嫌いになりたい

犬白グミ

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【離婚した攻め】

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「違うんだ。俺がソファーで寝てるところに、三井くんが侵入してきて、よくわからないうちに脱がされて」

 柴は懸命に説明するが、腕を組んだ伊野崎は吐き捨てるように言う。

「よくわからないうちにってなんだよ」
 
「目を閉じてたから、夢の中の伊野に触られてると思ったんだ。でも伊野の手じゃないって気づいて、目が覚めた。三井くんだってわかってたらもっと早くに止めてたよ」

 伊野崎はソファーに座り込み、背中を丸めた。
 両手に顔を埋める。

「伊野?」
「俺が、どんな気持ちか柴にわかるか?」

 伊野崎の悲痛な声は、今しがたの三井だけを指しているのではないのかもしれない。

 柴は、言葉を失う。

 伊野崎は、ずっと耐えていたのだろう。
 柴と誰かが一緒に暮らし抱き合った過去を。

「もういやだ」と伊野崎が言った。

 性的な行為を実際に目の当たりにし、想像よりも堪えがたかったに違いない。
 離婚した妻の影に怯えているのだ。

 伊野崎の対面に柴は、懺悔するかのように膝をつく。

 顔を上げた伊野崎の目から、瞬きと同時に一粒の涙が頬に流れた。

 柴は過去の自分を殺したいほど憎いと初めて思った。
 伊野崎を苦しめる自分など、消えてなくなればいい。

「俺を好きなんだろ?」

 伊野崎に問いただされ、抱きしめて態度でしめしたいが触れることもできない。

「好きだよ。伊野だけを好きだ。これからも」

 伊野崎が柴の胸を拳で叩く。
 柴は黙って受け止めるしかなかった。

「お前に、触っていいのは俺だけだ」
「うん」

 伊野崎は、両手を柴の背中に回し、柴の心臓の音が聞こえるのではないかというほどの距離におさまった。

「またお前がいなくなるかもしれないって考えると怖い」
「うん。ごめん」

 柴も同じだ。
 伊野崎と離れることなど、もうできない。

「愛してる」
 柴がそう言うと、伊野崎が顔を上げた。
「伊野、愛してる」
 柴は繰り返した。

「脱がされて、どこ触られたんだ?」

 伊野崎の両手が柴の下腹部に移動する。

 焦った柴がその手を握ると、伊野崎が言う。
「三井は良くて、俺はダメなのか?」

 伊野崎の手のひらがスラックスの上から膨らみを撫でる。

 それだけで。
 柴は呼吸を止め筋肉が強張り、心臓が痛いぐらいに高鳴った。
 血液が沸騰する。

「待って」と柴が言ったが、伊野崎は待たない。
 
 伊野崎がファスナーを下ろそうとした瞬間、柴の鼻から何かぬるっとしたものが垂れた。

「あ、鼻血」

 柴の白いシャツに赤い血痕が落ちる。
 急いで箱ティッシュに手を伸ばした。
 一枚抜いて鼻に押さえると、ティッシュが赤く染まった。 

 鼻血が止まるまで動かない柴の姿を見て、伊野崎は蹴り上げたゴミ箱を拾い、柴の近くに置いた。

 触られただけで鼻血を流すなんて、と柴は自嘲する。
 しかし、正常であれば、あれだけで射精していたかもしれない。

 しばらくして鼻血が止まった柴は、口を開ける。

「勃起不全だから反応しない。触ってもつまらないと思う」

 聞こえなかったのかと疑いたくなるような無表情で、伊野崎は言う。
「いつから?」

「…結婚してから」
「だから離婚したのか?」

 柴は言葉を選ぶ。
 ここで、誤解されてはいけない。

「少し意味が違う。勃起不全になるほど結婚が間違いだった。だから離婚したんだ。俺は伊野にしか反応しないのかもしれない」

 伊野崎は長いため息をついた。

「病院は行ったのか?」
「行ったけど、薬では改善されなかった。精神的なものだと思う」

「罰かもな」
「それなら一生償うよ」






 
 駅前のコンビニに入った柴は、店内の冷気に一息つく。
 八月が終わったというのに、日が暮れかけても暑さがやわらがない。
 
 缶コーヒーを一本選びレジに並んだ。

 その時、激しい衝撃音と共に店内が揺れた。
 柴は地震かと思ったが、コンビニの窓ガラスを突き破って、マガジンラックを破壊する車のボンネットを店内で発見した。

 高齢者ドライバーが駐車場でアクセルとブレーキを間違えてしまったらしい。

 幸い誰も怪我はない。

 店員が警察を呼び、その場にいた客も足止めされる。

 これでは、約束の時間に遅れそうだ。
 今日、仕事帰りの柴は伊野崎と飲みに行く約束をしていた。

 伊野崎の家で二人で食事をすることが増え「外でお酒でも飲まないか?」と誘ってみたのが三日前のことだった。

 断られるかと思ったが、伊野崎は「いいんじゃないか」と返事をした。

 約束の時間より早めに到着してしまい、コンビニに入ったのがいけなかった。
 運が悪い。

 伊野崎にメッセージを送る。
「駅前のコンビニで事故があったから、遅れる」

 メッセージアプリに伊野崎の名前が復活したのは先月のことだった。

「どこのコンビニだ?」
 すぐに返信があった。

 コンビニの場所を伝えると、すぐに伊野崎が現れた。
 窓ガラスが割れた惨状を見て、伊野崎は柴に駆け寄る。

「柴は大丈夫か?怪我は?」
「ないよ。どこも怪我してない」
「心配しただろ」

 パトカーが現れ、柴は名前と住所を質問されただけで解放される。

 伊野崎と柴はコンビニを離れると、以前よく二人で訪れていた駅前のドイツビールが評判の店に入った。 
 柴は三年ぶりだ。
 メニューを広げる。

「変わってないな」
 店内の賑やかな内装もメニューも柴の記憶と変わらない。

「俺、これ」
 伊野崎が芳醇な香りのビールを好んでいたのも変わらない。

「ウィンナーの盛り合わせもほしい」
 いつも、料理を決めるのも伊野崎だった。

 店員を呼んで注文する。

「柴、嬉しそうだな」
 そう伊野崎が指摘するほど、柴は嬉しくて笑みがこぼれる。

 また、伊野崎と会話しながら食事ができるなんて。
 それに。

「さっき、コンビニで心配したって言ってくれただろ。嬉しかった。心配してくれる人がいるのって幸せだな」

「そんなこと言ったか?」
「言ったよ。ありがとう」

 柴が笑うと伊野崎も笑った。
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