覚えておいてね」
「そうね、そうだったわね。ありがとう、お兄様」
二人きりになっても桜お嬢様を続行していると、隣から小さな笑い声が落ちた。
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