クセモノ紳士と偽物令嬢

月城うさぎ

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1巻

1-2

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「ふふ、少し意地悪をしてしまったね。部屋に入ったら説明するから、安心して?」

 ……どうやら私はからかわれていたらしい。
 私は部屋に着くまで、意地になって桜お嬢様らしい口調で「お兄様」を連呼してやった。


    ◆ ◇ ◆


「――さて、あらためてようこそ我が家へ、更紗さん」
「久遠寺さん……、いきなりドッキリなんて、なかなかいい性格をしていらっしゃいますね」

 案内された桜お嬢様の部屋は、一人暮らしをしている私のマンションの倍はある、広々としたところだった。
 白を基調とした家具は、きっとヨーロッパの高級家具に違いない。
 ゴシック調のシャンデリアに天蓋つきのベッド。
 私がイメージするいわゆるお嬢様の部屋より、数倍ゴージャスだった。ここにしばらく滞在させてもらえることがうれしいというより、分不相応すぎて落ち着かない……
 若いお嬢さんらしく、ソファはかわいらしいピンク色。そこに座ると、これから兄となる久遠寺さんが向かい側に腰を掛けた。
 タイミングよく、久世さんがお茶を運んでくる。

「まるでホテルのアフタヌーンティーですね」
「お気に召すといいのですが。お好きなものがありましたら、なんなりとお申し付けください」

 こぽこぽと目の前で紅茶がそそがれる。
 サンドイッチ、スコーン、マカロン、一口サイズのケーキ。三段トレイに盛りつけられた軽食とスイーツは目にもあざやかで、プチセレブ気分になる。一瞬、仕事で来ていることを忘れそうになった。
 香り豊かなダージリンティーを一口含む。自分の部屋でティーバッグをちゃぷちゃぷさせて飲んでいた紅茶はなんだったんだろう。
 生まれながらのセレブの久遠寺さんは、紅茶を飲む姿もさまになっている。スーツ姿で長い脚を組んでいるのもモデルのよう。この人いい被写体になるだろうに、まったく報道されていないのが不思議だわ。

「それで、ここが桜さんのお部屋でよろしいんですよね?」
「そう、君にはこれからこの部屋に住んでもらう。クローゼットの中は好きに使って。必要なものがあれば久世に言ってくれたらいいから。すぐに整えよう」
「ありがとうございます」

 とは言っても、ハンドバッグひとつしか私物を持ってきていないから、必要なものがそれなりにあるんだけど。
 長期不在にするつもりで自宅を出てきたわけではないので、一度部屋に戻って基礎化粧品やメイク道具、着替えなどを一式ごっそり持ってきたい。

「一度自宅に戻り私物を持ってきたいのですが、よろしいですか?」
「そうだね、もちろん。でも衣服などはこちらで揃えるから、必要最低限のものだけでお願いできるかな」
「はい、承知しました」

 桜さんの洋服を借りるとしても、サイズは大丈夫なんだろうか。
 そういった確認事項がいくつかあるが、まずは私が演じる桜さん像を把握しなければ。

「それで、桜さんのことですが。私はどういう役を演じればいいのですか?」
「世間からは、両親が溺愛している病弱な令嬢、というイメージを持たれている。実際は先ほど話した通りで、今現在の桜は活発で行動的。なにをするかわからない破天荒はてんこうな、世間一般で考えるお嬢様らしくないお嬢様かな。だけど更紗さんには、世間のイメージの桜、つまりできるだけ良家の令嬢らしくしてもらいたい。イメージとしての桜の品位を保ったまま、相手に引き下がらせてほしいんだ」
「具体的には?」
「久遠寺家にふさわしい立ち居振る舞いをお願いしたい。その上で、それぞれの見合い相手の好みの女性であってはいけないから、彼らの好みとは真逆の女性を演じてもらうことになるかな。けれどうちの令嬢としての品位が下がる行動は避けてほしい」

 面倒な注文ばかりでごめんね、と久遠寺さんが謝った。

「なるほど、では私は皆様が想像されているとおりのお嬢様を演じつつ、相手の面子メンツをつぶさないように円満に見合いを破談にすると」

 ……なかなか難しい注文だな……
 そもそもお嬢様生活というものを送ったことがないため、貧困なイメージしか持ち合わせていない。まあだからこそ、それを補うためにこの屋敷で暮らすことになったのだけれど。

「それでは、大和やまと撫子なでしこのようなイメージで役作りをしたらよろしいですか?」

 久遠寺さんが和服が似合う純日本人の美形だから、桜さんも着物が似合うおしとやかな令嬢に見えるよう印象を作ったらどうだろう。
 隣に並んで違和感がないように、メイクもオリエンタルビューティーを意識して。

「そうだね……まずは更紗さんが思い描く久遠寺桜を見せてくれるかな。それを見てから方向性を決めよう。でもその前に、お茶を飲んでからね」

 久遠寺さんは久世さんに、紅茶のお代わりをお願いした。新しい茶葉のポットが用意される。
 のんびりというか、マイペースというか。一分一秒が惜しいビジネスマンという感じではない。この優雅さはさすがだわ。
 久遠寺家がいろいろな事業をしていることは知っているけれど、久遠寺さん自身の職業を聞いていない。でもなんとなく、日夜忙しく働く身分ではないと思う。
 私はお代わりの紅茶と、久遠寺家のシェフが作ったスイーツをきっちり堪能たんのうしてから、桜さんのクローゼットを見せてもらった。
 六畳ほどの広さのウォークインクローゼットの中は、とてもわかりやく収納されている。
 季節ごとに分かれているのは衣類だけではなく、靴やスカーフなどの小物類まできちんと分類されていた。

「広い、そしてわかりやすい。……桜さんは物持ちだわ」

 たまにしか日本に住んでいなかったはずなのに、バッグと靴だけでいくつあるんだろう。
 目の前のハイヒールを一足手に取ってみる。靴のサイズは、私よりワンサイズ大きい。
 ハイブランドのピンヒールは凶器になり得そうなほどヒールも高いし、歩きにくそうだ。でもそもそも、お嬢様は長距離を歩かないのだろう。車移動に違いない。

「しかし、服装はまるでお嬢様らしくないけど」

 そこには、清楚せいそなワンピースやパーティードレス、着物などはなかった。
 ジーンズなどのカジュアルなものと、露出が多く派手な服。ヒョウ柄のミニスカートとか、どこに着て行ってたのか少し気になる。
 これなら私が持ってるお嬢様風ワンピースのほうが雰囲気が合うのではないだろうか。

「更紗さん、どうだった?」

 声をかけてきた久遠寺さんに「今時の女の子の服でしたね」と答えた。

「ちょっとカジュアルな服装が多いので、私の手持ちのワンピースのほうがおしとやかなお嬢様のイメージが作れるかなと。それで、今から自宅に帰宅してもよろしいですか?」
「もちろん。竜胆に車を出してもらおう」
「ありがとうございます」

 エレベーターに乗り、玄関へ向かう。
 家の中には、絵画や美術品が多く飾られていた。私には値段の見当などつかないが、間違いなくお高いだろう。絶対に触らないようにしなくては……借金を背負いたくはない。

「竜胆、更紗さんをご自宅へ連れて行ってくれるかな」
「かしこまりました、椿様。車を回してきます」
「ありがとうございます、竜胆さん。お手数をおかけします」

 先ほどと同じ車に誘導されて、後部座席に乗ったところで反対側のドアが開く。
 ん? と思った直後、何故か久遠寺さんが乗り込んできた。

「えっと、久遠寺さんも来るんですか?」
「うん、興味があるからね。あと僕のことは久遠寺さんではなく、名前かお兄ちゃんって呼んでほしいな」

 興味があるって、なににだ。私のマンションに来ても、部屋には上がらせないけど。
 バックミラー越しに、久遠寺さんに向けて竜胆さんがちらりと視線を投げた。その表情は、なにかを語っているように見える。

「桜さんはなんて呼んでいたんですか?」
「妹は僕のことをお兄ちゃんって呼んでいたよ。一般的な兄妹のようにね」

 義理とはいえ兄がいる私だが、若竹さんをお兄ちゃんと呼んだことは一度もない。両親が再婚したとき、二人とももう子供ではなかったし、気恥ずかしさもあったのだと思う。今は一応会社の社長でもあるし、ますますもってお兄ちゃんとは呼びづらい。
 笑顔のままじっと私を見つめる久遠寺さんから、無言の圧力を感じる。
 これも役作りかな……と納得し、私はあっさり「それでは、お兄ちゃん」と呼んだ。

「うん、うん……悪くないね」

 二、三度頷いて満足そうに笑う彼に、選択を誤ったと感じた。

「やっぱり椿さんで」
「それは却下」

 私に選択肢はないじゃないか。
 いかにも育ちが良くておっとりしているのに、押しの強さを感じる。
 けれどクライアントの意向にはなるべく添うべきだと判断し、私は一言「承知しました」と返答した。が、久遠寺さんの眉がわずかにひそめられる。

「さっき車の中でも言ったけど、君の敬語も今後はなしで。本当の兄妹を演じるんだから、敬語はおかしいでしょう?」
「……そう、ね。わかったわ、お兄ちゃん」

 満足そうに久遠寺さんが前を向いた。だから、これが正解だったのだろう。
 だが本音を言えば違和感が半端ないし、竜胆さんが無言ながらも心の中で突っ込みを入れている気がしてならなかった。
 義兄のオフィスがある場所から電車で二駅の場所に、私の自宅のマンションがある。
 1Kだけど、一人暮らしには十分なスペースがあり、治安も良好。さらに言うなら、最寄り駅から徒歩三分。
 スーパーもコンビニも近所にあるし、過ごしやすく便利だ。
 久遠寺邸から車で約三十分で、私のマンションに到着した。目立った混雑もなくてスムーズに動けたのでよかった。

「すみません、駅前のスーパーの駐車場にでも車を停めておいてもらえますか。そこにコーヒーチェーンのカフェもありますので、ゆっくり休んでいてください」

 マンション前で下車するときにそう告げる。
 竜胆さんが「かしこまりました」と承諾したが、久遠寺さんは手伝いを申し出てきた。

「いえ、お気持ちだけで結構です」
「敬語に戻っているけれど」
「レディの部屋になんの準備もなく入ってこられたら困るのよ、お兄ちゃん」

 私の部屋は、すぐにお客さんを招ける状態ではない。そもそも二人で作業するようなスペースもないので、やはり断固拒否だ。
 私の砕けた口調が気に入ったのか、彼はそのまま引き下がった。

「そう、じゃあ終わったら連絡して」

 電話番号を交換し、私はようやく自宅へ戻ることができた。

「さてと、なにから手をつけていいやら……」

 まずは、クローゼットに収納しているスーツケースとボストンバッグを取り出す。
 仕事道具としても使っているメイク道具一式とウィッグは、マストアイテム。自分に合う靴も必要なので、パーティー用のパンプスやスーツに似合う靴など数足見繕みつくろって袋に入れる。
 清純派な彼女役を演じたことも過去に何度かあった。そのときに用意したワンピースを二、三着選び、あとはキレイ目系のカットソーやスカート、カーディガンなど。
 念のため通帳やパスポートなどの貴重品も持って行こう。使わない部屋に長期間置いていくのは不用心な気がするから。
 それらはハンドバッグに入れて、荷物を閉じる。
 あっという間に、スーツケースとボストンバッグがパンパンになった。
 必要最低限の荷物だけに抑えようと思っていても、海外旅行に行くような量になってしまったのは仕方ない。

「あ、冷蔵庫の中とかどうしよう。冷凍できるものは冷凍して、生ものは捨てていくか……」

 もったいないけれど仕方ない。

「急いだけど、一時間近く経っちゃった。久遠寺さんたちに電話するか」

 玄関扉を施錠せじょうし、マンションを出る。周囲に、大荷物を持って出かけるのを見られるのは防犯上よろしくないので、すみやかに通りに出て二人がいると思われる駅前のコーヒー店に向かった。
 スマホを取り出し、電話をかける。
 コール音が一度鳴っただけで、すぐにつながった。

『桜?』

 出るの早っ!
 動揺したものの、人目がある外では、徹底的に兄妹にならなければいけないことを思い出す。どこで誰が見ているかわからないのだ。
 私は、私が考える普通の妹らしい返事をした。

「もしもしお兄ちゃん? 今どこ?」
『桜が教えてくれたカフェにいるよ』
「わかった、今お店の前に着いたから、中に入るね」

 スマホをハンドバッグに入れて、スーツケースを引く。はたで聞いてたら、兄妹の会話にしか聞こえないはず。けれど、平凡な顔の私が久遠寺さんの隣に並べば、血のつながりを疑われそうだわ……

「ずっと一人っ子だったし、若竹さんは兄といってもちょっと違うし。血のつながった兄妹かぁ……難しい」

「いらっしゃいませ」というカフェ店員に会釈えしゃくをして店内を見回すと、一際ひときわ女性客の視線を集めている二人組の男性が視界に映った。
 ホテルのラウンジで一杯千五百円くらいするコーヒーをゆったりと満喫していそうな雰囲気を放つ男性たちが、久遠寺さんと竜胆さんだ。そんな二人がカジュアルなコーヒーショップにいることが不思議でならない。
 私が近づく気配を感じたのか、久遠寺さんが振り返った。

「桜」

 ふわりと微笑んだ姿に、周囲の人間が息を呑む。
 超絶美形な久遠寺さんと、執事のような制服を着ている竜胆さん。二人が並んでいる姿は絵になる。
 どこかでカメラが回っているのでは? と思っているお客さんもいそうだわ。
 なんていう破壊力のある笑顔なんだとうなりそうになるのをこらえて、私はあくまで妹として彼に近づく。

「ごめんね、遅くなっちゃった」
「大丈夫、もう飲み終えたから。桜もなにか飲む?」
「ううん、私は大丈夫」

 立ち上がった竜胆さんがサッと私の荷物を受け取り、久遠寺さんが手を握ってくる。

「そう、じゃあ行こうか」

 ん? と疑問符が浮かぶが、颯爽さっそうと歩き始めてしまったので後を追うしかない。周囲の人の視線が痛い。
 店員さんの「ありがとうございました」という声が扉越しに聞こえた。

「えっと、お兄ちゃん。いい歳した普通の兄妹って手を握らないと思うんだけど」

 恋人同士でもあるまいし。

「うん? 昔から桜と歩くときは手をつないでいたよ。なにもおかしなことじゃない」

 え、そうなの?
 思わず竜胆さんを見上げると、彼はにっこり微笑みかえした。これは肯定なのだろうか。いまいちわからん。

「そっか、そうだっけ」

 あははと笑い、手はそのままにして駐車場へ向かう。
 眉目秀麗びもくしゅうれいな男性と手をつなぐなんて、そうそう体験できることではない。妙な緊張感が漂う中、私は妹、私は妹……と自己暗示をかけて、なんとか意識的に笑みを作り続けた。
 確か桜さんと久遠寺さんって八歳違うんだっけ……? 年齢が離れていれば、妹さんにも過保護になるんだろうか。
 荷物をトランクに詰めてもらい、後部座席に座った。隣に久遠寺さんが座り、シートベルトを着ける。

「桜様、ほかに寄るところはございませんか?」
「大丈夫よ」

 なにかあったらそのときまた帰ってくればいいだろう……という浅い考えは見抜かれていた。

「これから契約が終了するまで桜として行動してもらうから、自宅はおろか、オフィスにも近寄らないでね」

 久遠寺さんにさらりと言われた台詞せりふにギョッとする。が、すぐにそれも仕方ないと納得した。

「わかりました。ただ、上司への報告は必要になります。久遠寺さんのお屋敷から、私のスマホを使うことは問題ありませんか?」
「自宅からなら。でも外では身元がバレるものは一切持ち歩かないように。あとで桜用の携帯を用意させよう。竜胆、頼んだよ」
「かしこまりました、椿様」

 なるほど、徹底している。
 自分ではない誰かになることは、容易ではない。どこかでボロが出ないように、身元がバレる要素は排除するべきだ。
 それなのに私を一度自宅へ帰らせてくれたのは、彼らなりの優しさだったのだろう。
 いささか展開が急すぎるけれど、それは仕方のないことだ。久遠寺さんがうちの会社に来たところを何度も目撃されると、桜が偽物にせものだとバレる確率が上がる。桜が偽物にせものだと知られると、久遠寺家の評判も落ちてしまう。
 ……あらためて考えると、私、随分ずいぶんな大役を引き受けてしまったのでは。今さら遅いが。

「ほかに注意事項がございましたらお知らせください。とりあえずお屋敷に着くまでは、花染更紗として対応させていただきますね」
「そうだね、じゃあ今のうちに更紗さんに聞いてみたいことがあるんだけど、いいかな」
「ええ、私で答えられることでしたら」

 これからしばらく、更紗の存在は消える。私自身のことを話すなら、今しかないだろう。
 とは言っても、一体なにを聞かれるか見当もつかないが。

「花染社長と同じ名前だけど、二人は兄妹なんだっけ?」
「親の再婚の連れ子同士なので、義理のですが兄妹にあたります。とはいえ両親の再婚時、私も成人間近でしたし、義兄はとっくに社会人でしたので、あまり兄妹という意識はないですね」
「かつて子役をしていたという話は?」
「事実ですよ。五歳から十歳まで、テレビに出てました。小戸森サラという名前で」

 続けて、代表作のテレビドラマをいくつか告げる。意外にもそれに反応したのは竜胆さんだった。

「懐かしい、覚えてますよそのドラマ。道理で、どこか見覚えがあると思いました」
「ありがとうございます」

 昔の話をするのは気恥ずかしい。かつてテレビに出ていた面影がほとんどないほど、平凡に成長したから余計に。
 子役時代、私の特技は泣く演技だった。自由自在に涙を流すことができたので、感動的なヒューマンドラマとか家族愛のドラマによく出演させてもらっていた。

「本当だ、検索すると写真が出てくるね」
「恥ずかしいのであまり見ないでくださいね」

 久遠寺さんが、手持ちのタブレットで検索した結果を見せてくる。
 子役のときはかわいくても、成長するとパッとしなくなる人の話をよく聞くが、私は自分もそれに当てはまると思っている。
 芸能界引退は中学受験のためとおおやけには言っていたが、単純に自分が表舞台に向かないことと、芸能界に嫌気がさしたことが一番の理由だ。人の視線に疲れてしまったというのも、理由のひとつである。

「普通の女の子に戻ってから、学校では演劇部とかに入っていたの?」
「いいえ、まったく。そういうのとは無縁に過ごしましたよ。中高は女子校に行って、かわいい制服のある喫茶店でバイトしたり、友達と寄り道したり。普通の女子高生をしていました。それで子役時代に稼いだお金を学費にあててましたね。母子家庭だったので」
「そうか。じゃあこういうお仕事をされているのは少し不思議だね」
「人生わからないなってよく思いますね。今はカメラの前でなく、日常にこそ舞台があるって思いますけど」

 当時の華やかさとは無縁の生活だけど、私にはこっちのほうが合っているし、今の生活が楽しい。
 仕事としているのは、裏方の人生。でも、誰かの表舞台にたずさわることができる、貴重な仕事だ。
 失敗が許されない緊張感も、スリルがあり気に入っている。

「なるほど、そうだね。映画やテレビと違って人生にはシナリオがないから一発勝負だし、スリルも違いそうだ」
「リテイクがないから、緊張感が違いますね。はじめは義兄の仕事を手伝うのは乗り気じゃなかったんですが、今は天職だと思ってます」

 ちょっと言い過ぎたかもしれない。天職ではなく適職かも。
 けれど久遠寺さんがおっとり微笑むから、訂正する気がせてしまった。
 そんな会話をしていたら、車は久遠寺邸に到着していた。屋敷の玄関前に車を停車させて、荷物を下ろす。

「お部屋へお運びしましょう」

 出迎えてくれた久世さんが、スーツケースとボストンバッグに手を掛けて言った。

「ありがとう、久世さん」
「どうぞ私のことは久世とお呼びください」
「……慣れるよう努力するわ」

 壮年の男性を呼び捨てにするのは抵抗があるけど、これにも慣れなければ。
 いまいちスイッチが入らないのは、やはり私がまだ更紗の恰好のままだからだろう。
 桜さんの部屋に戻り、荷物を広げる。スーツケースの中から、私が考える桜お嬢様っぽいワンピースを取り出した。

「実際の桜さんは好まないだろうね、こういう大人しいワンピースは」

 行動力があり好奇心旺盛な桜さんは、保守的な服装よりもっとはじけた感じが好きそうだ。
 でも、それらを着こなす自信もないし、そもそもそういった服では求められている「桜お嬢様」を演じられない。だから私は、演じる役柄の桜お嬢様に似合う服を選ぶ。
 私の胸もとまでの髪の毛は、今はアレンジしやすい長さで、カラーリングも少ししている。けれど久遠寺さんの要望に合わせるなら、久しぶりに黒髪に戻したほうがいいだろう。
 後でやることリストに加えておこう。
 着替える前に、洗面所でメイクを落とした。
 鏡に映った顔は、化粧を落とす前とあまり変わらない。
 化粧水で肌を整えて、丁寧に下地を塗る。赤みを抑えるコントロールカラー入りのコンシーラーを気になるところに使い、ブラシでファンデーションを肌に重ねた。チークを入れて、小顔効果が出るよう顔の輪郭にシェードもいれる。目もとはパール入りのアイシャドウを塗ってからピンクとブラウン系を塗り、きつくなりすぎないようにアイラインを入れる。軽くビューラーでまつ毛をあげて、目のふちに部分用つけまつ毛をつけた。

「お兄さんの目もとがすっとしているもんね。桜さんも写真によるとオリエンタルビューティー系だし、がっつりつけるとやりすぎかな」

 桜さんがパッチリした目だったら二重ふたえの幅を広げたりという加工が必要だったけど、つけまつ毛くらいで大丈夫そう。私の目も二重ふたえではあるが、幅は広くない。目の形はアーモンド型だ。
 きつすぎず、濃すぎず、美人に見えて清楚せいそな感じに。
 それが私が考える、桜お嬢様のイメージ。
 眉毛はカーブを作りすぎずナチュラルに。ちょっとミステリアスな印象にしたいけれど、眉毛は前髪で隠れるだろうから気合を入れすぎなくても大丈夫。

「うん、悪くないんじゃない?」

 ウィッグをかぶり、紺色のワンピースとハイヒールを履いた自分を姿見で確認する。

「あ、仕上げにルージュを塗るのを忘れてた」

 メイクポーチから薄ピンクのルージュを選び、グロスも重ね塗り。あでやかで華やかな印象の唇が完成した。
 自分であって自分ではない人物の顔を見つめながら、口角をあげる。

「さて、行くか」

 鏡の前で呪文をとなえる。と言っても、白雪姫の魔女ではないけれど。

「私の名前は久遠寺桜。久遠寺家の令嬢で、誰も姿を知らない、高嶺たかねの花のお嬢様」

 一目会いたいと願う男性が数多くいる、深窓しんそうの令嬢。
 彼らの理想を叶え、そのうえで、自分では釣り合わないと身を引かせるくらい美しくりんとしたお嬢様になってみせる。
 背筋を伸ばし胸を張って、優雅に一歩踏み出した。ヒールが軽やかな音をかなでる。
 扉を出て、向かいの部屋の扉をノックした。

「はい」

 中から久遠寺さんの声が聞こえる。

「お兄ちゃん、開けていいかしら?」
「どうぞ」

 了承の声に、扉を開けた。


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